中編小説『途上の者』12/12

 少年がぶどうジュースを好きで、オレンジジュースは嫌いだということを、石井さんから聞かされた。ずっと我慢して飲んでたのよ、と石井さんは俺を見ながら、敬一郎少年の姿を重ね合わせるように、憐れむ目をして言った。俺は、聞こえていないふりをしようとした。しかし俺と石井さんはオフィスの真ん中で向き合って立っており、視線を合わせており、それはできなかった。

 午後の早い時間に、社長室に呼ばれた。テーブル越しに向き合った社長は、明日から小学校が夏休みに入り、塾では夏期講習が始まるから、もう敬一郎はここには来ないと告げた。そして、敬一郎がサバ缶ばかり食べたがるので七尾が困っている、栄養士だからそういうことにうるさいんだ、と言った。

 社長は、少年と会えなくなる寂しさや、七尾を困らせた申し訳なさが、俺の中に生まれるかどうか、試しているようだった。その答えは、俺が言葉にしなければ、表情に出さなければ、社長には分からないはずだった。また、試されているかもしれないという疑心は、寂しさや申し訳なさといった感情の存在と程度を、俺自身にも疑わせた。もはや俺の本当の考えは、俺を含め、誰にも見えないのかもしれなかった。

 それでも俺は言った。寂しくなりますねと、七尾さんに申し訳ないことをしましたと言った。

 視線が結ばれたまま、長く動かなかった。社長はなぜか、表情を失っていた。苛立ちでも呆れでもなく、諦めたようだった。俺のすべてを調べ終えたか、まだ途中だが、以降の調査を不要と判断したみたいだった。

 目を逸らしたのは、社長のほうだった。左手首に巻かれた時計を撫で、自分がそうしている理由をぼんやり考える顔で、しばらく続けた。最後に文字盤を確認し、両手を肘掛けに戻した。再び俺を見て、咳を堪えるように喉を鳴らし、口を開いた。

「船木、お前、敬一郎のジュースに何か入れたか?」

 適応、と俺は胸の内で声にした。その力はもう機能しそうになかったが、諦めず、最善を尽くすべきだと思った。

「流しに置いてあったコップに、変な粉がついてた」

 敬一郎くんは、身長を伸ばしたいんです。

「何?」

 本人には言わないでください。誰かのおかげで大きくなったなんて知ったら、きっと悲しみます。

「入れたのか?」

 自分の力で大きくなったと信じることが大切なんです。

「質問に答えろ。何を入れた?」

 何を入れたかを言えば、敬一郎くんには内緒にしてもらえますか?

「言えっ」

 社長は怒鳴り、ソファの肘掛けを拳で叩いた。だが肘掛けはやわらかく、まともに音が鳴らなかった。荒い呼吸に合わせて、社長の腹が激しく、膨張と収縮を繰り返した。何度目かに大きく膨らんだとき、シャツのボタンが飛んだ。白いボタンは、テーブルの上でカチカチと音を立て、車輪のように滑り、やっと止まるかというところで、静かに床に落ちた。

 俺は、唇と眉間に力を入れた。歯を食いしばった。だが頬の筋肉が震えるのは、止められなかった。ひと筋の空気が口から漏れたとき、俺は諦め、決めた。可笑しいなら笑おう。笑い始め、笑い続けた。俺につられて、社長や、ドアの向こうの社員たちも、笑えばいいのにと思った。

 社長の表情は、筋肉を失ったように弛緩していた。身体も、だらしなくソファに沈んでいた。びくりと痙攣した右腕が、吊り上げられるように動き、胸ポケットからスマホを取り出す。そして、どこかに電話をかけ「事件になるんだと思います」とつまらなそうに呟き、あいている左手で、ボタンを失ったシャツの隙間を隠した。

 

 アパートに戻ってから、深く、長く眠った。目が覚めても、壁を見つめていれば、瞼が下りた。腹がひどく鳴ったが、空腹感は底を突いており、食べないでいても、何度でも眠ることができた。水道水を入れたペットボトルを枕元に置き、ときどき飲んだ。

 何日目かに、風呂に入った。全身を洗い、頭からシャワーを浴びながら下を向くと、排水口に溜まる泡の白さに息をのんだ。俺はそこに、雑巾のしぼり汁のような混濁を見ると思い込んでいた。シャワーヘッドを掴み、放水を向けた。泡は砕け、金属の網目に沈んでいった。

 風呂場を出たとき、壁に二つ並んだ印が目に入った。伯母の家で、例の柱を見せてもらうのを忘れていたことに気づいた。あの柱は、居間と仏間の境目にあるはずだった。しかしその確認のし忘れを後悔のように考えると、伯母に身長を測ってもらった事実など存在せず、無意識の作り話か、夢だったのかもしれないという気がした。

 カーテンの隙間から覗く外の世界は薄暗く、明け方か夕方か、分からなかった。時計の針は五時半を指しており、やはり明け方か夕方か、分からなかった。次第に空気の色が濃くなってきたので、服を着てアパートを出た。

 道順は、ちゃんと覚えていた。途中、和菓子屋に寄り団子を包んでもらったが、財布を持っていなかった。頭に白い三角巾を巻いた老女は、久しぶりに顔を見せてくれたからと、金を取らずに商品の入ったビニール袋を押し付けた。

 外に出ると、暗さが増していた。街灯が点く瞬間を見て、なんだか嬉しくなって、早足で歩いた。マンションに入り、エレベーターで五階に上がり、アヤノの部屋のインターフォンを鳴らした。ドアが開き、若い髭面の男が顔を出して「はい」と不思議そうに言うので、お前はアヤノのなんなのだと尋ねた。男は、ゆっくりと眉間に皺を寄せ「客?」と言った。俺はドアノブを掴んで思い切り引き、転んだ男を跨いで部屋にあがった。背後で呻き声がしたが、前方ではテレビの音が響いており、そちらをもっと聞きたくて、リビングドアを押した。アヤノはベッドの上で、下着だけの姿で身構えており、俺を見て俺だと分かったはずなのに、丸く見開いた目を元に戻さず、そのまま「なに」と震える声で言った。怯えているようだったので、俺は団子の入ったビニール袋を優しくベッドに放り、お前の好きな団子だと告げた。そして、ところであの男はお前のなんなのだと尋ねた。アヤノは何か声を出したが答えになっておらず、ベッドの上を這って隅に移動し、そのとき覗いた腹が、以前より膨らんでいた。

 あれは妊娠であり、中には子がいるんだと自分に言い聞かせた。命は、すでに始まっていた。俺は、子があの腹をさらに膨らませるところ、外に出て手足を伸ばし大きくなっていくところを、見届けたいと思った。また、もしその過程を妨げるものがあるならば、守ってやりたいと、助けてやりたいと思った。それでも悲しんだり不幸になったり、太ったり病気になったり、衰えたり尽きたりするのであれば、仕方ないと思った。あるいはあの子は、健やかに成長したいなどと、生きたいなどと、願わないかもしれなかった。

 おい、と声がした。見ると髭面の男が、真っ赤な消火器を手に提げて立っていた。ハーフパンツから覗く膝には、血が滲んでいた。

 俺は二人に、お前らはお前らのなんなんだと尋ねた。

 彼氏、彼氏とアヤノが叫び、関係ないだろと男が言った。俺は、今だと思い、右拳を振り上げ、男の顔の中心を狙って突き出した。(了)

中編小説『途上の者』11/12

 在来線に乗り換えてからの一時間半のあいだ、十二の駅に停まり、ひと駅ごとに、数人の乗り降りがあった。一両編成の車両の床下からは、ディーゼルエンジンの振動が直に伝わってきた。響く音も大きく、対面に座る親子は顔を近づけ大口を開けて会話し、そんなことで楽しんでいる様子だった。徐々に乗客の数は減り、終点で降りたのは俺だけだった。

 木造の駅舎は記憶よりも大きく、古びていた。考えてみれば、古くなっているのは当たり前であった。改札の外にはうどんとそばを出す店があり、擦り切れたのれんに見覚えがあるような気がした。待ち合いのベンチには、一組の老夫婦が座っていた。ロータリーにはタクシーが一台停まっており、運転手は外に出てタバコを吸っていた。

