短編小説『いつかの子』

 

 その夫婦には、子どもがいなかった。妻は、子どもがほしかった。夫も、子どもがいてもいいと思っていた。

 夫が妻と違うのは、一直線の欲求ではなく、いつの間にか身につけた標準的感覚から、子どもがいたらそれは楽しいだろうという前提をたてた上で、子どもがほしいという体面を保っている点だった。ほしくないわけではないのだから、妻あるいは親、友人、同僚とのあいだでその話題が持ちあがったときには、ほしいと言葉と態度に表した。そこに親はまだしも友人や同僚が含まれているのは、振り切れてはいないものの、夫の意志がずっと確かに傾いていたためであった。夫は、妻の真っすぐな気持ちに引っ張られていることを自覚しつつ、ほしいと表明した以上、翻したりごまかしたりするつもりはなかった。

 夫はなぜ自分が、芯から子どもをほしいと思わないのかについてたびたび考えを巡らせた。友人や親戚の子どもがはしゃいだり反対に人見知りしたりするのを見るのも、遊んでやるのも好きだった。電車や公園で見かける赤子も幼児も児童も、かわいいと思えた。思春期を迎えた子どもになれば、かわいらしさという印象を受けることはなくなったが、それは妻や他の大人にしても同じことだと思っていた。運動部のバッグを持つ子どもを見れば頑張っているなと思い、恥ずかしそうに並んで歩く中高生の男女を見れば微笑ましく思った。不良ぶって煙草を吸う高校生を見れば、その年齢でそういったことをしたくなる気持ちが自分にもあったような気がした。ごく常識的な範囲で、世間の子どもに興味を持った。

 だが初めてコンドームを用意せずに妻とベッドに入った日、丁寧な愛撫ののち、挿入の段階になって、勃起が萎えた。

 これまでになかったセックスの失敗に、妻は、ベッドの上に黙って座る夫を慰めた。そして、夫の繊細さを再確認したことに小さな満足を覚えてもいた。過去にわけもなく浮気を疑ったことがあったが、あれは間違いだったと反省し、夫を愛おしく思った。裸のままベッドに入り直し、天井を見つめる夫に四肢を絡ませた。そのとき、夫の勃起の復活を太腿で感じたが、今日はやめておこうと体を離し、目を閉じた。

 妻に勃起を察知されたかもしれないと、夫は不安になっていた。妻が体を離したのは自分を気遣ってのことか、再度の勃起の事実を直視したくないがゆえの行動かもしれなかった。いずれにせよ、妻の裸体から解放されたことで、勃起は収まりつつあるのだから、このまま眠ろうと思った。やはり自分は子どもがほしくないのだろうか。これまでのコンドームを使ってきた期間――それは十八歳で初めてセックスをした日から今日までということだが――妻やかつて付き合っていた女と行為に及んで勃起が途絶えるなどということはなかった。それは、避妊をしていたからなのかもしれない。ときに自分でもうんざりするほどの性欲がありながら、思い返せばコンドームが手元にないときも、安全日だから大丈夫よと女が言ったときも、決して妊娠のリスクを冒さなかった。

 出産後の経済的な不安はなかった。子どもを幼稚園から有名私立に入れて医学部に進学させるといった極端な教育は別として、自分や妻が歩んできたような人生であれば、経済的理由から子どもの進学を諦めるということはまず心配無用で、またそのために夫婦が生活を切り詰めるということもないはずだった。

 夫は、子どものことを頭から払いのけた。悪いような気もしたが、明日も仕事なんだから早く寝なくちゃいけないと、自分を現実に直面させようとした。しかし実際に暗い眼前に現れたのは、妻が口で射精に導いてくれはしまいかという期待だった。掛け布団の中で、妻の手を握ってみた。妻は一度強く握り返し、おやすみなさいと言って指の力を緩めた。夫は深く静かな息をつき、目を閉じた。

 

 

