詩『才能くん』

才能があるのか問うてくるのは

いつも俺自身だった

現実世界の奴らは

才能があるとかないとか

わざわざ俺に言ってこない

 

 

で、俺に才能はあるのかないのか

あると言えばあるし

ないと言えばない

いや、あんまりないかな……

何しろ、十八年も結果が出ていない

 

 

世の中には

隠れた才能というものもある

時代に合っていなかっただけで

ゴッホみたいに、宮沢賢治みたいに……

 

 

で、才能がないと言われたらお前は

いったいどうする?

そうですよねと笑いながら退散する?

なにくそと発奮する?

そのどっちもが、くだらないことだ

 

 

そして

もっと意味がないのが

才能があると褒められて浮かれることだ

理由はおのおの考えてくれ

俺は忙しい

俺に才能ってものがあるとして

そいつを見つけ出して

やっつけなくちゃならない

もう出しゃばりませんと泣いて謝るまで

コテンパンにしてやるんだ……

 

 

中編小説『持たざる者』⑧(了)

 おそらく風俗店の男から、何度も携帯に着信があった。着信拒否設定にすると、今度は番号非通知での着信に切り替わったが、それも無視した。携帯をサイレントモードにし、放っておいた。

 免許証に載っている住所は、今はコインパーキングになっているはずだ。奴らが無駄足を運び悔しがるところを想像すると、愉快だった。

 舌や食べ物が触れたとき、折れた前歯が痛んだ。みぞおちの痛みが軽快していくのとは逆に、歯の痛みは次第に強さを増し、広がっていった。三日後には、ズキズキと常に響いた。歯茎が腫れ、夜中に何度も痛みで目を覚ますようになってから、船木は駅前の歯科医院を受診した。

 外観は古ぼけていたが、中は掃除と手入れが行き届いているらしく、明るかった。待合室には、白髪の老婆と、若い親子連れがいた。老婆が、隣の女が抱く赤子に、ひび割れた指を握らせ、顔を近づけていた。性別の分からない赤子は不思議そうな顔をしていたが、大人二人はにこやかであった。この町に、こんな光景があることを、船木は知らなかった。

 縦にも亀裂が入り、神経がむき出しになり、感染を起こし、炎症が拡大し、折れた歯を残すことはできないと告げられた。タオル屋を退職したときに健康保険の切り替えをしていなかったので、十割負担になる。とりあえず、抜歯だけすることにした。三十代半ばに見える院長は、抜歯した後の治療について、ひどく心配していた。

「できるだけ早く保険の手続きをして、入れ歯かブリッジをしてください。保険外の治療だと、インプラントという方法もあります。抜けたままにしていると、隣の歯が倒れてきます。噛み合わせも悪くなります。一本の歯がないまま放置して、次々と歯を失うこともあります」

 丸椅子を回転させ、院長は棚からパンフレットを抜き取り、船木に差し出した。手製らしく、端がホッチキスで留められている。

「入れ歯、ブリッジ、インプラントのメリットとデメリットについて書いています。時間のあるときに読んでください」

 麻酔をかける前、抜歯した前歯を持ち帰るかどうかきかれて、船木はなんとなく、持って帰ることにした。院長は少し驚いた様子だったが、それからなぜか、うれしそうに目を細めた。

 受付は中年の、いかにもベテランの女だった。支払いのときに、喧嘩したの、と無遠慮にきかれた。まあ、と船木が答えると、そうだと思ったという呆れと満足の混じった顔を見せた。

「男前が台無しじゃない。今は良い入れ歯もあるんだから、ちゃんと治すのよ。うちの先生、入れ歯得意だから、安心してね」

 急患として扱われたため、老婆の治療が後回しになっていた。船木は礼を言い、歯科医院を後にした。

 

 いよいよ金がなかった。全財産を手元に置いて計算すると、半月後の家賃の支払いができないことがほぼ確実となった。

 しかし船木には、自分でも不審に思うほど、焦りがなかった。これからさらに金が減ると俺はどうなるのかということに、興味があった。大家から催促の電話がかかってきたり、ガスや電気、水道が止まったりといった現実に直面したときに抱く感情。情けなさ、あるいは申し訳なさ、そんな単純な気持ちに支配され、行動してみたかった。自棄になったら、それはそれでよかった。とにかく、突き動かされたかった。それまで、待とうと思った。こたつテーブルの上の一万円札や千円札が少なくなるたび、悪銭が貯まっていくかのように、にやりとしてみるのであった。

 日中はテレビを見て過ごし、腹が減れば食事を摂り、夜にはポートワインを飲んだ。タバコを我慢することもやめた。二日に一度はシャワーを浴び、五日に一度は洗濯機を回した。ときどき、歯科医院から持ち帰った歯を眺めた。

 折れた断面は刃物のように鋭く尖り、指先を強く当てると、血が滲んだ。根元に向けて次第に細くなり、そちらは猛獣の牙のようだった。全長は三センチに及ぶ。普段隠れている部分の方が、ずっと長かったのだ。

 一本の歯を失うということは身体の一部を失うということなんです、とあの院長はそのときだけ厳しい表情を見せて言った。今思い返してもかすかな反発を覚えることが、船木は意外だった。しかしあれは自分に都合の良いように物事を捉えた、屁理屈だと思った。腕や脚を切断すれば、船木も身体の一部を失ったと考える。眼球や舌も同じだろう。しかし爪はどうなのか? 体毛は? あの歯科医師は、自分の職業が高尚なものであると言いたかっただけなのではないか。

 ニュース番組の画面が切り替わり、アナウンサーがコンビニ強盗逮捕の速報を伝える。防犯カメラの映像では、水色のシャツを着た痩せた男が、店員に果物ナイフを突きつけていた。店員が慌てた様子でレジを操作する中、男が出入口の方に気を取られた一瞬だった。棚の影から勢いよく客らしき男が現れ、飛び蹴りを見舞った。犯人の身体はカウンターを乗り越え、床に落ちる。飛びついた客が馬乗りになり、ナイフを取り上げ、そこで映像は停止した。

 途中から感じ始めた動悸は、強盗犯の顔がズームアップされて激しさを増した。そして「強盗未遂 無職 山根浩容疑者(40)」というテロップを見たときには、胸が潰れそうだった。

 顔を隠さず、貧弱な身体で、ちゃちな刃物を突きつけ、客がいないことの確認さえしていない。一般人に制圧され、凶器も奪われた。その幼稚な犯行内容と、名前と顔が、全国に知れ渡った。

 どうしてお前はそれで、強盗ができると思ったのだ。どうしてそれで、人生が良くなると信じることができたのだ。自分を受け入れていると、言ったじゃないか。

 船木は、泣いていた。嗚咽し、ニュースが替わっても、テレビ画面を見続けていた。滲んだ光が、船木を慰めるように、きらきらとしていた。涙を止めようと食いしばり、下を向くと、かつて歯が存在した穴から唾液が垂れ、畳を濡らした。

 

 携帯が使えなくなったので、宇津井には連絡をせずに会いに行った。

 受付の女は船木のことを覚えていた。内線をかけようと受話器に手を伸ばし、そこで何かに気づきこちらを見た。

「すみません、宇津井は今、面接中でして。あと十分もすれば終わると思いますので、お待ちいただけますか?」

「面接?」

「はい」

「面接って、事務員さんの?」

「いえ、営業希望の方ですが」

「そっか。——じゃあ、出直そうかな」

 船木が腰を上げると、女が手のひらで制する。

「あの、本当に、あと少しで終わると思いますので、良かったら、ここでお待ちください。社長も、喜ぶと思いますから」

「喜ぶって、宇津井が、俺と会えて?」

「ええ」

 船木は女を見つめる。宇津井の古い友人であることが、この愛想のいい女に余計な気遣いをさせている。悪いのはこの女ではなく宇津井と俺だ、と船木は考える。

「じゃあ、そうするよ」

 硬い椅子に座り直したものの、話すことがなかった。船木は、テーブルの上に視線をうろつかせる。気まずい雰囲気の中で話題を探そうともしない、鈍感な呑気者でいたかった。

「風邪ですか?」

「え?」

「マスクしてらっしゃるから」

「ああ」

 マスクの内側で、歯茎を舐める。歯を失ってできた穴は、再生が進み、塞がりかけていた。

「すんごい風邪ひいちゃってさ。あいつにうつしてやろうと思って。四十五度あるんだ」

 女は楽しそうに笑い、コーヒーを淹れると言って席を離れた。

 

