中編小説『僕と』

  

月曜日

 園庭の端の何も植わっていない花壇の前に、私は立っていた。乾いた土が、膝の高さのレンガブロックに囲われている。

 私は、花壇を蹴った。びくともせず、つま先で受けた衝撃が、足指に心地よかった。靴の先を見つめ、中で指を丸めたり開いたりした。

 入園に合わせて母が買ってきたこの靴を、私は気に入っていない。緑色のギンガムチェック柄が、自分に合っていないように感じられた。母は似合っていると喜んでいたが、それは嘘か、ちゃんと見ていないのだと思う。今朝の初登園の道中、前を向いて歩く私の視界の下の方でちらちらとしていたのはこの靴だ。靴底を一周する真っ白なゴムが、いちいち私にその存在を気づかせるのであった。

 花壇を蹴ったつま先が、土で汚れていた。細かな土の粒子が刷り込まれた、ごく自然な汚れだった。私は、また花壇を蹴った。汚れが大きくなった。反対の足で蹴ったところで、新品の靴を買ってもらった翌日に故意に汚すのは良くないことかもしれないと思った。だが靴というものは履いているうちに必ず汚れるものだった。母はその汚れに目を留めるだろうが、幼稚園で活発に遊んできたしるしと捉え、叱ったりはしない。また父も、私の靴が入園一日目で大いに汚れたことに気づいたなら、母と同じように考えるだろう。両親は、私が服や体を汚したり、小さな傷やたんこぶをつくったとき、まるで私が期待に応えたかのような態度をとるのであった。

 右足、左足と交互に花壇にぶつけていくと、必然、歩くような恰好になった。私は花壇に沿って前に進み、斜めに足を蹴り出すことで靴底を囲う白いゴムを汚していった。

 前方の花壇の上に、明るい緑色の物体が現れた。雑草だろうとぼんやり認識していたが、その緑色が揺れた気がして、足を止めた。

 カマキリが、花壇を囲うレンガブロックの上に立っていた。前脚にあたる鎌はやや外側に開いてこちらを向き、あいだに透明な小箱を挟むような位置で静止していた。体幹部と他の脚は、二つの大きな鎌を支え機能させるため、あとから生えてそこにあるかのようだった。

 初めてカマキリを目にした一驚が去っても、恐怖心のないことに、胸が満たされていった。園児の騒ぐ声が、背中にきこえた。園児の名を呼び、遊具の使い方について注意を促す先生の声がきこえた。

 レンガブロックの上のカマキリとのあいだに横たわる静けさは、私に、自分の世界というものを感じさせた。知らない人間ばかりがいる知らない場所に放り込まれても、自分の世界が消えたわけではなかったのだ。

 私は、カマキリに近づきたい欲求に駆られた。逃げられるかもしれないことに、不安はなかった。自分を上回る巨大な生き物が迫れば逃げるのはカマキリの本能として当然の反応で、仕方のないことだと思った。一方で私には、接近に失敗しても失うものがなかった。私が得た自己の存在への安心は、すでに私の一部となっており、カマキリに逃げられたことで奪われはしないという確信があった。

 すり足で右足を前に出すと、靴底と砂がこすれる感覚があったが、その音は耳に届かなかった。残された左足を引き寄せてちょうど一歩分近づくと、カマキリは鎌を掲げたまま上体をいっそう反らせた。緑色の前翅の下からうす茶色の後ろ翅が飛び出し、扇状に広がった。鈍く光る後ろ翅と露わになった太い腹の肉を目にして、自分に敵意が向けられていることを強く感じ取った。

 だが、そこから離れようとは思わなかった。カマキリには、私をそこに留める力があった。そしてできるならば、もっと近づいてみたいと思った。近づいてどうしようということは、考えていなかった。

 両ひざをゆっくりと曲げ、上体を屈めていった。それに合わせて、カマキリの頭と鎌の向きも下がっていった。カマキリは私の顔か、少なくとも胸から上を敵対する生き物の本体と認識しているようだった。私はそのことを、なぜか嬉しく思った。

 半ズボンの尻が靴の踵に触れ、しゃがみ込んだ状態になったときには、私に見せつけていたうす茶色の後ろ翅は、再び前翅の下へと収まっていた。威嚇の対象である私の上半身の高度が下がったため、体の反り具合も小さくなった。前脚の鎌は依然警戒心を伴って胸の前に突き出されていたが、全体としては、自然なカマキリの立ち姿に戻ったようだった。

 私の頭がつくる影は、つむじの彼方からの陽の光で、ちょうどカマキリが立つ一帯を覆うように楕円形になっていた。私は素早く、首をすくめては伸ばす運動を繰り返し、カマキリに影と光を交互に与えた。カマキリは、その明滅自体は何とも感じないらしく、単純に正確に、私の顔の上下運動に合わせて鎌と首だけを動かした。

 突如、私の影が大きく縦に延び、目の前がほとんど真っ暗になった。体のバランスを見失い、左右の手で、それぞれ膝小僧を掴んだ。

「何してるの?」

 後ろから、知らない声がした。慌てて立ち上がり振り返ろうとした私は、結局体勢に無理が生じて尻もちをついた。

 顔を上げると、水色のスモックを着た女の子が立っていた。髪の毛を頭のてっぺんでまとめ、二つの赤い飾り玉がついたゴムでくくっている。首を傾げ、両手を後ろに回していた。私は手を払って立ち上がり、丸みを帯びた顔を見つめた。

「カマキリ」と答えると、「カマキリ?」ときき返されたので、何か言葉を継ぐべきだと考えながら、半身になってレンガブロックを指差した。だがそこに、カマキリはいなかった。

 自分の足元を見回して、花壇全体に視線を滑らせた。私が見つけたのは、園と隣の空き地を仕切る金網の手前まで到達し、尻を小刻みに振りながら遠のいていくカマキリの後ろ姿だった。カマキリは金網の四角い隙間の一つを、まるでいつも通り道にしているかのように迷いなく潜り抜け、背の高い草が茂る空き地へと消えていった。

「カマキリ、逃げちゃったの?」

 すぐ後ろから届いたその声は、カマキリのことをよく知っているみたいにきこえた。逃げたことも分かりきっているみたいにきこえた。

 女の子の問いかけに応えたくない気持ちが、逃げたよ、という回答を唇で抑え込んだ。私は、女の子に背を向けたまま、とにかく前に踏み出した。細長い花壇に沿って、二人のあいだの沈黙を刺激しないよう、ゆっくりと歩いた。一歩進むごとに、女の子を傷つけている実感が増していった。そしてそれに合わせて、私の心は平穏を取り戻していくのだった。花壇は園庭の隅まで続いている。その先で、民家の塀の上から突き出るミカンの木の枝葉が、地面に木陰を描いていた。あの木陰に到達すれば、カマキリの遁走の原因をつくった女の子も、女の子を半ば無視して離れていく自分も、許されるのだという気がした。

 あと数歩というところで、「はーい」という先生の声と、連続して手を叩く音がきこえた。朝の外遊びが終わったという知らせだった。遊具や砂場にいた園児たちが走りだすのが見えた。私も、園舎に戻らなければならなかった。

 私は、少しのあいだミカンの枝葉の下の影を見つめてから振り返った。女の子が、さっき私に話しかけた場所に立って、こちらを見ていた。私と目が合ったことを確認すると、園舎の二階へつながる階段の方へと走って行った。

 

 ヒロコ先生は、保育室に戻った園児を座らせ、私の名を呼んだ。立ち上がって前に出ると、二十以上の顔がこちらを見ていた。私は、どの顔を見ていいのか分からなかった。かといって、顔と顔のあいだに視線を留めることも、縫うように走らせることも、正面の壁を見ていることもできなかった。逃げ場を探しながら、ただ視線を漂わせていた。

 ヒロコ先生は私の名前を紹介し、今日からみんなのお友達になると説明した。私は、今から自分が何か喋らされるのではないかと思った。名前以外で、自分が園児たちに伝えるべきことを考えた。答えを探しているうちにヒロコ先生は話を終え、園児たちは揃って口を大きく開けて「はあい」と言った。

「じゃあみんなで、お歌を歌いましょう」

 ヒロコ先生は、私の背中に当てていた手のひらで、座に戻るよう促した。園児たちは座ったまま体を回転させ、私はその後方に腰を下ろした。

 鍵盤に指を乗せたヒロコ先生は、予定していたかのように私と目を合わせ、「直人くんは、最初はきいているだけでいいからね」と言った。

 一つ目は、私の知らない歌だった。ヒロコ先生の言う通り、黙ってきいているしかなかった。少し口を動かしてはみたものの、そこから歌詞が出るはずもなく、諦めて口を結んでいた。

 二つ目は、夕方の子供向けテレビ番組でよく流れている童謡だった。前奏の段階で私はそのことに気づき、確信が深まるにつれ、緊張を高めていった。だが、歌い始めから声を出すことはできなかった。何小節かが過ぎても、二番に入っても、きっかけを掴むことができなかった。知っている歌なのに、歌いたいと思う気持ちがあるのに、声が出ないのであった。歌えないまま終わるのだと思うと、視界が歪み、涙が滲んだ。私は抱え込んだ膝のあいだに顔をうずめた。

 曲が終わったのか、中断されたのか、ピアノの音がやんでいた。体を動かす音、囁き合う声がきこえた。私は自分が注目を集めていることを意識し、泣き止もうとした。けれど涙が、あとからあとからあふれてくるのであった。

 頭のてっぺんに温かさを感じたとき、母の手だと思った。しかしここに母がいるはずがなかった。膝から小さく顔を上げると、ヒロコ先生の顔が同じ高さにあった。優しい表情で、私を助けようとしているのが分かった。耳を包むように手のひらを当て、親指の腹で、涙を拭ってくれた。そして「大丈夫よ」と言って私を立たせ、抱き上げた。園児たちは、こういったことには慣れているというような態度でじっとしていた。

「少しのあいだ、静かにしててね」

 ヒロコ先生はそう言い残し、私を抱えたまま廊下に出て、肘を使って器用に戸を閉めた。廊下からつながる園庭には誰もおらず、他の保育室からは園児たちの歌声が漏れていた。ヒロコ先生は、室内の園児から見えない位置まで進み、体を揺らしながら、保育室の前をゆっくりと往復した。歩調と同じリズムで、背中をぽんぽんと叩いてくれた。

 強く目を瞑り、涙を絞り出した。体の力を抜き、ヒロコ先生に預けた。瞼の裏に反射する陽の光を感じながら、しゃっくりのような短い嗚咽を繰り返した。鼻先で揺れるポニーテールから漂う石鹸の香りが、鼻をくすぐった。

 ヒロコ先生の肩に顔をうずめ、自分の呼吸音をきいていると、少しずつ落ち着きを取り戻していった。深く長い呼吸をしても乱れがないことを確認すると、ヒロコ先生の胸の中で体を起こした。

「どっちも知らない歌だった?」

 ヒロコ先生は、鼻先が触れそうな距離を保ったまま言った。

「二つ目のは、知ってた」

「そう。お歌の時間だけど、知ってる歌だけ歌って、知らない歌は、歌わなくていいのよ。なあんにも、こわいことなんてないのよ」

 私が頷くと、ヒロコ先生は「えらいね」と言って頭を撫でた。

 

 手を引かれて保育室に戻るときになって、私は中にいる園児たちのことを思い出した。自分は、彼らに何かされたわけでもないのに、泣いてしまったのだった。今、中に入っていっせいに注目を浴びたら、少しでも攻撃を受けたら、また泣いてしまうかもしれない。弱虫だと思われないように、ヒロコ先生と手を離していた方がいいかもしれない。けれどその答えが出る前に、ヒロコ先生は引き戸に手をかけていた。

 戸が開いたときの騒がしさに、私は驚いた。中の様子も、まるで変わっていた。合唱のための座は解け、散らばった各々が好きなことをしていた。積み木をする園児、クレヨンを引っ張り出してきた園児、ままごとをする園児もいた。彼らの一部は一度こちらを見たが、私を探したのではなく、ただ戸が開いたことに反応して視線を向けたのだった。その証拠に、私を確認しても、ひと時も興味を示さずに、また遊びに戻った。

 それでも、ヒロコ先生が手を叩いて「お歌を歌うわよ、お片付けしてください」と声を響かせると、彼らは「はあい」と言っていっせいに片付けを始めるのだった。それは私にとって異様な光景だった。大人の言うことをきくつもりがあるのかないのか、分からなかった。

「さっきのお歌をもう一回歌ったらおしまいだからね。一番前に座って、先生にきかせてね」

 ヒロコ先生はそう言って、つないでいた手を私の体の横に戻し、ピアノに向かった。私は、一人、二人と園児が集まってくるのを見て、ピアノの近くに腰をおろした。一番前に座って、とヒロコ先生に言われたのを忘れていなかった。

 

 昼下がり、保護者の迎えの時間になると、私は靴を履いて園庭に出た。園児たちは、南側にある大きな遊具とその隣の砂場に集中していた。その中には先生も何人か混じっていて、一緒に遊んだり、見守ったりしていた。ヒロコ先生は、梯子を上る園児の下で、その尻を両手で支えていた。

 駆けだそうとしたとき、「おい」と横から声が飛んできた。体の大きな、真っ黒に日焼けした男の子が立っていた。左胸の名札には、太いマジックで「いわいしょうた」と書かれていた。私には、彼が何かに怒っているように見えた。

 しょうたくんは真一文字に結んだ口を緩め、

「お前、ウソ泣きやろ」

 と言って、はっきりとした笑みを浮かべた。

 その言葉は、深く私の心をえぐった。彼の言うウソ泣きが何を指すのかすぐに理解し、このときまで考えもしなかった自分の本性というものを暴かれた気がした。

「違うよ」

 私は否定した。涙は自然とあふれたものだったし、実際に私は悲しかったのだ。しょうたくんは再び笑みを消し、押し黙った。彼はもう何を言う気もないようだった。

 私は、しょうたくんを残して歩きだした。遠く前方には、園児の群がる大きな遊具があった。ヒロコ先生の背中も、変わらずそこにあった。今から私はあそこに向かうのだ、と自分に言いきかせた。

 だが、辿り着いてどうすればいいのか、急に分からなくなった。さっきまでは、自分があそこでどう振舞うべきかよく分かっていた気がした。何しろ、母が迎えに来るまで自由時間だと知ってすぐ外に出て、あの遊具へと駆けだそうとしていたのだ。

 近づくにつれ、その縦横に大きく、水色を主体とした鮮やかな配色の遊具が、四本の脚を持つ動物を模していることが分かってきた。円筒状の梯子が前脚を、ジャングルジムが後ろ脚を、そして滑り台が長い鼻を表した、ゾウをかたどったものだった。前脚の下にいるヒロコ先生まであと数メートルというところで、私は立ち止った。抱かれたときに吸い込んだ石鹸の香りを思い出し、顔をうずめたトレーナーを午後になってヒロコ先生が脱いでいることに気づいた。ポニーテールの先っぽが、体の動きに合わせてすばしっこく揺れている。