 山が見えたので、その逆方向へと伸びる道を歩いた。かつて商店であった名残なのか、正面に大きなガラス戸が並ぶ家屋が多かった。営業している乾物店や漬物店、薬局もあった。どれも平屋か二階建てで、片側一車線の道路脇からでも、見上げると空が広かった。日射しは強く、頭が痛かった。人と車は、少なかった。

 前方に、青と赤をちらちらさせる吊り下げ旗が見えた。記憶をくすぐった気がしたが、どこにでもある「氷」の旗だった。庇の影にはクリーム色のかき氷機が置いてあり、中を覗くと、小さな椅子の上で、うちわを持った老人が居眠りをしていた。伯母の家は、その店の向かいにあった。

 船木屋と金字で描かれたガラスは、完全な平面ではないのか、反射する景色を歪めていた。中は薄暗く、しかし奥へと続く廊下は中庭からの光によって照らされていた。ガラス戸を引くと、洞窟のような冷たい空気が首に触れた。こんにちは、と俺は言った。女物の茶色いサンダルが一足、広い土間にあった。

 もう一度、声を張った。何秒か間があってから、廊下の奥に影が立った。短くこちらを見て足元に視線を落とし、床を鳴らし歩き始めた。近づくにつれ際立つ小さな身体は、板張りの廊下から畳を踏み、スーッと息を吸う音を出し、顔を上げた。俺は戸をガラガラと大きく開き、伯母さん、と言った。

 畳に両膝をついた伯母は、逆光にかざした手を、目を慣らすようにゆっくりと下ろし、ああ、と力ない声を出した。髪の毛は白く、やや薄くなっていた。顔には深く皺が刻まれ、開いたままの口の中は、暗闇だった。

 遊びに来たよ、と俺は言い、手の届く位置まで進み寄った。伯母は身を引いて視線を上げ、口の形は変えずに、ああ、とまた同じ声を出した。そして、逃れるように背中を向け「あがって」と、今度ははっきり言った。

 俺は戸を閉め、靴を脱ぎ、伯母の後ろについて廊下を歩いた。左手側には中庭があり、石積みの池の水は深緑色に濁っていた。居間に入り、伯母が敷いた座布団に腰を下ろす。

「ちょっと、待ってて」

 伯母は目を合わせずに言い、台所へと向かった。

 静かだった。ヘッドホンで耳を塞いでいるときとは違い、音が聞こえるのに、静かだと思った。居間から続く仏間の正面には、曽祖父の胸像があった。その左奥の床の間には、掛け軸がかかっていた。どちらも、視認してからその記憶が呼び起こされた。柱の振り子時計は一時過ぎを指していた。三十分か一時間ごとに音が鳴るものだった気がするが、確かではなかった。

 中庭から注ぐ光が、畳と廊下を白く見せていた。二本の松の木は、強い日射しを受け、自身の陰を池に落としていた。俺は、港の夏祭から帰ってきて池に金魚を放したことを思い出した。いとこが池にはまったこと、縁側でかき氷を食べたこと、中庭で花火をしたことを、思い出していた。視線を戻せば、仏壇の前で寝転がり伯母に叱られたことを思い出した。親戚連中で賑やかな食事をしたことを思い出した。何かを見るたび、そのものに関連した記憶が蘇り、しかし一つひとつが鮮明になっていくわけではなかった。現れ、明度を変えず、一定に過ぎていった。それは、俺が一人で、自分の記憶に触れているからであった。

 廊下の床を鳴らし、盆を持った伯母が戻ってきた。膝が悪いのか、歩幅は小さく、座卓に手をついて腰を下ろした。茶の水面が揺れる青い切子のコップを出すと、這うように移動して対面に座った。俺は茶をひと口飲み、やっぱりこの家は涼しいですねと言った。伯母は少しだけ顔を上げ、そうかね、と声を出した。視線は俺には向かぬまま、折れそうなほど、首が曲がった。

 俺は、急がねばならないという気がしていた。そして、お昼ごはんがまだなら食べに行きませんかと言った。伯母は、深く考える間を置いて「もう食べた」と幼児のような調子で返事をした。じゃあ晩ごはんを食べに行きましょう、と俺は続けた。ご馳走しますよ、と付け加えた。

「夜は、食べん。食べるにしても、うちでサッと済ませるほうがいい。出るのは、しんどい」

 声を出すたび、その身体が縮んでいくようだった。わずかに、右に左に揺れていた。そのまま、俺の気づかぬうちに、座卓の下へと沈んでいってしまいそうだった。なぜ、これほどまでに拒まれるのか、分からなかった。自分から何かしようとすると、うまくいかないことが、より重くなってくる。

 膝を悪くした伯母に、どこにあるのか分からない店まで歩かせるわけにはいかなかった。夕飯を簡単に済ませたい伯母に、俺の分までつくらせるわけにはいかなかった。背を伸ばそうとたくさん食わせてくれた伯母に、両親を失った俺を半年間ここに置いてくれた伯母に、これ以上、辛い想いをさせたくなかった。

 茶を出してもらったことも、座布団を敷いてもらったことも、玄関まで呼び出したことも、突然訪れたことも、悪かったなという気がした。このあとにコップを洗わせることも、悪いなと思った。洗うときにコップが割れ、指を切るかもしれなかった。俺の風邪がうつり、肺炎になるかもしれなかった。

「お線香だけ、あげていって」

 伯母は俺に、何も尋ねない。何も、知ろうとしない。

 もう俺は、敬一郎少年がするようには、成長できなかった。身長は伸びず、褒めるところのない、褒めるところを探そうとも思わせない、かつて子どもだった人間。社長が言った適応ということでしか変わらず、しかしその変化にも、身を委ね切れずにいる。ただ生きているだけでも、何かが良くなることはあると、信じたかったのだろうか。

「お願い」

 俺は、伯母に感謝を伝えたいなどとは思っておらず、恨んでいたのかもしれない。施設に預けられた過去を忘れた顔と態度で現れ、それでも伯母に拒絶させるということを、望んでいたのかもしれない。

 白髪の分け目の頭皮が、赤くなっていた。首の骨が、浮いていた。表情は、見えなかった。この姿がまた、俺の新しい記憶になる。いつか伯母のことを思い出したときには、これを頭の中で描き、次こそは確実に俺を悲しませる。(続く)

中編小説『途上の者』10/12

 少年は、オフィスの入口で俺を見て「伸びた」と言って笑顔をつくり、背伸びをした。それだけで、身長が伸びたのだと、今日か昨日か、また学校で保健室に行き、身長を測ってもらったのだということが分かった。

 俺は右手を伸ばし、少年の頭に載せ、大きくなったなと言った。手のひらは、さらさらした髪の毛と、その下の頭の形を感じ取っていた。完全な半球ではなく、前後に長く、後頭部の右側がへこんでおり、思っていたよりやわらかいことを知った。

 俺を見上げる目の形が変わり「何?」と少年はぎこちなく笑って、首を振る仕草をした。だが俺は手を離さず、抵抗を軽く押さえつけ、触り続けた。

 ポッと、マグマのようなものが、少年の頭蓋の内側にともったのを感じた。体温や拍動とは異なる熱と震えが高まり、噴出するように身がよじられ、俺を弾いた。少年が、その自身の急激な動きでバランスを崩し、尻もちをつく。俺の右手は力なく舞い、身体の側面に戻る。

「どうしたの?」と鋭い声がし、石井さんが視界に入ってきた。近くの何人かも、こちらを見ていた。少年は一人で素早く立ち上がり、なんでもないですと彼らに聞かせ、社長室のほうへと歩き出した。

「船木くん、あなた、まさか、何かしたの?」

 戸惑ったまま少年を見送った石井さんが、振り返って言った。頭を撫でただけです、と俺は答えた。

「それで転ぶかしら? 頭を撫でるって、最近は学校の先生もしないのよ。そもそもどうして、頭を撫でたの?」

 身長が伸びたと喜んでいたのでと俺は言い、身を翻し社長室へと足を向けた。背中に視線を感じる気がしたが、感じていない、見られていないと言い聞かせた。

 少年は、ソファに座り、計算ドリルの問題を解いていた。それが一種のポーズであることが、俺には分かった。いつもの速さはなく、導き出した答えも信用できないのか、次の問題に取りかかるまで時間がかかった。