 二階の部屋を訪れたとき、宇津井はすでに応接セットのソファに座っていた。見るからに疲れており、おう、とため息のような声を出すと、伸びた前髪をかき上げた。

「忙しいのか?」

「まあな。しかしちょっとのあいだのことだ。来月には落ち着くと思う。なんだ、風邪か?」

 壁に設置された、薄型テレビが目についた。譲ってもらったものより、二回りは大きかった。モニターは真っ暗で、照明の光を鈍く反射させている。

「最近、コンビニ強盗あったの、知ってるか?」

 世間話とかできるだろう——。テレビをやるという話になったとき、宇津井は確かにそう言った。

「どうだろう。そんなの、日本中で毎日起きてるんじゃないか?」

「そいつはさ、顔も隠さずにおもちゃみたいな包丁で店員を脅したんだ。ちんたらしてたら、後ろから客にドロップキックをかまされて、包丁も奪われて、捕まった。知らないのか?」

「いや、知らないなあ」

 宇津井は力なく笑う。

「コンビニ強盗なんて割の合わない犯罪をする奴は、頭のネジが一本か二本、ぶっ飛んでんだろう」

「そうかもな」

 船木は呟き、ソファに座る。向き合うと、静かになった。宇津井が思い出したように、小型冷蔵庫に手を伸ばす。ヱビスビールを一本取り出し、テーブルの上に置く。

「買っといたぞ。まあ風邪じゃ、飲まない方がいいかもな」

 船木は黙って、金色のラベルを眺める。

「どうした、まさか酒やめたとか? 俺はまだ人と会うから飲めないけど、いっちゃってくれよ、ぐいっと。あ、グラスいるか?」

「俺がいつでも飲めるとは限らないだろう」

 肘掛を掴んで立ち上がろうとする宇津井に、船木は言った。

「なんだよ、どうしたんだよ」

「面接だったらしいな」

 宇津井は静止し、それからソファに腰を落とす。その頭の中で起こる葛藤が、激しいものであることを船木は願った。困惑し、焦り、できれば、悲しんでほしかった。

「そうだ」

 宇津井が表情を変えずに答えるまで、長かったのか短かったのか、船木には分からなかった。正直に答えてくれたことは救いのようでもあったが、もう、手遅れだった。

 船木はマスクを外し、ポケットに突っ込んだ。タバコを取り出し、火をつける。そして一本、差し出した。

「前に来たとき、一本もらったろ。返しとくよ」

「いや俺、最近タバコやめたんだ。ていうか瑛人、どうしたんだよ、その歯——」

「吸えよ」

 宇津井は船木の口元に視線を留めたまま、ゆっくりとした動作で手を伸ばす。受け取ったタバコを、口に咥える。

 ホイールに親指をかけた百円ライターを、船木はテーブルの上に突き出した。宇津井が顔を近づけながら、拳を警戒する表情になっていることが、可笑しかった。

 力を込め、ホイールを擦り、火をつけてやる。タバコの先端が、赤く光る。二人の身体は、重力が二倍になったように時間をかけて離れ、背もたれに着地した。煙を吐きながら、ときどき、目が合った。そのたびに、どちらともなく、顔を逸らした。天井の空調機が、稼働音を響かせ、紫煙を吸い込んでいく。

「行くよ」

 船木は立ち上がり、非常階段から外に出た。

 

 携帯のアラームで目を覚ます。台所に向かい、インスタントコーヒーを作り、食パンを焼く。テレビを点け、情報番組を眺めながらトーストをかじる。食器を下げ、作業着に着替える。歯を磨き、コップの水に浸しておいた部分入れ歯を装着する。歯茎との境目に金具が見えるが、何もないよりはましだった。

 壁掛け時計で時刻を確認し、ベランダに出る。温まり始めていた身体に、冷たい風が当たった。

 タオル屋が倒産したことは、多田から電話できいた。社長は家族と共に雲隠れし、給与も未払いということだったが、失業保険はもらえるらしい。おごるんで今後飲みに行きましょうよ、と多田は微塵の不安もない声で言った。

 砂浜に、柴犬を連れた少年と、ジョギングをする若い女の姿が現れた。すれ違うとき、女がキャップの庇に手をやり、少年が小さく頭を下げた。

 波は朝陽に煌めき、砂浜に打ちつけては白い泡となって消えた。反射する光は、減っているようでも、増えているようでもあった。波が影をつくることを、初めて知った気がした。

 水平線には、タンカーが浮かんでいる。

 秋晴れの空は、何もかもを押し潰さんばかりに、大きかった。(了)

 

中編小説『持たざる者』⑦

 店を出て、ホテル街の方角へと歩き出す。星野は何も言わずについてきた。半歩分遅れているためにその顔が見えないのは、船木にとって幸いだった。見たくないわけではなかった。ただ、目が合ったときに口にする言葉が見当たらなかった。

 スクランブル交差点を渡るとき、手探りで、星野の手を取った。抵抗はなく、冷たかった。歩く振動に合わせて血が通っていくように指が動き、やがてやわらかく握り返された。

 もう、自分たちは交わるのだと確信した。鼠捕りほど明らかな誘いに、船木は乗ったのだ。いや、誘いではなかったかもしれない。無精子症を理由に離婚したから欲求不満だとは言えない。船木を求めるとは限らない。しかし自分たちがホテル街へと向かっており、星野もそれを理解しているのは確かだった。

 ラブホテルが点在する区画は、ひと気が少なかった。同い年くらいに見える男女や、風俗嬢と客であろう歳の離れた男女が何組かいた。無言で手をつなぎ、目を合わせようともしない二人組は自分たちだけだった。船木と星野は、灰色の雑居ビルに挟まれた道を歩いた。明かりは少なく、弱かった。

「今、何時だろう?」

 携帯を取り出せば確認できることを、船木は前を向いたまま尋ねた。

「どうだろうね」

 すげない返事が、船木を落胆させることはなかった。むしろ今の状況に相応しく、空気を濃密に、目的を明確にした。

 前方に、暖色のライトアップがなされたラブホテルが現れた。引き返すことはできないと覚悟したのは、ホテルに向けて星野の手を少しだけ引いたときだった。目隠しのための植木をよけて自動ドアをくぐり、空室の目立つパネルのボタンを押す。ルームキーを手に取り、エレベーターに乗って三階に上がった。赤い絨毯の敷かれた廊下を歩き、ランプが点滅する部屋のドアを開けて中に入る。奥に進んで振り返り、星野と向き合う。

 そこには、初めての夜に恋人に見せるような、はにかんだ顔があった。船木は驚きつつ、嬉しく思わないはずがなく、こうであれば入室してすぐに押し倒せば良かったと後悔さえした。

「シャワー、浴びさせて」

 相手を焦らすことを承知しているのか、星野は置き捨てるように言って脱衣所へと向かった。バスルームのドアの開く音がして、閉じる音がした。

 一人になった船木は、ソファに腰を落とした。革張りで、身体は深く沈んだ。備品のライターでタバコに火をつけ、部屋を見回す。

 壁紙はすべての光を吸収してしまいそうな艶のない黒色で、間接照明の光が伸びる天井は乳白色に映った。テレビモニターの横には電子レンジと冷蔵庫が備え付けてある。ダブルベッドの上にはアンティーク風の照明が設置され、控えめな明るさを巨大な枕に届けていた。枕元には空調や室温を調整するパネルがあり、そのそばに置かれた小箱には、おそらくコンドームが入っている。

 船木は視線を戻し、光沢のない黒い壁紙を、長く見つめた。そして、星野を置いて、ここを出ていくことを考えた。

 なぜ自分がそのような考えに至ったのか、俄かには理解できなかった。不思議なのは、星野と寝るのと同じ重さで、ごく当たり前の選択肢として現れたことだった。

 星野とのセックスに、障害はなかった。星野は離婚し、船木は長く一人であった。その二人が酒を飲み、手をつないでホテルに入り、今があるのだ。星野にも、他の誰にも責められることはないはずだった。

 女と一夜限りの関係を結んだ場合、その女との友人としての関係が崩れることが懸念された。しかしもともと、星野と友人関係を続けていきたいなどと、船木は思っていなかった。いくつかの偶然が重なって再会を果たしたが、その偶然が訪れるまでに船木は何ら行動を起こさなかったのだ。前回だって、懐かしさと気安さを求めるふりをしながら、結局は星野と、女とセックスをしたかっただけなのだ。星野にしても、ストレスや性欲を発散するのに丁度良い相手を求めているとしても、今更船木との友情を掘り返し、たとえば定期的に会い近況を報告し合うということは望んでいないだろう。

