中編小説『深海散歩』③

 四回目のカウンセリングの日、受付で代金を受け取り二階に案内するというときになって、康平君がそばに来て「てて」と言った。

 差し出された小さな手とその期待を込めた表情に、私は康平君の発した言葉の意味を理解した。咄嗟に美樹さんに視線を移すと、心配した通り苦しそうに皺の寄せられた口元を認めた。私は視界から美樹さんを払いのけるべく、中腰になって康平君の顔をのぞき込み、細い肩に手を当てた。

「すぐだからね、一人で歩こうね。谷君がいっぱい遊んでくれるからね。谷君、いつものお兄さん」

 いやあ、と康平君が声を出したとき、美樹さんの影が私の横を通り過ぎた。振り返ることなく遠ざかり、階段に足をかける。

「ほら、早くしないとお母さん行っちゃうよ」

 母親の背中に視線を貼り付ける康平君の耳に、私の声は届いていないようだった。足早に踊り場を越えた美樹さんの姿が見えなくなると、康平君は私のスカートから手を離し、駆けだした。私もすぐに後を追い、康平君が階段から転げ落ちないように背中に手を添えた。康平君はときどき一段につき二歩をかけて、階段を上がっていった。

 二階に辿り着いたのは、美樹さんが面談室に入ってドアを閉めたあとだった。康平君にもそれは理解できたようだったが、プレイルームを前にすると母親のことを忘れたみたいに瞳を輝かせ、両手を翼のようにしてぐるぐると絨毯の上を走り回った。

 私はまずプレイルームから待機室の谷君に内線をかけ、準備ができたと伝えた。受話器を置き、次に面談室に向かうことを考えた。面談室の電話で研究室にいる森内先生を呼ぶのが決まりだったからだ。だが今からドアを開けて美樹さんと顔を合わせることには躊躇いがあり、下手に行動しない方がいいと言いきかせて握ったままの受話器を持ち上げた。電話口に出た森内先生にプレイルームからの連絡になってしまったいきさつを説明したが、うまくまとまらず、正確に伝わっている気がしなかった。

「分かりました。とりあえず、すぐに向かいます。桜井さんは、そのまま事務室に戻ってください。念のため、今日の見送りは野宮さんにしてもらいましょう」

 と森内先生は言って、電話を切った。

 

 その日の午後、時間があるときに研究室に来てください、と森内先生からメールが届いた。隣を見ると、野宮さんはとろんとした目でパソコンモニターを眺めている。私はトイレに立ち、席に戻って数分パソコンを触ってから、三階の研究室へと向かった。

 私たちは低いテーブルを挟んでソファに腰を下ろした。森内先生は普段通りの穏やかな表情を浮かべていた。常にこの表情でいることで内心を隠そうとしているのでは、と私はこれまで考えたことのなかった不審を抱いた。

「どうしてプレイルームからの連絡になったのか、もう一度話してくれますか」

 何度も整理した内容を頭で順に並べながら、康平君が自分と手をつなぎたがったこと、それを見て美樹さんが顔をしかめて一人で面談室に向かい中に入ってドアを閉めてしまったこと、その美樹さんと顔を合わせることに抵抗があり面談室に入れなかったことを説明した。

「これ以上お母さんの機嫌を損ねてはまずい、と感じたのでしょうか」

「はい。面談前に興奮させてしまってはよくないと思いました」

「面談に支障が出ないようにと考えてくれたんですね。その点は問題ありません。滞りなく面談を行うことができました」

 森内先生が黙ると、部屋はしんとした。スチール製のデスクや本棚が、急にひやりとした冷たさを持ったかのように映った。何か誘導されている気がしたが、考えることは諦めた。

「お母さんは、怒っていませんでしたか? 私のことを、あまりよく思っていないような気がするのですが」

「どうしてそう思うのでしょうか」

「私が康平君と親しげにしていると、嫉妬——と言うのか分かりませんが、少し機嫌が悪くなるように見えます」

 森内先生は、私に言い残しがないことを確認するように、十秒ほど間を置いてから口を開いた。

「嫉妬、もしくはそれに近い感情は誰にでもあります。須田さんが桜井さんに嫉妬したとしても、そのことで桜井さんが康平君との交流を躊躇わなくてもよいと私は思います。もちろん、仲のよさを見せつける必要はありませんが、康平君が桜井さんとの交流を求めていて、桜井さんが職員としての範囲内でその気持ちに応えようと思うのであれば、自然に振る舞えばいいのではないでしょうか。もう少し具体的に言うと、手をつないであげればよかったのでは、と思います。子どもが親しみを覚える人と手をつなぎたいという欲求を持つこと、また実際に手をつなぐ行為は、一般的に考えてごく自然なものです。お母さんが嫉妬をしている自分を意識したり、康平君にとっての世界が母親だけで構成されているわけではないことに気づいたりして、それが二人をよい方向へと向かわせるきっかけになるかもしれません」