 ずっと後ろから、しょうたくんがこちらを見ていることを意識した。彼の目は、私と、ヒロコ先生を捉えている。私がヒロコ先生に対して行動を起こすのを待っている。ヒロコ先生に声をかけたり、脚に抱きついて驚かせたりすることが、急に恥ずかしく思えてきた。しかし、先生に構わずに一直線に梯子やジャングルジムに跳びついて、ゾウの背中を走り、滑り台を滑る勇気もありはしないのだった。今日のこれまでだって、ヒロコ先生の助けがあってやり過ごせたのだ。弁当の時間、ヒロコ先生は私の隣に座って弁当の中身や巾着袋について質問をした。私が答えると、卵焼きがきれいだとか巾着袋の柄がお洒落だとか、私を喜ばせながら話を広げた。ヒロコ先生が何かについて喋ると、同じ班の園児はそれに反応せずにはいられないらしかった。賛同や自分の弁当との違いを訴える声が次々とあがり、ヒロコ先生がまたそれに答える。私は、ヒロコ先生と話していれば、その場に正しく参加できている気分になれたのだった。

 あのゾウの遊具の上では、これまでのようにヒロコ先生が私を助けてくれることもない。私は、一人で満足に楽しめるだろうか。せいぜい、楽しんでいるふりをするのが精一杯ではないのだろうか。

 あたりの誰にも気づかれないようにその場を離れ、ふらふらと花壇の方へと歩いて行った。望んで向かった場所ではなかったが、他に行くところが思い浮かばなかった。午前中に、カマキリを見つけたというだけの場所だった。未だ、しょうたくんがこちらを見ている気がした。私が自分の意志に基づいた行動を示し、しょうたくんの予想の外に出ない限り、監視が続くのだと思った。そして、朝見たカマキリを探すつもりになって、花壇の脇を歩いた。 

 土は手入れがされて間もないのか雑草ひとつなく、乾いてはいたものの、空気を多く含んでいるようだった。私は母からきいた、近く幼稚園でサツマイモ堀りがあるという話を思い出し、それが嘘か間違いであるような気がした。

 民家の塀が、前方に近づいていた。塀の上から突き出た枝葉が風に揺れた。ミカンが一つでも落ちてくれはしまいかと願った。わっと驚いて駆け寄ってミカンを拾う、そんなことがしたいと思った。枝葉のあいだにミカンがなっていたが、どれもまだ青かった。

 何気なく視線を転じた地面に、黄色いボールが落ちていた。熟したミカンとの一瞬の錯覚のあと、近づき、拾った。指で押せば簡単に潰れる、おもちゃのプラスチックボールだった。私は、ぜひこれで遊ぼうと思った。手でこねまわしてから、下手で投げて塀に当てると、ほとんど跳ねずにその場に落ちた。私はボールを拾い、今度は上手から投げた。勢いを保ったまま、足元まで跳ね返ってきた。私は、自分が楽しんでいることを感じ、もっと夢中になりたいと思った。ボールが気持ちの良い音をたてて塀にぶつかり、かつ拾いに行かずとも足元まで跳ね返ってくる投球位置を、一歩ずつ後ずさりながら探した。ちょうどよい位置を見つけると、そこに立って投球を繰り返した。引っ越してくる前、近所の公園で投てき板に向かって黙々と投球練習をするユニフォーム姿の小学生を見たことがあった。今の自分もそのように見えているのではないかと思うと、気分が良かった。

 

 私の手元を狂わせたのは、私の名前を呼ぶ母の声だった。ボールの行き先も見届けずに振り返ると、ブルージーンズに白いブラウス姿の母が、呆れたような笑顔を携え、こちらに歩いてくるところだった。私は駆け寄り、普段にない率直さで、差し出された腕に跳びついた。そんなふうにあふれた喜びに、また私自身が浸るのだった。

「先生がずっと呼んでるのに、全然気づかないんだから」

 母は指先で私の前髪をかきあげた。

 園舎の前で、ヒロコ先生がこちらを見て笑っている。そのときになって思い出された、私にウソ泣きと指摘をしたしょうたくんの姿が、近くに見当たらなかった。もはや私は、彼に脅えてはいなかった。しょうたくんのことを知りたい、言葉を交わしたいと思った。その心持ちにより、むしろしょうたくんを見つけることを期待してあたりを見回したのだった。そしてもう一人、カマキリと対峙する私を驚かせた女の子のことも思い出した。彼女もしょうたくんと同じように私に声をかけたのであったが、その存在はまるで幻のように思われた。私は、今日という一日の長さをひしと感じた。

 園を出ると、母は「どうだった? 楽しかった?」ときいた。私は今が良い気分であったので、迷いなく「うん」と答えた。そしてわけもなく跳ねて見せて、母を笑わせた。

 私たちは、車の往来のない道路を歩いていた。右手には中高一貫校の広い校庭が金網越しに広がっていた。左手には、三階建ての集合住宅が何棟も並んでいた。園から出てきた親子の多くが、その敷地に入って行った。

「あら、ずいぶんたくさん遊んだのね」

 母の視線は、私の足元に向いていた。花壇にこすりつけて汚れた靴が、左右交互に前方に飛び出していた。途端に私は気まずくなり、どうしてあんなことをしたのだろうと後悔し、また適当にうまい言葉で弁解することもできなかった。けれど、再び顔を上げたときに見た母の表情は、私の今朝の思惑の通り、活発に遊んだらしいことに満足している様子だった。そして、「私も、直人と同じの買っちゃった」と言って、仰け反るような姿勢で踏み出した脚をぴんと伸ばした。その先には、私のものと同じ形をした、赤のギンガムチェック柄の靴があった。

 はにかんで喜びを表す母に、私はいっぺんに素直な気持ちになって笑うのだった。何か母がもっと嬉しくなる言葉をかけたかったが、私は共感と賞賛を同時に示すような言い回しを持ち合わせていなかった。

片側三車線の幹線道路を越えると、私と両親の住むマンションがある。東西の両端に二基ずつエレベーターがついた十五階建てで、私たちはその五階の一室に一ヵ月前に越してきた。

 去年の話では、三月に新しい家に移り、四月から幼稚園に入るということだったが、父の仕事の都合上どうしてもその予定が叶わなかった。九月一日という季節外れの入園になってしまったことを、母は何度も私に詫びた。そしてその話が終わってからもしばらくは、謝り足りないような顔をして私を見るのであった。

 

「先生、優しかった?」

 私の好物であるハンバーグとポテトサラダの皿をテーブルに並べながら、母は言った。息子に伺いをたてるような声色に、母の心配を感じ取った。幼稚園を出てから、同じようなことを何度もきかれているような気がした。

 うん、と元気な声で頷き、笑顔を見せると、母は少し安心したように目じりを下げ、米を二人の茶碗によそった。

 父は今日も遅くなる。明け方に会社が手配するタクシーで帰宅し、父専用の寝室で眠り、正午に家を出る生活だった。私と顔を合わせるのは、出社前の一時間とたまの休みだけだ。登園が始まった今日は、まだ父を見ていない。

「明日も、幼稚園行くの?」

 答えを知っていながら、盆で小鉢とコーンスープを運ぶ母にきく。

「そうよ。土曜日と日曜日はお休みだけど、それ以外は毎日行くの」

 母は、台所の電気を消し、換気扇を切ってから、テーブルの向かいに腰を下ろした。言葉を選ぶように口を動かして、私を見た。

「幼稚園、いや?」

 直感的に、この質問にはできるだけ正確に答えなければならないという気がした。手をかけた箸をテーブルに戻し、母の顔を見た。

「分かんない。けど多分、好き」

 母は一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、

「まだ始まったばっかりだもんね」

 と自嘲気味に笑って手を合わせた。

 その後も、母は幼稚園でのできごとについてあれこれ尋ねてきた。私は、歌を歌ったこと、机を並べて弁当を食べたこと、園庭にゾウの形をした遊具があることを話した。ヒロコ先生のことが大好きだとも言った。

 母が「お友達」という言葉を使ったとき、私はそれが他の園児たち全員を指しているのだと受け取った。その解釈の正しさは、以後も食い違いなく対話が進んだことで定かになったが、彼らはまだ私の友達とは言えないはずだった。越してくる前、同じマンションに住んでいたケンゴくんのような人が、自分の友達なのだと思っていた。私はこれから、あの幼稚園にいる同い年の園児たちのうちから友達ができるのだろうかと考えた。

 

 

火曜日

 スモックをかぶり、四角い鞄を肩から下げて玄関に行くと、父の靴を見つけた。父の在宅のしるしである焦げ茶色の革靴は、母の履く靴より二回りほども大きく、足を差し入れる間口は広すぎるようにも思われた。私は、この穴を父の足が満たすということを疑ってみたくなる。

 自分の靴を履き終えて革靴を眺めていると、昨日の夜いなかった父が明け方に帰ってきて、今は寝室で眠っているという、自分の目では確かめていない事実が浮かび上がってくる。私が幼稚園にいるあいだ、正午ごろにまたこの革靴は遠くに行くのだ。そして園から戻ってくると、なくなっている。まるで革靴だけが消えたり現れたりしているようだと思い、頭の中でその映像を再現した。

 スリッパの音を響かせて、リビングから母がやってくる。よし、よし、よし、と私の持ち物を指さし確認し、最後に今アイロンを当てたばかりのタオルハンカチを持たせる。私と揃いの靴を履く。

 外に出て手をつないで歩き始めると、私の靴のゴムの部分が、新品同様の白さを取り戻していることに気づいた。

「きれいになったでしょ。でもまた、たくさん遊んできていいからね」

 母は私と靴を見比べて微笑み、エレベーターまでの歩調を早めた。

 幼稚園が近づくにつれ、期待と不安が私の頭をもたげた。期待は、ヒロコ先生や昨日見知った園児と過ごすことにあった。しかし不安の原因もまた、彼らと過ごすことにあった。一日中ヒロコ先生のそばにいられたらと思うが、そうはいかないことは私にも分かった。

 連なった集合住宅が右手に見えてきた。中高一貫校の校庭が左手に広がった。敷地の北側にはクリーム色で統一された西洋風の校舎があり、外壁に並ぶ窓の一つ一つに格子がはまっている。一階部分の太い柱と柱は緩やかなアーチで結ばれており、その下を学生服姿の生徒が潜っていく。

「お城みたい」と校舎を指さして言うと、母は私と校舎を見比べて、「そうね、お城みたいね」と同調したが、うまく伝わっていないような気がした。

「外国のお城みたい」

「よく知ってるわね。そうね。ヨーロッパのお城みたいね」

 外国とヨーロッパの違いはよく分からなかったが、母の驚いた表情に私は得意になった。

 集合住宅へと続く横道から親子が現れ、母と挨拶を交わして少し先を歩き始めた。手を引かれた女の子も、その母親も、私の見知った顔ではなかった。

 次に現れた親子とも、母は挨拶を交わした。また、知らない顔だった。私は、知っている顔が現れたら、自分も挨拶をしなければならないと思い、ちゃんとできるのだろうかと頭を一杯にしていた。

 そのときはやってこなかった。知っている顔と出会う前に幼稚園の正門に着き、そこで母が手を離した。突然に腕が落っこちたので、ひと息ついていた私は虚を突かれて立ち止った。

「今日からここでバイバイするからね」

 母は淡々とした明るさで言った。

 昨日がそうであったように、私は母と一緒に保育室まで行くものだと思っていたので、手を離されたときに生まれた心細さが、いよいよ胸を締めつけた。

 混乱の中、母についてきてもらうために私が思いついたのは、さくら組の場所が分からないという言い分だった。それを口にしようとしたとき、「ほら、多田先生」という母の知らせがあり、見ると嬉しそうにこちらに歩いてくるヒロコ先生がいた。

 二人の大人が朝の挨拶を交わし、私は母と別れ、ヒロコ先生に連れられて廊下を歩き始めた。先生にと一緒に保育室に行くのは、私だけのようだった。

 さくら組は、正門をくぐってから真っすぐ歩けば到着する、一階の端にあった。昨日の曖昧な記憶からでも、一人で辿り着けたような気がした。引き戸の上には、「さくらぐみ」と書かれたプレートが突き出ている。窓ガラスには、桜の花びらを模した飾りも貼られている。一人でも見つけられたという自信の深まりを通り越し、目じるしを教えてくれなかった母や、場所が分からないと決めてかかって私の手を引くヒロコ先生に不満を抱いた。

 下駄箱の前までの短い距離を、私は駆けた。それはたった三歩であった。つないでいた手が離れたのも、駆けたから離れたのか、自然に離れたのか、不確かだった。そういう短い距離だった。

 すのこに腰を下ろし、足を抜いた靴を持って立ち上がり、下駄箱にしまうまでのあいだ、私はヒロコ先生を見ることができなかった。突飛な行動を変に思われたかもしれない。もしかすると、叱られるかもしれない。結果が定かでない状態でも、私は振り返るしかなかった。

 園庭からの照り返しで、ヒロコ先生のシルエットは一瞬赤く燃えた。転じて真っ黒になった。徐々に色彩が戻っていくのを待っていると、

「靴、お母さんと色違いだったね」

 と声がした。私は、ヒロコ先生が怒っていないことを知った。逆光の中、何とか読み取れる表情は、私のささやかな反抗に気づいていないようだった。

「直人くんは、やっぱり緑が好きなのね」

 私は頷き、「やっぱり」の意味を考えた。昨日、そんな話をどこかで先生と交わしたのかもしれない。

 もう、私は小腹も立てていなかった。そのことをうまくヒロコ先生に伝えたいと思い、口を動かそうとした。けれど、ヒロコ先生は「じゃあ、またあとでね」と言い残し、今歩いてきた廊下を引き返した。すれ違った他の組の先生と短い言葉を交わし、正門の手前の職員室に姿を消した。

 

 保育室に足を踏み入れたとき、何人かが私を見た。思わず顔を背け、鞄をしまいに自分の棚に向かうことに集中した。振り返ると、注目はすでに解けていた。

 そこかしこで二人か三人が体を寄せ合って座り込み、絵本やおもちゃを囲っている。しかし、全員が目の前のものに夢中になっているわけでもないようだった。体がそこにあるというだけで、遠くの時計や、窓の外をぼんやり眺めている園児もいた。八時過ぎの保育室では、誰も騒々しい遊びはしないようだった。昨日の日中にはあった、空気を乱す行為の不在に、私は物足りなさを感じた。誰かに取り払われるまで眠気を放置するような怠惰な態度が、室内に充満していた。