 そこまで考えを巡らせたとき、船木は思わず立ち上がった。風呂場ではまだシャワーの音が響いていた。浴槽に湯を張っているのか、太い水流が滝壺に落ちる音もきこえる。

 船木は、二人のうちどちらかが、本気で相手を愛し始めているという可能性に気づいた。そしてその可能性があるとすれば、自分ではなく星野の方であった。

 注意深く、船木は、星野と一緒になることについて考えた。星野は、あの、海水浴場で出会って二ヶ月で別れた女とは違った。今からであっても、改めて、愛することができると思った。

 船木はまず仕事を探すだろう。自分に合っているとまでは言えなくても、合っていないところができるだけ少ない、長く働ける職場を見つける。運よく潜り込めば、そのことを感謝する気持ちも湧くだろう。次に新しく二人の部屋を借りる。家賃は今より上がり、簡単には仕事を辞めない。ともすれば月々の出費が多いほど、期限ぎりぎりで支払うほど、充実感に満たされる。転じて、仕事にやりがいさえ覚える。上司に頼まれれば残業や休日出勤に応じ、年に一度の昇給に喜び、ボーナスが出たことに喜び、休日には星野とどこかへ出かける。何かの記念日には高価なプレゼントも買ってやる。眺めの良い場所にも連れて行く。星野も、きちんと感謝の気持ちを示してくれる。当分は共働きになるだろうが、それも仕方あるまい。金が貯まればせっせと子をつくり、ファミリーカーを買い、一軒家をローンで購入し、生活を豊かにしていく。人生を、彩りのあるものにしていく——。

 慎重に、頭を絞って考えた二人の物語であったにもかかわらず、いつの間にか船木が浸かっていたのは、自分だけを飲み込んでいく沼だった。

 

 腰の動きに合わせ、目の前で大ぶりな胸が揺れている。唇が離れて目が合うと何か言ったが、大音量のBGMにかき消される。声を漏らすまいと、手のひらで自分の口を塞ぎ、苦しそうな表情を見せつけている。船木の後頭部に手が伸び、ぶつかるようなキスをする。頬と頬を合わせて、強く密着する。

 ミラーボールの光が、暗闇の中を飛び交っていた。プラネタリウムみたいだ、と船木は考える。抱きしめている女が星野であると思い込もうとして、やめた。

「やば、気持ちいい」

 キセキの幼い声がした。いきそう、と囁く声がした。粘液に水分が加わり、びちゃびちゃと音が響く。

 そのとき、仕切りの上に、坊主頭の男の顔が見えた。しかし船木の心は平常に保たれていた。気が大きくなっていることが、自分でも分かった。腰の豊かなふくらみを鷲掴み、指を食い込ませ、激しく動かした。動きが止まることは、許せなかった。自分の快楽だけを求め、唇に吸い付き、肉を叩きつける。

 俺は、絶対に、ここで、果てぬわけにはいかない。

 坊主頭が靴のままシートに踏み込むのと、船木が射精をしたのが、ほぼ同時だった。子犬のように短く鳴き絶頂に達したキセキは、船木にしがみついたまま、荒い呼吸をし、身体を震わせている。

 男は上半身が異常に発達しており、ぴったりとした長袖のTシャツでそれを誇示していた。

「お兄さん、何してるの?」

 それでも船木は、恐れなかった。目が合ってからも行為を継続したために、男の脅しの第一声が遅れたことに、満足していた。

 キセキが悲鳴に近い声をあげ、船木から離れて濡れたシートに尻もちをつく。本番行為の証拠が露わになった。船木は失笑した。外れかけたコンドームの先に、白濁した液体が溜まっている。勃起を維持しようと、尻の穴に力を入れた。この状況で勃起していることで、もっと滑稽な場面が訪れるのではないかという気がした。みんなも笑ってくれるのではないかと思った。

「ちょっと、一緒に来てもらいますよ」

 坊主頭が低い声で言い、船木の腕を掴む。その後ろには、見知った店員が立ち、携帯で誰かと話していた。

「さっき、目合ったよね。俺のこと、ナメてるよね。とりあえず行こう」

 手を振り払うと、男は身構えた。しかし船木に逃げるつもりがないことが分かると、視線は逸らさず、一歩引いた。

 船木はコンドームを引き外し、タオルで身体を拭き、服を拾って身につけた。靴を履き、背中側のベルトを掴まれた状態で、色とりどりの光線が行き交う中を歩いた。

 大部屋を出て通路の突き当り、外に続く非常扉をくぐろうと身をかがめたとき、後ろから蹴り倒された。地面についた両手と身体の前面が、ぬかるみにはまる。立ち上がり、そこがビルとビルのあいだの細い敷地であることを知る。前方は金網で、その先は真っ暗だった。

 振り返ると、肩をいからせた坊主頭が距離をとって立っていた。首を突き出し、下げた腕の先で拳を軽く握っている。両側のコンクリートの外壁と擦れるほどの肩幅だった。

「本番の罰金は百万って、分かってる?」

 坊主頭の後ろの非常扉から、黒いスーツ姿の男が現れた。薄髭を生やし、痩せた背の高い男だった。本格的に参戦するつもりはないらしく、黙ったまま、扉の前で腕を組んで片足に体重をかける姿勢になった。そのさらに向こう側には繁華街の光が差していたが、やはり金網で隔てられている。逃げ道はなかった。

 船木は天を仰ぎ見て、幅の狭い空に、月を探した。ホテルに向かう途中、満月だと星野に教えようとして、やめたのだった。

「あんな女でも、良かったよ」

 視線を下ろし、二人の男に交互に向ける。

「めちゃめちゃ気持ち良かった」

 坊主頭が背後に目配せをする。スーツの男は、姿勢を変えずに小さく頷く。

「お兄さん、罰金じゃ済まないことが決まったよ」

「お前のをしゃぶってやるから、それでチャラにしてくれよ」

 岩のような体躯が迫り、人中を殴られる。その瞬間の痛みはなく、ただぶつかり、弾き飛ばされたことが分かった。水たまりに背中を打ち、口の中で温かい血液を感じる。身体を起こそうとすると、腹を踏みつけられた。激痛に腹を抱えると足で転がされ、押さえつけられ、後ろポケットから財布を抜かれる感触があった。

 胸倉を掴まれ、引き起こされる。膝立ちの状態になると、腹にフックを入れられる。息ができず、身体を折り曲げようとするが、自重に負けて腹部が露わになる。庇いきれないところを、また殴られる。前ポケットから、携帯を抜かれた。

「船木瑛人。三十歳。お、あんた、明日誕生日じゃん」

 スーツの男の嘲る声がきこえた。瞼を上げると、坊主頭の背後で、船木の財布と免許証を手にしていた。

「これ、コピーとらせてもらうから、逃げられると思わないでね。頭金ってことで、この一万と、五千円か。もらっとくから。あとは金つくって持ってきて。三日以内」

「百万なんて、ない」

 船木が声を絞ると、男は顎髭を撫でて笑った。

「あんたが百万払えるなんて、最初から思ってないよ。ピンサロで本番したからって、法律上は罰金の支払い義務なんてない。知らないの? ただね、慰謝料は請求できるんだ。女の子、泣いてたよ。かわいそうに。あんたに迫られて、断り切れなかったんだ。精神的な苦痛に対する慰謝料、三十万。これは相場だから。弁護士に相談してみるといいよ。あんたみたいなのは、その方が話が早いかもしれない」

 坊主頭が頬を叩き、きいているのかと確認する。

「あと、この怖い人はうちの人間じゃないから。たまたま近くを通って、あんたと喧嘩になっただけだから。オーケー?」

 襟首を掴んでいた手が解かれ、船木は崩れ落ちた。

 

 目が覚め、黒いコンクリートの隙間の、細く青白い空を見た。餌を求めるカラスの声がきこえた。屍になった気分だったが、身体は動いた。みぞおちに鈍い痛みが残っており、口の中ではやはり血の味がした。

 立ち上がり、歩けることを確認する。舌に違和感があった。指で触ると、上の前歯が一本、真ん中あたりからぽっきりと折れ、先端が鋭利になっている。あたりを見回してみるが、ゴミの多さとぬかるんだ地面に、破片を探す気も失せる。