「逆の方向、悪い方向へと向かうきっかけになる可能性というものもあるのでしょうか?」

 心理学部の学生のような質問を、なぜか私は投げかけずにはいられなかった。

「あります」森内先生は、森内先生にしては早いと思えるタイミングで答えた。「しかしこれは須田さんにとって、避けられない課題なのです。息子が自分以外の大人に懐くことに対する嫉妬も、段階的な子離れも、いずれどこかで向き合わなければなりません。そして須田美樹さんが課題に向き合うということは、須田康平君が課題に向き合うということでもあります。カウンセリングセンターという比較的不確定要素の少ない環境では、外の世界よりも、そのステップアップに邪魔が入りにくいと言えます。私たちは——これは桜井さんや野宮さんを含めてということですが——クライアントが少しでも安全な形で課題と向き合えるよう配慮すべきだと私は考えます。そううまくいくことばかりではありませんが、少なくともあのとき、桜井さんが須田さんと顔を合わせることを避けたのは、カウンセリングセンターの職員として十分に責任を果たしたとは言いがたいのではないでしょうか。須田さんは、桜井さんが自分のことを避けた、自分のことを面倒ごとと捉えた、と考えたかもしれません」

 最後の指摘は、私にとってショッキングなものであった。そしてまた、この数時間で何度も頭を過りながら、捕まえることを避けてきた自らへの苦言だった。状況に合わせた行動をしていると思い込んでいただけで、美樹さんからすれば逃げたも同然なのだった。

「クライアントとは、適切な距離をとらねばなりません。と同時に、責任を持って接しなければなりません。たとえ須田さんが桜井さんの顔を見て余計に腹を立てたとしても、やはりあのとき桜井さんは、面談室のドアを開け、いつも通りの仕事を全うすべきだったと私は思います。そこで生まれたぶつかり合いも、須田さん、あるいは桜井さんにとって、向き合うべき課題になったはずです」

 

 帰宅するなりベッドに飛び込んで、枕に顔を押しつけた。すべて忘れて眠りたいのに、頭の中を森内先生の言葉の断片が駆け巡り、チクチクした痛みがそうさせなかった。

 どうして、正しいことだけを告げるのだろう。次に気をつけてくれればいいのでという励まし、とはいえいつも桜井さんには感謝してるんですという気遣い、そんな一言さえ添えてくれればと考える私は甘ったれなんだろうか。あれなら、叱り飛ばしてくれた方が楽だった。

 顔を横に向け、スマホを取り出し、ネットニュースを眺めた。芸能人の不倫もお盆の渋滞予想も政治家の失脚も私には関係なかった。しかし普段はこんなタイトルをクリックしてはその内容を読み、読んだ端から忘れてしまうのだった。であればくだらないのはニュースの内容よりも私だという気がした。なぜ私は暇なときだけでなく今のような状況でもこんなものを見てしまうのだろうか。

 ブラウザを閉じ、ホーム画面を見つめた。アイコンが滲み、自分が泣いたかと思ったが、焦点が合わないだけだった。

 向き合うべき課題、と森内先生は言った。美樹さんや康平君にとっての、もしくは私にとっての課題。向き合って乗り越えられなかったら、乗り越えたとしてもボロボロに傷ついたら、どうしてくれるのだろう。

 目を強く閉じてから開き、スマホの検索バーに「彫金 doigt」と入力する。紗枝のブログを、その存在を知ってから十日が過ぎて初めて開いた。

 薄いブラウンの背景に日付順の記事が並んでいるだけの、よくある無料の個人ブログだった。各ページにはアクセサリーの写真と説明文、税込価格が載せられている。写真はどれもプロのカメラマンが撮ったもののように思えた。指輪やバングルが白い珊瑚に引っかけられていたり、ネックレスがさざ波のように皺を寄せた布の上に置かれていたりとそれらしい工夫があった。ピアスは人の耳につけた状態での撮影で、顔は映っていなかったがモデルはおそらく紗枝だ。うなじに二つ並ぶ小さなほくろのことを、私はよく覚えていた。

 ページを切り替えるたび、「SOLD OUT」の赤字が目についた。その下には、「受注は可能ですが、現在、二ヶ月ほどお時間をいただいております」の一文。

 離したスマホがベッドの下に落ち、フローリングとぶつかる音がした。慌てて覗き込み、無事を確認する。いっそ壊れてしまえばよかったのにと考えて、その不貞腐れた自分が嫌になって再び枕に顔をうずめる。