 翌朝、夫婦はいつも通り六時に目を覚ました。朝食をとり、夫はネクタイを締めて家を出た。どちらも、昨晩のことには触れなかった。たとえセックスが最高のものであったとしても、翌朝にその話をする夫婦ではなかった。

 妻は仕事部屋に行き、デスクトップパソコンの電源をつけてメールをチェックした。半年前にデザイン事務所を退社し、以来フリーランスウェブデザイナーとして自宅で単発の仕事を受注していた。雇われていたときの忙しさから解放され、仕事量をコントロールできるのは、生真面目で業務を背負いこんでしまいがちな妻に合っていた。退職した会社からの発注もあれば、新たに営業をかけた会社からの発注もあった。月によって収入の変動はあったが、平均すると退職前とそう変わらなかった。夫が経済の基盤を担ってくれているおかげで、妻の独立による二人の生活の質への影響もなかった。妻の収入はまるまる、毎月貯金に回すことができた。

 メールのチェックを終えると、妻は仕事にとりかかった。二つのディスプレイのあいだで視線を往復させ、マウスを動かし、歯科医院のホームページをデザインしていく。自宅での仕事に必要なパソコンとパソコン周辺機器は、フリーランスとして仕事を始めるときに奮発して最新のものを揃えた。それらの機能を十分に活用して一つの仕事を予定より短期間で終えられることもあり、そのときは次に予定していた仕事に取りかからずにゆっくりするかスポーツジムに行く、というのが妻の決めたルールであった。

 昼過ぎまで仕事に没頭し、メールでの納品を終えると、パスタを茹で、ベーコンとキャベツと和えた。夫のいないテーブルには、窓の外からの光がいっぱいに広がっていた。サラダを添えてその光景に向き合ったとき、妻は初めて、昨晩のことをきちんと思い返した。そして未来の子どものことを考えた。

 子どもをつくることに、妻は楽観的だった。自分たちはまだ二十代であるし、子どもをつくろうと夫と話をしたのもつい最近のことだった。そして避妊なしのセックスをすれば、たちまち子どもができると思い込んでいた。自分に兄と妹がいて兄夫婦には双子がいること、夫に二人の弟がいること、親戚や友人の中に不妊に悩む者が見当たらないことが、妊娠など容易いという先入観を形成していた。

 だが昨日、行為の最中に夫の勃起が萎えてしまった。夫は子どもがほしいと言っている。子どもの名前について二人で語り合ったこともあった。夫から自分たちの子どもの話題を持ちだすこともあった。であれば、出産や妊娠以前の行為に抵抗があったのではないだろうか、と妻は考えた。自分という女に対する欲求が減退したのではという推測は、すぐに否定した。否定したいがために思い浮かべたのではないか、というほどに夫は妻とのセックスを未だ好んでいるように見えた。妻は夫の強い性欲を知っていたし、恥じらいながらも喜んでそのすべてに応えてきた。プロポーションも、さまざまな体の手入れも、二十代後半の女として悪くないという自信があった。退職と同時に入会したスポーツジムでトレーニングを開始してからは、鏡で自分の裸を見て、ナルシスティックな気分になることもあった。妻の体型の変化に気づいたとき、夫は頬を赤くして、不器用な言葉で褒め、それから舌と指先で繊細な愛撫を加え、挿入して優しく動かした。その晩も、コンドームを三つ使った。