 非常扉は、昨晩の人の出入りをとぼけるような佇まいで閉ざされていた。代わりに金網についた小さな扉が開け放たれており、そこから帰れということらしかった。

 通りには、夜を明かした若者の姿があった。歩道の端のところどころに、業務用のゴミ袋が積まれている。そのうちの一つの山で、ぼろきれのような布をまとった老人が一人、袋を漁っていた。すでに食べ物を探し当てたらしく、干からびた頬がまるで尺取虫のようにうごめいている。船木が近づいても、老人は変わらず作業に没頭していた。誰かの存在を意識することを、やめてしまったのかもしれない。

 汚い格好をした、年老いた人間を見るたびに船木は不思議に思った。こいつらは、どこで、どのようにして今まで生き延びてきたのだろう。輝かしい過去があったのか、ずっとこうなのかは分からないが、とりあえず今、目の前で生きて、動いている。目で物を見ている。布で身体を隠し、食っている。多分、今日中に死ぬことはない。あの調子なら、明日もあさっても、乗り越えるだろう。数々の問題を素通りし、明日を迎えることを、何年、何十年と続けてきたのだ。そんな技術を、いったい誰に教わったのか。

 背後を通り過ぎるとき、船木はその老人に振り向いてほしいような、呼び止めてほしいような、そんな気がしていた。

 

 財布に残されていた小銭で切符を買い、電車に乗った。朝五時台の下り線の車内は空いており、泥だらけの船木を見咎める者はいなかった。久しく浴びていなかった朝陽が、座席の上の身体を温めた。

 一万五千円の現金の他は、何も盗られていなかった。銀行のカードも、免許証も、財布にあった。携帯もポケットに戻されていた。電話番号と住所を知られたのだから、放置していれば、取り立てがあるのだろう。

 携帯に着信がないことを確認して思い出したのは、星野のことだった。シャワーを浴びている星野を置いて、ラブホテルを出てきた。テーブルの上に残された一万円札を見て、あいつはどう思っただろうか。

 これで、星野との縁は完全に切れる。そのことにどこかホッとしている自分がいた。いつか俺は、宇津井に対しても、同じような感情を抱き、拒絶するのだろうか。不動産屋を何店舗も経営し、タワーマンションに住み、高級車に乗り、使わないからとブランド物の腕時計を家に置き、一方で古い友情を大切に扱う姿が腹立たしくなり、連絡を断つのだろうか。

 嫉妬や僻み、そんな言葉がぴったりであるはずなのに、自分が宇津井に対して抱く感情はそう単純ではないと信じていた。複雑で入り組んでおり誰も理解できないと考えることで、どちらが悪いのかはっきりしないまま、仕方ないと薄笑いを浮かべて、宇津井から離れていくのだ。

 免許証が手の中から滑り落ち、拾い上げたとき、記された住所が前のアパートのものになっていることに気づいた。その横には、無表情にこちらを見つめる自分がいた。

「笑えよ」

 船木はつぶやき、免許証をしまった。

 

中編小説『持たざる者』⑥

 短期の仕事は、それからも継続した。派遣会社に電話をしたり、毎日メールで届く求人情報を見て応募したりして、一日か数日ごとに現場を変えながら労働に身を投じた。

 一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、九月も半ばになる頃には、次第にその手間が煩わしくなってきた。そろそろ、長期で働ける仕事へと切り替える時期かもしれない。毎日同じ職場で、同じ人間を相手に、同じ仕事をし、決まった給料をもらう時期が来たのかもしれない。その職場もいずれ去るわけであったが、人並み以下であっても、この方法で、船木は今までなんとかやってきた。

 しかし船木は、短期であるか長期であるかに関係なく、労働そのものに対する意欲が消失していることに気づいた。何もしたいと思えない。食うためには金が必要という道理が働きかけてこない。夜には安物のワインを飲み、寝付けなかった。

 携帯の着信音で目を覚まし、壁の時計で昼過ぎであることを確認すると、船木はふつふつと笑い始めた。ベッドがきしむほど声をあげ、やがて収めた。

 俺は、事業を興して金儲けをする才覚を持たず、与えられた仕事をこつこつとこなして一つの職場に長く勤める根気を持たず、仕方なく、こんな働き方をしているのだ。世間一般にはだらしない男、甲斐性のない男と呼ばれる。どんな職場、職種であるかは関係ない。不動産の営業だろうがビルメンテナンスだろうが、いずれ逃げ出す。この無精は今に始まったことではなく、これから変わる見込みもない。であれば、できるだけ働かずに生きる道を選ぶのが賢明であるはずだ。

 しばらくは貯金を切り崩して生活しようと決めてしまうと、気分は楽になった。

 毎度思う。俺が易々と就ける仕事であっても、俺のような人間に、圧力を与え、強要しているのだと。人は働くべきである。最低でも週に五日、八時間は労働に身を捧げるべきである。三十代ではこれくらい稼いでいるはずである。働くのが正常であり、働かないのは異常である。

 このしがらみを一度でも自覚すると、無職になっても、逃げ切れはしない。いつまでも追われ、囚われる。ほとんどの人間が働きたいとは思っておらず、だがその怠け心に打ち勝って社会生活を送っている事実が突き刺さる。俺は敗北し、仕事をすっぽかして平日の昼間にベッドの中にいる。

 それでもとりあえず、生きている。

 船木は、完全に労働を放棄する。鳴り続ける携帯を放置して、天井を見つめていた。

 

 金が目減りする一方である状況の中を過ごすのは、気持ちの良いものではない。スーパーで食材を買ったり、タバコを買ったりすると、財布の中の金が減る。一万円札が千円札になり、小銭になり、最後には消える。銀行口座の残高も少なくなっていく。なぜか、調理したものを食べるときや、タバコに火をつけるときにも、金が減っていく感覚がある。金はすでにレジで一度支払っているのに、二重に搾取されている気分だった。

 食事は一日一回にした。酒は控え、喉が渇けば水道から水を飲んだ。水を飲めるだけ飲むと、酒も欲しくなくなる。酒が先だと駄目だった。

 タバコを節約しようとすると、いかに普段の自分がたいして吸いたくもないタバコを吸っていたかを思い知らされる。食材とタバコの消費量を抑えるには、睡眠時間を長くするのが手っ取り早かった。起きているとタバコに手が伸びるが、眠っているときにはそうはならない。空腹を感じる時間も短くなる。

 長く眠り、暗闇から押し出されるようにして目を覚まし、品数の少ない食事を摂る。タバコを一本、長く見つめてから火をつけ、フィルターぎりぎりまで吸って、またベッドで横になる。ときどき、外の空気に触れたくなり、ベランダに出る。それでも気が晴れないときには近くを散歩する。

 三日か四日に一度、シャワーを浴びた。身体はそうでもなかったが、頭がどうしようもなくかゆくなる。きっと、シャンプーが良くないのだ。毛穴に化学成分が残っていて、頭皮を刺激し、アレルギーのようなものを起こしているのだ。

 服を脱ぎ風呂場に立ち、鏡を覗き込む。髭が伸びているが、やつれているわけではない。皮膚が脂ぎり、表情がぼんやりしている。俗世間から離れつつある人間の顔だ。頭から熱いシャワーを浴びると、こびりついた脂の上を湯が滑っていくのが分かる。身体の内側は弛緩しているはずなのに、皮は敏感になっているのだった。石鹸を泡立て、頭からつま先までを洗っていく。足の指のあいだまで丁寧に擦る。桶に湯を溜め、髭を剃る。

 再び、シャワーを浴びる。脂と泡と混じり、足元のタイルを打つ。うつむいて、閉じていた瞼を上げる。排水口で渦を巻く泡の白さに、船木は目を奪われる。自分の身体を洗い流した石鹸の泡は、雑巾のしぼり汁のような混濁を見せるに違いないという思い込みに騙されたのだった。シャワーヘッドを掴み放水を向けると、泡沫は砕けて金属の網の目に沈んでいった。

 風呂場を出て身体を拭き、部屋に戻って畳の上を歩く。下着を身につける。Tシャツを着て、ジーンズを穿く。こんなことで気分がさっぱりするのは、人を少しでも死から遠ざけるためであろうか。こんなことを考えてしまうのは、生への渇望が薄れているからであろうか。

 ベランダに出た。頭上にはうろこ雲が広がり、はるか彼方まで続く。砂浜には、また今日も新しいゴミが流れついている。十月に入ると、迷い込んでくる者もいない。夏は去り、気配さえ消したのだった。

 軟風が身体を撫で、寒さを感じた。しかしそれは厚手の服を羽織って解消される寒気ではなさそうだった。大風邪をひき、夜中に布団の中で丸まっているときに襲われる無力感を孕んでいた。