 この空気を私が打ち破ってみようかという考えは、生まれてすぐに消えた。溶け込んでみようかという考えは少しのあいだ巡ったものの、どの集まりに自分が参加したいのか、するべきなのか分からなかった。外に出るという選択肢に気づき、静かに保育室を出て戸を閉めた。そして、廊下から園庭に跳び降りた。

「閉めたらあかんで」

 その声は、蛇口の並ぶ水場から流れてきた。私は驚くことなく、昨日もしょうたくんが同じように園庭に出たところで突然声をかけてきたことを思い出していた。

「寒なるまでは、開けっ放しにしとくルールなんや」

 陽に焼けた表情から差す眼光は真っすぐで、太かった。口元の笑みは、言葉とはまた別の何かを伝えているようだった。私はその歪な訴えから逃れるように、園舎を振り返った。

 L字型に並んだ、一、二階合わせて七つの保育室、軒下の廊下、園庭で遊ぶ園児の声が一緒くたになって、私の頭の回りで響いた。保育室のうち、さくら組の引き戸だけが、唯一締め切られていた。アルミ製の引き戸は上半分に透明なガラスがはめられていたが、私の高さからは中の園児の様子を伺い知ることはできない。ただ、空間と壁が覗くきりだった。駆けていって戸を引いた瞬間、中から園児が飛び出して私を驚かせるところを想像した。戸を閉めたことを先生に叱られるところを想像した。それがヒロコ先生であれば、私は失望されるかもしれない。自分はいけないことをしたのだと思った。

 保育室に向かって歩き始めた。踏み出してしまえば、迷う気持ちを振り切ることができた。靴を脱ぐためにすのこに腰を下ろしたときだった。

「もう、開けんでええ」

 しょうたくんが、距離の開いた分、声を張った。私が体の動きを止めると、彼はゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。そして今度は小さすぎるとも思える声で、「開けんでええ」と繰り返した。

 靴を脱いで振り返れば、戸は手が届く位置にあった。私はそれを開けて、安心したかった。今や戸を開けたときに浴びることになる無遠慮な視線さえ、求めていた。

「そんなもん、誰がやったか分からへん」

 しょうたくんは、失敗を気にするなという調子で言った。だが、私の失敗はまだそっくり取り返せるところにあるはずだった。すぐそこにある戸を開ければ済むことだった。私は黙って行動に移すことにした。靴を脱ぐのに、えらく時間がかかった。

 立ち上がったとき、目の前を影が通った。どん、と足の裏から衝撃が伝わり、膝が震えた。保育室の戸の前に、土足のまま、しょうたくんが跳び乗ったのだった。何食わぬ顔をして汚れた靴ですのこに立つ彼の姿は、私を混乱させた。良いこと、悪いこと、その境目が激しく揺れた。

 私の動揺に気づいていないのか、しょうたくんは初めて見せる屈託のない笑顔を浮かべた。

「ちょっとついて来て」

 黙っている私をじっと見つめてから、すのこから降りて廊下の奥へと進んだ。コンクリートの切れ目の手前で振り返ったしょうたくんに「はよ」と言われると、私は脱いだばかりの靴を履いて彼のもとに歩いて行った。

 園舎の壁と金網のあいだに、幅五十センチほどの裏道があった。足元には蓋のない溝が走っており、向こう側はやや開けているようではあったが、普段人が通るような道ではなかった。しょうたくんは、溝の左右の狭いスペースに足を置き、股を開いた格好で進んで行った。溝の底には黒い水が薄く張り、動きを見せることなく光を反射させている。私は、しょうたくんに倣ってその狭い裏道を進み始めた。

 半分ほど進んだところで、しょうたくんが歩みを止めた。そして足元に落ちていた枝を拾うと、頭上で大きく一振りした。ひゅっという空気を切る音とともに、空中を幾筋もの半透明の糸が舞った。蜘蛛の巣を破ったのだった。しょうたくんは用済みの枝を半分に折って前方に放り、再び進み始めた。

 右手の外壁が途切れると、狭い裏庭に出た。幅二メートルの地面が、十メートル先の園舎の出っ張りまで続いている。名前も分からぬ草が茂り、そのあいだからタンポポが咲いていた。北側のフェンスの向こうには、歩道と道路を隔て、民家が広がっている。歩道を歩いている中年の女性がじっとこちらを見ていたので、私は顔を背けた。

 しょうたくんは、裏庭の真ん中に立って壁を向いていた。その視線の先を見ると、壁に取り付けられた給湯器の下に、青い蓋のついた虫かごが置いてあった。中には端の枯れた草が敷かれているが、生き物の姿は見えない。

 黙って佇むしょうたくんに遠慮を示しつつ、一歩ずつ虫かごに近づき、足音やその足が植物と触れる音への反応を、プラスチック越しの空間に求めた。虫かごの前でしゃがみ、宿主の不在を認めて振り向くと、しょうたくんは待っていたかのように、「蓋の裏側見てみ」と言った。私は地面に手をついて、頭を低くした。蓋の影から逆さに上半身を現したのは、大きなカマキリだった。

 息が詰まり、喉でおかしな音が鳴ったのを、背後でしょうたくんが笑った。

「おったやろ? よく隠れてんねん」

 カマキリは、虫かごの蓋に足を引っかけてぶら下がっていた。鎌は細く畳まれており、私を敵視してはいないようだった。

 しょうたくんは私の隣に来ると、虫かごを荒っぽく掴んで蓋を外した。逃げられることなど、微塵も恐れていないようだった。彼の余裕を受け取り自分のものにしたかのように、カマキリもまた、地面に置かれた裏返しの蓋の上で、行儀よく直立していた。しょうたくんによって虫かごに敷かれた草の交換が行われ、蓋に手がかかったときに体のバランスを整えるように小刻みな足さばきを見せたものの、最後まで外に飛び出す意志を見せなかった。蓋が取り付けられたとき、弾みで今敷いたばかりの草の上に落ち、そこだけ急いだように体をひねって立ち上がった。

「昨日、幼稚園に来る途中で捕まえてん」としょうたくんが言う通り、虫かごの中のカマキリは、私が昨日花壇で発見したカマキリとは違う個体のようだった。私の手のひらより大きく、腹も太かった。前翅に、白い斑点のような傷があった。プラスチックの壁がそこにあることを理解しているのか、私が間近で見入っても、こちらを威嚇する素振りを見せない。ときおり風になびくように体を揺らし、その傾いた方へと顔を向ける姿には、優雅な雰囲気さえ漂っていた。そして揺れたうちの数回に一回、前進なのか後退なのか曖昧な、その場での足踏みをした。空気の層と重なる草の敷物の上で、暇つぶしに、見栄えの良い姿勢を探しているみたいだった。

「どいて、エサやるから」

 後ろでうろうろしていたしょうたくんの命令口調に、私は跳ねるように横に移った。彼は腹の前で何かを両手で包んでいた。

「蓋、開けて」という言葉に従い、私はさっきしょうたくんがしたように、虫かごの青い蓋に手をかけた。

「それちゃうっ」

 慌てているところに注意を重ねられ、私は何が何だか分からなくなった。引っ込めた手を強く握りしめ、しゃがんだまましょうたくんを仰ぎ見た。

「小さい方や。真ん中の小さい蓋。バッタ入れんねんから」

 青い外蓋の中心にある、天窓のことを言っているらしかった。そう信じながらも、私は三度目の指摘を恐れて、しょうたくんの反応を伺いながら手を伸ばし、天窓の端の出っ張りに指をかけた。

「入れたら、すぐ閉めてな」という新しい注文に、やっと私は落ち着くことができた。うん、と答え、実行した。天窓を開き、バッタが押し込まれ、「閉めて」と声が響いた。私の動作が遅かったらしく、結局、しょうたくんが自分で天窓を閉めた。

 私が虫かごを横から覗いたときには、カマキリはバッタの首と腹のそれぞれに鎌を食い込ませていた。そして、長い首をさらに伸ばして、バッタの尖った頭から齧り始めた。

「はやわざやろ」としょうたくんが言った。

 すでに、私の興味は電光石火の捕獲劇から、カマキリの食事へと移っていた。逆三角形の頭部の先が四つに割れ、おのおのが肉をかき込んでいる。外皮も内臓も関係なく、顎が触れたところから順に、変わらぬ速さで取り込んでいく。そこには、口腔での咀嚼という工程が省略されていた。

 細かくなったバッタの体が、カマキリという容れ物に移動していくようだった。残虐性はなく、機械的であった。ときおり覗く顎の内側の粘膜の鮮やかな赤と、必要に応じてただちに柔軟な対応をする体の動きが、それが生き物であるということを私に思い出させた。

「カマキリは、生きてる虫しか食べへんのや」

「草は食べないの?」

「食べへん。肉食なんや。コオロギでもええんやけどな」

 肉食という言葉をきいて私が思い浮かべたのは、ライオンやチーターであった。赤い血を滴らせる肉でなくとも、生き物を食べればそれは肉食と呼ぶのだと理解した。

「直人も、明日からエサやるか?」

 しょうたくんが言った。

「やる」と私は答えた。

 

 園舎の裏庭でカマキリを飼っていることは、しょうたくんの秘密だった。保育室に戻るまで、「誰にも言うたらあかんで」と彼は時間を置いて三度繰り返した。目を合わせて頷くたび、私は口元から笑みがこぼれそうになるのをぐっと堪えなければならなかった。

 しょうたくんがさくら組であることに、私は少なからず驚かされた。昨日一日きりではあったが、保育室の中でしょうたくんを見た覚えがなかったのだ。初めて会ったときに、ウソ泣きやろ、と指摘をしたのだから同じ組であるはずだったが、そのときは考えが及ばなかった。

 なぜ保育室で見た覚えがないのか、その理由はしょうたくんを意識して園での一日を過ごすと明らかになった。しょうたくんは、歌を歌うときも、皆で遊戯をするときも、常に後方か端っこに一人でいた。むっとした表情を固め、歓声があがったときなど、ことさらつまらなそうにあさっての方に顔を向けるのであった。

 私が不思議だったのは、いくら不愛想にしているからといって、園児のうちの一人さえ、しょうたくんに関わろうとしないことだった。私は、昨日の午後と今朝経験した彼の態度や口調から、その強引さでもって園児を誘い、また園児の方からも誘わざるを得ない関係を結んでいると思い込んでいた。裏庭から保育室に戻ってから、私はしばらくしょうたくんと距離を置いて、彼が園児を集めたり、園児から誘われるのを邪魔しないようにと遠慮していたくらいだった。

 いくら時間が経っても、しょうたくんは一人きりだった。弁当の時間こそ五人で机を並べたものの、それも予め決められた席順に従っただけのことだった。次々とおかずを口に放り込み、視線をずっと弁当箱に向けていた。私は遠く離れた机から、ヒロコ先生の問いかけに答えつつ、会話が他の園児に移ったときにはしょうたくんの様子を確かめた。

 自由時間になると、しょうたくんを誘うという行為が、私にとっての有力な選択肢となった。しょうたくんは園庭の水場にもたれて一人きりで、私は花壇の近くをうろうろして、やはり一人きりだった。昨日使っていたプラスチックボールを探したものの、どこかへ行ってしまったようだった。

 私は、今から自分が何かをするなら、それはしょうたくんに声をかけること以外にないと思った。ゾウの遊具の賑わいも、保育室の平穏も、私を惹きつけはしなかった。そしてまた、これほど私から視線を送っているのに一向に目が合わないのは、しょうたくんの照れ隠しなのではないかと思い始めた。実はずっと、私を待っているのではあるまいか。

 腹を据え、私は水場へと歩き始めた。誰かが前を横切っても、その誰かの体が透けて、ずっとしょうたくんの姿が見えているようだった。

 私が目の前に立って、ようやくしょうたくんは顔をあげた。不機嫌そうな表情は変わらなかった。私は、今から自分が出す声が、しょうたくんだけでなく近くの園児にもきこえてほしいような気がした。

「一緒に遊ぼう」

 視線を外さず、しょうたくんが「ええで」と言った。コンクリートの水場から背中が離れ、まっすぐに立って、手のひらをスモックにこすりつけた。

「カマキリにエサやりに行こうよ」

 私は、遠くにいるときから準備していた、素晴らしい提案をしたつもりだった。

「あかん。内緒やって言うたやろ。先生に見つかる。エサやるんは、朝だけや」

 園庭でも、軒下の廊下でも、先生が園児と遊んだり、見回りをしていた。私は、自分の迂闊さを恥じた。

「パオパオ行こか」

 しょうたくんは、そう言ったが早いか、歩きだしていた。私は慌ててあとを追った。パオパオが何なのか分からなかったが、園庭の真ん中を過ぎると、自分たちが園児の群がるゾウの遊具に向かっていることを察した。パオパオ、パオンパオン、パオーンパオーン、とゾウの鳴き声まで連想がつながり、私は嬉しくなった。そして直後に、今からパオパオで自分が遊ぶということに不安を覚えた。園児たちが声をあげ、体を伸ばしたり縮めたり、走ったり滑ったりしている遊具の中に自分が飛び込むことが、心細かった。あの中に自分が混じったら、おかしく見えると思った。梯子に手をかけた途端、金縛りにあったように動けなくなる自分の姿が、ありありと想像できた。頼みの綱であったヒロコ先生の姿も、いつの間にか消えていた。

 だが私は今、しょうたくんと一緒なのだった。僕と遊んでいるしょうたくんが先陣を切っているのだった。梯子に手をかけて途方に暮れている自分の横に、しょうたくんを思い描き足した。しょうたくんは私に目で合図をすると、ぐいぐいと梯子を上り始める。早よ来いよ、と言う。うん、と私は答え、あとを追う。何も不安に思う必要はないように思えた。

 しょうたくんに続き、私は勇んで梯子を掴み、足をかけた。しょうたくんの靴底から砂が落ち、私の顔にぶつかった。私は、断崖絶壁を上る冒険家の雄々しさをかみしめ、顔にぐっと力を入れる。大げさに体を揺らして上り切り、手すりを持って立ち上がると、自分が風になったような心地よさを感じた。私より高い位置にあったものが、すべて消し飛んだみたいだった。夏に濃い青を見せていた空は、広く、白湯を混ぜたような色をしていた。

 足元から、「どいてよ」という声がした。男の子が梯子を上ってきたところだった。私が避けると、彼はぴょんと跳ねてパオパオの背に乗り、身軽さを見せつけるように滑り台の方へと走っていった。

 パオパオの背中は、広場ではなく手すりに囲われた通路が一周していた。通路は子供二人分の幅しかないため、座り込んだり、長く留まるような場所ではなかった。次から次へと園児が上ってきては、ほとんどその順番通り、パオパオの鼻である滑り台から下りていくのだった。しかし、園庭の上で吹く穏やかな風を、私はもっと感じていたいと思った。