 ではコンドームのない生の挿入に抵抗があったのだろうか、と妻は皿の上で固まりはじめたオリーブ油を見つめて考えた。生の挿入は、少なくとも子どもを欲している男ならば誰しもがこの上ない快楽を期待して進んで行うことであると信じていたが、夫はそうではないのかもしれない。もしかすると、過去に恋人に望まぬ妊娠をさせ、トラウマになっているのかもしれない。それは妻自身が、高校生の頃に十分な知識のないまま恋人とセックスをして、生まれて初めての一ヵ月の月経の遅れに、恋人とともにひどく不安な日々を過ごした経験による推測だった。夫はそういうタイプではない、と妻は心中で頭を振った。しかし高校生のときの自分も、そういうタイプではなかったはずだ。自己主張が下手で、限られた友人とだけ付き合い、愛想は悪くないのにいつも何か隠し事を秘めているというタイプ。実際、妻は当時親友と呼べる友人にも、恋人の存在を秘密にしていた。あの元恋人は元気にしているのだろうかと、妻は数年ぶりにその存在を思った。そして夫と出会うまでのあいだに付き合った、別の二人の男のことも思い出した。どの男も大切にしてくれた。妻の方も、相手を大切にしたつもりだった。だが何かが原因で、うまくいかなかったのだ。それはとても思い出せないような、些細なことだったはずだ。どうして彼らとはうまくいかなかったのだろう。彼らと夫と、一体何が違うというのだろう。夫とも、今日までたまたま互いに納得できているだけで、これから先に別れがくるのかもしれない。

 なんて悲しいことを考えているんだろう、と妻はハッとした。テーブルに手をついて立ち上がり、勢いそのまま食器を持ってキッチンに向かい水道の蛇口をひねった。勝手に危機をでっちあげ、存在しない保証にすがっても仕方がないと、食器を洗いながら考えた。

 

 

 その夜、ベッドに入ってからもなかなか眠れない妻が目を開き、寝返りをうつふりをして体を横に向けたとき、夫は目を閉じて静かな息をたてていた。

 しかしまた夫も、眠ってはいなかった。夫は今朝、家を出てすぐに携帯で部長に電話をかけ、体調が優れないので休ませてほしいと伝えた。部長は驚き、夫の体調を気遣い、二、三日ゆっくり休めと言った。夫は電話を切り、締めたばかりのネクタイを外し、駅前の喫茶店に入った。ウェイトレスは当たり前のようにモーニングサービスのAかBのどちらにするかときいてきたが、夫はそれを断りホットコーヒーを注文した。ホットコーヒーがおひとつですね、とウェイトレスが復唱して行ってしまうと、ようやく心が安らいだ。こんなふうに何の目的もなく喫茶店に入るのはいつ以来だったろうかと考えた。妻と街に出て買い物をするとき、ランチをするとき、コーヒーショップで休憩するとき、もしかすると自分は何か不満を抱いていたのかもしれない。二人別々に買い物をした方が効率が良いし気兼ねなくゆっくり選べるとか、パスタではなくトンカツ定食を食べたかったとか、テラスでお喋りをするのではなくソファに深く沈んで大音量でジャズをききたかったとか、深層心理で、考えていたのかもしれない。では独り身であれば手に入れられたそういった諸々の目的の達成は、妻といる満足を上回るのだろうか? 否、上回るはずがなかった。こうして後から簡単に計算できることを、そのときの感情に任せてミスを重ねる人間が、離婚などという結末を迎えるのだ。俺はミスをしてこなかったじゃないか、だから妻も、いつだって俺を受け入れてくれたじゃないか、と夫は自分を奮い立たせるように考えた。

 二人のあいだの愛は絶対にそこにあるのだから、それを秤に載せてありもしない空想と比べるべきではないと思った。そして昨晩のベッドでのできごとを思い返した。普段以上に時間をかけて愛撫し、いざ挿入するときになって、勃起は萎えてしまった。それは抗いようのない崩壊だった。勃起の弱まりを察知したとき、夫は咄嗟に下腹部と肛門に力を入れたが、努力むなしくペニスが垂れ、縮んでいくのを見届けるしかなかった。勃起不全の話でよくあるような、自尊心の喪失はなかった。ただ単純に、失敗したと思っただけだった。しかし、もともと抱いていた自らへの疑念が、勃起を維持できなかったことで確かめられたのもまた事実だった。自分は子どもを、妊娠を望んでいないのだろう。

 だがなぜ? 夫はまたこの問答に戻った。男に妊娠という能力が備わっていないことに文句を言ってみたくなった。くそ、俺だって妊娠できれば、子どもがほしいって叫ぶことができるのに――。しかし、そんなことは絶対に起こらないと知っているから文句を言いたがっているのであった。