 ベッドわきに放置された携帯が鳴った。無断欠勤をした日に派遣会社から何度か着信があった。といっても、それも三十分程度のことだった。無視していたら、ピタリと鳴らなくなった。船木が来ないことが心配だったのではない。労働者が一人足りないことに困っていたのだ。

 あれからもう、三週間が経っていた。携帯を拾い、開く。電話の主は、星野咲だった。唾を飲み込み、通話ボタンを押す。

「あ、今日は休みなの?」

 電話に出たことが意外だった様子で、星野は言った。

「メアド見て思い出したんだけどさ、船木、明日誕生日でしょ。今日の夜とか、飲みに行かないかなと思って。前祝いってことで」

 船木は部屋を見まわした。しかしそこにカレンダーやそれ以外の日付を示すものはなかった。壁掛け時計は、午後の二時を指していた。久しく見上げていなかった時計の佇まいは、安物のプラスチックであることを思いつめるように自信なさげだった。船木は秒針を凝視し、規則的に動いていることを確認する。

「俺と飲みに行くって?」

「え? うん、船木と飲みに。今日は忙しい?」

 いいや、と船木は声を出す。今までに、俺は忙しい時間をすごしたことがあっただろうか。しかし仕事を終えて迎える余暇、無職の期間、いったい何をしていたのか思い出せなかった。ただずっと、ずっと、疲れていた。

「じゃあ行こうよ。なんか私もさ、ぱあっと飲みたい気分なの」

 その一見強引にきこえる誘い文句には、自身に対する薄っすらとした困惑の影があった。これまで見下ろしていた相手に今回ばかりは頼らざるを得ないときに生じる惑いだった。逡巡の末、なんらかの観点から、船木以外の人間が除外されたのだ。

 船木の腹で、この女とセックスをしようという決心がついた。突然生まれた考えではなかった。以前から存在しながら、船木自身によって隠されていた。焼鳥屋で飲んだときも、俺は、ただやりたかっただけなのだ。かつて抱いた恋心に言いくるめられて、善人を気取っていた。星野の乗ったタクシーを見送り、その足でキセキに会いに行った。

「おごってくれるなら、行ってもいいぜ」

 冗談めかしてではあっても横柄な言葉を返したのは、確認のためだった。星野はどれくらいの強さで、俺と会うことを望んでいるのか。そして飲んだあと、セックスはできるのか。

 結果、電話越しに星野は笑った。やや呆れの色が混じっていたが、それが前面に押し出されなかった事実は、船木の見立てが正しいことの根拠となった。

 待ち合わせ場所として、船木は歓楽街に近接する駅を指定した。歩いて行ける距離に、ラブホテル街がある。そこで星野と交わりさえすれば、あとのことは、どうでもよかった。

 

 すぐに家を出た。部屋の中を無意味に往復したり、タバコに手を伸ばしては引っ込めたりしていては、自らの決意が揺らぐ予感があった。

 国道沿いを歩いても、見かけるのは老人ばかりだった。平日の午後二時過ぎ、仕事のある者は職場で汗水を垂らしている。仕事のない者は家に籠っているか、街に出ている。子どもは学校だ。夫や子を送り出した妻も、スーパー以外に足を運ぶ先がない。戸建の住宅街が広がる丘と鈍色の砂浜に挟まれた細長いこの地域は、古くから住み子に出ていかれた高齢者と、土地や家賃の相場が安いという理由で集まってきた若い世代で成り立っていた。

 三年前、船木は家探しを宇津井に依頼した。当時住んでいたアパートは街なかにあったが、その取り壊しが管理会社から通告されたのだった。家賃が安く街に出やすいところと要望を伝え、宇津井が持ってきた一件目が、船木が今住む物件だ。

「こんなの、なかなかないぜ? 静かだし」

 他に言うことがなかったのか、宇津井は窓を開け放して海と砂浜を披露した。

「敷礼もゼロだし」

 宇津井は鉄柵に手をつき、振り返った。船木の曖昧な記憶の中で、塗料の剥げた手すりを握る拳は、ベランダの崩壊を恐れているかのようにこわばっていた。

 自宅だけではなく、この潮臭い一帯からも早く離れたがっていることを、船木は意識した。強い人工の光と、喧噪と、数多の人の顔と、誘惑と、十把一絡げの欲望に満たされた街に、一刻も早く紛れ込んでしまいたかった。

 

 普通電車に二十分揺られて到着した駅には、船木が求めていた人ごみと喧噪が用意されていた。これから刻一刻とこの景色が色濃く無秩序になり、約束の六時には自分が活き活きと泳ぎ始めるのだと思うと期待に胸が膨らんだ。

 先ほどまでの焦燥感は船木の外に追いやられ、消えていた。星野との待ち合わせ時刻までまだ三時間あったが、そのこともまるで期限のない休暇のように、船木の心に余裕を持たせた。

 人と店を眺めながら、駅のまわりを適当に歩いた。目にする誰もが目的を持っているようであり、船木はその一点で彼らに共感を覚えた。人は皆大小の課題を抱え、それをこなすことで時間を消費し、生きている。生き方に貴賤はなく、勤め人も遊び人も、一生懸命に人生を先へ先へと進めているのだ。船木は目の前に広がる人びとの中に、強盗犯や異常性愛者が混じっていてもいいと思った。混じっているのが至当だと肯定すべき使命感に駆られた。

 通りを抜けると、その先は人流が分散しオフィス街が広がっていた。道を一本外れ、スナックや喫茶店が並ぶ景色の中を歩く。猫と鼠を、一匹ずつ見た。割れた看板と、スプレーで落書きされた自動販売機を見た。

 久しぶりに雑踏にもまれ、身体は休息を求めていた。だが気力は萎えず、星野と酔い、そして交わることを今か今かと待ち望んでいる。ここで酒を飲むことはもちろん、喉を潤すことさえ憚られる気がして、船木は目についたビデオボックスに入り、二時間分の代金を前払いした。陳腐なタイトルとけばけばしいパッケージのハリウッド映画を選び、個室に入ってDVDプレーヤーに挿入すると、シートに寝転がってリモコンで再生ボタンを押し、目を閉じた。

 

 星野より先に待ち合わせ場所に到着しようと、予定より早めにビデオボックスを出た。

 数時間前の電話では、星野の真意を推し量るため、また自分自身の決意を明確にするため、船木は不遜な態度に出た。しかし、いよいよという段になって臆病風が吹いた。待たせることが、わずかであれ星野の熱を冷ましはしまいかと心配したのだ。ここからは、思いやりのある男へと切り替えるべきだと思った。

 一方で、引き続き星野に対して皮肉屋の態度で接してみたいという欲求も捨てきれなかった。そこには船木がラブホテルでの情事を念頭に置いていることが作用していた。酔いの回る前から牽制しておき、その関係をセックスにも持ち込むのは悪くなかった。あるいは、ホテルに入ってから自分が豹変したり、星野が急にしおらしくなったりする展開も、ありきたりではあったが船木の心をくすぐった。

 夜に向けてすでに走り出している者、走り出そうと躍起になっている者が、通りにあふれていた。五時四十分、船木は駅の北出口に到着する。待ち合わせ場所になることを想定して設計されたであろうスペースには、待ち人たちがスマホを見つめて等間隔に立っていた。船木がそのあいだに入り込むと、均衡を保とうと彼らは一歩二歩、振り子のように移動した。

 何分もたたぬうちにエスカレーターで下りてくる星野を発見したとき、船木は思っていた以上の高ぶりを意識した。星野は膝丈のスカートにシルク地の濃紺のシャツを羽織り、小さな革製の鞄を肩から提げていた。約束の時刻である六時より十五分以上早くに現れたこと、前回の仕事帰りのときよりもシックな装いであることは、星野の意気込みの程度を正確に表しているようだった。

 目が合っても、星野は表情を変えなかった。色褪せたポスターにわけもなく歪んでしまったような物憂げな面持ちを、エスカレーターから船木へと向け続けた。しかし地上に降り立ったときには、ついに耐え切れず足元を確かめる仕草でうつむいた。