 私たちが立つ高さは、園舎の二階にやっと届こうかという程度のものだった。これまでにもっと高い遊具に上ったこともあった。けれど、そのパオパオの背中ほど、私に空と風を感じさせるものはなかった。私はその矛盾を相手にする気などなく、ただ心地よさに身を任せていた。

「行くで」

 滑り台を向いたしょうたくんが言った。私は、ここにいたいという気持ちを、どうやって伝えたらいいだろうと思い、そのまま声に出せばいいのだと自答した。長く抱えていた靄が晴れるほどの発見をしたつもりだったが、間髪置かずに現れたのは、それを実行するという壁だった。

「うん」と返事をしたときには、しょうたくんは滑り台に消えていくところだった。近くにいた知らない男の子が、私たちのやりとりに反応してこちらを見た。私はそれに気づかないふりをして、滑り台に向かって駆けた。

 

 マンションに帰って手を洗うと、まっすぐにリビングに行き、壁に取り付けられた本棚の前に立った。大型の書籍が並ぶ最下段から、子ども用の百科事典を引っ張り出し、目次を開いた。母はその様子を見て「あら珍しい」と言って笑った。

 百科事典は、四月の誕生日に父から買い与えられたものだった。漢字にはすべてふりがなが振られ、写真とイラストが半分を占めている。それでも私にとって、眺めているだけで楽しい、というほど易しいものではなかった。出番はもっぱら、テレビニュースなどを見てふと私が疑問を口にしたときだった。父が「辞典を引いて調べなさい」と言うのだ。私はいらぬことを口にしたと後悔しながら百科事典を引き、半分は父への報告のためにその説明文を読み上げる。念のため、隣のページくらいまでをふんふんと頷きながら眺め、理解を深めたような顔をして百科事典を棚にしまう。百科事典であるから、言葉そのものの意味や由来が詳しく載っているわけではない。そういう情報が必要なときは、父が口答ですらすらと説明してくれた。父は何でも知っており、であれば百科事典を引かせずにいつもそうして教えてくれればいいのに、と私は思うのだった。

 今日、初めてこの百科辞典を使って自発的に調べものをする私は、自分が求めている答えがそこにすべて収められていると思い込んでいた。だが期待していた「バッタのつかまえかた」というページは存在しなかった。バッタは「バッタ」というページで、同じくカマキリのエサとなるコオロギは「なくむし」というページで、国内での分布と体長、そこに分類される他の虫と一緒に紹介されていた。カマキリを単独で紹介するページもなく、「こんちゅう」というページの四季に区分された表の中、夏と秋の項目に「カマキリ」という名称が添えられたイラストがあるだけだった。

 そこから分かったのは、しょうたくんがカマキリのエサにしていたのはオンブバッタであろうということ、カマキリが夏から秋にかけて見られる昆虫であるということだった。

 明日、幼稚園の裏庭で、私はカマキリのエサをやる。つまり、そのエサを捕まえなければならない。しょうたくんが捕まえたバッタではなく、私が捕まえたバッタでカマキリの食欲を満たしてやりたかった。鎌と顎の冷徹な荒々しさを呼び起こしてやりたかった。

 百科事典を開いたままそんなことを考えていたら、「公園行こっか」と母が言った。私は驚くより早く「うん」と返事をし、緑の芝生の上を跳び交うバッタと、それを追いかける自分の姿を想像した。

 

 その公園は、マンションから南へ十分ほど歩いたところにある、県立の海浜公園だった。

東西に細長く、北側の入口に立つと海が臨めた。奥に海を眺めながら小石の埋められた遊歩道を進むと、広い芝生が現れる。等間隔に並ぶクロガネモチの若木が、ほとんど影をつくらずに立っている。初めてこの公園を訪れたとき、母は「秋になると小さな赤い実がなるのよ」と教えてくれた。

 私たちは一度海岸まで歩き、釣り人のあいだから海を眺め、芝生に引き返した。家から持ってきたバレーボールを投げたり蹴ったりして遊んだ。私は、昨日幼稚園で使った小さなプラスチックボールのことを思い出し、自分がボールを強く投げられるところを母に見せたいと思った。しかしちょうどよい壁は見当たらなかったし、母に向かって近距離から全力で投げるわけにもいかなかった。距離をとって投球の力強さを披露しようとするのだが、私がボールを持って離れると、母はきっちりその分の距離を詰めるのだった。

 三十分ほどそうして遊んだ頃、母は大げさな様子で「もう駄目」と音をあげて、荷物を置いたベンチに戻った。「もうちょっと」と私は食い下がったが、「ほんとに、駄目」と言って、水筒からお茶を注いだ。そして、鞄から図書館で借りた本を取り出した。その様子を見て諦めた私は、はたと自分がここに来た目的を思い出し、バッタを探し始めた。

 海浜公園に入ってきたときからうすうす気づいてはいたが、芝生の上にバッタはいなかった。遠くを眺めても、足元を見つめても、生き物の気配さえなかった。引っ越してきてからの一ヵ月間、何度もここを訪れていたというのに、どうしてバッタがいると勘違いしていたのだろうか。知識も経験も乏しい私は、緑のあるところにはバッタくらいいるものだと思い込んでいたのだった。

 可能性はないと思いつつ、私は中腰になって地面を見つめ、その姿勢のまま左へ右へとじぐざぐに歩いた。密集した芝が私の目を混乱させ、ふらふらした。途中から方向感覚を失い、視界の縁にちらつく周囲の景色が空なのか海なのか建物なのか曖昧になると、それが一種の遊びになった。もっとわけが分からなくなれば面白いと思った。

 大きな四角いものが視界に入り、反射的に飛びのいたところで、私の遊びは終了した。めまいが治まって見えたのは、丸い蛇口が上を向いた水飲み場だった。私は一人で笑い、踏み台に乗って水を飲んだ。何度か息継ぎをして顔を上げると、目の前に女の子が立っていた。昨日、幼稚園の花壇で声をかけてきた、赤い飾り玉がついたゴムで髪をくくった女の子だった。

「何してるの?」

 女の子は、小さく首を傾げて言った。手を後ろで組むのも、昨日と同じ仕草だった。

「すごくたくさん飲むのね」

 私は、何と答えればいいのか分からなかった。カマキリに逃げられたときも、自分がろくに口をきかなかったことを思い出した。

「喋れないの?」

 女の子は続けた。

「喋れるよ。喋れるに決まってる」

 私の言い方に、女の子は少し驚いたようだった。体を縮めて、気後れしたような顔を見せた。私はじっとしていられなくなって、踏み台から跳び降り、彼女と対面した。

「なかなか喋らないから、喋れないのかと思ったの」

「喋ることなかったから」

 そんな言葉で、女の子は安心したらしかった。にこりと笑って、後ろで手を組み直した。

「私、あいっていうの」

 あいちゃんは、幼稚園のスモックを着たままだった。胸の名札に、「むらやまあい」と書いてあることを、私は先程から認めていた。

「直人くんでしょ? 知ってるよ、私」

「知ってるって?」

さくら組の直人くんってこと」

 名前も組も知っているという宣言が、私を不安にさせた。歌の時間に泣いてしまったことや、ヒロコ先生に抱かれて慰められたことまで筒抜けだったらどうしようと思った。私は、何かを試されているような気がした。

「直人くんは一人なの?」

「お母さんと来た」

「ふうん。私は、一人で来たのよ。すぐそこがお家なの」

 そのあいちゃんの家がどこにあるのか、私は知りたいような気がした。と同時に、ここから見えないのであれば、確認するのが面倒くさいような気もした。

「直人くん、一人で何してたの? 私、さっきもきいたよ」

 くすくすという笑い声が、私の返答を遅らせた。さっきもきかれた、ということを覚えていなかった。

「バッタを捕まえに来たんだ」

「バッタなんて、どうするの?」

「カマキリのエサにする。肉食だから」

 私はしょうたくんからの受け売りを披露した。

「カマキリ飼ってるの?」

「うん。だから、バッタを捕まえなくちゃ。コオロギでもいいんだけどね」

「手伝ってあげる。私、バッタ捕まえたことあるの」

 あいちゃんは、その意気込みを示すように一歩前に出て、つま先立った。私は後ずさりそうになりながらも、何とか堪えた。

「僕、もう行かなくちゃ」

「どこに? 習い事?」

「お母さんが待ってるから」

「そうなの?」

 不満そうな表情を見せたあいちゃんに、私は、うん、だから、バイバイ、と短い単語を並べ、背中を向けて駆けだした。後ろから、何か声をかけられるかもしれないと思った。

 小さな丘のてっぺんで立ち止まって振り返ると、もうそこにあいちゃんの姿はなかった。

 

 母は、まだ本を読んでいた。ベンチの端に腰を据え、揃えた腿の上で厚い単行本を開いている。背もたれにきれいに腰を預け、視線をぼんやりとページに落としている姿を遠くから見て、私は自分が母親を含んだその光景を愛していることを思い出す。バッタの捕獲だとか、あいちゃんとのことだとか、取るに足らないことだと思った。母と一緒に家に帰ろうと思った。

 広い芝生の真ん中を私が直進して近づいても、母は視線を落としたままだった。私がよく知る穏やかな表情が、次第にはっきりと見えてくる。あと数歩というところで、母は誰かに呼びつけられたみたいにぱっと顔をあげる。

「お帰りなさい。何か見つけた?」

 ううん、と言いながら、自分の顔がひどく緩んでいるのが分かった。隣に座って足をぶらつかせ、「きりのいいところまで読んでいいよ」と言うと母は笑った。

「お家に帰って、晩ごはんつくらなくちゃ」

 母が本を鞄にしまい、私がバレーボールを持ち、手をつないでマンションに帰った。

 

 明け方に帰宅し、正午に出社する父とは、もう丸二日顔を合わせていなかった。玄関の革靴や洗濯かごの衣類、シンクのコーヒーカップなどで父が帰宅したことを知ることはできた。だが、たとえ父でない人であっても、同じ生活をしていれば、革靴や衣類やコーヒーカップはそこに現れるのだと考えると、偽物が家を出入りしているという夢想が現実味を増した。私はそこに、怖さよりも面白さを感じた。

「お父さん、元気にしてる?」

 台所で夕食の準備をする母にきくと、ふふ、という空気の漏れるような音が返ってきた。

「元気にしてるわ。お父さんも、直人が元気にしてるかどうか、毎日きいてくるのよ」

「今日、お父さんいつ帰ってくる?」

「いつもと同じ、明日の朝よ」

「何時?」

「最近は四時くらいね」

 私は、父にバッタの捕まえ方を教えてほしかった。海浜公園で練習ができなかったので、このままでは明日の登園後、いきなり本番を迎えることになる。

「明日、四時に起こして」

「どうしたのよ」

 母は笑った。蔓編みのかごからにんにくを取り出し、こちらに体を向けた。

「寂しいの?」

 私は、肯定も否定もしなかった。自分が寂しいのかどうか、よく分からなかった。

「何かお話ししたいの?」

「バッタの捕まえ方を教えてほしい」

 あることを知りたいという希望を言葉で示すのは、誇らしい気分だった。しかし直後に、ゴキブリやクモやトカゲが苦手な母が否定的になる不安を感じ、そちらに支配された。

 母は、私を遠ざけるようにしてシンクの下から包丁を取り出し、ふん、と短い息を吐いた。

「次の土曜日は、お父さんお休みだから、そのときに教えてもらいなさい。お父さん、疲れて帰ってくるんだから、お風呂に入ってすぐ寝かせてあげないとかわいそうでしょう」

 土曜日はまだ四日も先で、それでは間に合わなかった。けれど父が疲れていると母が言うのであれば、かわいそうだと言うのであれば、それはその通りなのだと思った。

「それに、バッタの捕まえ方なんて、口で説明しても分からないんじゃないの? 土曜日にどこか連れていってもらった方がいいわよ。ね?」

 うん、と私は返事をして、リビングのソファに座ってテレビをつけた。幼稚園で習った『あめふりくまのこ』が流れていた。歌詞を見ながら歌っていると、「じょうずねえ」と台所から母が言った。私は、「さかなをまちまちみてました」というのはどういう意味なのだろうと考えていた。

 

 

水曜日

 布団から出て顔を洗い、朝食と着替えを済ませてテレビを眺めていると、早く登園して一人でバッタを捕まえる練習をしようと思い立った。

「今日、幼稚園早く行く」

 洗い物をしていた母のもとへ行き、私は言った。母は私が想像していた以上に驚いて、流水を止めた。

「何かあるんだっけ? おいも掘り?」

「ううん、バッタ捕まえる練習するの」

 早い時間に登園するのは褒められるべきことだと思っていた私は、母の動転を前にしながらもそう説明した。

「なあんだ、早く行きたいってことね。もう洗い物終わるから、ちょっとだけ待ってくれる?」

 予想とは違った反応だったが、了承するしかなかった。リビングでテレビを眺めていても気が散って仕方がなかった。玄関に向かい、父の靴を脇へやり、母と私の靴を真ん中に並べ、ドアの鍵を開けておいた。リビングに戻ってスモックをかぶり、苦労して名札もつけた。テレビを消し、窓の鍵を閉め、玄関に座って母を待った。いつもは母がやる出がけの準備を整えて、少しでも早く登園しようと思ったのだった。

 洗い物が終わっても、母はなかなかやってこなかった。時間を知りたくなって時計を見に行ったが、昨日やおとといに何時に家を出たのか覚えていなかった。靴を履いてドアを開け放ち、共用廊下に出て、飾り格子のあいだから景色を眺めた。東西に続く幅の広い道路を車が走り、その向こうの通園路には、ちらほらと園児とその母親の姿があった。背後でスリッパの音がきこえ、母がやってきた。タオルハンカチを持たされると、私たちは家を出た。

 登園中、私はしょうたくんと仲良くなったこと、パオパオで一緒に遊んだことを話した。母は「そう」「よかったわね」と相槌こそ打つものの、反応が薄く、私は自分の感じた喜びや楽しさがうまく伝わっていないと思い、繰り返し同じような話をした。

「直人」

 母が声を出して立ち止まり、つないでいた手を離した。私は数歩進んで振り返った。

「お母さん、朝は低血圧なの。そんなに速く歩けないわ」

 低血圧、という言葉が頭をこだました。病気ではないけれど朝方に頭がふらふらすることだと母に教わったことがあった。自分の歩みが速くなっているとは、思ってもみなかった。早く園についてバッタを捕まえる練習をしたい気持ちがそうさせたことは、容易に理解できた。

「ごめんなさい」

 私はそう言って俯いた。母に辛い思いをさせたのだと思った。

 ううん、違うの、と母は呟いて頭を振り、「お母さんこそ、ごめんね。できるだけ早く歩くから」と言った。

「いいよ、ゆっくりでいい」

 私は止めたが、「大丈夫。もう元気になったから」と母は笑って、短いスキップを見せた。

 

