短編小説『週末の孤独は万全の準備で待て』


 ベッドの上、窓からの陽射しはヘソの辺りに到達していた。俺はシャツをめくって裸の腹で温かさを感じ、気持ちいいなと思った。
 午前十一時で、久しぶりの休日だった。久しぶりって言っても一週間ぶりなんだけど、新しい仕事を始めた最初の一週間ってのはすごく長く感じる。俺は今までに一週間足らずで辞めてしまった数々の仕事のことを思い出し、損をしたような気分になる。もう少し続けていれば、身体が慣れ、友達と呼べる同僚と飲みに行き、上司にも気に入られ、楽に毎日を過ごせたかもしれないのに。仕事に身を入れ、昇給に昇給を重ねていたかもしれないのに。
 まあしかしだ。今の仕事を続けられれば丸く収まるというわけだ。
 俺は先週から、酒のパック詰めを請け負う工場で働いている。周囲に巨大な酒蔵が並んでいて、そこからパック詰めと箱詰めを一手に引き受けている。今の俺の仕事はトラックの積み下ろしや箱詰め、検品、それに掃除なんかだ。そのうち、トラックの積み下ろしや箱詰め、検品、掃除をする奴らを監視して、今よりいい給料がもらえるようになるに違いない。
 チャイムが十五回鳴ったところで俺は身体を起こし、ベッドをおり、玄関に行き、ドアを開けた。
 大きな紙袋が二つ、そしてその間にエリが立っていた。エリはびっくりした顔を作って俺を見た。
「まだ住んでたのね」
 そして両手のひらを俺に向け、
「痛い」
 と言った。小さな手のひらにはそれぞれ、紐が食い込んだ痕がついていた。
「すごく痛いの」
「入れよ」
 俺はドアを支え、エリに言った。エリはつまらなさそうに両手をぷらんとおろし、俺の脇をすり抜けて、ミュールを脱いで部屋にあがった。ぴったりとしたジーンズの上で小ぶりな丸い尻が揺れていた。俺は紙袋を持ち、あとを追った。
 エリは部屋の真ん中まで進んで立ち止まり、腰に手を当てて部屋を見回した。
「何も変わってないじゃない」
「何も変えてないからな」
 後ろから見るエリは、ずいぶん華奢に見えた。そして俺は、一年前も同じようなことを考えていたことを思い出す。エリは前から見るより後ろから見る方が華奢に見える。
 紙袋を床に置き、エリのすぐ後ろに立ち、頭のてっぺんに顎をのせる。そう、この高さだ。こいつは間違いなくエリだ。
 エリはくすくす笑い、振り返って俺を見あげる。後ずさり、背中からベッドに倒れこむ。宙に両手を掲げ、俺が飛び込んでくるのを待つポーズをとる。
「一緒に寝よう」
 まったく、こいつは、「一緒に寝よう」と言えば自分の淫乱さがごまかせると思っているのだろうか。かつて俺は、この女のために生活リズムを乱され、数少ない友人と、安定した収入を失った。たくさんのグラスも割られた。で、手元に残ったものは何もない。最後にエリが出て行った。
「言っとくが」俺はベッドの前に立ち、エリを見おろす。「俺には女がいる。別に俺がどこで何をしようが文句を言う奴じゃない。俺たちは信頼し合っている。けど、頼ってばっかりって意味じゃない。よくできた奴なんだ。自分のことは自分で――それがあいつの口癖だ。向こうはずっと東京で仕事をしてるから、俺たちは二か月に一度しか会っていない。けど、いずれ結婚するつもりでいる。お互いにそう思ってる」
「分かったわ」
 エリは言い、掲げた両手をスプリンクラーみたいに回し、ベッドにおろし、また宙に掲げた。そして言った。
「一緒に寝よう」
 俺はベッドに入った。

 