 船木が歩み寄ると、星野は下向きの顔を、最後のカードをめくるようにして見せた。そこには一転、揺らぎ続けた気持ちに何らかの決定を下したときの爽やかさがあった。

「魚、好きか?」

 船木の一言目で、星野は普段の調子に戻ったように無垢な笑みを浮かべる。意外性を伴う返答や提案が星野を面白がらせることを、船木は学んでいた。

「好きだよ。魚食べたいの?」

「店、予約しといた」

 え、と口元に手をやる星野に、船木は気障な表情を作って見せた。続いた軽い声を背に、駅を出て歩き始める。

「船木も予約とかできるんだ」

「うまいかどうか、分からないぞ。行ったことない店だから」

「美味しいよ、きっと」

 繁華街のメインストリートに出ると、人の流れが正面からぶつかり合っていた。船木は星野の気配を確認しながら、そこに紛れ込んだ。ポケットに手を入れて、歩みを緩める。

「今日は、仕事休みだったのか」

「うん。有給取ったの」

「仕事は、忙しいのか」

「それがさあ、別に忙しいってわけじゃないんだけど、最近上司がかわって、前の上司と全然やり方が違うから大変。すごく細かい人でさ、正しくない、ルールと違うって言って、いろいろ変えちゃうのよ、根本から。それまでのやり方でうまくいってたのに」

「そういうことって、あるよな」

 星野を連れて街を歩きながら、自分が落ち着いて話せるのは、予め店を選び、予約を済ませていることが影響しているらしかった。少し先の未来を定めるだけで安心が手に入ることを、これまでの自分がまったく考えもしなかったような気がした。

 見当をつけて横道に折れ、記憶した地図を頼りに進むと、目的の店は難なく見つかった。ウッドデッキの上で、青と白の縞のテントを軒先に張り出している。三段きりの階段を上がり、店内に入って名前を告げる。

 奥まった位置の丸いテーブルに案内された。半分ほどの席が埋まり、すべてが若い男女のカップルだった。

 飲み物と料理の注文を済ませると、船木はタバコに火をつけた。それを待っていたように、星野が鞄から加熱式タバコを取り出す。

「最近ね、ときどき吸うの」

 船木が何もきかないうちから、星野は説明した。細く短いタバコを手早く本体に差し込み、口をつけて吸う。すぐに煙を吐き出した仕草には、喫煙を早く自分のものにしてしまいたいという子どもっぽさがあった。

「イライラしてんのか。さっきの上司のことで」

「そうなのかもね。なんだかそんな理由じゃかっこ悪いけど」

「タバコ吸うのに、立派な理由持ってるやつなんていない」

 星野は煙を吐き切ってから、しばらく無表情で船木を見つめた。そして手元にあった灰皿をテーブルの中央に押しやった。

「船木って、人が忘れていることをちゃんと覚えてるよね」

「タバコのこと?」

「違うよ。私が魚を食べたがってたこと」

 最近魚を食べていないなあと星野が焼鳥屋でこぼした一言を、船木は覚えていた。ビデオボックスのパソコンでこの店を調べ、予約したのだった。

「船木ってさ、欲しいものとかあるの?」

 星野が、思い出したように言った。

「買ってくれるのか?」

 だらしない色男になったつもりで、船木は問い返す。

「そうだそうだ、誕生日、おめでとう。明日だけど」

 星野は本気で焦った様子で、加熱式タバコをテーブルに置いて姿勢を改めて言った。

 口の先で礼を言いながらも決まりが悪く、船木はタバコを灰皿の縁で何度も叩いた。本当なら、屈託のない子どものような、期待したものが当たり前に手に入ったような態度でいたかった。

 ビールが二つと、付き出しが運ばれてくる。乾杯のときに、また星野が祝いの言葉を口にした。

「プレゼントはここのごはん代ってことにしてさ、船木にも物欲みたいなものあるのかなって」

 ああ、と船木は質問を受けていたことを思い出す。

「金の延べ棒かな。でかいやつ」

「真面目に答えて」

 星野の眉間に、皺が寄った。船木はその浅い谷を、手を伸ばして広げてやりたいと思う。

「なんだろうな」

 頭では、車や時計のことが浮かんでいた。しかしそれは一般的な、いっぱしの男が欲するべきものだった。船木は、車や高級時計を手に入れようとも、手を動かそうとも、視線を向けようともしてこなかった。

「なんにもないの?」

「ちょっと待て。今考えてる」

 何か答えなければならないという強迫観念じみたものが、ゆっくりと船木に近づいていた。欲しいものの一つくらい、昔はあったはずだ。

「なければいいのよ。それも船木らしいし」

 同情の気配の混じった諦めの言葉が、船木を追い詰める。頭が蒸れ、口が渇く。意固地になることではないと分かっていながら、抵抗しないわけにはいかなかった。

「女かな」

 気づけば、そう口にしていた。どんな反応が待ち受けているのか、予想がつかなかった。すぐに、答えを間違えたという不安に襲われた。不安は苦笑となり、なぜかそれを星野に伝えたいと思い、顔を上げる。

「何よ、それ」

 くだらないというように顔をしかめてから、星野はビールに口をつけた。グラスの中で、口元が隠しきれずに緩むのが見えた。

 店員がテーブルの横に立ち、ホタルイカの酢味噌和えです、刺身の盛り合わせです、アジの南蛮漬けです、と簡単な説明を添えながら料理を並べる。星野はいちいち頷いて見せ、店員が去ると箸を取った。そして一皿ずつ手をつけ、美味しいと言った。

「美味しいよね?」

 箸を止めた星野が、船木を覗き込んで言った。

「うまいよ」

「黙ってるから、美味しくないのかと思った。美味しいなら美味しいって言った方がいいよ」

 星野は船木の反応を待つことなく続ける。

「最近、どうしてたの?」

 派遣の仕事が嫌になって放り出し、何もせず家でぼうっとしていたと船木は答えた。星野はそっかあと声を漏らし、それ以上の説明を求めなかった。一つ前の、所帯じみた台詞を取り消したいようだった。

 テーブルに静けさが訪れ、まわりの席の声が迫ってきた。相手の素顔を詳しく知りたがり、自分の親切をさり気なく伝えたがる、純愛と打算の入り交じった会話がきこえる。これから仲を深めようとする男女の声は、何もかもがうまくいくと信じ切っているように響いた。

「その上司って、どんな奴なんだ?」

 女を落とす手本が天啓として与えられたかのごとく、突然、船木は星野の愚痴をきいてやろうという気を起こした。まわりにいる小じゃれた格好をしているどの男よりも、親身になって耳を傾けようと思った。

 星野は虚を突かれた顔を見せてから、堰を切ったように、その新しい上司がもたらす堅苦しさについて喋った。広報の業務内容に知識のない船木は、話の腰を折ることはせず、相槌を打ち、共感の言葉を並べ、適度に酒と食事を進めた。上司の姿形を想像し、頭の中で星野やそのほかの社員に厳しく当たる情景を思い浮かべた。彼らは活き活きと動き、怒り、落ち込み、励まし合い、きれいなオフィスで忙しくしていた。

 上司の容姿にまで悪態をついたあと、喋り過ぎた後悔の色を浮かべた星野は、

「まあ、いいところもあるんだけどね」

 と言ってタバコを灰皿に捨てた。

 追加で注文した料理を食べ終わる頃には、星野の頬は艶を帯びていた。薄紙を押し付ければ貼りついてしまいそうな皮脂は、本人が知らぬ間に内側から染み出た健康的な欲のようであった。

「船木は、なんで離婚したのかきかないね」

 皿が下げられると、星野は広々としたテーブルに肘をついて言った。

「それ知って、どうすんだよ。それにその話、今日は出てないしさ」

「普通は、最初に報告したときにきくよ。おそるおそるって感じで、けど必ず。船木、私に子どもがいるかどうかも知らないでしょ」

「いるのか、子ども」

「いないよ」

 星野は素っ気なく答える。

「やっぱり、きいた意味ないじゃないか」

「あるよ。これで私に、子どもがいないってことが分かったでしょ」

「まあ、あれか、礼儀みたいなもんか」

 交換された灰皿に、船木は最初の灰を落とす。新しいビールをひと口飲む。店員が去ると、星野は時間を置いて、口を開いた。

無精子症だったの」

 酔いが混じりぼんやりとした視界に少しでも長く浸るべく、船木は瞬きを堪えようとした。しかし意識するほど目は乾き、瞼が素早く上下する。

「別にそれだけが理由ってわけじゃないだろう」

 船木は、テーブルの真上に垂れる電球を見つめて言った。自分が多くの真実を知っており、しかし肝心のところが抜けているような、そんな気がしていた。

「ううん。それだけ。それ以外に、なんの不満もなかった」

 耳と頭が、おかしくなった。男女の声、有線から流れる音楽、食器がぶつかる音。その音という音が床に落ち、混ざり、はじけ飛んだ。耳から侵入し、頭の中で響いているものが、どんな意味を持つのか、なんなのか、分からなくなる。

 子どもの頃、祭の雑踏の中を進みながら、地面のない夢の中を歩いている感覚に包まれたことを思い出す。誰も自分に気づいてくれない。存在を認識していない。ぶつかりそうになるが、すれすれのところで避けていく。もしぶつかっても、身体がすり抜けてしまいそうな浮遊感。あのとき俺は、迷子になっていたのだろうか?