 ウェイトレスがホットコーヒーを持ってきた。すでに自宅で二杯のコーヒーを飲んでいた。カフェオレかジュースにすれば良かったかもしれない。だがもう注文してしまったので、コーヒーを飲んだ。コーヒーがあれば俺は飲むのだ、と夫は思った。

 

 

 翌日、夫は出社した。社屋に足を踏み入れ、エレベーターに乗り、十階でおりるまでに、何人もの社員に声をかけられ、体調を気遣われた。そのたびに、たいしたことないんです、と笑って答えた。冗談でも仮病と疑われないことに、夫はこれまでの自分の勤務態度について感慨深く思ったが、一方で自分の嘘が後ろめたくもあった。

 二、三日休めと言った部長は、部署の入口に立っていた。隠しきれない青さのある顔で夫に近づき、ちょっと、とだけ言って会議室を指差した。夫は鞄を持ったままあとに続き、会議室に入るとドアを閉めた。

 大変なことになった、と部長は言った。夫は、昨日の仮病のことを懸念せざるをえなかった。しかしすぐ、それが大変なことに発展するわけもないと半ば可笑しく考え直し、どうしました、とかしこまった声を出した。

 部長から告げられたのは、自社の不正会計と脱税、そしてその内部告発からの漏洩だった。内々で週刊誌からの追及があり、その証拠文書の存在もちらつかされた。顧問弁護士との相談の上、逃げ切れないとの判断から、今日の夕方には社長が会見をするという。

 社長と側近は刑事訴追される可能性もある、と部長は言い、社屋内禁煙を破り煙草に火をつけた。このことを知っているのは、と夫は言った。その先の言葉が出ないことに、まるでドラマの台本みたいだ、と思った。部長以上と一部の社員だけだ、と部長は言った。だが混乱を避けるため間もなく全社員へ通達する。

 夫は、自分に何か特別な仕事が与えられることを直感した。部長はまだ長い煙草を携帯灰皿に押し込み、胸ポケットにしまった。そして、第三者委員会と連携をとる特別事務局を開設したのでそこで業務を担当してほしい、と告げた。

 夫は、分かりました、とだけ答えた。

 

 

 関係者以外立ち入り禁止の会議室に向かうと、すでに五つの部署から五人の社員が集められていた。見知った顔はなかった。事務局長には、法務部の次長が務めることになった。

 事務局の役割は、第三者委員会からの求めに応じて、中立的な組織として社内調査を遂行することだった。その目的以外での一般の社員と接触は禁じられ、出退勤は社屋の裏口から、そして通勤には会社が用意するタクシーを使用することとなった。

 すでに第三者委員会からの要求が届いており、その内容は会計記録から責任者の勤務時間、社外への持ち出しが可能な機器の確認など多岐にわたった。夫や他の担当者が各部署、関連会社、子会社に連絡するか出向くこととなった。そうしているあいだにも、次の指令が次々と舞い込んできた。昼食は、業者が届ける幕の内弁当だった。

 夕方には、ネクタイを締めている者はいなくなっていた。テレビに映る、直接話したことのない社長の会見を横目に、集めてきた資料の整理に追われていた。室内には倦怠感と焦燥感が混ざった重い空気が漂っていた。局長が灰皿を持ってきて喫煙を許可すると、三人が煙草に火をつけ、深い息をついた。

 その夜、夫が会社を出たのは零時過ぎだった。タクシーの中で妻にメールを打った。

――すまない、ゴタゴタがあって連絡できなかった。今から帰る。

 携帯をサイレントモードにして鞄に放り込み、シートに体を沈めた。

 

 

 メールを受け取った妻は、まず安堵した。夫の帰りが遅くなることは珍しくないものの、連絡がないというのは初めてだった。夕方のニュースで社長の会見を見ていたので、ゴタゴタとはそのことだろうと思った。

――お疲れ様。ごはん、用意してるけど食べたかな?