 すでに登園した園児の濃紺の鞄が並ぶ棚の前で立ち止まったのは、そこに一つだけレモン色の鞄が混じっていることに気づいたからだった。自分の鞄をしまい、裏庭に向かう途中だった。

 そのレモン色の鞄の前面には、知らない幼稚園の名前と園章がプリントされていた。ずいぶん使い古されているようで、角は擦り切れ、合皮の下地が見えていた。肩にかける紐には、深いしわが縦に刻まれていた。そして、その棚の使用者を示すカラーテープには「いわいしょうた」と記されていた。

 私には、レモン色の鞄としょうたくんをうまく結びつけることができなかった。それぞれの情報の認識はできても、その二つの統合には至らなかった。

 誰かが私の前に立ち、何かを言っていた。弁当の時間に同じ班になる男の子だった。私は、「しょうたくん」と声を出した。

「え?」

「しょうたくんの鞄、どうして違うの?」

「そんなの知らないよ」

 男の子は、まるで興味がないというふうだった。

「しょうたくんは、違う幼稚園の子なの?」

「知らないって。きいてみればいいじゃん。ねえ、かくれんぼしないの?」

 何も知らない、何も分からない男の子に、私は腹を立てた。それ以上の追求ができない自分にも腹が立った。きいてみればいいじゃん、という軽い声が、耳に残った。

 保育室を出て、細い裏道を通って裏庭に回った。そこには、壁際にしゃがんでいるしょうたくんの姿があった。私と目が合うと、壁に手をついて勢い良く立ち上がった。

「誰にも言うてないか?」

「うん、言ってない」

 母にしょうたくんのことを喋ったとき、裏庭のことにも、カマキリのことにも触れないように注意していた。

「草は替えといたから、バッタ、やってええで」

「バッタ、いるかな」

 私は、心にも体にも、ふわふわとした迷いを抱きながら歩きだした。

「なんぼでもおるわ」

 しょうたくんが笑い、私も笑顔をつくった。

 数歩も歩けば、私が揺らした下草からバッタが跳び出してきた。そのたび、探しているのはこのバッタじゃないという顔をして、見逃した。足元に跳んできたバッタには、気づかないふりをした。私は、できるだけゆっくりと歩いた。次第に、この光景がどう考えてもおかしいという気持ちが、恥ずかしさとともに湧きあがってきた。私はいったい何をしているのだろうと思った。観念して、歩みを止めてしょうたくんのもとへ行った。

「捕まえ方、教えて」

 しょうたくんは、黙ってその言葉を受け止めたようだった。間もなく自分は驚かれるか笑われるかして傷つくのだと思った。

「バッタのか」

「うん」

「後ろからな、近づくねん。ほんで、着地したところを手で押さえるんや」

 しょうたくんはそう言って、つま先で草をかき分けるようにして歩きだした。すぐに反応した何匹かのうちの一匹に目ぼしをつけ、二度ジャンプさせたあと、着地するタイミングで素早くしゃがみ込み、両手のひらを被せた。

「バッタは前にしか跳ばれへんから、後ろから近づくんや。掴んだらあかんで。すぐ潰れるから。被せるんや」

 バッタを右手だけで包み直すと、ショベルカーが遠くの土をかくような腕の動きを見せて、しょうたくんは言った。

 しょうたくんの優しさを感じた喜びを、私は顔に出すまいとした。真剣に教えてくれているのだから、自分も表情を緩ませてはいけないと思い、説明の一つ一つに声を出して頷いた。

 しょうたくんが見守る中、私はバッタを捕まえにかかった。歩きだして折り返したところで、目の前を小さく跳んだバッタがいた。私はそのあとを追い、二度のジャンプを見送って、三度目の着地のときに跳びついて両手を被せた。

 逆さの椀のようになった手の中で、バッタが頭をぶつけているのを感じた。両手で包み込んで立ち上がった。

「簡単やろ」

 一度目の試みで成功したのだから、頷くしかなかった。物足りないという気さえした。しかし数分前の自分のことを思うと、そんなことを言えるはずも、態度に出せるはずもなかった。とにかく挑戦してみることさえせずに、捕獲を諦めたのだった。私は、今度は喜びを全身で表そうとした。うまくできたか分からなかったが、しょうたくんは顔を見合わせて笑ってくれた。

「俺が蓋開けたら入れてな。手えどけたら、すぐ閉めるから」

 しょうたくんが、跪いて虫かごに手をかけてそう言った。私は、昨日は自分が任された仕事を、しょうたくんが請け負ってくれることに自らの成長を感じた。肘と膝を地面に着き、虫かごを覗き込んだ。今日はまだ一度もカマキリの様子を確認していないことに気づき、バッタをやる前に見ておきたかったのだ。カマキリは、新しく敷かれた草の上で鎌を舐めていた。この小さな空間で昨日バッタを食べたカマキリが、今日も元気にしている。今からこのカマキリは私が捕まえたバッタを食べ、明日まで生き延びるのだと思った。

 バッタを虫かごに入れる作業は、滞りなく完了した。私はすぐにしゃがみ込んで中を覗いた。バッタはまだ生きており、暴れていた。尖った頭が潰れてしまうんじゃないかと思うほど強いジャンプで、天井への衝突を繰り返していた。カマキリは鎌の手入れをやめて、顔と体の向きを一致させたまま、じっとしていた。バッタが疲れるのを待っているようだった。

 やがてバッタは、跳ぶことをやめた。疲れたのか外に出ることを諦めたのかは、分からなかった。天敵の存在に気づいているのかどうかも、分からなかった。小さく六つの足を動かして移動し、カマキリの前方のスペースに進んだときだった。カマキリがやや前傾姿勢になったかと思うと、次の瞬間にはバッタを鎌に収めていた。上半身と鎌の伸縮だけが、私の目に映った動きだった。体を支える四本の脚は、一歩も動かなかったように見えた。私は、首筋が縮むような興奮を覚えた。

 カマキリは、バッタの胸から齧り始めた。支えを失った翅が早くも落ちた。節のついた腹の先が激しく曲がり、脚をばたつかせるものの、鎌は深く体に食い込んでおり緩む気配はない。カマキリの顎はバッタの腹へと移った。光る内臓が見えた。

 死ぬということは、それが何者であれ悲しいはずだった。私は、自分の中に憐みの心を探した。しかし、カマキリに齧られて無残に死にゆくバッタを目の前にしても、悲しさどころか、気分の落ち込みさえ生じないのだった。カマキリが生きるため、バッタが死ぬのは当然なんだと思った。

 夜店ですくった金魚が一週間も経たずに死んだとき、私は死骸を埋めた公園の木の根元に手を合わせた。帰り道で父は「木の栄養になって命をつなぐんだから、悲しいことではないんだよ」と言った。その言葉は、死んだ金魚の肉や骨、色素が水に溶けて木の根から吸い上げられる様を私に想像させた。幹に触れれば、金魚にも触れたことになるような気を起こさせた。父はまた、「ああいうところの金魚はもともと弱ってるから、仕方ないんだ」とも言った。

 バッタの死は、金魚の死より激しい一方で、確かな正当性、必然性があるように思われた。バッタがカマキリにずたずたにされることは正しく、栄養として吸収されることは避けられない運命なのだと思った。目の前で起こる捕食の光景の普遍性に強く惹かれていることを、私は認めざるをえなかった。

 

 歌の時間も、室内遊戯の時間も、私としょうたくんは隣り合って過ごした。ときどき言葉を交わし、二人だけで笑いもした。目を合わせて私たちだけが分かる合図を送りもした。そんな様子を変な目で見る園児もいたが、私は、そしておそらくしょうたくんも気にしていなかった。自分たちだけの、もっとも楽しい世界を過ごしている気持ちになっていた。ヒロコ先生は、私たちを嬉しそうに見つめた。その嬉しさが二人に伝わってほしいというような誘いかける視線が、私にはくすぐったかった。

 午後、私としょうたくんは花壇の前でボール投げをした。おととい私が一人で使ったプラスチックボールを、花壇の影で見つけたのだった。しょうたくんの投球は、力任せで精度が低かった。私は何度も後ろに逸らし、ボールを拾いに走った。

 園舎の近くまでボールを取りに走ったときだった。振り返ると、しょうたくんが民家の塀から突き出すミカンの木を見上げていた。私が定位置に戻ると、彼は手招きをした。

「ミカン、なっとる」

 上を向いて喉を伸ばして、しょうたくんが言った。その存在を知っていた私だったが、何となく初見であることを装ってしまい、

「ほんとだ、これミカン?」

 とおかしな返事をした。

「食べられるんちゃうか」

「でも、青いよ」

「あそこ、半分くらい黄色くなってるやつ、食べられるで。ばあちゃんちで食べたんと一緒や」

「おばあちゃんの家に、ミカンの木があるの?」

 山あいに建つ藁ぶき屋根を想像して、私はきいた。だがしょうたくんには私の声が届いていないようだった。

「採れたてのんは、スーパーとかで売ってるやつより、甘くてうまいんや」

 しょうたくんがミカンを採ろうと言いだすことを予感した私は、園庭から園舎にかけてを見回した。遊具やおにごっこに夢中になっている園児と、そのあいだに先生が何人かいた。誰も私たちに気を留めていないようだったが、視線を戻そうとしたとき、砂場にいたヒロコ先生と目が合ったような気がした。少なくとも、顔がこちらを向いていた。

「ヒロコ先生が、こっち見てる。砂場のとこ」

 私の注意に、しょうたくんは視線を下ろしてヒロコ先生を確認した。

「ほんまや」

「また今度にしようよ。先生のいないとき。ボールぶつけたら、きっと落ちるよ」

 姑息な提案が、すらすらと口を衝いて出た。

「せやな」としょうたくんは納得したようだった。

 自分ばかり走るボール投げの再開には気が進まなかったので、入園初日の朝に花壇でカマキリを見つけた話をした。あいちゃんという女の子の登場までをしょうたくんに話すか話すまいかという問題に気づいたおかげで、途中からはずいぶんと要領を得ない物言いとなった。結局、あいちゃんの登場に至る前に、「でかかったんか?」としょうたくんが話を遮った。私はほっとした。

「大きかったよ。しょうたくんのカマキリよりは大きくないけど、大きかったよ」

 説明をきくと、しょうたくんは花壇へと向かった。私も、そのあとについて行った。私たちは花壇に沿って、縦に並んで歩いた。

 しょうたくんは、黒く乾いた土の上に目を凝らし、真剣にカマキリを探しているらしかった。私は、カマキリの捜索にはあまり身が入らなかった。一度だけ、それも入園初日の朝に見たということが、そのカマキリとの邂逅の希少性を強めており、今二人で探したところで到底見つかるまいと考えていた。

 しかし、私の報告にしょうたくんが興味を示し、その話だけを頼りに二日前の再現に一生懸命になっているのは、私にとって嬉しいことであった。そしてその様子を後ろから見ていられるのは、楽しいことであった。首を突き出すために丸まった背中は、左右に小さく揺れながら進んで行った。起伏の少ない横顔の中で、唇は軽く閉じられているようだったが、その内側で食いしばっているのが、顎の関節がつくる筋肉の影から見て取れた。私は、水面に浮かぶエサを、誰に横取りされるわけでもないのに必死に食む金魚を見たときに抱いた愛おしさを思い出した。しょうたくんと金魚を結びつけたことに対するおかしみは、先の感動に易々と抑え込まれ、腕の外側から首筋にかけての皮膚の泡立ちを感じていた。歩みを進めるうちにその過敏な感覚は平静を取り戻していったが、その快楽が再び高まりはしまいかといつまでも期待していた。

「あかんわ。おらん」

 花壇のそばを往復したところで、しょうたくんが顔を上げて言った。私は、思っていたより早く捜索が終わったことを残念に思いながら、「うん」と言った。

 

 一時半を過ぎると、迎えの保護者が正門に姿を見せ始めた。各組の担任の先生はあちこちに散らばった園児を一人一人呼びに走り、連れてきては引き渡すことを繰り返していた。

 私としょうたくんは、保育室に入ってレゴブロックに興じていた。私は三角屋根の家をつくり、しょうたくんは恐竜をつくった。

ティラノサウルスや」

 しょうたくんは、そのティラノサウルスで私の家を踏みつける真似をした。大きく形づくられた頭の上には、テンガロンハットを被った人形が座っていた。

「こいつが、ティラノサウルスの飼い主やねん」

 私は、黄色い壁と茶色の屋根でできた家と、色味を考えずにつくられたティラノサウルスを見比べた。自分の作品が、えらくつまらなく思えた。私の家で、しょうたくんを面白がらせたかった。

「この家、その人が住んでもいいよ」

「こいつはティラノサウルスの上で寝るんや。家なんかないんや」

「トイレはどうするの?」

 私は、自分の作品が見向きもされず、不満に思いながら言った。

「うんこもしっこも外でするんや。恐竜の時代に、トイレなんかないんやで」

「じゃあ、僕が自分で住む」

 レゴブロックのバケツから人形を探し出し、家の入口に立たせた。人形の顔は笑っていた。

「直人くん」と声がかかり、保育室の入口からヒロコ先生が近づいてきた。私の背中に手を当てて、母が迎えに来たと告げた。

 私は、まだここにいたかった。しょうたくんと、もっと遊びたかった。けれど、そんな勝手が通るはずがないと思った。

「しょうたくんは、まだ帰らないの?」

 私は、二人に向けて問うた。

「しょうたくんは延長保育だから、もう少し幼稚園にいるの」

延長保育という言葉の意味は分からなかったが、ヒロコ先生にきき直す気にはならなかった。ただ、しょうたくんがここに残るということだけを受け止めた。

 しょうたくんが、手を止めて私を見た。言葉を発することを我慢するように口元が動いた。

「これ、しょうたくんが使っていいよ」

 レゴブロックの家を差し出すと、しょうたくんはやや間を置いてから受け取った。そして、ひっくり返したり回転させたりしてから、こちらを見ずに「うん」と言った。

 鞄が並ぶ棚の前で身支度をするとき、しょうたくんのレモン色の鞄が目についた。知らない幼稚園の名前が入ったその鞄を見て、私はしょうたくんが違う幼稚園から転園してきたのだということを理解した。今朝、どうして自分はそんなことも分からなかったのだろうと不可解に思い、またなぜ鞄の色が違うのかと、よく知らない園児に尋ねた自分の思慮の浅さを恥じた。

 保育室を出るまで、まだしょうたくんと遊びたいという心残りがあった。しかしヒロコ先生と手をつないで廊下を歩き母と顔を合わせると、心の平穏を約束された場所に戻れる安心が上回った。ヒロコ先生だけでなく、正門に立つ、ほとんど喋ったことのない園長先生にも、私は弾んだ声でさよならを言った。