 そして思う。いっそ、窒息してしまえばいい。

 私はいつも、そうならないことが分かってから、投げやりになる。

 

 

 

 十日間の長いお盆休み、例年になく古い友人からの誘いが多く、頻繁に自宅をあけた。

 中学校と高校の同窓会にも参加した。どちらの集まりでもだいたい半数が結婚しており、三児の親になっている友人もいた。

 年齢を重ねても私の前ではあの頃の同級生でしかなく、合い言葉のように交わされた「変わらないねえ」の挨拶通り、見た目も話す内容も特別に歳を重ねたという感じはしない。ただ、最近どうなの何してるのと尋ねる一方で相手の現在のすべてや未来予想を知ることには遠慮する雰囲気に、私は自分たちが三十代という微妙な年齢に差し掛かっていることを意識した。勝った叶った合格したと抱き合ったり、かわいそうだねひどいねと手を握ったりする青さを、私たちは気づかぬうちに捨ててきた。それが大人というものだという説明でもの悲しさをごまかそうとするけれど、代わりに何を手に入れたのかと考えると途端に理解が難しくなる。

 彼氏がいるいない、結婚した離婚した、今どこに住んでいる、子どもができて今年何歳になったの、わあ同学年だね、転職したの給料下がったけど、そんなここ数年の報告がピンポン玉のように行き交う。そういった事実報告は早く終わらせたいという気配さえある。そしてその話の先にあり、みんなが均等に求めているのが昔話だ。思い出は色褪せるどころか脚色されたり新しい事実が飛び出したりして、おおいに盛り上がる話題となる。これまで何度繰り返された話であっても、クツクツと笑いを堪えながら、みんなで耳を傾けて最後に爆笑する。涙を流すくらい楽しいこともある。こんなことをずっと続けていられたらと思う。けれどそうはならない。私たちはそれぞれの元の今の生活に戻らないといけないし、あの頃のように、明日もあさってもしあさっても会うというわけにはいかないのだ。延々と笑い合える友人とも、もう毎日会いたいとは思っていないのだ。私たちは新しい世界を知り、思い出を、違う人とつくろうとしている。つくろうとすることに忙しい。

 資料作成や打ち合わせで実質お盆休みのなかった道弘は、私の帰りが遅くなってもいやな顔ひとつ見せなかった。それどころか毎回、楽しんできてと送り出してくれる。「結婚してからも友達を大切にしてほしいし、俺もそうしたい」といつか道弘は言っていた。

 自宅に帰ると、何を食べたのときいてくれる。おいしかったかときいてくれる。浴槽にお湯を張ってくれている。洗濯物を取り込んでいてくれる。私は一つ一つにお礼を言って、道弘が淹れたコーヒーを飲む。そして一緒に歯を磨いて、ベッドに入り、セックスをした。

 クラゲが出る前に四人で海に行こうという紗枝からの誘いは、自分のスケジュールや道弘と相談することなく予定があると言って断った。初めて紗枝に嘘をついたような気がしたが、多分そんなことはないんだろうと思った。

 私は、プレゼントされてからいつも着けていたバングルを、アクセサリーケースにしまった。

 

 お盆休みが明けた木曜日、仕事の帰りにクリニックに寄った。きれいな服を着た女性が二人、距離を置いた席でスマホを触っている。メロディだけのBGMが流れていることを、一ヵ月前の受診では意識しなかった。今日の私はリラックスしているのかもしれない、とよい方へと考える。

 康平君が手をつなぎたがったらそうしてあげよう、美樹さんが不機嫌になったらなったで仕方ないと覚悟を決めて午前十一時を迎えたのに、杞憂に終わった。その二人が、手をつないで現れたのだ。美樹さんの腕は、まるでつっかえ棒のようにピンと張って見えた。一方で康平君は、三歳の子どもらしく上手に母の手を握っていた。微笑みを期待して視線を移した先には、想像とは違いぎこちない美樹さんの表情があったが、それでも私は自分たちのあいだに漂う喜びを感じ、やけに明るい声を出したのだった。

 名前を呼ばれ、診察室に入る。老齢の医師はピルの副作用の有無を一つ一つ口頭で確認し、「では、今回からは三ヶ月分に増やしておきましょう」と言った。

 しばらくはここに来ないのかと考えると、それがほんのりと寂しいことのように思えた。香水のにおいのする無言の待合室やそこにいる若い女性患者、機敏に動く無表情の女性看護師、歓楽街の中で長年ひっそりと診療を続けている年老いた医師を、私は好いているのかもしれなかった。

 三カ月後はクローゼットに眠っているドレスを着て来ようかと冗談のつもりで考えてみると、それが案外素敵な思いつきであるような気がした。(続く)