 そう文字を打って、送信しかけた。けれど思い直し、

――いらなかったら、明日の私のお昼ごはんにするわ。

 と付け加えてから送信ボタンを押した。

 妻は風呂をシャワーで済ませた。そして昼間洗った浴槽をざっと流し、お湯張りのボタンを押してリビングに戻った。冷蔵庫からミネラルウォーターを取ってきて喉を潤し携帯を開いたが、返信はなかった。

 夫が帰宅したのは、午前一時だった。夫は妻と顔を合わせると、まるでずっと探していたかのような笑顔を見せた。心底、ホッとしたのだった。鞄を置き、上着をハンガーにかけると食卓についた。妻は手早くハンバーグを温め直し、ポテトサラダを添えて出した。二人分を用意するのを見て、まだ食べてなかったのかと夫はきいた。お昼が遅かったから、と妻は微笑み、温かいごはんと野菜スープを並べて手を合わせた。

 食事をしながら、夫は今日あったことを簡単に説明した。そしてしばらく帰りが遅くなること、土日も出勤しなければならないことを告げた。妻は相槌を打ちながら、当分はセックスができないなと考えていた。夫は――説明を始めてから気づいたのだが――自分が忙しくしているあいだは妻とのセックス、子どもをつくるセックスの可不可から解放されるのだと思った。と同時に、性欲をどうやって解消しようか、ということが頭を過ぎった。

「お昼、ちゃんと食べられないなら、お弁当作ろうか?」

「いや、そんな雰囲気じゃないんだよ。ピリピリしてて、紫煙がもうもうでさ。業者の弁当で我慢するさ。また、今度頼むよ」

 テーブルで向かい合う二人の表情に、深刻さはなかった。夫はそれを求めていたし、妻も夫の求めを感じ取って明るく振る舞った。

 夕食後、夫は風呂に入り、妻は洗い物をした。ベッドに入ってから、夫は明日から続く忙しさのことを考えた。体力には自信があったが、この生活によってだんだんと疲弊していくのだろう。疲れ切ってしまえば、性欲がどうのということも考えずに済む。むしろその方が、悶々としているよりは気が楽かもしれない。

 手を握られて、夫は、ゆっくりと妻を見た。窓の外から侵入する街の明るさが逆光となり、妻の片頬だけが立体感を持っていた。口でしてあげよっか、と妻が言った。

 夫は、読み取れない表情に向かって頷いた。

 

 

 夫が朝六時に家を出て、夜中の一時に帰ってくる生活が始まってから十日が過ぎた。

 妻はそれに合わせて、朝五時に一緒にベッドから起きあがり朝食の用意をして、夜中の一時に合わせて夕食と風呂の用意をした。不足した睡眠時間は、昼食後に一人で四十五分間の仮眠をして埋め合わせた。四十五分というのは、最近テレビで見た、神の手を持つという内視鏡の医師が実践している昼寝を真似たものだった。その医師は四十五分の根拠も説明していたはずだが、妻はその内容を忘れてしまっていた。ヒトの生理に精通した医師が昼寝は四十五分だと言っており、それで世界に注目される実績を挙げているのだからと、妻は盲目的に信じていた。

 夕食は、先に一人で食べるようにした。夫が気にすると思ったためだった。夫は、妻を含め人が必要以上に自己を犠牲にして奉仕することを良しとしなかった。妻がそばで見てきた限りでも、そういった人たちに対して嫌悪感を示すことさえあった。親しい間柄であれば自己犠牲を厭わない妻は、夫に合わせて適度な距離で振る舞う癖を身につけていた。

 一人で昼食を済ませ、歯を磨いてベッドで横になると、妻は十日前から二日に一度のペースで続いている、ベッドの上での夫への奉仕のことを考えた。答えの分かっている提案をすると、夫は一瞬申し訳なさそうな顔をして、しかしことが始まると心からリラックスしているようだった。妻は、夫がリラックスしたまま、かつ体力を消耗せずに射精できるよう、優しく、休まずに、なだらかにペースをあげて奉仕した。セックスのときとは違い、夫は射精を先延ばしにはしなかった。ただただ、妻に任せていた。射精を迎え、呼吸を落ち着かせてから、妻を抱き寄せて律儀に礼を言った。