「今日は何したの?」

 母の問いに、レゴブロック、ボール投げ、カマキリのエサやり、エサになるバッタ捕りと近い過去から順に思い浮かべた。今日一日でずいぶん遊んだものだと、その充実を嬉しく思った。カマキリを飼っていることはしょうたくんとの秘密だったので、そこだけ、バッタを捕まえた、と言い換えて伝えた。

「直人、バッタ捕まえられるようになったの? すごいじゃない」

「見つけてから、一回目で捕まえたよ」

 母はさらに目を丸くして、「すごいね」と繰り返した。追い回すことなく狙いを定めてから最初の挑戦で捕獲したことが伝わったのかどうか怪しかったが、母に頭を撫でてもらい、私は満足だった。

 しかしすぐに、自分がバッタを捕まえられるようになったことで、確認しておくべき問題が持ち上がったことに気づいた。

「まだ練習しなくちゃいけないから、お父さんと一緒にお出かけするよ?」

 母は不思議そうな顔で私を見つめてから、その心配事を理解して笑った。

「そうね。もっといろいろ捕まえられるようにならなくちゃね。カブトムシとか、まだいるのかしら?」

 母の言葉をよそに、私は他にも何か問題がないか考えてみた。しかし、父と出かけられることが叶うのであれば、それ以外のことなど些細に思え、頭を働かせるのをやめた。

「今日もしょうたくんと遊んだ?」

「うん、しょうたくんとばっかり遊んだ」

 明るく答えてから、保育室に今も残り、おそらく一人で過ごしているしょうたくんのことを思った。

「ねえ、延長保育って何?」

「幼稚園が夕方まで子供を預かってくれることよ。どうして?」

「しょうたくん、延長保育なんだって」

「そう。じゃあまだしょうたくんは幼稚園に残ってるのね」

「僕も、延長保育できる?」

「それはできないの。延長保育は、お母さんが働いてる子しかできない決まりなの。しょうたくんも、もうすぐお母さんが迎えに来るのよ」

 母はそう言って、一つの話を終えたつもりのようだった。私としてもちゃんと希望を伝えたはずであったが、何だか自分が初めから答えを知っていて、その確認のためだけの意味のない話をしてしまった気がした。

 幹線道路に差しかかり、信号待ちをしているとき、母が再び口を開いた。

「そうそう、しょうたくんって、四月に引っ越してきたばっかりなんだってね」

「知ってるよ」しょうたくんのレモン色の鞄を思い出して言った。

「大阪に住んでたみたいね。大阪って、分かる?」

 私は曖昧に頷いた。大阪という地名をきいたことはあったが、それがどこにあるのかは知らなかった。

「まだ友達が少ないから、直人くんが仲良くしてあげてねって多田先生が言ってたわ」

 母はヒロコ先生のことを、私の前でも必ず苗字で呼んだ。

「仲良くしてるよ、僕」

「うん、だから多田先生、直人にありがとうって」

 信号を見る母の横顔は、誇らしさに満ちていた。私としょうたくんと仲良くしているところを見たことがないのに、ヒロコ先生に褒められて喜んでいるのだと思った。

不意に鼻の奥で、何かがじんわりとしみだすのを自覚した。しょうたくんがレゴブロックに没頭している光景が思い浮かび、滲んだ。信号が青に変わって歩きだした母の手を、私は引いた。急な反動にも、母は抵抗なく歩みを止めて振り返った。

「仲良くしてないのは、みんなだよ」

 どうしたの、どういうこと、と慌てた母の声をききながら、私は涙をあふれさせた。

 

 母に背負われて帰宅し、手を洗い、時間をかけて着替え、ドーナツを食べ、温かい牛乳を飲んだ。涙は引いており、良い気分ではなかったが、悲しくもなかった。そもそも自分は本当に悲しんでいたんだろうか。信号を待ちながら母と何を話し、どうして泣いてしまったのか、よく覚えていなかった。ただ、母を驚かせ、慌てさせたことだけが事実として記憶に残っていた。

「ごめんなさい」

 私はテーブルの向かいに座る母を見て言った。

「どうして謝るの」

 母は微笑んで言った。自宅に戻って初めてきく、母の声だった。

「泣くのは、悪いこと?」

 そう言葉が継がれ、私は考えた。母がそうきくのだから、泣くのは、悪いことではないのだろうと思った。私は悲しくないのに涙を流し、悪くないのに謝ったのかもしれなかった。ウソ泣きやろ、というしょうたくんの言葉が蘇った。

 黙っていると、母が身を乗り出した。

「ねえ、今日ハンバーグにしよっか」

 賛成しかけて、口をつぐんだ。

「飽きちゃった?」

「おとといもハンバーグ食べたよ?」

「いいじゃない。お米もパンも、毎日食べてるわ」

 本当だ、と私は思った。母が笑っているのを見て、私も笑った。

 

「ハンバーグの材料、買ってくるわね」

 私は、台所へ向かう母を目で追った。母はコンロとシンクを見回してから冷蔵庫を覗き、廊下に出た。寝室に行ったようだった。静寂が続き、私が椅子から下りようとしたとき、いつもの買い物袋を持って母が戻ってきた。

「直人、留守番できる? お母さん、スーパーのあとにちょっと寄るところがあるの」

 私が頷くと、インターフォンが鳴っても決してドアを開けないこと、四時には戻ってくることを告げ、母は出て行った。

 玄関からリビングに戻って時計を見ると、まだ二時半だった。ソファに座ってテレビに集中しようとしても、何かのはずみでふと一人きりであることを思い出し、時計を見やるとほとんど時間が進んでいないのだった。またテレビに顔を向けるものの、長くは続かない。自分の笑い声や衣擦れの音で、独りぼっちを意識してしまう。

 そんなことを繰り返していると、背後に誰かがいるような気がしてきてそのたびに後ろを振り返った。この部屋には自分しかいないし、ドアの鍵もかけた、誰も入ってこられないと思うほど、その気配の存在感が増していった。

 後ろからいきなり襲われる自分の姿を想像したところで、テレビの電源を切った。部屋は静かになり、壁に背中をつけて見回しても、誰もいなかった。意外なほど、心が落ち着いた。

 私は、本を読んで母を待つことにした。本棚から、以前母が見せてくれたカラーの大型本を取り出し、テーブルの上で開いた。ヒトの受精から出産までを科学的観点から追った本だった。私が開いたのは、胎児の成長の過程を撮影した連続写真が載ったページだった。半透明の丸い受精卵がまが玉のような形になり、大きくなりながら手足を分化させる。内側から白さが濃くなっていき、やがて桃色に近くなって、水かきがついた指が現れる。豆のような黒い目ができる。「直人もこんなふうだったのよ」と母が言っていたことを思い出す。

 次のページには、出産直後の写真が大きく掲載されていた。赤い肌をした新生児が、医師と思しき男性に抱かれている。この写真を見てようやく、私もこんなふうだったかもしれないと思う。この赤ちゃんは、どこの子なんだろうと考えた。下腹部には男性器がついていた。写真ということは、以前にどこかで、こういう瞬間があったということだった。私が母から生まれるより前のできごとなのだろうか。古めかしい本ではなかったが、たぶん、写真の男の子の方が先で、私が後なのだろうと思った。今の私より歳を重ねた男の子の姿を想像すると、私の知らない、写真の赤ちゃんとも似ても似つかない顔が浮かんだ。優しそうな、面倒見の良さそうな少年だった。

 私はそのイメージをリセットした。男の子は私から離れ、大人に近づいた。機敏に動けそうな体の上に、賢そうな顔が乗っていた。もう、私と友達になれるような年齢ではなかった。無意識のうちに、リセットが繰り返された。男の子は完全な大人になった。厚みを増した体と、長い手足を持っていた。どんな種類の運動も、易々とこなしてしまいそうだった。目鼻立ちはくっきりしていて、あらゆることに対する自信が微笑みとなって表れていた。しかしそこには、これまでになかった残酷さがあった。笑みを浮かべたまま、まったく違うことを考えられる大人だった。

 私は顔を上げた。テーブルの私の位置から、玄関へと続く廊下が見えていた。そこにリビングの明るさはなく、湿っぽい影が、玄関に向けて濃くなっていた。がちゃりと錠が回る音がして、ドアの開閉の音と、物がこすれる音がした。廊下を歩いてリビングに現れたのは、母だった。膨らんだ買い物袋を肩から下げていた。

「ただいまあ、ごめんね、遅くなって」

 時計を見ると、すでに四時半近くになっていた。母は台所に向かう途中で、私の手元に目を留めた。

「その本、面白い?」

 買ったものをシンク台に並べながら、母は言った。真っ赤な挽肉が詰まったパックが見えた。私はあまり考えずに、「うん」と答えた。寝起きのような冴えない頭で、さっきまで自分が考えていたことを思い出そうとしていたが、「むらやまあいちゃんっていう女の子、知ってる?」という母の声に思考を停止した。

「スーパーで、直人くんのお母さん、って声かけられたの。あいちゃんはお母さんと一緒だったんだけど」

 返事がないからか、母は台所を片付け終わる前にリビングに顔を出した。

「知ってるわよね? むらやま、あいちゃん。ほっぺが赤くて、ずっとにこにこしてる子。ふじ組の子」

「知ってる」

「良かった。知らない子と約束しちゃったのかと思った」

「約束って?」

「約束ってほどじゃないんだけど、明日幼稚園が終わってから海浜公園に行くって言うから、私たちも行こうかなってお話ししたの。あいちゃんのお家、海浜公園のすぐ近くなんだって」

 昨日も私は、海浜公園の水飲み場であいちゃんと会っていた。何となく、そのことは黙っておいた。

「あいちゃん、すごく楽しみにしてたから、一緒に行かない?」

「うん」 

 私はできるだけ素っ気なく答えた。

「そう、良かったわ。あいちゃん、すごく楽しみにしてたから」

 母は再びあいちゃんの心当てを強調し、自らの上機嫌も惜しみなく示した。二人のあいだには私がいるはずだったが、自分だけが出遅れているような気がした。それなのにまた、「いつも何して遊ぶの?」ときかれて、「ちょっと喋るだけ」としか私は答えられないのであった。説明しきれていないもどかしさが残った。

「まだ三日目だもんね。組も違うし」

 状況を説明するように母が言うと、私はそれを否定したい気持ちに囚われた。肯定すれば、私がこれからあいちゃんと仲良くなっていくつもりだという意思表示になると思った。親密になりたい気持ちはあるのに、その希望を誰にも知られたくないのだった。

 手元の新生児の写真を見た。私だけでなく、あいちゃんもこんな姿をしていたのだと考えると、勝手な連帯感を覚えた。そしてこんなことを、あいちゃんは考えもしないだろうと思った。あいちゃんの知らないうちに、私だけが、その姿を見たのだという気がした。

 

木曜日

 あいちゃんとの約束があるということは、朝からふとしたときに頭を過ぎり、まるでたった今予定が決まって今すぐに待ち合わせ場所に向かわなければならないように、静かに私を慌てさせた。

 しかし予定が決まったのは昨日で、約束を果たすのは今日の幼稚園を終えてからなのだった。今から固くなることではないと理解してしょうたくんとの会話に戻っても、また忘れたころにやってきて、前と同じ温度で私を驚かせる。

「何でにやにやしてるんや」としょうたくんに指摘されたとき、私は「何でもない」と言ってくしゃっと顔をつぶしてごまかした。

 歌の時間が終わり、弁当の用意をするというときになって、ヒロコ先生が席替えをすると私たちに告げた。

 賛成なのか反対なのか分からない園児の声が飛び交い、「しーずかに」と言ったヒロコ先生は、ちらと私を見た。自分がここにいることを確認されたような気がした。そして、弁当の時間の席が、ヒロコ先生と離れるのだと直感した。ヒロコ先生がそばにいてくれたから、私は同じ班の園児と話すことができたのだ。一人で誰かに話しかけたり、話しかけられたときにうまく返答する自信がなかった。

 先に並べた机のそばを歩きながら、ヒロコ先生が一人ずつ名前を呼んで席に着かせた。席順は手に持った紙にすでに記入されているらしかった。誰と一緒になれた、誰と違うと喜びと落胆の声が響き、次第に増幅していく。半分が決まったときには、もはや騒音になっていた。席が替わっただけで、ここまで感情を起伏させて表出させる必要があるのだろうかと思った。しかし私こそ、ヒロコ先生と離れることが不安で仕方ないのであった。

 私の名は、最後に呼ばれた。私は再びヒロコ先生と同じ班になっただけでなく、しょうたくんの隣に座ることにもなった。私にとって、もっとも喜ばしい席順であった。しょうたくんは私と目が合うと、にやりと笑った。そこにかつてのようないやらしさは感じられなかった。

 

 弁当の時間は、入園初日以来の刺激的なものとなった。

 同じ班になった二人の女の子の存在が、私を圧倒した。表情や声、そして弁当や弁当を入れる巾着袋からもあふれる華やかさ、頭から直接飛び出たような逡巡のない言葉、大げさなようで的を射た感想、頭を振るたびに漂う甘い香り、何もかもがいっぺんに迫るのだった。

 初めに話題を主導したのはヒロコ先生であったが、間もなく女の子二人が私を質問攻めにして場の注目を集めた。どこから引っ越してきたのか、どこに住んでいるのか、兄弟はいるのか。ヒロコ先生は一転きき役に回り、まるで自分もそれを知りたかったのだという顔で私を見ていた。

 そして私が自分への過度の注目を気にし始めたころ、女の子の一人が「岩井くんは、どこから来たの?」と言った。

「大阪の岸和田や」

 しょうたくんの顔には、初めて見る赤みが差していた。

「大阪は知ってる。岸和田は知らない」と女の子が言うと、ヒロコ先生は「だんじり祭で有名なところね」と補足した。

「私、だんじり祭ってきいたことある」もう一人の女の子が、ぴんと手を挙げて言う。

「しょうたくんは、お祭りに毎年行ってたの?」

 ヒロコ先生がきいた。

「おとんと兄ちゃんが神輿担ぐから、それ見に行く」

「おとんって、お父さんのこと?」という女の子の問いに、ヒロコ先生が「そうよ」と答えた。私は、しょうたくんが思い返すように視線を宙に留めたのに気づいた。大阪はここから遠いから、次の祭には行けないのかもしれないと思った。

 女の子たちはまた、自分たちの好きなアニメキャラクターの話を私たちにきかせた。

「これも、これも、そうなんだよ」と言って、魔法使いの少女がプリントされた弁当箱の蓋や、箸箱を披露する。

「直人くん、知ってる?」

「知らない。見たことない」

 ヒロコ先生の問いに、私は咄嗟にウソを言った。熱心にテレビ放送を見ているわけではなかったが、チャンネルを切り替えているときにたまたま見かけて、そのまま最後まで眺めていたことがあった。

