短編小説『振り返ったときに後ろが見えているとは限らない』

 

 

 一カ月前に女が出ていってからというもの、俺は腑抜けだった。酒を飲むのも面倒になり、とにかくずっと眠っていたかった。悪い夢を見るのは二回の就寝につき一回だったので、起きているよりはマシだった。

 俺の身体は、十五時間以上は続けて眠れないようにできているらしい。目覚めは、意識が働く前に瞼を無理やり広げられるようにしてやってきた。まだまだ眠れそうな気はするのだが、身体は起きろと言う。くそ、俺は眠るんだ、眠ることしか能がないんだ、と意思を持つ頃、眠気は消えている。

 ぼうっとする頭で、ベッドから起き上がる。せっかく活動するのだから、今が朝であればいいと思う。しかしそううまくはいかない。窓から差し込む日差しの角度で、すっかり午後であることを思い知らされる。朝でないにしても、せめて陽が落ちていれば、自分をごまかし眠り続けられたかもしれないのに。

 キッチンに向かい、やかんに水を入れる。コーヒーを飲めば、気分がすっきりするかもしれない。カフェインの効果なんて気のせいだと分かっていながら、俺はコンロの火をつける。だが、ドリッパーが見つからない。棚にも、引き出しにも、テーブルにもない。あ、と俺は叫んだ。あの女が、持っていったのだ。自分の持ち物だから、俺の家を出るときに、持っていったのだ。やかんの口から蒸気が出る。コンロの火を消す。

 インスタントコーヒーをつくり、ベッドに戻ってゆっくり飲んだ。しっかりしなくては、と俺は考えた。久しぶりに触れる前向きな気持ちは、俺を変えてくれそうな予感をはらんでいた。見返してやりたいという気持ちが湧けば、将来、俺は今日のことを、きっかけになった日と呼ぶかもしれない。

 窓を開け、部屋に転がる空き瓶と空き缶を回収していった。記憶にないメモも拾って捨てた。掃除機をかけた。着ていたものをすべて脱ぎ、洗濯機を回した。シャワーを浴び、身体の隅から隅まで、石鹸で泡立てたタオルでごしごしと擦った。明るい時間のバスルームというものは、身を清める聖者のような心地をもたらしてくれる。足の指のあいだまで、丁寧に洗った。

 バスルームを出て前髪をあげ、鏡で見た自分の顔は、無精ひげに覆われてはいたものの、いくらかまともになったようだった。こんなことで、表情は変わるのかと思った。そして、こんなことでもとに戻れるくらいにしか、俺は落ちていなかったのかと訝しんだ。

 裸のままキッチンで水を飲んでいるとき、俺は見つけてしまった。インスタントコーヒーやらパスタ、缶詰なんかを置いている棚に紛れたサプリメントを。女が出ていった日の数日後、酒を飲み過ぎてゲロを吐いてから、女が残したものは片っ端から捨てたと思っていたのに。持ち去られたもの、残されたもの、どいつもこいつも、俺を苦しめる。

「鉄分 Fe 1日3粒」と大きく印字されたサプリメントの袋を手に取り、床に叩きつけた。重量がないから、パサ、と情けない音がした。そして拾い、封を切った。鉄のにおいがした。俺は、サプリメントの類を信用していなかった。何の意味もないと批判するつもりはないが、もし健康に気を使うとして、大切にするべきなのはこんなものではないと思っていた。腹いっぱい食べること、運動すること、たっぷりと眠ること。栄養が足りないなんて不満を言うのは、そのあとだ。

 俺は、たとえサプリメントであっても、口にするものを捨てるのは嫌いだった。そしてまた、指定された用法用量は厳守する男だった。

 サプリメントを三粒、掌に出し、水と一緒に飲んだ。袋には三週間分と書いてあった。俺はあと二週間と六日は、少なくとも生きていようと思った。