 あれは自己犠牲の上での奉仕じゃない、と妻は天井を見つめて考えた。そして、「私はあなたが喜ぶ顔を見て嬉しいから」と声に出した。

 妻はまた、究極の自己犠牲の場面を想像した。夫が車にひかれそうになったときに、自分が身代わりになる場面。そうして死ぬのであれば、こわくないという気がした。でもそのとき、夫はおそらく喜んでくれない。

 夫と自分、両方が嬉しいのが一番いいに決まっている、と妻は思った。昨晩押し殺した眠気が、蘇ってやってくる。私たちは幸せであり、これからも幸せは続く、と信じて目を閉じた。

 

 

 夫は、朝の支度をするときも、家を出るときも、会社で働くあいだも、家に帰ってからも、周囲に疲れを見せることがなかった。疲労したときや落ち込んだときにも気丈に振る舞うのは夫のもともとの性質であり、初め心配する周囲の人々も、次第に慣れ、身体と心が丈夫な人なのだという認識に変えていくのが常だった。自分の性質を嫌ったこともあった夫だったが、それが社会的評価の高まりにつながっていると知ってからは、空元気を一種の美徳と、意識化した信念と捉えるようになっていた。今や夫が心身から力を抜き、その疲れを遠慮なく放出するのは、以前からそのための場所であった自宅のベッドと、十日前から会社が手配してくれるようになったタクシーのシートの上に限られた。そのタクシー会社の運転手は、普段からそう教育されているのか、今回に限ってそう指示を受けているのか、余計な会話を一切しなかった。渋滞に巻き込まれて到着が遅くなりそうなときと、到着したときだけ、声をかけてくれた。

 タクシーの中で、夫はできる限り睡眠をとろうとした。入眠できないときには、何年も前に妻からきいた、目を瞑って安静にしているだけで睡眠と同じ効果があるという話を思い出した。その話をきかされたとき、へえ、そうなんだ、と曖昧な返事をした気がする。睡眠と同じ効果というのは言い過ぎなんじゃないか、とききただすことはなかった。そうして今、自分はタクシーの中で眠れないことに苛立たずに済んでいる。眠っているのと同じくらい、体力を回復しているつもりになることができている。タクシーで眠れない日、夫はそうして妻の何ごとも信じやすい性格を思い出し、微笑ましい気分に浸った。

 

 

 第三者委員会からの事務局への要求は、未だペースを落とさず続いていた。事務局側の人員と手間を無視したような、存在を知ったものはすべて欲しがるような要求の数と内容だった。

 指揮にあたっていた局長も、部下と同じように業務に忙殺されていたが、時機を見極めては交通整理を挟み、全体を落ち着かせた。弁当は各自のタイミングで、味を失ったように機械的に腹に収められた。灰皿の吸い殻が、山と積もった。それでも休む者も、文句を言う者もいなかった。

 午後六時を過ぎると、第三者委員会からの連絡が途絶える。それは彼らが今日一日の仕事を終えたということだった。一方で夫の属する事務局には、委員会から放り投げられた仕事がたっぷりと残っている。六人の疲労はピークを越えていたものの、今日を逃げ切る算段がつき、少しだけ空気が和む。

 ふと顔をあげて周囲を見回したとき、夫は自分たちの我慢強さに静かな感動を覚えた。やり遂げてもおそらく誰に褒められるわけでもない業務に黙々と取り組む六人が、尊く感じられた。部屋の空気が圧縮され、ラジオの雑音に包まれたように、耳と頭がぼうっとした。この仕事で俺は金をもらって家賃を払い食糧や服を買い生きているのだと、これまでになく強く意識した。同僚たちも、家に帰れば家族がいて、その生活を維持するために、こんな仕事に黙って付き合っているんだと気づいた。胸が熱くなり、思い浮かんだのは妻のことだった。少なくとも妻だけは俺も大切にしようと思った。しかし思いに耽るわけにもいかず、頭を振って目の前に積みあがった仕事に集中した。