 翌日の日曜日、俺が目を覚ましたのは夕方だった。十二時間ぶっ通しで眠ったことになる。
 見ると素っ裸のエリがキッチンをがさごそ漁っている。俺は身体を起こし、
「金目のものはないぞ」
 と冗談を言う。言ってから、こういう冗談がかつてエリを怒らせていたことを思い出す。だがエリは俺が目を覚ましたことを、そしてキッチンを漁る自分が見られていることを知っていたみたいにひょいと顔を出し、
「お腹空いたわ」
 とプレーリードッグが遠くを見るみたいに突っ立って言った。
 俺はそれでなんだか嬉しくなってしまい、自分でも驚くほど素早い動作でベッドからおり、「食いに行こう」と言って服を着た。
近所のステーキハウスで、俺はミディアムを、エリはレアを食べながらビールを飲んだ。もう食べ終わるという頃、エリはニンニクのホイル焼きを注文すると、それをまるごと俺の方へ押しやり、意味深な笑みを浮かべた。俺も意味深な笑みを作って見せた。
 エリとのセックスは最高だった。これは認めないわけにはいかない。俺は醜く、エリは美しかった。俺のは普通サイズで、エリの胸は小さかった。けど、相性がばっちりだった。これは認めないわけにはいかない――。
 ステーキで腹を満たした俺たちは、少し街をぶらぶらして、部屋に戻ってセックスをした。一つになり、二つになり、また一つになって二つになった。俺は汗だくの身体に残る熱を感じながら、天井を見あげていた。
「やっぱりすごいわ。あんた、いつ以来なの?」
「昨日お前とやって以来」
「その前は?」
「さあ、忘れた」
 そう答えてから、俺は自分が墓穴を掘ったことに気づいた。俺には、二か月に一度会う、将来を誓い合った女がいるはずだった。
 だがエリは何も言わなかった。なので俺も何も言わなかった。やがて、安らかな寝息がきこえ始めた。

 

 月曜日、俺は七時に目を覚ました。それも目覚まし時計なしで、だ。エリは隣で気持ちよさそうに眠っている。俺はそっとベッドをおり、そっとキッチンまで移動して、トーストとインスタントコーヒーを胃に流し込み、アパートを出た。
 工場は朝から大騒ぎだった。ベルトコンベアが稼働して間もなく、前触れもなく止まってしまったのだ。昨日出勤していた遅番の班長が呼び出され、ちゃんと決まった手順で停止させたのかと工場長に詰め寄られていた。その若い班長は震える声で「はい」としか言えず、おろおろして、できもしない修理をするフリをしてやり過ごしていた。やがて連絡を受けた業者の担当者が一人到着し、あちこち点検し始めた。そのあとさらに応援が二人駆けつけ、本格的な点検と修理が行われた。俺はぼさっと突っ立って見ているしかなかった。
 原因は不明ということだったが、何かの拍子でベルトコンベアは動き始めた。もう午前十一時になっていた。修理をした三人は、十二時まで無事を見届けて帰っていった。
「ちょっと始業が遅くなってしまったが、いつも通り、六時で早番はあがること」
 ハゲの工場長はそう言うと、素早い動作で事務所のドアに滑りこんだ。ただ突っ立って待っていただけなんだから昼休みはなし、ということだった。
 午後三時の十五分休憩まで返上して、俺たちはぶっ通しで働き続けた。ノルマを終えたのは六時半だった。
「よし、よくやった! 六時に間に合ったな。やればできるもんだ!」
 ハゲの工場長は、早口でそう叫んで事務所に引っ込んだ。残業代は出ない、ということだった。

 

 アパートに帰ると、テーブルにはグラタンとハンバーグ、ポテトサラダが並んでいた。
「どうしたんだよ」
「どうしたって、作ったのよ」
 エリは料理から立ちのぼる湯気の向こう側で、腰に手を当てて胸を張った。
「お前、料理なんてできなかったろ」
 エリがキッチンに立つのは、酒を作るときだけだった。
「こんなの、レシピさえあれば誰にだって作れるわよ」
 俺たちは向かい合ってテーブルについた。「いただきます」と言った。俺は嬉しかった。仕事で疲れて家に帰り、そこにあたたかい食事が用意されていることが、こんなにも嬉しいことなのかと思った。エリを見た。エリも幸せそうな笑みを浮かべていた。そして言った。
「私、これ食べたら行くね」
「え、行くって?」
「もう帰るわ」
「帰る?」
「うん」
 エリは笑った。俺はそれがどこなのか、自分の部屋なのか実家なのか公園のベンチなのかそれとも男のところなのか、きけなかった。俺には二か月に一度しか会わない、将来を誓い合った女がいるのだ。
「さ、食べましょ」
 エリはポテトサラダを小皿によそった。俺の視線に気づき、不思議そうに首を傾げて優しい笑顔を見せながら、続けて俺の皿にもポテトサラダをよそってくれた。
「冷めちゃうわよ」
 俺はグラタンにフォークを刺し、マカロニを口に運んだ。すごく熱かった。(了)