 俺が対面のソファに座ってしばらくしてから、少年はシャープペンシルをテキストの上に転がした。

「なんだったの? 変じゃん。あんなの、親みたいじゃん」

 俺は、不自然にならないように注意しながら、すまなかったと声を出し、頭を下げた。少年は驚いた様子で、いや、別に、いいんだけど、と短い言葉を挟み「なんか変だなと思って」と言った。そして硬かった表情を、意図を知らせるように無警戒に緩め「石井さんに怒られた?」とからかう調子で言った。

 俺は自分が少年に気遣われていると感じ、しかし不快ではなく、むしろ心地良かった。給料を下げられるかもしれないと冗談が口を突き、少年を笑わせた。その笑い声がしぼむ頃には、ところで身長はどれくらい伸びたんだと継いだ。

「一・二センチ。一ヶ月ちょっとでね」

 そりゃすごい、と俺は言った。少年は照れたように頭を掻き、まあ普通だよと呟いた。しばしの沈黙ののち、少年は「じゃ、僕宿題するから」と宣言してシャープペンシルを手に取ったが、口元の緩みはなかなか消えなかった。俺は飽きるまで少年を眺め、社長室を出た。

 経理部の近くを通るとき、石井さんを見まいとした。なぜか、石井さんの腹立ちが大きいほど、自分の胸がすくような、そんな気がした。見ないことで、頭の中の彼女を、より怒らせたいのかもしれなかった。

 給湯室の冷蔵庫を覗くと、ドアポケットから、一リットルのジュースのパックが消えていた。社員の名前が書かれたペットボトルやゼリーの奥にも、見当たらなかった。

 船木さん、と後ろで囁く声がし、振り返ると原が立っていた。

「敬一郎くんのジュースですよね? 石井さんが、消費期限が切れてるからって、全部捨てちゃって」

 原は声を潜めたまま、しきりに背後を気にし、早くオフィスに戻りたがっているようだった。

「でも本当は、消費期限、切れてないんです。さっきのことが原因なのか分からないけど、機嫌が悪いみたいなんです。買ってきましょうかって聞いても、行かなくていいって」

 早口で説明する原に、俺が買ってくるから大丈夫だよと言った。原は「そうですか」とホッとした表情を見せた。だが俺には、原が誰のことも心配しておらず、安堵もしていないように感じられた。疑いは、抵抗なく確信へと転じた。俺は、原をいつまでも、給湯室とオフィスの境目の、その曖昧な位置に留まらせたいという悪意を覚え、言った。

 三級に合格したってことは、次は二級を受けるのか。

 向きを変え離れようとしていた足が止まり、はい?と問い返す声がした。俺が黙っていると「一応、そのつもりです」と言い直される。

 で、二級に受かったら、次は一級ってわけだ。そうやってコツコツ頑張って、生きていくんだ。

 今度、原は声を出さなかった。やや内股で、身体を支えるように壁に手を当て、誤魔化しではない不安な顔で、俺を見ていた。

 

 翌日の午後、廊下で坂東と鉢合わせた。

「俺、今日で最後なんだ」

 坂東は晴れやかな表情で、有休を消化できることになった、社長がだいぶ渋ってたみたいだけどと説明した。喫煙ルームに誘うと、タバコはやめており、それに今は時間がないという。じゃあ仕事が終わってから飲みに行こう、と俺は提案した。

「悪い。今日、野田と打ち合わせがあるんだ」

 相手が野田だという明言は、却って気持ちいいようにも感じられた。しかし、坂東が野田との先約を反故にしないという事実は、その妥当性によって、俺を寂しくさせた。

「また落ち着いたら連絡するよ。そのとき、ゆっくり飲もう」

 エレベーターに向かおうとした坂東に、それなら、と俺は声を出した。執拗であることは、自覚していた。そして、今日の仕事のあと駅まで一緒に散歩しようと言った。

「なんだよ散歩って。五分で終わっちゃうじゃん」と坂東は笑った。俺は、その顔が好きだった。これを見ていられるなら、自分が何かおかしな言動をしたとしても、構わないと思った。いいかと念を押すと、坂東は了承し「じゃあ六時に下で」と手を挙げてエレベーターに乗り込んだ。

 その短い散歩の中で、俺はなんとなく、坂東が持つこの会社での思い出について、尋ねたり、聞かされたりするのだろうと思っていた。そういう種類の時間の共有を自分は提案したと、同時に坂東も想定していると思っていた。

 しかし六時に一階で合流し、ビルを出てすぐ、彼女とはうまくいっているのかと坂東は言った。俺が黙っていると、顔を覗き込み、どうなんだよと重ねて問う。俺がアヤノの話をしたがっていると思い込んだ表情だった。そしてそれは、当たっていたのかもしれない。俺は、もう会っていないと答えた上で、聞かれたわけでもないのに、アヤノが俺ではない誰かとの子どもを妊娠しており、産むつもりらしいと告げた。

 坂東は、えっと声を出した。難しい顔をつくり、時間をかけて解いた。

「知り合いに、何人かいるよ、子連れの女と付き合ったり、結婚したりした人」

 俺は坂東の目を見て、話を聞いていることを示した。坂東は、口の端に短く笑みを浮かべた。

「難しいらしいよ。何かちょっとしたこと、たとえば勉強ができないとか、運動が全然ダメだとか、懐かないとかさ。そんなとき、俺の子どもじゃないからだって、どこかで思っちゃうんだって。不思議なのが、勉強とか運動ができたり、懐いたりしても、でも俺の子どもじゃないんだよなって、同じように、気分が落ちちゃうんだってさ」

 すでに、前方に駅が見えていた。俺たちのまわりで、無数の足が同じ方向へと踏み出され、地面を蹴り、音をたてていた。

「やっぱり自分の子どもじゃないと、無条件には愛せないってことなんだよ」

 坂東の意識も、前を向いていた。俺に対して言葉を発しながら、今から野田と会うことや、待ち合わせの時間のことや、新しい仕事のことなど、なんらかの未来について考えていた。そして、駅までの残りの距離、自分たちの歩く速さ、俺が抱える問題の深刻さ、俺との今後の付き合い方から導き出した、適切な長さと内容の話をしているのであった。俺がいつ妊娠を知ったのか、妊娠の発覚が原因で別れたのか、実の子であれば育てる気はあったのか、そんなことを、坂東は聞き出さない。

「それにさ、風俗嬢してたんだろ? 何か事情があったのかもしれないけど」

 最後の横断歩道を、渡り切る。

「別れて良かったんじゃないか?」

 そうだよな、と俺は、過度にならないように、少しだけ気分が晴れた声で言い、話を終わらせた。

 

 新幹線のホームで会社に電話をかけ、ようやくつながった。石井さんは、相手が俺だと分かると「もう八時五十分よ」と言った。有給休暇を取りたいのですが、と俺は申し出る。

「船木くんは、まだ有休なんてないでしょう」

 俺は、先月の給与明細に有休残日数の記載があったことを指摘した。紙をめくる音がしてから、あら、と声が聞こえた。

「それで、いつ?」

 今日です、と俺は言った。石井さんは大きなため息をつき、有給休暇を使うには事前申請が必要であること、体調不良でもない限り当日申請は認められないことを告げた。また、今日は敬一郎くんが来る木曜日なのにそれはどうするの、と質した。

 すみませんが石井さんがみてやってくれませんか、あと、風邪をひいているみたいです、と俺は言った。勝手になさいと言い、石井さんは電話を切った。

 新幹線に乗り込むと、スーツ姿の乗客が、ぽつぽつと席を埋めていた。俺は窓側の席に座り、外を眺めた。アナウンスがあり、ホームの景色が動き始める。トンネルに入り、暗い窓に顔が映った。

 俺が小学生だった頃、別れ際、あるいは電話で、いつでも遊びに来てねと伯母はよく言っていた。だが当時の俺にとって、気軽に遊びに行ける距離ではなかった。五年生になってからは、受験勉強が本格化し、両親と帰省することもなくなった。