「出よう」

 船木は伝票を掴み、レジに向かった。店員が計算をしているうちに、星野が駆け寄ってきた。肘で船木の身体を遮り、財布から一万円札を取り出してトレーに置く。

「私が出すって言ったじゃん。前も、ご馳走してもらったんだから」

 船木は財布をしまい、会計を星野に任せた。

中編小説『持たざる者』⑤

 電車を降りたのは、自宅の最寄り駅ではなかった。

 私鉄と連絡するその駅の構内も、駅を出た通りも、人工の光で溢れ、人でごった返していた。帰路につく者、まだまだ飲み足りない者、飲みたくないのに帰れない者、あてもなくさまよう者、何かが起きるのを何もせずにじっと待つ者。

 ドラッグストアの角を曲がり通りを外れると、明かりの数が途端に少なくなる。しかし代わりにその一つひとつが、どぎつい色と最大の光量で男たちを引きつける。スーツを着崩し、たっぷりと整髪料をつけた客引きの男がぽつぽつと店の前に立つ。

「お兄さん――」

 船木は足を早め、その声を振り切る。やがて薄汚れた細いビルが現れると、迷わず階段をおり地下へと進む。黒服が奥から出て来る。

「ご指名はありますか?」

 キセキさんで、と船木は告げる。時間を決め、先に金を払う。BGMの流れる待合室に通され、ソファに座る。他に客がいなくても、必ずここで待たされた。

 黄色い壁には、年齢とスリーサイズが添えられた女の写真が並んでいる。キセキのプロフィールには二十歳と書かれていた。本当は二十二歳だと以前に本人からきいたことがあったが、船木にはその詐称にどれほどの効果があるのか分からない。

 五分経ち、黒服に呼ばれる。短いL字の通路を抜けて遮光カーテンを潜ると、BGMの音量が跳ね上がり、ミラーボールの回る大部屋が現れる。左右には胸の高さの壁で隔てられた二畳ほどの空間がずらりと並んでいる。暗闇と光と音楽の隙間から男女のささやき声がきこえる。時おり、あえぐ声が混じる。

 区切られた小さな空間のうちの一つに案内され、黒服が去ると、船木は合皮のフラットシートに仰向けに寝転がった。大音量が振動として身体に響いてくる。天井は配管がむき出しで、その全てがタールのようなべっとりとした黒で塗りつぶされていた。

 星野とは、十時すぎまで飲んだ。焼鳥屋を出たとき、足取りのおぼつかない星野が、船木の肩に手を置いた。反射的にその手を掴みかけた船木であったが、ブラウスの背中を手のひらで支えるに留めた。初めて、星野に触れた瞬間だった。

 身体を支えながら駅に向かって歩くあいだ、星野のマンションまで送ることを考えた。しかし送れば、帰らないだろう。その二つの行程は一連であるべきという考えが自分の中に存在することを、船木は知らなかった。躊躇っているうちに、星野が乗ったタクシーのドアが閉まった。

「あーん、瑛ちゃん」

 視線を向けると、スイングドアからキセキが入ってくるところだった。下着のような薄地のドレスをまとい、サービスの生ビールを持っている。

「もう来てくれないかと思った」

「なんで?」

 船木は笑いながら尋ねたが、キセキにはきこえていないようだった。シートにあがり、横になったままの船木の脇に座り込む。

「でも俺、来たよ」

 船木は言葉を変えた。

「うん、だからうれしいの。はい、ビール。お疲れさま」

 身体を起こし、受け取ったビールを半分飲んで差し出す。

「あと、飲めよ」

「いいの? って、ちょっと期待してたけど」

 キセキはジョッキを両手で持ち、二回に一回こぼす幼子のように、そろそろと傾けた。傷だらけのジョッキの中の黄金が、半裸の女の唇へと流れ込んでいく。途中で口を離し、船木を見る。

「全部飲めよ」

 キセキはだらしなく笑い、ビールを最後まで飲み干した。

「ごちそうさま。今日はお仕事だったの?」

 船木の返事を待たずに、キセキが腰にまたがる。ジョッキを棚に置いた腕が、船木の首に伸びてきてからみつく。甘いにおいを漂わせる。豊かな胸が、船木の顎先に迫る。

「こっち見てよ」

「見てるよ」

 船木は胸の谷間から目を逸らさずに言った。

「違う、喋ってるのこっち」

「そうだったのか」

「お疲れさま」

「さっききいたよ」

「本当に思ってたら何回言っても良くない?」

 キセキは言い、船木の頭の後ろに手を添えて、舌を出して深いキスをする。

 

 二回目の射精をしたとき、船木は汗だくになっていた。シートに押し倒してからのほとんどの時間を、キセキへの愛撫に費やした。

 船木がティッシュボックスを取ってやると、キセキは何枚も重ねたティッシュに口の中のものを吐き出した。

「あー、もうびしょびしょ。ごめんね」

 恥じらう表情を見せ、キセキはシートの上に溜まった水分をバスタオルで拭き始めた。タオルの吸水性が悪いのか、シートの撥水性が高いのか、表面張力で輪郭のくっきりとした水たまりが広がってしまう。船木はティッシュを手に取り、拭くのを手伝った。

「私たちってさ、相性良すぎない? 私、普段潮なんて噴かないよ」

 船木は下着だけ穿き、壁にもたれてタバコに火をつけた。

「なんでそんなに上手なの? 彼女いないって嘘でしょ。それか、取っ替え引っ替えしてるか。ねえ、他のお店、行ってない?」

「ここだけだ」

「本当? ——え、ちょっと待って。ここだけって何? 店の他の女の子とは遊んでるってこと?」

 キセキをからかうとき、船木は心からリラックスしている。口数の多い女は苦手なはずだったが、八つ年下の風俗嬢との四十分間は、むしろ心地よい時間だった。この店に通い始めてから、一年が経っていた。

「ここの女の子も全員試したけど、やっぱりキセキが一番だ」

「もう、サイテー」

 真面目くさった船木の表情に、キセキは瞬時に冗談だと理解してくれる。俺にはもしかしたらこの女が合っているのかもしれないという考えは、持つたびに捨てていた。風俗嬢と客なのだ。

 それに、そうでない関係であったとしても、船木には一人の女を、さまざまな意味で、また最終的に、満足させる自信がなかった。

「ねえ、今度ゴム持ってきて」

 別れ際、キセキが耳元で言った。

「ゴム?」

「エッチしよ」

 少女のように前歯の先を見せた囁きが、船木を黙らせる。

「大丈夫、バレないから。みんなやってるし。約束だよ」

 キスをして、カーテンを潜る。暇そうにしていた黒服の張り付いた笑顔をやりすごし、威勢のいい声を背中できく。

 地上に出ると、顔を赤くした五十代くらいの三人組がいた。どの店にするかで意見が割れているらしかった。船木はそばを抜け、駅に向かった。

 

 毎年、夏が終わる頃になると、アパートの裏手の砂浜に若者が迷い込んでくる。

 たいていが一人で、泳ぐつもりはないらしく、服を着たまま波打ち際を歩いたり遠くを眺めたりして一時間ほどすごす。途中、忘れていたというように、手足を海水で濡らす。帰るときには、足についた砂を丁寧に払い落とすくらいの余裕を取り戻している。

 彼らは、陽射しの似合うとびきりの海を求めているわけではなさそうだった。去り行く夏の残り火を求め、ちょうど何かの終焉のような姿をしたこの砂浜に吸い寄せられているようだった。八月下旬になってもにぎやかな海水浴場を横目に、振り向くまいと努力して通り過ぎてきた彼らを思い浮かべた。

 十九の夏、アルバイト先の同僚たちと海に行った。誰かが三人組の女子大生をナンパしてきた。ビーチバレーをして焼きそばを食べ酒を飲み、船木はそのうちの一人と寝た。短大で心理学を専攻する、おとなしい女だった。なんとなく付き合うことになり、きっちり週に一回のデートを繰り返し、二カ月後に別れた。船木の誕生日の当日だった。「何をあげたら喜ぶのか見当もつかないの」と女は震える声で、ありもしない手料理をぶちまけるように言った。