「岩井くんは?」

「俺は、妹が見てるから、一緒に見たことあるで」

 しまった、と思った。そして、ヒロコ先生や、母も知っている流行りのキャラクターを、私が知らないなんて不自然なんだと気づいた。私は、しょうたくんにウソだと指摘されることを恐れた。ヒロコ先生や女の子たちの前で指摘されることを、特に恐れた。

 しょうたくんは、共通の話題を見つけた女の子に、その面白さの共感を求められ、「そんなにちゃんと見てないから、よく知らん」と応じていた。照れ臭そうな反応ではあったが、それでも彼は見たことがあると最初にはっきり宣言したのだ。比べて私のウソは、ずっと女々しいものであるという気がした。そして自ら話題を離れたくせに、疎外感を覚えているのだった。

「直人くんは、どんなテレビが好き?」

 ヒロコ先生が、半ば強引に話に割って入った。女の子たちもそれを感じたのか、喋るのをやめてこちらを見た。何かに答えようとしていたしょうたくんも黙った。

 私は、もはや正解を見失っていた。どんなに共感を呼ぶ、あるいはその逆できいたことのない番組名を言ったところで、誰も興味を持たないと思った。

「僕、本当は見たことある」

 私はそう言ってから、女の子の箸箱を指差した。四人の視線がそっくりそちらに移り、私の言葉を理解する間を置いてから、「ああ」というヒロコ先生の短い声を挟み、

「見たことあるんかいっ」

と言って笑ったのはしょうたくんだった。

「男の子が見ても、面白いと思うよ」とヒロコ先生が言った。

「やっぱり。見たことあると思った」女の子が言って、くすくす笑った。

「ウソついたなあ」もう一人の女の子が言って、私の肩を叩くふりをした。

 そして私は、笑うことができた。

 

 そんなことがあったからといって、午後からも四人で遊ぶというふうにはならなかった。私は相変わらずしょうたくんと二人きりだった。

 二人の女の子はそれぞれ別のグループで、別の園児と遊んでいた。私としょうたくんがたまたま同じ班になったというだけで、あの二人が普段から一緒だとは限らないのだから、当然とも言えた。だが、弁当の時間の掛け合いや似通った雰囲気から、その直後にはまったく関与せずに遊んでいるのが意外だった。また同時に、あの二人が私としょうたくんよりずっと多くの友達の輪を持っており、自分たちはそのうちの一つの小さな輪に過ぎないのだと思った。

 パオパオの背中に登って風を浴びると、昼食で重くなっていた体が軽くなったのを感じた。九月の日差しは、私や私が手をかけた手すりをせっせと温めていた。園庭に散らばる園児も先生も、気持ち良さそうに動いていた。しょうたくんは、私を置いて先に滑り台を下りた。

 両手で弾みをつけて手すりを離そうとしたときだった。園舎の二階で、あいちゃんが手を振っているのが見えた。私はまるで前からそうすることを決めていたみたいに、視線を切って滑り台の方へと体を向けた。私への合図ではなかったし、そもそも私はあいちゃんに気づかなかったのだという言い訳さえつくった。しかし、一歩、二歩と進んで、何かが私を押しとどめ、振り返らせた。左手で手すりを掴み、右手を振った。

 あいちゃんは、私の反応を認めると、素早く手を下ろした。まるで私を罠に引っかけて喜ぶように笑い、保育室へと消えた。

 

 降園の時間になると、私としょうたくんは保育室に向かった。園児の多くは園庭で遊んでいたが、子どもを迎えに来る保護者が混じり始める園庭は、私たちにとって何となく気の散る場所だった。

 しょうたくんは、おもちゃの棚の引き出しの奥から、昨日私たちがつくったティラノサウルスと三角屋根の家を取り出した。レゴブロックでつくったものは崩してバケツに戻す決まりだったので、私は驚いた。

「取られへんように、隠しといたで」

 しょうたくんは得意げに言って、家の方を差し出した。二人で床に座り込み、新しい作品づくりに取り掛かった。私がテーマを決めかねているうちに、しょうたくんは細長く緑色のブロックをつなぎ始めた。それがカマキリだと分かると、私はバッタをつくることに決めた。緑色のブロックはしょうたくんが集めていたので、代わりに黄色のブロックを使った。

 作業を進めながら、作品を並べた私たちだけの町をつくることができたら楽しいだろうなと考えた。他の園児や先生も、あっと驚くに違いなかった。私は、いつかテレビで見た近未来都市のジオラマを思い浮かべ、自分の思いつきの素晴らしさに満足した。作品が増えてきたら、しょうたくんに言ってみようと思った。

 もうすぐバッタが完成するというときに、お母さんが迎えに来たとヒロコ先生が告げた。いつもより早い気がして時計を見ると、やはりその通りであった。そして、あいちゃんとの約束を思い出した。

「何つくってるの?」

 ヒロコ先生が、私の手元を覗き込んだ。バッタ、と私は答えた。現実のバッタとの色の違いを指摘されるかと思ったが、ヒロコ先生は「すごく強そうだね」と褒めてくれた。

「もう帰るんか」

 しょうたくんが、私の降園を率直に残念がる顔を向けた。

「直人くん、どうする? あとちょっとなら、少しだけお母さんに待ってもらう? それとも、お母さん呼んで来ようか」

「もうできたから、いい」

 ヒロコ先生の提案を断り、私はしょうたくんにバイバイと手を振った。しょうたくんも、バイバイと言って手を振った。私は、自分の棚から鞄を取って、保育室の出口に向かった。最後に振り向いたとき、しょうたくんは未完成の黄色いバッタを手に取り、しげしげと眺めていた。

 

 帰宅すると、まだ時間があるからと母は夕食の下ごしらえを始めた。おやつは海浜公園に行ってからみんなで食べるということだった。

 テレビをつけて眺めていると、自分はいったいあいちゃんと何をして遊ぶべきなのだろうと気になってきた。玄関に行って下駄箱の隣の大きな収納を開き、大小のボールや、バドミントンのラケットを取り出してみたりしたが、どれもしっくりこなかった。あまり張り切っては、あいちゃんに笑われるのではないかと思った。

 そうこうしているうちに、母がバスケットを持って玄関にやってきた。「テレビつけっぱなしだったわよ」と言いながらも、その表情と足取りは軽やかだった。

 私は結局、手のひらに収まるゴムボールだけを持って、収納の扉を閉めた。

「それだけでいいの?」

 母が言った。うん、と私が答えると、今閉めたばかりの収納からバドミントンのラケットとシャトルを取り出した。

「じゃあ、私はこれ持って行こうっと」

「僕、バトミントンやらないよ」

「バ、ド、ミントンよ。いいの、私がするんだから」

 母はわざとらしく強情になった口調で言い、私と色違いの靴に足を通した。

 海浜公園に着くと、芝生の真ん中にあるいつものベンチに向かった。あいちゃんとあいちゃんのお母さんは、まだ来ていないようだった。私は近くのクロガネモチの若木を何本か見て回り、赤い実がまだなっていないことを母に報告した。

「まだならないわよ。もうちょっと、寒くなってからね」

 母はそう言って笑った。私は、寒くなってから実がなるということを不思議に思った。寒くなって実をつける植物など、これまでに見たことがないような気がした。雪と風にさらされながら、決して枝から離れない小さな赤い実を想像した。きっと、硬く厚い皮で覆われた実なのだろうと思った。沖合には、タンカーが浮かんでいた。その手前をフェリーが横切る。海沿いの遊歩道では、帽子を被ったおじいさんが、小さな魚を釣り上げていた。

 約束の三時ぴったりに、あいちゃんとお母さんがやってきた。あいちゃんはスモックを着たままで、私と目が合うと遠くから手を振ってきた。隣で母が大きく手を振り返した。

 あいちゃんのお母さんは、色の落ちたジーンズに無地のTシャツ姿で、背の高い人だった。私を見ると、訳知り顔で「こんにちは」と言った。その傍らで、あいちゃんもじっと私を見ていた。こんにちは、と私が言うと、二人は顔を見合わせて笑った。

 ベンチの近くでシートを広げ、四人で母が焼いてきた黒ゴマ入りのクッキーを食べた。あいちゃんとお母さんがおいしいおいしいとクッキーを褒め、母は謙遜しながらも照れを隠せないでいた。

 母親二人はポットに入れてきたコーヒーを飲み、いつどこから越してきたのかとか、幼稚園の行事のことだとか、自分たちの出身地のことだとか、そんな話をしていた。私は、弁当の時間に同じ班になった二人の女の子のことを思い出した。母親たちや女の子たちが、なぜこれほどの数の質問を、絶えることなく続けられるのか分からなかった。母は私とあいちゃんに麦茶を注ぎながらも、あいちゃんのお母さんの話に熱心に耳を傾けた。

 あいちゃんは麦茶を飲み干すと、「遊びに行こう」と私に言った。私はどうしたものかと迷ったが、母に促されて立ち上がった。

 先だって歩きながら、あいちゃんはときどき振り向いて私を見た。行き先はもう決めてあるようだった。海とは反対側に進むと、木造の物置小屋があり、その向こうからブランコが現れた。

「ここ、私の特等席」

 そう言って片方のブランコに腰かけ、さっそくこぎだした。ブランコはあいちゃんの足を振り子にして勢いを増し、私の顔の高さでひざ丈のスカートがひらひらと揺れた。私はあいちゃんに、風と光と水が溶けあったような表情を見た。寸前まであった、自分もブランコに乗りたいという気持ちは、彼女をそばで眺めていることの満足に変わっていた。自分がブランコに乗ったって、今あいちゃんが感じているような気持ち良さを味わうことはできないと思った。そこに、悲しさや悔しさはまったくないのであった。

 あいちゃんのつま先が地面に触れ、靴の裏がこすれ、ブランコが止まった。

「直人くんも、乗ろうよ」

 私は、あいちゃんの隣のブランコに腰をかけ、目一杯後ろに下がり、地面を蹴った。

 初めは思ったような速度を得られなかったが、二回三回と往復すると、速さも高さも増していった。海岸に向かって緩やかな下り坂になって広がる芝生が視界から消え、体が宙に、その先の海へ飛び出すようだった。あいちゃんも、私に追いついていた。私たちは、高く高くこいだ。鎖を握りしめ、隣を見る余裕はなかったが、行ったり来たりする笑い声が響いていた。

 目が回るほどブランコをこぎ、母親たちのもとに戻ると、二人はバドミントンに興じていた。どちらもうまくシャトルを打ち返し、ラリーが続いていた。機敏な動きと楽しそうな表情は、母を普段より若々しく見せた。あいちゃんもそう感じたのか、ぽかんとした顔で自分の母親を眺めていた。

「ああ楽しい。久しぶり、バドミントンなんて。交代する?」

 ラリーが途切れたところで、あいちゃんのお母さんがラケットを掲げて言った。私は自分が持ってきた小さなゴムボールのことを思い浮かべて返答を躊躇していたが、あいちゃんが「やる、やるやる」と言って跳ねた。

 勇んでラケットを握ったものの、あいちゃんはバドミントンをしたことがないらしく、私たちのラリーはまったく続かなかった。一打目さえ、空振りしたりシャトルの羽の部分を叩いたりして落としてしまうのだった。あいちゃんのお母さんが、シートに腰を下ろしたまま、ラケットの持ち方やシャトルを放す高さなどを指南した。一生懸命に取り組むあいちゃんだったが、変わらぬ失敗を繰り返すうちに、顔を膨らませた。

「直人、教えてあげなさい」

 口元に両手を添えて、母が言った。その声には、普段にはない厳しさがあった。私は少しびっくりしながらも、あいちゃんの隣に行って「こうやって」と言いながらサーブを打つ真似をした。しかしこんなことであいちゃんが上達するとは思えなかった。そもそも私の腕前も、母とバドミントンをして数回打ち返せる程度のものだった。あいちゃんは体を固くして、私ではなく前方の芝の一点を見つめていた。そしてその姿勢のまま、

「もうやめる」

 と言った。

「あい、ふて腐れないの。いきなりうまくできるわけないでしょ。直人くんに教えてもらいなさい」

 お母さんの言葉にも、あいちゃんはひるまなかった。

「ふて腐れてないもん」

「じゃあどうしてそんな顔するの」

「普通の顔だもん」

「うそ、変な顔してる」

「お母さんの方が、変な顔だもん」

 私はひやひやして見ていた。子どもが親に叱られる光景は何度も出会ったことがあったが、子どもが泣いたとき、親が怒鳴ったとき、私は悲しい気持ちになるのだった。まさに今からそういう局面を迎えようとしていた。だがあいちゃんは眉間に皺を寄せながらも毅然としていた。お母さんの方も、声の調子は一定で、この状況をどこか楽しんでいるようだった。

 結局、「違うことして遊ぶの」というあいちゃんの宣言に、お母さんが「もう」と言いながら小さく笑って、二人のやりとりが終わった。

 私たちは、再びブランコへと向かった。あいちゃんは、今しがたのできごとなど忘れてしまったような明るい表情で、ときどき小走りになって私を急がせた。

 物置小屋の向こうから現れたブランコは、三人の家族に占領されていた。私たちより小さい男の子とその妹がブランコに乗り、父親が背中を押してやっているのだった。こいでいるというよりも、揺られているという感じだった。それでも子どもたちは声を上げて喜んでいた。

 私は、さっきの勢いを取り戻したあいちゃんが、自分たちの使用権を主張しはしまいかと危ぶんだ。しかし彼女は家族を認めてから一度も止まることなくブランコの前を通り過ぎ、向こう側まで見通せる小さなクヌギ林へと足を踏み入れた。

「ブランコ乗らないの?」

 あいちゃんに追いついて、私はきいた。

「乗るけど、あとでいいの。急かしちゃかわいそうでしょ」

 あいちゃんは前を向いたまま大人びたことを言った。そして急に立ち止まり、あ、と声を出した。

「直人くん、今バッタいたよ。その、お花のところに飛んでいった」

 一本のクヌギの近くに、紫色の小さな花が群れ咲いていた。しかしそこにもぐったバッタを確認するには遠すぎた。

「ほんとにバッタ?」

「分かんない。でもたぶん、バッタだよ。直人くん、カマキリ飼ってるんでしょ?」

 前にこの公園で会ったとき、私は確かそんなことを喋ったのだった。

「飼ってるよ」

「じゃあ、バッタ捕まえようよ」

 私には、断る理由がなかった。少なくとも、バッタを捕まえるふりをしなくてはならなかった。しかし、私は以前とは違った。しょうたくんにバッタの捕まえ方を教わり、そのあとすぐの実践で成功を収めていたのだった。後ろから近づいてジャンプさせ、着地したところに手を被せる。心の内で復習を済ませ、紫色の花の群れに近づいた。近くの草を足先で揺らしたとき、緑色のバッタらしきものが飛び出し、それが思わぬ大きさを持っていたために私は仰け反った。緑色の塊は羽音を残して飛翔し、十メートルほど先の別のクヌギの近くの茂みの中に降りた。その着地までに追いついて手を被せることなど、できるはずもなかった。