 俺は一人になり、大人になり、切符を買い、そこに向かっていた。(続く)

中編小説『途上の者』9/12

 自宅の最寄り駅を過ぎ、次の駅で電車を降りた。宴会などには行かず、初めからアヤノと一緒にいればよかったと、俺はまだ会っていないのに考えていた。途中、コンビニでタバコとライターを買い、吸いながら歩いた。気分がいいのは、アヤノの家に向かっているからであった。間もなく会えるためであった。

 玄関で顔を見たとき、いつもの姿かたちだったが、俺の頭の中にあったアヤノの実物が出てきたことで、表情や声、においを懐かしく感じた。点けっぱなしのテレビの音と光が、心地良かった。アヤノは透明のグラスにミネラルウォーターを注ぎ、テーブルに置いた。

「なんの飲み会だったの?」

 俺は水を飲み、原という社員が簿記の試験に合格し、その祝いの会だったと答えた。さらに、原が近いうちに自社を辞めて転職する段取りになっており、そのことを今日の会の参加者は知らないのだと続けた。饒舌な自分を低俗だと思ったが、なぜか抗おうとせず、三級はそう難しいものじゃないとか、酒癖の悪い社員に絡まれたとか、石井さんが俺を嫌っているだとか、そんなことまで喋っていた。

 アヤノは相槌を打ちながらも、途中からテレビへと短く視線を向けるようになった。俺がその横顔の、顎の筋肉に現れた食いしばりに気づいたとき、アヤノは突然、口を押さえて立ち上がり、トイレに駆け込んだ。開け放されたリビングドアを通して、のどを絞ったような声が聞こえた。向かうと、アヤノは膝をつき、便器に顔を伏せていた。大丈夫かと尋ねても応答はなく、肩を震わせ、えづき、実際に吐いたらしく、液体かやわらかいものが便器を打つ音がした。大丈夫かと、俺はもう一度声をかけた。アヤノは少しだけ頭を動かし、目尻にはにかむような皺を寄せた。

「ごめん、タバコとお酒のにおいが良くないみたい」

 どうすればいいかと尋ねると、シャワーを浴びて着替えてほしいという。俺は風呂場に行き、服を脱いで洗濯機に放り込み、頭と身体を洗った。バスタオルで拭いて出ると、洗濯機の上に、俺の下着と寝巻が畳んで置いてあった。身に着け、歯を磨き、洗口液で口をすすぎ、部屋に戻った。

 クッションを抱き、壁にもたれたアヤノは、弱々しく微笑んだ。臭くないかと尋ねると、確かめてあげるから来てと返事があり、隣に座った。アヤノは俺に寄りかかり、太ももに頭を載せて横になった。目を閉じ、安らいだ表情で、吐き気はしないようだった。背中をさすってやると、口元のほころびが増した。

 テレビが、どこかの海水浴場を映していた。家族連れや若い男女が、幸せそうにしていた。色とりどりの水着とビーチパラソルが、画面を鮮やかにしていた。海面に反射する太陽光にカメラのピントが合い、スタジオに切り替わった。

 体調がいいときに海に行こう、遠くの、人の少ない島がいいと俺は言った。アヤノは眠ってしまったのか反応せず、表情を消していた。だが俺が背中をさするのをやめ、視線をテレビに戻すと、「海?」と下から声がした。俺は不穏なものを感じ、ボーナスが出たからそれを使おう、と明るく言った。

 アヤノは長く黙った。そして目を閉じたまま「ごめん、行けないわ」と言った。俺は深く、残念に思った。二人で、美しい海に、熱い砂浜に行きたかった。その気持ちの強さを、アヤノが十分に理解していない気がした。また、俺が二人分の旅費を出すつもりでいることが、伝わっていないかもしれないと不安になった。それでまず、俺みたいな人間がボーナスをもらえるなんてラッキーだと、独り言のように言った。続けて、なんの努力もしてこなかったのに、と自虐的にも言ってみた。

「体調が良くなることなんて、ないの」

 アヤノは言い、本当の寝起きのように、ゆっくりと身体を起こした。広がった髪の毛を直すと、先ほど俺が使ったシャンプーと同じ香りがした。

「昨日、抱き合ってるときに、赤ちゃんがお腹を蹴ったの、気づかなかった?」

 アヤノはリモコンを手に取り、テレビの電源が落とした。しんとして、また声が響いた。

「誰との赤ちゃんだって聞かないのは、どうして? 妊娠何ヶ月だって聞かないのは、産んで育てられるのかって聞かないのは、どうして?」

 連続した訴えに、俺は混乱した。何を問われているのか、伝えられているのか、分からなくなった。アヤノも、それは理解したようだった。だが、同じ内容を繰り返しはしなかった。

「私のことも、そう思ってるんでしょう? その、なんの努力もしたことのない人間?」

 いや、と俺は声を出していた。だが考えてみれば、アヤノの言う通りかもしれなかった。

「努力したことがないなんて自分で言うの、ずるいと思うわ」

 言葉はそこで途切れたが、俺は、延々と何かを問われ続けている気分だった。アヤノの視線は、光を失ったテレビ、天井に設置された照明、フローリングや壁などを転々とし、その流れの中で、ひとつの景色に向けるように前触れなく泰然と俺を捉えては、またどこかへ移るのであった。そのあいだ、アヤノの右手は、服の上からずっと自分の腹に触れていた。撫でるでもなく、押さえるでもなく、動かさずに添えていた。始まれば引き返せず、しかしいつか尽きるものを、守っていた。

 俺は、本当は、いろいろと考えていた気がする。腹の子の父親が誰で今はどこにいるのか、連絡はつかないのか。アヤノは妊娠何ヶ月なのか、いつ産まれるのか、出産後はどうやって育てるつもりでいるのか。避妊はしなかったのか、できなかったのか。同じ時間を過ごす中で、疑問、あるいは知りたい欲求を、持ったように思う。しかしそう思ったのは、アヤノに問われたあとのことだった。問われて初めて気づいた本心なのか、取り繕うために思い込んだ嘘なのか、分からなかった。

 好きだとか、愛しているだとか、言ってみようかとも考えた。ただそれも、本心のようでも嘘のようでもあり、どちらかの少しの可能性を捨て切れない俺は、どうとも、伝えることができなかった。(続く)

中編小説『途上の者』8/12

 原が簿記の三級に合格したことは、七月最初の月曜日の朝礼で、社長から知らされた。拍手が広がり、原は押し出されるようにして輪の中心となった。感謝の弁を述べたあとは全方位にペコペコと頭を下げたが、それは早くこの時間を終わらせたいという困惑の表出のようだった。

 簿記三級という資格が、その数字から、世間的に特段に評価されるものではないということは俺にも分かった。自社の経理部で唯一の新入社員が、昼休みに勉強し、おそらく自宅でも時間を費やし、初めて受けた試験で合格をしたために、社長や社員を喜ばせていた。社長が金曜日に祝いの席を設けると言うと、一部で歓声があがった。社長の奢りですかと誰かが尋ね、社長がわざと不機嫌な声でそうだよと答える。それでまたやかましくなる。原は元の位置に戻り、小さくなっていた。石井さんが近づき、肩を揉みながら話しかけると、ようやく安心した顔を見せた。

 金曜日、会は会社近くの居酒屋で開かれた。二階の座敷を貸し切り、テーブルをつなげ、その両脇に社員が並んだ。乾杯のときには原の資格取得を祝う言葉が飛び交ったが、すぐにそれぞれの社員が近くの者同士で顔を向き合わせ、喋り、飲み、食い始めた。奥の席では、原が社長の隣に座らされ、ビールジョッキの柄に手をかけたまま、しきりに頭を上下させていた。

 俺のまわりでも、さまざまな話題が巡っていた。仕事のこと、妻や夫のこと、子どもや学校のこと、ペットのこと、不倫した芸能人のこと、飲酒量や運動習慣、健康のこと。相手の話を聞き、その反応として何か言い、また誰かが反応するということが、繰り返されていた。合間には、酒を飲んだり、肉や魚、野菜を食べたりといった行為があり、しかしそれらは会話と比べてないがしろにされているようだった。

