短編小説『ただ静かに眠りたかっただけなのに』

 幸子は、一週間前から毎日、夜中に床下から響いてくる騒音で目を覚ましていた。枕から顔を上げると、蛍光塗料で光る時計の針は、決まって四時を指していた。

 布団をかぶり、しばらくすると眠っている。だが朝になって目を覚ますと、なんとなく眠り足りないような気がした。深夜四時に一度起きているという事実も、幸子の不満を大きくしていた。私はあんな時間に起こされたのだから、十分に眠れたとは言えないだろう、という無意識が働いていた。

 階下の部屋は、空き家だった。だから幸子は、その両隣のうちどちらかの部屋で、住人が電動ドライバーやノコギリ、金づちなどを使って、おおかた本棚でも作っているのだろうと考えた。床下から響いてくるのは、幸子に想定しうる限り、そういう種類の騒音だった。夜中の四時に、とも思ったが、世の中には、昼間眠り、夜中に起きている人がいる。おかしな人だってたくさんいる。職場の人たちにしても、それぞれどこか、理解しがたい一面を持っている。

 それにしたって、非常識には違いない。今日も音をたてるようだったら、明日にでも管理会社に電話をして住人に注意してもらおう。幸子はそう決意して、朝食を摂り、化粧をし、仕事に向かい、いつも通りに働き、スーパーに寄って帰宅し、夕食を摂った。そのあいだずっと、そして風呂に入って歯を磨き、就寝の支度を済ませても、幸子の気持ちは高ぶっていた。管理会社を通すとはいえ、人の生活にケチをつけることが、本当に正しいのだろうかという迷いがあった。今夜騒音がなければそうはしないつもりでいるのに、まるでもう決定した事実であるかのように、人を非難することの罪悪感に苛まれていた。

 幸子は、昨日まで読んでいた文庫本を、ベッドに持ち込まなかった。深く眠れば、あの音に目を覚ますこともないだろうと考えたのだ。寝る前の読書は少なからず睡眠の質を低下させる、という話をきいたことがあった。

 ベッドに横になり、リモコンで照明を落とし、目を閉じた。リラックスはしていたが、いつになく静寂が静寂らしく存在感をもって横たわり、眠気が訪れない。何度も寝返りを打ってから、眠っていないことを確かめるつもりで瞼を上げると、真っ暗だと思っていた部屋は、カーテンのすき間から入る月夜の明かりによって、ずいぶんとはっきりと映った。青い粉を均等に浮かべ、そのまま固めてゼリーにしたような空間が広がっており、壁や天井との距離感が掴めない。幸子は、広いトイレで用を足すときに感じる、むず痒い不安を覚えた。よもや金縛りなんて、とおそるおそる手に力を入れ、動いたことにホッとして、身体を起こした。上半身に遮られた分、掛布団には影ができ、そこはとても暗かった。

 幸子は、枕元の蛍光灯を点け、読みかけの文庫本を取ってきて、ベッドでうつ伏せになって読み始めた。図書館で借りてきた、流行作家のミステリー小説だった。序盤で起こった殺人事件の犯人は、おおよそ見当がついていた。早く自分の正解を確かめたかったが、読み飛ばすということはしなかった。幸子は、とにかく文字を目で追うことが好きだった。一文を、一単語を、ときに何度も往復して読み進めていくのだった。

 気づいたとき、つまり目覚めたとき、先に確認したのは時計の針だった。そして、あの音が耳に届いていることに気づき、腹の底から、怒りが湧いてくるのを感じた。どうして、こんなことをするんだろう。何の権利があって、私の睡眠を邪魔するんだろう。手をついて勢いよく身体を起こし、寝間着のまま部屋を出て、階段を使って一つ下の階に向かった。幸子の真下の両隣の部屋のうち、片方だけ、中から擦りガラス越しに明かりが漏れていた。そして、紛れもなく、あの音が響いていた。しかし、自分の部屋できくほど、うるさいとは感じなかった。何かの具合で、私の部屋にだけ、音がよく響いているのだ。だから、まわりの人は黙っているのだ。そう捉えた幸子に、インターフォンを押す勇気はなかった。弱弱しい足取りを自覚しながら、部屋に戻った。

 いつもの起床時間である七時に起きられず、慌てて身支度をしながら、幸子はやはりあの騒音に腹を立てていた。私は確かにあの音によって夜中に起こされ、睡眠を邪魔された。自宅から駅までタクシーを使い、始業時刻には間に合ったが、いっそ遅刻をして上司に叱責されればよかった、そしてヒステリックに言い返すことができればよかった、そんなふうに思った。

 昼休み、幸子は会社の屋上に出て、屋外水槽の影で、管理会社に電話をした。二コール目で、男が出た。マンション名と部屋番号を伝えると、はい、どうされましたか、とやや構えた声が返ってきた。

 うちのマンション、どこかで工事でもしてるんですか、と幸子は言った。男は、虚を突かれた間を置いて、工事、とは、と語尾に疑問符をつけて言った。男が自分の思った通りに戸惑っていることに、幸子の胸は高鳴り始めた。夜中に、夜中に音がするんですけどね。私の部屋の、下のあたりから。ドリルとか? 電気? 配管? 私、そういうの詳しくないんで分からないですけど。毎日毎日。一週間も前から。工事をするなんて、きいてません。するならするで住人には前もって言ってくれてもいいんじゃないですか? 少なくとも、近くの部屋に住んでる人には。それに、いくらなんでも、夜中に工事をするなんて、ちょっとおかしいんじゃないですか。そういうものなんですか?

 幸子は、住人ではなく、工事がうるさいと勘違いしている態度を装った。それは、電話をかける前まで、考えてもいなかった偽装だった。工事はしなくちゃいけないことだから、ある程度は我慢するけれど、それでも我慢できないくらいにうるさい。優先すべきは私たちの生活や睡眠であるはずだ。工事は私たちへの配慮をもってして行われるべきだ。工事のせいで私たちの暮らしが脅かされることはあってはならない。原因は工事だと解釈したふりをすることで、強く出ようとしたのだった。

 いえ工事などはしていませんが、ときっぱりした口調が電話口に響いたとき、それだけで、幸子は言葉に詰まった。男も黙ったが、それは確認するまでもないということを示す、自信に満ちた、幸子側に圧迫をかける沈黙だった。

 幸子は、息苦しさを覚えた。何度も、何度も経験してきた、どうして喋らないの? 思っていることを言ってみなさい、黙ってちゃ分からないでしょう、と言われたときの息苦しさ。一生懸命に考えて、絞り出した答えに、呆れた顔を見せられたときの、かわいそうなものを見る目を向けられたときの息苦しさ。

 男は、反撃の隙をたっぷりと与えていることを思い知らせるように、ため息をついた。それから、毅然とした口調で喋り始めた。

 夜中の四時に工事をするなんてことは、絶対にありません。それに、工事があるときには事前にポストにお知らせを入れます。弊社では、マンションとアパート、戸建てなど、とにかく管理している建物の工期はすべて把握していますので、間違いありません。そちらのマンションだと、来年の三月の塗り替えまでは工事らしき工事は予定していません。突発的に工事が必要になることはありますが、もちろんその場合も同様に、事前のお知らせがあります。

 幸子は、通話終了のボタンを押し、呼吸が落ち着くのを待って、空を見上げた。そして、どうして、と呟いた。昔のようには、涙は零れてくれなかった。