 振り返ると、あいちゃんは両手で口を塞いでいた。目が合うと、うんうんと頷いた。私は、彼女に話しかけられてカマキリを逃がしてしまった三日前のことを思い出した。

 忍び足で前に進むと、まだ距離の縮まらないうちに、バッタらしきものが飛び出し、二人のちょうど真ん中の、植物が生えていない、踏み固められた土の上に降り立った。それは、私が子ども用の百科事典で見た、トノサマバッタだった。体長はオンブバッタの二倍ほどあり、その端から端までが大人の指のように太い。硬そうな翅を持ち、胸部との境目がはっきりした頭部には、人の顔と同じような位置に、艶のある褐色の目がついている。

 私は、距離を保ったまま、トノサマバッタの真後ろへと回った。体を低くして、一歩ずつ近づいた。トノサマバッタは、後ろ足を何度か踏み直し、前方でじっとしているあいちゃんを気にしているようだった。

 これ以上の接近は察知されると判断したところで、私は意を決した。足の裏で体重を感じ、かかとを上げて身を縮め、下腹に力を入れて思い切り跳んだ。腹から着地し、顎を打った。しかし両手のひらに、手応えがあった。

 一瞬の無感覚ののち、手の中でトノサマバッタが暴れているのを知ったとき、私は体の中心から四肢の末端まで広がる震えを感じた。肘をついて立ち上がり、「やった」と言った。それ以外に言葉が見つからなかった。

 あいちゃんが何か言おうとしているのが見えた。それから、不安そうな表情が見えた。どうしてそんな顔をしているのか、私には分からなかった。きっと、トノサマバッタを捕まえたことを、あいちゃんはまだ分かっていないんだと思った。私はおかしくなって、捕まえたよ、と言ってトノサマバッタを包んだ両手を差し出した。あいちゃんの右足が後ろに退かれた。

「血が出てる。顎」

 手の甲で顎をぬぐうと、ぬめりとした感触があり、見ると真っ赤な血が、手首の方へと垂れていくところだった。

 

「ほんとに、びっくりしちゃった」

 顎のガーゼを交換しながら、母が言った。

「顎って、ちょっと切っただけでたくさん血が出るんだって。お医者さんが何回もそう言ってるのに、私、全然耳に入ってこなくって」

 あいちゃんから私の怪我のことをきいた母は、転びそうになりながらブランコの近くまで走ってきた。ハンカチで顎を押さえ、すぐさま私を抱きあげたが、私は両手を合わせたままだった。母は、その中身を私からきき出すと、「捨てなさい」と叫んだ。私は腕を伸ばし、できるだけ衝撃が伝わらないように、トノサマバッタを宙に放った。激しく揺られながら公園を出て、あいちゃんのお母さんが拾ってくれたタクシーに乗って、近くの整形外科へと向かったのだった。

「縫わなくて済んだし、傷も残らないって。良かったね」

 母は私の頭を撫でて言った。それから頬を寄せて抱きしめて、「良かったわ」と繰り返した。

 

 隣で母が寝息をたて始めてからも、私は眠れないでいた。

 ずっと、トノサマバッタのことを考えていた。私が両手を被せた拍子に、右の後ろ脚が取れてしまったのだ。私はそのことを、あいちゃんが母を呼びに行っているときに知った。そっと手を開いて、大人しくなったトノサマバッタを指で摘まんだときに知った。地面に落ちた後ろ脚は、何かの部品のようだった。母が走ってくるのを見て、脚を一本失ったトノサマバッタを、再び両手で包み、隠した。

 トノサマバッタに、ひどいことをしたと思った。大切な後ろ脚を失い、以前と同じように跳んだり着地できるはずがない。それを私は母の胸の高さから放したのだ。立派な翅があり、飛翔できるのだから問題ないという希望的推測がときどき浮かんできては、私の中の何者かによって卑怯だと打ち消された。後ろ脚が揃っていれば生きられた期間が、確実に奪われたのだ。私にその宣告をしたのは、幼稚園の裏庭で虫かごに閉じ込められたカマキリだった。そのカマキリのエサになった、オンブバッタだった。夜店で買ってもらって数日で死に、公園の木の根元に埋められた金魚だった。

 私はハッとした。そうだ。今も生き残るカマキリも、いずれ死ぬのだ。あんなに強いのに、死ぬのだ。私はそのことを忘れていたようだった。ある生命を栄養として奪う者も、いつか必ず死ぬのだ。

トノサマバッタが長く生きられたかもしれないという希望ではなく、何者も平等に死ぬという絶望が、高ぶった私の気持ちを少しずつ鎮めていった。

 

 

金曜日

 休んでもいいのよ、という母の勧めを断って、私はいつも通りに朝食を摂り、身支度を整えた。顎の傷に痛みはなかったが、処方された薬を食後に飲んだ。

出かける前には、ガーゼを剥がして、大きな絆創膏を貼られた。

「気になるだろうけど、触っちゃ駄目だからね。ばい菌が入って、治りが遅くなるからね。もし外れちゃったら、多田先生に新しいのと交換してもらうのよ。幼稚園に着いたら、先生に絆創膏を預けておくから」

「うん。触らないよ」

 母の念押しはしつこいくらいであったが、自ら登園を望んだこともあり、私は素直に返事をした。

 登園中、雨がぱらぱらと降ってきた。私は黄色い傘を開いた。母は薄いピンク色の傘を開いた。アスファルトから、湿ったにおいが立ち上がってきた。

「僕、このにおい好き」

 そう言って傘を傾けて隣を見上げると、母は眉を上げてきこえなかったことを示した。私がもう一度言うと、「私も好きよ」と答えた。

 中高一貫校の校庭では、色とりどりの傘が移動していた。校舎の入口でくるりと傘が回って閉じられ、制服姿の学生が代わりに現れた。そして建物の中へと吸い込まれていく。

 正門の前に、園長先生が傘を差して立っていた。にこにこと笑顔を絶やさず、登園する園児とその保護者と挨拶を交わしていた。園長先生は私を見つけるとすぐに顎の絆創膏に気づき、「昨日、ちょっと」と母が説明を始めたのをきかずに、慌ててヒロコ先生を呼びに行った。ヒロコ先生は私を見るなり「どうしたの?」と心配した声を出し、廊下に移動して恐縮した母の説明をきき終わると「かわいそうに」と言って私の肩に触れた。大人たちの様子を見ていると、自分が本当にかわいそうな子どもであるように感じられた。廊下を行き来する園児が、私たちを遠慮なしに見た。私は母のそばに立ち、話に参加している格好をして、傘の先にできた雨水のしみを見つめていた。

 替えの絆創膏がヒロコ先生の手に渡り、ようやく話は終わった。私は母に手を振り、ヒロコ先生とさくら組の保育室へと向かった。雨脚は勢いを増し、園庭には大きな水たまりができており、その水面が激しく打たれていた。

「今日はおとなしくしていようね。直人くんはいつもおりこうさんだけど」

 ヒロコ先生は、自分だけ納得したようにふふと笑った。

 保育室では、十五人ほどの園児が、それぞれグループに分かれて室内遊びをしていた。私はしょうたくんのレモン色の鞄があることを確認し、保育室を出てすのこの上に立った。そのときになって、カマキリエサをやるためには、傘を差して裏庭まで歩いて行かなければならないことに気づいた。

 靴を履いて廊下に出て、園舎と金網のあいだの裏道を覗いた。ここ数日の晴天で乾ききっていた溝に雨水が流れ込み、濁った水となって走っている。幅の狭い溝ではあったが、その上に跨って緩くなった足場を進んでいくのは並大抵のことではないように思えた。園舎から突き出る庇も、壁の高い位置を濡らさない程度の役目しか果たしていない。もとより、通常人が通る道ではないのだ。

 傘立てから自分の傘を取ってきて、再び裏道を覗いた。廊下を振り向くと、何人かの園児が追いかけっこをしたり、並んで空を見上げたりしている。奥には職員室があり、そのさらに奥には正門があり、赤い傘で体の半分を隠した園長先生の後ろ姿が見えた。

 黄色い傘を開いたら、目立つかもしれない。偶然、職員室から先生が出てくるかもしれない。保育室の園児が、窓からこっそり私を監視しているかもしれない。今までだって、見つかっていないことの方が不思議なくらいなのだ。それに服が濡れたら、どうしたらいいのだろう。そもそもしょうたくんは今裏庭にいるのだろうか。いないなら、私は傘を差したまま一人でバッタを捕まえなくちゃならない。そんなこと、本当にできるのだろうか。

 頭に浮かぶのは、裏庭に行かない理由ばかりだった。正当性が増していくはずなのに、私は後ろめたさにずぶずぶと沈んでいった。顎の傷が、絆創膏の下で痛んだ。

「何してんねん」

 雨音のあいだから声がして、見ると透明の合羽を着たしょうたくんが裏道の溝に跨って立っていた。

「誰か、おるんか?」

 今度は小声で言った。私が首を振ると、素早く廊下へと跳び移った。合羽を体から剥がすように脱ぎ、水を飛ばして丸める。服はほとんど濡れていなかったが、合羽からはみ出た膝から下、顔、手に滴が伝っていた。靴と靴下を脱ぐと、「靴、下駄箱に入れといて」と言い残し、裸足で保育室へ向かった。

 私はわけの分からぬまま、濡れて重くなったしょうたくんの靴を下駄箱にしまい、傘を傘立てに差し、保育室に入った。しばらくすると、しょうたくんが手洗い場から出てきた。

「トイレのタオルで拭いてきた」

 しょうたくんはそう言って笑い、鞄から新しい靴下を取り出した。鞄のファスナーのあいだから、へし合うように詰められた合羽と、濡れて色の濃くなった靴下が覗いていた。

 床に腰を下ろして靴下を履くしょうたくんの前で、私は突っ立っていた。まだ、何か動きがあるのではないかと思った。

「完璧やろ」

 しょうたくんが自尊心を隠さず言った。

「うん、完璧」

 私は感心して言った。作戦はすべて完了したようだったので、隣に座った。

「カマキリ、元気だった?」

「雨が溜まって蓋のとこに逃げてたけど、水出してバッタやったら、すぐ食べてた」

「また、雨入らないかな」

「ビニール袋かぶせたから大丈夫や」

 ビニール袋をかぶせられた虫かごを想像し、カマキリの息苦しさを心配した。けれどすぐに、しょうたくんであれば当然そういった配慮をしているに違いないと思い直した。

「バッタ捕まえるの大変だったでしょ」

 何気なく口にした言葉を自分の耳できき、玄人ぶった共感の押し付けが混じってしまったように思ったが、しょうたくんは気にした様子もなく、「合羽着てたから大丈夫や」と言って頭を掻いた。

「直人、顎どうしてん」

 しょうたくんの指摘に、私は思わず顎に手をやった。手のひらでさすると、ちくちくと痛んだ。その痛みは、それまで影を潜めていた、裏庭に行かなかったことに対する申し訳なさを呼び起こした。転んで顎を切ったという説明に加えて、今日は傷が開かないようにおとなしくしていなくちゃいけない、という病態の説明までした。

 しょうたくんは、「血い出た?」とか、「痛いんか?」ときいてきたが、顎の怪我と裏庭に行かなかったことを結びつけて考えてはいないようだった。母やヒロコ先生、園長先生と比べると、心配する気持ちも薄いようだった。大人たちの様子を大げさに見ていたのはこの私自身であるのに、しょうたくんには関心の不足を感じているのだった。

 保育室の入口から、登園した園児が入ってくるたび、外からの光が遮られ、しょうたくんが投げ出した足に影が触れた。その影は出現してからすぐに消え、代わりに移動した園児が私たちの前を通過していった。

 その中で、現れてから一向に動かない影があった。顔を上げると、あいちゃんが立っていた。私は手をついて立ち上がり、しょうたくんの視線を感じながら入口に向かった。

「すごく痛そう」

 あいちゃんは私の顎をまじまじと見てまずそう言い、自分の顎の先を指で摘まんだ。

「なんてことないよ」

「痛くないの?」

「痛くない」

「でも、絆創膏」

「痛くない」

 あいちゃんの言葉から、勢いが失われていった。最後には、私の足元に視線を落として黙ってしまった。私はそこで初めて、自分が素っ気ない態度をとっていることを知った。

 私は昨日、楽しかったのだ。海浜公園であいちゃんと一緒に遊んで、また同じ時間を過ごしたいと思ったはずだった。なのに今日になると、しょうたくんの目を気にしてあいちゃんに冷たくしている。そんなことはしたくないはずなのに、しているのだった。

 そうだ、と私は思った。しょうたくんとあいちゃんと、三人で遊べばいいのだ。どうして私は、別々に仲良くするしかないと思い込んでいたのだろう。三人が友達になれば、何かを隠したり、恥ずかしがる必要などないのだ。

「大丈夫だよ。ばい菌が入らないように絆創膏してるだけだから。血も出てないし、傷も残らないって、お母さんが言ってた」

 私は、精一杯喋った。

「本当?」

 あいちゃんが顔を上げて言う。

「うん」私は、勇気を振り絞る。「また遊ぼう」

 あいちゃんが笑った。

「今度、直人くんち行っていい?」

「いいよ」

「そのとき、カマキリ見せてよね」

 うん、と返事をした私に、あいちゃんはすっきりした顔を見せて、バイバイ、と手を振った。そして、行ってしまった。

 振り返ると、しょうたくんがさっきと同じ姿勢のまま、座って壁にもたれて、私を見ていた。

 私は、説明をしなければならなかった。あいちゃんのこと、昨日互いの母親に連れられて海浜公園に行ったこと、顎の怪我はそのときにできたものであること、あいちゃんが言うカマキリは裏庭の秘密のカマキリとは別であること、そのカマキリは明日の土曜日に父と捕まえるつもりであること、さっきは裏庭に行こうか迷っているうちにしょうたくんが帰ってきてしまったこと、そして、しょうたくんとあいちゃんと三人で遊んだら楽しいであろうということ――。

 しかし私には、そのうちのどれからを説明すればいいのか、分からなかった。また一つを選択できたとしても、その一つさえ、しょうたくんが黙っているあいだに、うまく言葉にできる自信がなかった。

 私から言葉が出ないことを悟ったしょうたくんは、間もなく私を非難する。私は、受け止めようと思った。きかれたことに、一つ一つ答えていこうと思った。しっかりと説明をしようと思った。自分には、それができるだろうと信じた。しょうたくんと友達でい続けたかった。あいちゃんと三人で、遊びたかった。

 しょうたくんの口が、小さく動いた。

(了)