 テーブルの上には、常に十分な量の料理と酒が並んでいた。減れば、厨房と行き来する店員によって速やかに補充された。俺は、料理人が調理をしたり、業者によって食材が納入されたり、小屋で牛や豚や鶏が飼育されたり、工場で酒が作られたりといった光景を想像し、飲食という最終行為から振り返るその工程を、やけに遠くに感じた。

 ポケットの中で携帯が震え、見るとアヤノからの着信だった。通話ボタンを押し話し始めると、近くで喋っていた三人が会話をやめ、こちらを見た。

「今日は会えないの?」とアヤノは言った。ええっと、と俺は意味のない声を出し、それはアヤノではない三人に視線を向けられているからであった。俺は今までしたことのない、口元に手を当てるという仕草をし、飲み会が終わったら行くよと早口で返答した。「そう、分かったわ」とアヤノは言い、通話が切れた。俺は携帯をしまい、顔を上げた。

「船木くん、今の誰? 彼女?」

 営業部の男が尋ね、さらに「どうなの? どうなの?」とはやし立てる。二人の女は、互いに見つめ合い、それから何か含んだように緩く口を閉じて俺を見た。早く答えたほうがいいと思い、彼女ですと俺は言った。男がひゅうと奇声をあげ、女二人は驚いた顔でまた視線を結ぶ。

 俺は立ち上がり、ちょっとトイレへ、と言って席を離れ、木製の突っかけを履き、本当にトイレに向かった。歩きながら、殴っていればと意識的に考えてみたが、あの程度で殴ってはいけないという理性のほうが明らかに勝っていた。それにしても、俺はいつも殴らなかったあとで殴ることの是非を検討しており、それでは暴力の善し悪しや意味を実感できるはずがなかった。

 小便をしていると、トイレのドアが開き、社長が入ってきた。よう、と言い、隣で放尿し始める。

「俺はもう帰るから、あとは適当にやってくれ」

 はい、と俺は返事をし、小便器から離れて洗面台で手を洗った。古い蛇口からは、ちょろちょろとしか水が出なかった。

「原と喋ったか? グラス持って、おめでとうって言ってやれ。先輩だろう?」

 社長は、壁のタイルの規則性に眩んだように、目を細くしていた。酔っているのかどうかは、分からなかった。小便の音が続く中、船木、と声がした。

「お前、坂東から誘われたりしてないよな? あいつ、知り合いと起業するらしいんだけど」

 誘われていません、と俺は言った。社長は大きな身体をゆすり、チャックを閉め、こちらを向いた。真っすぐに俺の目を見て、そうか、と言った。はい、と俺は応じた。二人でトイレを出て、その場で別れた。

 座敷に戻ると、先ほどの三人が、俺の知らない話で盛り上がっていた。俺は自分のグラスを持ち、原のところへ向かった。原は、紙飛行機を追うように俺を見上げ、その目的地を知ると「どうぞ」と先ほどまで社長が座っていた座布団を裏返した。

 俺は腰を下ろし、何をしに来たのか頭の中で確認し、おめでとうと言ってグラスを前に出した。俺は原が、戸惑いの表情を浮かべ黙り込むという期待をしていた。俺には、原を祝福する気持ちが一切なかった。息を吐きながら口を動かすだけの言葉に心がないことを、社長に促されてこうしていることを、読み取ってほしかった。

 だが原は笑顔だった。俺が隣に座ってから、おめでとうと言われてもなお、ずっと笑顔だった。自分のジョッキを手に取り、ありがとうございますと言って首をすくめ、杯を合わせた。頬には赤みが差し、化粧も薄いために、幼く見えた。俺は、相手が少女なら、自分が心から祝福できたかもしれないと、よく分からないことを考えた。さらに、こんなお祝いをしてもらえるとは思いませんでした、頑張って良かったですといった原の弾む声を聞いているうちに、彼女がしてきた努力を、褒めてやりたいという気持ちが実際に、今さらになって湧いてきて、もう一度、おめでとうと口にした。心が込められているように響いたか、自分では分からなかった。なんですか唐突に、でも何度だって言ってください、と原は楽しそうに言った。

 あれ社長は、と誰かが声をあげた。視線を向けると、先ほどの営業部の男と短く目が合った。「さっきお帰りになりました。何か用事があるみたい」と石井さんが言い、社長不在の事実が全体に周知される間があってから、数人が、社長やその家族、七尾について、ぽつりぽつりと話し始めた。砂場に小石を投げるように、明確に回答する者はいないのに、断続的に問いかけた。

 奥さんが出ていった話は聞いたが籍は抜いたのか、出ていった理由はなんなのか、どうして息子さんは社長のところにいるのか、七尾さんとはそもそも誰なのか。仕事は何をしているのか。社長と七尾さんは、どういう関係なのか。

 男女の関係ではないです、と俺は言った。場が静まり返り、全員が手を止めて俺を見ていた。だが隣の原は、直前まで機嫌良くしていたのに、表情を失い、視線を落とし、自分と俺とが無関係であると、誰かが証明してくれるのを待っているみたいだった。

「どうして言い切れるのかしら?」

 静寂を破ったのは、石井さんだった。社長が自分で言っていました、と俺は答えた。石井さんは口元を歪め、努力が必要と思われるほど維持し「そりゃそう言うでしょう」と言った。(続く)

中編小説『途上の者』7/12

 一週間前、印をつけたんだ。部屋の壁に、黒のボールペンで、俺の身長の。昔、小学生のとき、伯母さんの家でも、同じことをした。伯母さんは独身だったけど、夏休みには親戚が集まるから、その子どもが十人くらいいた。順番に柱に背中を当てて、印をつけて、身長を測ってもらう。伯母さん、身長が伸びてたら、大きくなったねって言いながら、頭を撫でるんだ。子どもだから、去年と比べたらみんな伸びてる。けど俺はその頃小さくて、全然伸びなかった。伯母さん、俺にだけ、これから伸びるからねって言うんだ。大きくなったねって、言わないんだ。食事のときには食べきれないくらいの量が出るんだけど、伯母さんは、俺にたくさん、食べさせようとした。俺は無理して食べて、そのあと、トイレで吐いてた。伯母さんがつくるもので、大きくなりたくなかった。

 女は黙って、つないでいた手に、もう片方の手を重ねた。それから長いあいだ、俺を見上げていた。俺は女の呼吸を首筋に感じながら、体温を感じながら、頭の中でおぼろげに、急速に、さまざまな記憶が過ぎていくのを眺めていた。

「食べてあげたのは、優しさね」と女は言った。それは分からない、と俺は答えた。

 テーブルの上のタイマーが鳴り始めても、女は俺に身体を寄せたまま、動かなかった。そして、私ね、と声を出してから、急にその電子音を耳障りに感じたのか、ベッドを下り、アラームを止めた。

「今日で、この仕事辞めるの。船木さんで、最後」

 女は俺の前に立ち、ネグリジェの裾を指で摘まみ上げ、小さなへそと腹を見せた。

「赤ちゃん、できたの」

 俺はその白い、平たい腹を見つめた。新しい生命の存在を信じ切っている自分を、不思議に思った。それでも、疑ってみようという気持ちは露ほども生まれなかった。ぼんやりと理由を考え、信じたほうが楽なのかもしれないと、漠然とした推測に行き当たった。

 視線を上げると、女はやはり微笑んでいた。それで俺は、女が産む決意をしていることを知り、自分には関係ないはずなのに安堵した。と同時に、女が俺に対して特別な感情を抱き始めていると思った。俺を快適にしてくれるかもしれないという可能性を感じた。その発見が、自分も女に何かしてやれることがあるのではないかと、俺に思わせた。うなじに寒気を感じ、それは熱のようでもあり、耳がジンジンと鳴った。

 間延びしたノックが、三度あった。女はドアを見て、俺を見た。そして、嘘をつくことの容易さを教える顔で「はあい、もう出られます」と、淡い声を出した。

 

