少年がぶどうジュースを好きで、オレンジジュースは嫌いだということを、石井さんから聞かされた。ずっと我慢して飲んでたのよ、と石井さんは俺を見ながら、敬一郎少年の姿を重ね合わせるように、憐れむ目をして言った。俺は、聞こえていないふりをしようとした。しかし俺と石井さんはオフィスの真ん中で向き合って立っており、視線を合わせており、それはできなかった。
午後の早い時間に、社長室に呼ばれた。テーブル越しに向き合った社長は、明日から小学校が夏休みに入り、塾では夏期講習が始まるから、もう敬一郎はここには来ないと告げた。そして、敬一郎がサバ缶ばかり食べたがるので七尾が困っている、栄養士だからそういうことにうるさいんだ、と言った。
社長は、少年と会えなくなる寂しさや、七尾を困らせた申し訳なさが、俺の中に生まれるかどうか、試しているようだった。その答えは、俺が言葉にしなければ、表情に出さなければ、社長には分からないはずだった。また、試されているかもしれないという疑心は、寂しさや申し訳なさといった感情の存在と程度を、俺自身にも疑わせた。もはや俺の本当の考えは、俺を含め、誰にも見えないのかもしれなかった。
それでも俺は言った。寂しくなりますねと、七尾さんに申し訳ないことをしましたと言った。
視線が結ばれたまま、長く動かなかった。社長はなぜか、表情を失っていた。苛立ちでも呆れでもなく、諦めたようだった。俺のすべてを調べ終えたか、まだ途中だが、以降の調査を不要と判断したみたいだった。
目を逸らしたのは、社長のほうだった。左手首に巻かれた時計を撫で、自分がそうしている理由をぼんやり考える顔で、しばらく続けた。最後に文字盤を確認し、両手を肘掛けに戻した。再び俺を見て、咳を堪えるように喉を鳴らし、口を開いた。
「船木、お前、敬一郎のジュースに何か入れたか?」
適応、と俺は胸の内で声にした。その力はもう機能しそうになかったが、諦めず、最善を尽くすべきだと思った。
「流しに置いてあったコップに、変な粉がついてた」
敬一郎くんは、身長を伸ばしたいんです。
「何?」
本人には言わないでください。誰かのおかげで大きくなったなんて知ったら、きっと悲しみます。
「入れたのか?」
自分の力で大きくなったと信じることが大切なんです。
「質問に答えろ。何を入れた?」
何を入れたかを言えば、敬一郎くんには内緒にしてもらえますか?
「言えっ」
社長は怒鳴り、ソファの肘掛けを拳で叩いた。だが肘掛けはやわらかく、まともに音が鳴らなかった。荒い呼吸に合わせて、社長の腹が激しく、膨張と収縮を繰り返した。何度目かに大きく膨らんだとき、シャツのボタンが飛んだ。白いボタンは、テーブルの上でカチカチと音を立て、車輪のように滑り、やっと止まるかというところで、静かに床に落ちた。
俺は、唇と眉間に力を入れた。歯を食いしばった。だが頬の筋肉が震えるのは、止められなかった。ひと筋の空気が口から漏れたとき、俺は諦め、決めた。可笑しいなら笑おう。笑い始め、笑い続けた。俺につられて、社長や、ドアの向こうの社員たちも、笑えばいいのにと思った。
社長の表情は、筋肉を失ったように弛緩していた。身体も、だらしなくソファに沈んでいた。びくりと痙攣した右腕が、吊り上げられるように動き、胸ポケットからスマホを取り出す。そして、どこかに電話をかけ「事件になるんだと思います」とつまらなそうに呟き、あいている左手で、ボタンを失ったシャツの隙間を隠した。
アパートに戻ってから、深く、長く眠った。目が覚めても、壁を見つめていれば、瞼が下りた。腹がひどく鳴ったが、空腹感は底を突いており、食べないでいても、何度でも眠ることができた。水道水を入れたペットボトルを枕元に置き、ときどき飲んだ。
何日目かに、風呂に入った。全身を洗い、頭からシャワーを浴びながら下を向くと、排水口に溜まる泡の白さに息をのんだ。俺はそこに、雑巾のしぼり汁のような混濁を見ると思い込んでいた。シャワーヘッドを掴み、放水を向けた。泡は砕け、金属の網目に沈んでいった。
風呂場を出たとき、壁に二つ並んだ印が目に入った。伯母の家で、例の柱を見せてもらうのを忘れていたことに気づいた。あの柱は、居間と仏間の境目にあるはずだった。しかしその確認のし忘れを後悔のように考えると、伯母に身長を測ってもらった事実など存在せず、無意識の作り話か、夢だったのかもしれないという気がした。
カーテンの隙間から覗く外の世界は薄暗く、明け方か夕方か、分からなかった。時計の針は五時半を指しており、やはり明け方か夕方か、分からなかった。次第に空気の色が濃くなってきたので、服を着てアパートを出た。
道順は、ちゃんと覚えていた。途中、和菓子屋に寄り団子を包んでもらったが、財布を持っていなかった。頭に白い三角巾を巻いた老女は、久しぶりに顔を見せてくれたからと、金を取らずに商品の入ったビニール袋を押し付けた。
外に出ると、暗さが増していた。街灯が点く瞬間を見て、なんだか嬉しくなって、早足で歩いた。マンションに入り、エレベーターで五階に上がり、アヤノの部屋のインターフォンを鳴らした。ドアが開き、若い髭面の男が顔を出して「はい」と不思議そうに言うので、お前はアヤノのなんなのだと尋ねた。男は、ゆっくりと眉間に皺を寄せ「客?」と言った。俺はドアノブを掴んで思い切り引き、転んだ男を跨いで部屋にあがった。背後で呻き声がしたが、前方ではテレビの音が響いており、そちらをもっと聞きたくて、リビングドアを押した。アヤノはベッドの上で、下着だけの姿で身構えており、俺を見て俺だと分かったはずなのに、丸く見開いた目を元に戻さず、そのまま「なに」と震える声で言った。怯えているようだったので、俺は団子の入ったビニール袋を優しくベッドに放り、お前の好きな団子だと告げた。そして、ところであの男はお前のなんなのだと尋ねた。アヤノは何か声を出したが答えになっておらず、ベッドの上を這って隅に移動し、そのとき覗いた腹が、以前より膨らんでいた。
あれは妊娠であり、中には子がいるんだと自分に言い聞かせた。命は、すでに始まっていた。俺は、子があの腹をさらに膨らませるところ、外に出て手足を伸ばし大きくなっていくところを、見届けたいと思った。また、もしその過程を妨げるものがあるならば、守ってやりたいと、助けてやりたいと思った。それでも悲しんだり不幸になったり、太ったり病気になったり、衰えたり尽きたりするのであれば、仕方ないと思った。あるいはあの子は、健やかに成長したいなどと、生きたいなどと、願わないかもしれなかった。
おい、と声がした。見ると髭面の男が、真っ赤な消火器を手に提げて立っていた。ハーフパンツから覗く膝には、血が滲んでいた。
俺は二人に、お前らはお前らのなんなんだと尋ねた。
彼氏、彼氏とアヤノが叫び、関係ないだろと男が言った。俺は、今だと思い、右拳を振り上げ、男の顔の中心を狙って突き出した。(了)