 

 

 妻はその日、手帳を何度も確認した。そのたび、排卵日があさってに迫っていることを意識した。

 今日、夫とセックスはできるだろうかと考え、最初から最後まで自分が動くセックスのことも思い浮かべてみたが、できるわけがないと思い直して作業に戻ることを繰り返した。夫は気丈に振る舞っているものの、疲れていないはずがないのだ。五時間足らずの睡眠時間で働き続けている。そもそもたとえ妻がずっと動くと宣言しても、その通りにする夫ではない。

 それに、と妻はマウスを動かしながら自分の心の底をすくい取った。今日のセックスのために昨晩まで奉仕をしてきたのかとは、微塵にも思われたくない。

 昼前になっても仕事に集中できず、早めに昼食をとって昼寝をし、目を覚ましたのは夕方の四時だった。慌てて目覚まし時計を振り返ると、ベルをセットするのを忘れていたようだった。買い物のことが頭を過ぎったが、夫が夜中の一時に帰ってくる今、普段の夕食の時間である七時に間に合わせる必要がないことに気づき、けれどやはり大きなため息をついた。仕事のスケジュールは余裕をもって組んでいるので、今日のこれ以上の作業はやめにした。スポーツジムに行くことにして、その準備に取りかかった。

 夕方のジムは空いていた。妻はデッドリフトを三セットしてから、ランニングマシンに向かった。長袖のスウェットを着ているので、エアコンが効いている館内でもすでに汗が滲み出ていた。他の会員は薄着だったが、妻は汗をかくのが好きだったので、いつも長袖を着てトレーニングをした。

 ランニングマシンの目の前は一面ガラス張りになっており、夕陽に照らされた向かいのビルや階下の道路が見えた。オレンジ色の景色に妻は自分が懐かしい気持ちになるかと思ったが、頭に浮かんだのは自分の残りの人生のことであった。一年に一年分歳をとっていき、いつか死ぬのだと思った。自分の年齢をあと二回か三回繰り返したころに多分寿命が尽きるのだから、案外人生は短いという気もしたが、それは自分だけではないので悲しくはなかった。

 悲劇に見舞われたわけではないのに、何かをやり遂げたわけではないのに、妻はときどき、今死ぬのならそれはそれでいいかという気がすることがあった。そしてまさに今、妻はそういう気持ちになっていた。

 今日、夫とセックスをしようと妻は決意した。十日間、二日に一度の夜の奉仕を続けていることが弱みにつけこむことになるかもしれないという思考こそ愚かなんだ、私はフェラチオをしたいからフェラチオをし、セックスをしたいからセックスをするのだ、と言いきかせた。

 妻は、普段より三十分長く走った。腰をひねるフォームを意識し、今日一日のトレーニングでくびれを際立たせるという、トレーナーにも笑われてしまいそうな目標に向かって、ペースを上げてストライドを伸ばして走った。

 

 

 夫が帰宅したのは、まだ妻が一人で夕食を摂っている七時過ぎだった。妻は口の中のものを飲み込んで、慌てて玄関に向かった。

「局長がかけ合ってくれて、早めに終わったんだ。明日も一日、休みになった。もうやってらんねえって急に立ち上がってさ。笑っちゃったよ」

 このときばかりは、夫は安堵から歩き方に疲れが出ていて、疲れちゃったよ、と言葉にもした。だが明るさは失っていなかった。弱ってしまった身体を癒すのを手伝ってほしいという夫の無意識と、今こそいたわってあげたいという妻の無意識が合致した。

 妻は嬉しくなり、すぐごはん用意するからね、と言ってキッチンに向かった。夫はテーブルの上で中断された夕食を見つけて声を出しかけたが、思いとどまり寝室に向かった。部屋着に着替えながら、開け放したドアの向こう、キッチンに立つ妻の背中を眺めた。そしてその身体に、子どもを宿すことを考えた。