 帰宅し、シャワーを浴びて風呂場を出ると、テーブルの上で携帯がランプを点滅させていた。坂東からの着信履歴が残っており、折り返した。坂東はすぐに応答し、家にいるのかとまず確認した。そうだと答えると、俺も家で一人なんだがと言い、急ぐように続けた。

「さっきはすまなかった。あいつ、根はいい奴なんだけど、口が悪くてさ。俺が外にいるあいだ、結構ひどいことを言われたろう?」

 俺は野田に言われたことを思い出そうとしたが、うまくいかなかった。どうでもいいと思い、坂東にもそう言った。それにお前が謝ることじゃない、俺は気にしていないと付け加えた。

 坂東は、本当に申し訳なかったと謝罪を重ねた。電話の向こうで、また気弱な顔をしていることが想像された。俺は、坂東のその顔が好きではなかった。だから、人が足りないなら原を連れていけばいい、俺よりずっと役に立つぞと言って、笑わせようとした。

 だが坂東は笑わなかった。長く黙ってから、実はさ、と切り出す。

「原ちゃんは、うちに来てくれるってことで話がついてる」

 そうか、それなら良かったと、俺はほとんど何も考えずに言った。

「悪いけど、このことは絶対に口外しないでほしい。彼女に迷惑がかっちゃうから」と坂東は言った。当たり前だと俺が応じると、安心したらしい吐息が聞こえた。

 自分のいる部屋と、電話を通じた向こう側の空気が落ち着き、すべてが決着したようだった。間もなく、おやすみだとか、また明日だとか挨拶をして、電話を切るのだろうと思った。すると俺に、自分からも、坂東に何かを伝えたいという欲求が生まれた。急いで探すと、ちょうど言うべきであったことが見つかり、今日の昼間に坂東が申し出た、俺の好みの女を探しておくは約束はなしにしてくれと告げた。

 反応がなく、俺は慌てたが、先に口を開いたのは坂東だった。

「俺なんかに、女を紹介してほしくないってこと?」

 いいや違う、と俺は声を大にして言った。お前たちと別れたあとに風俗店に入り、女と連絡先を交換したんだと説明した。そこでようやく坂東は驚いた声をあげ、直後に笑い始めた。俺は嬉しく、しかし簡単には詳細を教えてやりたくないような、クイズの出題者のような気分だった。坂東は矢継ぎ早に質問を重ねたが、俺はいずれもはぐらかし、今の瞬間を引き延ばそうとした。坂東は悔しいような、面白がるような調子で文句を言った。

「まあいいや。また詳しく聞かせてくれよ」

 ああ、それはいいが誰にも言うなよ、と俺は言った。電話を切ってからも、しばらく楽しい気分が続いた。そんなふうに感じるのは、あまりないことだった。

 

 火曜日、少年は元気を失っていた。塾で受けた模試の結果が良くなかったという。見せてみろと言うと、もう捨てたと気のない返事があった。

 少年は靴を脱ぎ、ランドセルを枕にしてソファで横になり、テーブル上の一点を見つめていた。目を閉じることができないから、せめて何もないところを見ていたいという様子だった。折り曲げた膝の頭は、皮膚が伸び艶めいていた。

 社長に叱られたのかと尋ねると、少年は視線をテーブルの上に留めたまま「お父さんはそんなことで怒らないよ」と、まるで分かっていないと言いたげな返事をした。そして「お母さんだったら怒るかも」と今度は自信がないようにも言い、目を擦った。

 オレンジジュースを出してやっても手をつけず、ゲームに誘っても「飽きた」としか言わない。サッカーに飽きたなら、もう一つのほうをやればいいと俺は提案した。少年は聞いていることだけを示す曖昧な声を出してから「あれ、やったことあるんだ」と言った。

「友だちの家で全クリした。お父さんに悪いと思って黙ってたけど」

 そうか、と俺は言った。社長への口止めを求められるかと思ったが、少年はそのことには触れなかった。

 あーっ、と少年は声を出し手足を伸ばし、次に糸が切れたように弛緩させ、仰向けになった。高さが合わなくなったのか、枕にしていたランドセルを押しのけ、後頭部を直にソファにつける。

「背も全然伸びないし、何もかも、うまくいかねえなあ」

 今日の少年は、促す力が強かった。すぐにでも応えてやりたかったが、身長が伸びないとはどういうことかと、まず俺は尋ねた。

 少年は、昼休みに保健室に行って身長を測ってもらったが、四月にあった身体測定のときと同じ結果だったということを、思い出したくもないという顔で、しかし長々と語った。養護教諭が面倒くさそうだったとか、身長計の数字を見たときに見間違いかと思ったとか、本筋にあまり関係のない話が盛り込まれ、それを自分の耳で聞きながら、改めて悲しんでいるようだった。

 俺は、自分が言ってやれること、してやれることを考えた。何もかもうまくいかないと嘆く少年の、力になってやりたかった。そして、本気で身長を伸ばしたいのかと尋ねた。

「そりゃそうだよ。当たり前じゃん」

 じゃあ伸ばしてやるよ、と俺は言った。

「伸ばしてやるって――」

 少年は笑い、しかしすぐに収めて身体を起こす。

「どうやって?」

 俺を見る黒目は大きく、光っていた。言葉を待つ耳は、こちらに向けて開いていた。俺のすること、言うことを感知し、脳で理解しさらに実行に移す準備が整えられていた。促し待つことを超え、求め迫っていた。俺は、応えなければならなかった。自分への期待と、責任の大きさを感じ、身体が震えた。

 だが、と俺は落ち着こうとした。今の俺は、言葉しか持っていなかった。その言葉にしても、真理を突き、少年の人生を根本的に良化させ得るものを備えていなかった。俺は妥協するしかなく、しかし黙ってしまえば何も生まないので、毎日サバ缶を食え、と言った。

 少年は目を閉じ、鼻から空気を大きく吸ってため息をつき、心底呆れたように「またそういう話か」と言って肩を落とした。それでも、口元には緩みが見えたので、俺は最低限の役割を果たしたようだった。

「じゃあ勉強は? 勉強はどうしたらいいと思う?」

 少年が、余韻を楽しむようにけしかける。俺は、すでに少年が真剣ではないこと、自分の言葉が軽くなっていること、自分が少年のためにすべきことを理解していたので、あまり考えず、とっておきのカンニング方法を伝授してやると言った。少年は、期待通りの冗談を馬鹿にするように鼻で笑い、もういい、ゲームしようと言って靴に足を突っ込み、棚にしまってあるゲーム機を取りに向かった。

 

 謝罪の電話があって以来、坂東は会社で会っても、二人きりになっても、野田や、野田との事業の話をしなかった。代わりに、風俗店で出会った女のことを知りたがった。昼休みに話してやると、興味深そうに、真面目な顔で耳を傾けた。

 女は、アヤノといった。坂東から教わった店で二度夕食を共にし、その二度目でホテルに行き、セックスをした。それから、互いの家を行き来するようになった。アヤノの住むマンションは隣町にあり、電車で一駅の距離だった。六月は雨の日が多かったが、俺は傘を差して、電車には乗らず、二十分ほど歩いてアヤノの家に行った。アヤノも、俺のアパートに歩いて来た。

 どちらの家にいても、俺たちがすることに、ほとんど変わりはなかった。腹が減れば何か食べ、眠くなれば眠った。食事の材料がなくなれば、スーパーに買い物に行った。たまには、外で食事を済ませた。

 アヤノは目的のない散歩を好み、俺も同行した。始まりはいつも唐突で、行き先も決まっていなかった。あたりを一周して十分で終わることもあれば、一時間以上歩いて電車やバスで帰ることもあった。アヤノの家にはテレビがあり、朝から晩まで点けっぱなしだった。人の声がないと落ち着かないと彼女は言った。きれい好きでよく掃除機をかけ、俺も家具を動かしたり埃を拭き取ったりして手伝った。

 そういった嗜好、習慣の違いに直面したとき、俺は、あとから自分で驚くほど、すんなりと受け入れた。道行く女を眺めては自分の妻になるというシミュレーションをしていた頃、頭の中で繰り返された失敗は、嘘のようだった。

 平日、アヤノはたいてい俺の家で過ごした。仕事を終え帰宅すると夕食が用意されているというのは、初めての経験だった。会社にいるときに、アヤノが今スーパーに行っているだとか、テレビの代わりにラジオが点いているだとか、想像することもあった。自分がいるのとは違う場所で、誰かが今も同じ時間の中に生きていること、何かをしていること、その空間について考えるのは、不思議な気分だった。

 セックスは、ベッドに入ると自然発生的に始まった。アヤノの頬や首筋、胸や腹は温かく、しかし手足の先は冷たかった。俺はできる限り丁寧に、時間をかけて愛撫し、アヤノが好む方法を探した。決して、尋ねなかった。自分で見つけ、アヤノがいい反応をすることが嬉しかった。翌日には同じことをして間違いがないかを確認し、またその少し先を探った。それを成長と呼べるのかどうか、ふと考えたこともあったが、敬一郎少年の顔が浮かび、否定された。俺は声を出さずに笑い、白い背中に唇をつけた。

 アヤノも、俺を丁寧に愛撫した。アヤノには、俺がしたのと同じことをしなくてはならないと思っているきらいがあった。俺は、それはしなくていい、と何度か言った。アヤノは、私がしてあげたいから、と言って続けた。

 アヤノがセックスで深く満足することは、俺のさらなる意欲を刺激し、それがアヤノの満足へとつながり、日に日に、二人の結びつきは強くなっていくようだった。果て、今が何時なのか知ろうともせず、暗闇の中で手をつないでおやすみと言うとき、俺の心身もまた満ち足りていた。

 部屋の壁に例の印を見つけたとき、なぜかアヤノは喜んだ。これね、と張り切った声を出し、自分の頭に手のひらを載せ、印の高さと比べ見た。私も測ってほしいと言うので、ボールペンで壁に印をつけ、メジャーで測ってやった。印の横に、その身長を書き込んだ。一年後にまた測ってみようよとアヤノは言った。もう俺たちは縮んでいくだけだと言うと、それだっていいわとアヤノは笑った。

 朝、目を覚ますと朝食があった。仕事の対価に不満はなく、貯金さえできた。少年は機嫌良く勉強し、終われば一緒にゲームをした。時間が合えば、坂東と昼食を共にしたり、タバコを吸ったりした。帰宅すれば、夕食があった。ベッドに入れば、セックスがあった。部屋が、きれいになった。週末はアヤノの部屋で、気ままに過ごした。雨が降れば、窓辺から外を眺めた。雨があがれば、涼しい空気の中を散歩した。会話も、たくさんした。アヤノがしてくれること、俺がしてやること、一緒にしていること、それらについて互いに感想や意思を表明していれば、心地よい時間が延びていった。

 アヤノは、俺の顔と手が好きだと言った。顔も手もこれから大きくは変わらないであろうから、アヤノにとっても、俺にとっても、都合がいいのだろうと思った。

 何もかもがうまく進んでいることに、俺は驚いていた。しかしこれ以上に快適になるという想像は難しく、社長が言った結婚については、必要なさそうだった。(続く)

中編小説『途上の者』6/12

 通勤途中に女を見かけるたび、俺はその女が自分の妻になるということを考えた。一緒に住んだ場合に、俺に快適な生活をもたらすかどうかを想像した。だが判断は難しく、誰を見ても、確信は得られなかった。やがて俺は、結婚しその状態を維持するためには、自分も妻を快適にする必要があることに気づいた。

 会社にいる女は、面識があり関わることができるという点で、社外の女とは違っていた。どんな声で何を言うか、どんな場面でどんな表情をするかを知ることができた。ただ、それも有益な情報にはならなかった。そもそも女たちは、すでに誰かと結婚しているかもしれなかった。

 坂東とエレベーターで一緒になり、社内でどの女が独身か知っているかと尋ねた。坂東は四角い空間を見回してから「原ちゃんとか、佐藤さんとか、あと何人かは結婚してないはずだけど、なんで?」と言った。二階の廊下を歩きながら、結婚相手を探していると説明すると、坂東は俺の腕を引っ張って喫煙ルームに向かった。ドアを閉め、坂東はタバコを吸わずに、お前、やばいよと言った。そして、女と付き合ったことはあるのかと尋ねた。ないと答えると、どう予想しており、どう感じたのか分からないが、坂東は顔を歪め、じっと俺を見た。端正な顔に寄った皺は、俺を急速に不安にさせた。俺は、大浴場のベンチで社長が言った、考えていることを言葉にする努力という台詞を思い出し、思ったままに、どうかしたかと尋ねた。だが坂東の耳には届かないようだった。

「女性蔑視って言葉、知らないか?」

 知っている、だが女を蔑んでいるわけではないと俺は言った。

「俺なら、それは分かるよ。けど船木のことをよく知らない人は、船木の言い方だとか表情だとかで、そう聞こえちゃうんだよ。見えちゃうんだよ。女なら誰でもいいって感じにさ。そういうわけじゃないだろう?」

 もちろんだと俺は応じた。お前以外にあんなことは聞かないとも付け加えた。

「いや、そうかもしれないけどさ」と坂東は煮え切らないようだったが、頭を掻き、顔をしかめ、最後には諦めたのか表情を崩し息をついた。ポケットからタバコを取り出し、自分で咥え、俺にも一本差し出し、ジッポーで火を点ける。

「どんな女が好きなんだよ。顔とか性格のタイプ、教えろよ」

 考えてもみなかったことを聞かれ、俺は戸惑った。だが考えれば難しくはなく、美人で優しい女が好きだと言った。坂東は笑い、ああ、分かったよ、探しといてやると言った。

「あと今日、七時集合で大丈夫そう? 急な誘いで悪いけど」

 今朝、携帯を見ると、今週のあいている日を教えてくれと坂東からのメッセージが入っていた。すべてあいていると返信したら、今日になっただけだった。だから、別に構わない、七時にも必ず間に合うと俺は言った。

 

 坂東が待ち合わせ場所に指定したのは、会社の最寄り駅とは逆方面にある広場だった。俺は、空に手を伸ばす少女の銅像の前で、六時十五分から待った。学生らしき集団がいくつもあり、何かにずっと、騒ぎ続けていた。

 時間通りに現れた坂東は手ぶらだった。鞄はどうしたと尋ねると、先に店に寄って置いてきたという。俺たちは広場を出て、通りを歩いた。人の声が遠くなるにつれて、涼しくなっていった。

「実はさ、野田って奴を店で待たせてるんだ」

 坂東は前を向いたまま言った。二人きりだと約束したわけではなかったので、構わなかった。どういう関係の男なのかと尋ねた。

「俺、七月いっぱいで会社辞めて、そいつが立ち上げた会社に合流するんだ。辞めることは、もう社長に言ってある。それで、船木にも会わせたいなと思ってさ。まあ、メシ食うだけなんだけど」

 自分の知り合い同士を会わせたいという気持ちは、よく理解できなかった。だが坂東がそういう気持ちになることを、俺は覚えておこうと思った。

 ここだと坂東が示したのは、塗り壁に間接照明が当たる、看板と窓のない小さな店だった。中に入ると、着物姿の女の店員が立っていた。通路を抜けて案内された個室では、壁を背に黒いTシャツを着た男が座っており、それが野田ということらしかった。長髪を後ろで団子にし、無精ひげを生やしている。手元には、細長いグラスに入った飲みかけのビールがあった。

 互いに名乗り、席についた。ビールでいいかと坂東に聞かれ、ああと返事をした。坂東は店員への注文を済ませると、おしぼりで顔と首を拭きながら、外は蒸し暑かったと野田に報告した。そして俺に向けて、野田の経歴について話し始めた。大学卒業後、いくつかのウェブ系の会社を渡り歩き、そのすべてで大きな実績をあげたシステムエンジニアということだった。野田はグラスをわずかに持ち上げ、よろしくと言った。

 ビールが二つ到着し、次に俺の仕事ぶりや人柄についての話が始まった。坂東は、真面目で集中力があり、計画通りに仕事を進められると俺を評した。すごくいい奴だよ、社長にも信頼されていると褒めた。野田の紹介に使われた時間よりも、俺の紹介に使われた時間のほうが長かった。坂東の話し方には、本心からそう思っていると信じさせる響きがあった。表情が豊かで、身振り手振りが交じり、感じが良かった。

 それから、先月に野田が立ち上げ、八月には坂東が副代表になるという会社の話に移った。主に坂東が喋り、野田が補足をした。なぜか二人は、事業の内容を、俺に正確に理解させたいようだった。料理が運ばれてきてからは、坂東だけが喋った。野田は疲れたのか、スマホを触りながら小鉢をつついていた。

 話は、ただの金儲けではなく社会的な意義があるビジネスだという主張で締めくくられた。野田が店員にビールを二つ注文しトイレに行くと、何か質問はあるかと坂東は言った。特に質問をしたいわけではなかったが、坂東が望んでいるのが分かった。俺は考え、今の会社と畑違いだが大丈夫かと尋ねた。

「事業内容は違うけど、俺は営業だから、商品を売り込むってことには変わりないさ」

 そうかと俺は納得したが、坂東はまだ言い足りない顔をしていた。そしてやはり、口を開いた。

「俺みたいになんの取柄もない人間にとって、大事なのはやり方なんだ。SNSを見てから営業かけたり、契約したあとも定期的にメールをしたり誕生日にギフトカードを送ったり、そんな誰にでもできること、けど多くの人間がしないことを、俺は徹底的にやってる」

 新しいビールが運ばれ、続けて野田が戻り、話は中断した。野田は、席につくとグラスに口をつけ、再びスマホを触り始めた。坂東はビールに手をつけず、前のめりの姿勢で野田を見つめていた。今まで自分たちが何を話していたのか誰も覚えておらず、思い出そうともしない、そのような無言の時間が続いた。

 やがて坂東もスマホを取り出したが、画面を確認してすぐポケットにしまい、飲めるだけ飲んでおこうというように、ビールをひと息で半分ほど喉に流した。おしぼりで口元をぬぐい、取引先と電話をしてくると断り、テーブルの上に置いたままになっていたタバコを掴んで出ていった。

 野田は変わらず、スマホに視線を落としていた。だが意識はしっかりと空間全体に向けられており、テーブルの上や俺の様子、さらに坂東が退室したという事象を、仔細に把握し、記録しているようだった。手元のモニターでこの個室の監視カメラの映像を見ている、そのような表情の緩み方だった。面倒だがやるか、そのような緩慢なスマホの置き方、顔の上げ方だった。

「船木くん、今の会社では文字起こしをやってるって聞いたけど」

 野田は言い、上目遣いで視線を寄こした。俺の仕事の説明は坂東が済ませていたので、黙って続きを待った。

「一生、文字起こしをやっていくの?」

 それは馬鹿げた質問だった。俺は、実際は分からないが今はそうしたいと思っていると答えた。野田は小さく笑った。

「近いうち、というか今だってもう、AIにやらせる仕事だよ。俺たちの事業内容、聞いてた? いやごめん、船木くん、聞いてるのか聞いてないのか、よく分からない顔してるからさ」

 中高年の自費診療に特化した医療系ウェブコンテンツの制作と運営、と俺は言った。

「うん、まあ、スマホ専用ってのが重要なんだけど、だいたい合ってる。そのウェブコンテンツを作るときに、ライターが必要になる。病院やクリニックのドクターから話を聞いて、原稿を書く人ね。で、坂東が推薦したのが、船木くんだったわけ。多少仲が良くて、文字を書く仕事をしてるからって発想だったんだろうね。坂東の顔を立てて会ってみたけど、今日の感じじゃ、ちょっと難しそうだね」

 ちょっと難しそうというのはどういう意味か、と俺は尋ねる。

「いやだからさあ、悪いけどうちでは雇えないってこと」

 野田は眉の根を上げ、呆れたように笑い、スマホを手に取り素早く指を動かした。言い足りなかったのか、口元だけ歪め、察しろよ、と呟いた。

 

 坂東が戻り、テーブルで会計となった。俺が財布を出すと、経費で払うから大丈夫だと坂東が制した。その表情は弱々しく、過剰に気遣うようで、俺は初めて坂東を不快に思った。

 二人から遅れて、間隔をあけて通路を歩いた。店外に出て、彼らが身体を向けた方向を確認してから、用事があると言って逆方向へ足を踏み出した。一瞬、坂東が引き留める気配を見せたが、結局は笑顔をつくり手を高く挙げ、ありがとな、お疲れ様と声を張った。その向こうでは野田が半身になっているようだったが、俺は野田の表情を知りたくなく、視線を向けなかった。

 最初の角を曲がり、路地に入った。このまま駅に向かっては二人と再会する可能性があると思い、その次の角も曲がり、何も目指さず歩いた。

 野田を殴ればよかったかもしれないと思ったが、坂東の不利益になるようなことはしたくなかった。それに、野田を殴って俺が快適になるわけでもなかった。

 明るい路地に入ったところで、お兄さん、と声をかけられた。胸元のあいたワイシャツと黒いスラックス姿の、太った坊主頭の男だった。俺が立ち止まると男は意外そうな顔をしたが、すぐににこやかになり、かわいい子いますよ、と続けた。俺は自分の言葉を思い出し、美人で優しい女はいるかと尋ねた。おりますとも、と男は古風な調子で応じ、ピンク色の看板の横から伸びる、狭く急な上り階段へと案内した。

 二階の受付で別の男に金を払い、通路に並んだ部屋のうちの一つに入るよう言われた。ドアを開けると、薄暗い部屋の奥に診察台のような簡易ベッドがあり、丈の短い、生地の透けたネグリジェを着た女が腰かけていた。彼女は立ち上がり、こんばんはと言った。そこにある微笑みはやわらかく自然で、先ほどの野田の嘲り、坂東のこわばった笑顔とは違った。

 女は俺をベッドに座らせ「初めて?」と言った。初めてだと俺は答えた。「なんて呼んだらいい?」と続けるので、名前は船木だと言った。女はそれがおかしかったのか、口の中で声をたてた。そして、俺のシャツのボタンを上から外していった。次いでズボンと靴下、下着を脱がし、それらを畳んでプラスチックのかごに入れた。

 女はネグリジェ姿のまま俺の手を引き、シャワールームへ向かった。排水口の近くでしゃがみ込み、シャワーの湯を触る。俺の眼下には、細い肩紐のあいだの、白い背中があった。女は俺にも湯を触らせ、「熱くない?」と言った。熱くないと答えると、女は頷き、俺の身体を洗い始めた。

 ボディソープの泡をシャワーで流しながら「あまり喋らないのね」と女は言った。喋れと言いたいわけではなく、ただの確認のようだった。それでも俺は変に考えてしまい、あまり喋らないとオウム返しをした。

 シャワールームを出ると、自分も濡れているのに、女は先に俺の身体をバスタオルで拭いてくれた。ベッドでうつ伏せになっているように言われ、そうした。女が近くまでやって来て、ややあってから「オイルするね」と声がし、背中に温かい液体が落ちるのを感じた。女の手は液体を伸ばし、俺の背中、肩、腰、尻、太もも、ふくらはぎを順にマッサージした。力は強く、皮膚の下で、ゴリゴリと筋肉が鳴った。

 俺が仰向けになると、女はタオルで手を拭き、反応を確かめるように細くオイルを垂らし、今度は指先を使って優しく触れた。ひと通りが終われば、滑らないように注意しながら俺の腰にまたがった。やわらかい太ももと尻の肉が、広く密着した。

 目が合い、女が微笑む。先ほども同じものを見たはずだったが、より親しみを感じ、うまくできたか分からないが、俺も微笑もうとした。女は膝を立ててと言い、その山に手を置き、腰を前後に往復させた。何分かゆっくりと続け、それから合図のように短く視線を落とし、つられて見ると、俺のペニスが大きく赤くなっていた。自分が性的に興奮していることを知り、さらに熱くなり、動悸がした。ネグリジェの切れ目から覗く下着はオイルで濡れ、陰毛の黒さを透かしていた。腰の動きが速くなり、思い切り出してと女が言うと、本当にその数秒後に俺は射精した。(続く)