 相手が星野であれば、あんな台詞は言わせなかっただろう。共にすごす時間を大切にし、愛されようとしただろう。努力が無駄になるかもしれない、適切ではないかもしれないと不安に思いながら、力まずにはいられなかったはずだ。好きなものと、嫌いなものを尋ねる。何を考えているのか教えてほしいと伝える。自分の気持ちを声にする。他の男との恋愛の機会を心配する。慎重を期して迎えたベッドの中で、腹の底から噴き出る喜びを感じる。別れを告げられたときには、暗闇に突き落とされる。自殺が頭をよぎったかもしれない。

 船木は憤った。どうして空想の中で、星野と離れ離れになるのか。それも、自分が捨てられる側なのか。俺という人間は、そこまで自虐的な考えに支配され、生きていかなくてはならないのか。願いは決して叶わない男なのだろうか。望めば最後、山の頂へと一歩を踏み出しても、二歩目で滑り、もといた場所を通過し、谷底へと転げ落ちていくしかないのか。

 また一人、砂浜に人影が現れる。黒っぽい長袖Tシャツと長ズボン姿の男は、風に煽られるように斜めに進み、波打ち際にたどり着く。打ち寄せる海水が靴を濡らさないことを確認し、ポケットに手を突っ込み、沖を向く。

 男の存在は、船木に不快感をもたらした。孤独と不幸を自らに証明し、周囲に見せつける後ろ姿はこれまで何度も目にしてきたが、今はなぜか腹が立った。奴はわざわざ普段見向きもしない静かで汚い砂浜を選び、傷を癒そうとしている。何かを忘れようとしている。心の平穏を取り戻そうとしている。ちょうど雲が立ち込めてきたことにも、きっと満足している。新たな幕開けに向けてのいい演出だと思っている。溜まっていた嫌なものを暗い海にまとめて捨て、自分の住む世界に戻って陽の光の下でやり直そうとしている。

 ベランダから部屋に戻り、畳に寝そべる。擦り切れた畳が、ふくらはぎをチクチクと刺した。体勢を変え、リモコンでテレビを点ける。32型の薄型テレビはこたつテーブルの上に載せるわけにもいかず、壁際の床に直置きしていた。

 ワイドショーで、どこかの大学教授が喋っていた。要点をまとめたボードを示して少子化の原因を説明している。仕事と子育てを両立できる環境整備の遅れ、経済的不安、結婚や出産における価値観の変化。司会者が唸り、コメンテーターに意見を求める。派手なスーツを着た中年女は迷うそぶりなく言う。重要なのは、国民一人ひとりが、少子化問題を自分の問題として捉えることです——。

 それはどこか遠い場所での高説のように響いた。経済が停滞するだとか、年金が減るだとか未来の話をされて、ではそれを回避するために結婚し子どもを作ろうとする者がいるだろうか。心配が及ぶのはせいぜい自分や自分の子どもの生きているあいだのことであり、しかし生きている人間は明日死ぬかもしれないと口には出さずとも本能的に理解している。漠然と未来を想像できるだけで、百年後の経済や誰かの生活のために、現在の自己を犠牲にするほどの理性はない。

 テレビのスイッチを消し、自分が人類最後の一人になることを考える。俺は、水と食料を探すだろうか。それとも、死を受け入れて地面に横たわるだろうか。そのときの俺は、いったい何を望んでいることになるのか。諦めることになるのか。

 

 宇津井の経営する不動産屋は駅からほど近い一等地にあった。五階建てのビルの一階で、大きなガラス窓から広い店内が見渡せた。三組の客が、カウンター越しに営業マンと話し込んでいる。

 船木はドアを押し、受付の女に名前を告げた。

「船木様ですね。少々お待ちください」

 大学を出て間もないように見える若い女は、感じのいい笑みを浮かべて奥に引っ込んだ。

 流線形の硬い椅子に腰かけて店内を見回す。船木が知る不動産屋とは違い、書類棚も、分厚いファイルも、鼠色の事務机も見当たらなかった。壁紙は木目調で、足元には不規則な形をしたタイルが敷き詰めてある。天井の照明とは別に笠つきの電球がぶら下がり、営業マンの手元を照らしている。彼らは皆、皺のないきれいなスーツに身を包み、高そうな腕時計を巻き、額を見せた清潔感のある髪型をしている。マウスをすばやく操作し、モニターで物件情報を表示しては、客の反応を確かめる。

 やがて受付の女が呼びに来る。船木をカウンターの中に招き、壁のあいだの通路を先に立って歩いた。背の低い女で、頭のてっぺんを覗き込めるほどだった。分け目から、皮膚とは思えない白い一直前の地肌が見えた。

 突き当りの階段をのぼり、二つあるドアのうちの一つを引いた女は、手のひらで中を示した。船木はそこから切り替わったカーペットを踏みしめる。陽が広く射し込む、余計な装飾のない部屋だった。

「よう」

 船木が気づくより先に、一つだけあるデスクのパソコンモニターの影から宇津井が顔を出した。ワイシャツ姿で、ネクタイもしていない。女が一礼し、ドアを閉めた。

「悪いな、せっかく連絡くれたのに、午前中はちょっと手が離せなくてさ」

 デスクの隣には応接セットがあった。宇津井が奥のソファに座ると、船木もその向かいに腰を下ろした。

「暑かったろ。なんか飲むか?」

「ビール」

「ないよ、さすがに」

 宇津井が、その冗談に慣れた様子で言う。上半身を伸ばして、小型冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを二本取り出し、ガラス製のローテーブルに置く。

「メシ食ったのか」

 ああ、と船木はほとんど無意識に嘘をつく。しかし腹は減っていなかった。

「お前、最近時計してないよな」

「もうずいぶん前からだよ」

 宇津井はペットボトルの蓋を開け、一口だけ飲む。船木も同じようにする。

「売っちゃったのか?」

「一応まだ持ってるけど、考えたら邪魔だなと思って。スマホあれば時間分かるしさ」

 そうか、と船木はあまり納得しないまま声を出し、センター分けの艶のある髪を眺めた。

「なんだよ、瑛人にしちゃ、変なこときくんだな」

 宇津井は片側の口角を上げ、シャツの胸ポケットからピースを取り出し着火する。ジッポーをしまいかけ、顔の横に掲げてクルクルと回す。

「そういや、前、ありがとな。ちゃんと礼を言ってなかった」

「一本もらっていいか?」

 差し出されたタバコを受け取り口に咥えると、宇津井が火をつけてくれた。背もたれに身体を預けて、深く吸った。バニラの香りがあたりに漂っていた。二人の頭上で煙が合流し、天井の空調機に吸い込まれていく。

 宇津井が用件を尋ねてこないことが、もどかしかった。しかし同時に、それが宇津井の気遣いによるものだということも分かっていた。これまで数えきれないほどの配慮を、きっとこの男はしてきたのだろう。そして俺は、おそらくその大半を見落としている。

「そういや、星野に連絡したか?」

 時間をかけて考え、船木は首を横に振った。事実を口にすれば話が長くなることは目に見えていたし、本題を切り出せなくなるかもしれなかった。

「前にさ、営業欲しいって言ってたよな」

「え? ああ」

 宇津井は喉を鳴らし、テーブルの上の灰皿でタバコを叩く。

「やってみようかなと思って」

 一音が喉から洩れるごとに、吐き気が増した。次に、顔の筋肉の震えを感じた。自分が下手な作り笑いをしている気がして、手のひらで頬をさすった。

「やってみるって、瑛人が営業を?」

 ああ、と船木は答える。

「うちで?」

「そうだ」

 宇津井は深く考え込むように眉間に皺を寄せ、視線を膝元に落とした。船木は長い沈黙を覚悟したが、その緊張は数秒で、あっさりと解かれる。

「今、営業マンは足りててなあ」

 突き付けられた朗らかな表情と声に、船木は反応できない。十分に予想できた返答に対して、なぜか言葉を失っていた。

「もともと出入りは激しい業界だけどさ、今うちにいるのが結構頑張ってくれてんだ。あと先月、駅の南側にも出店したからさ、そのときに採りすぎってくらい採用しちゃって――」

「いや、いいんだ」

 船木は相手の説明を遮って言い、手のひらをかざした。

「もし困ってたらって思っただけだから」

 自分がまるで、宇津井のような仕草をしたと思った。腕を下ろしたとき、タバコの先の灰が床に落ちた。靴の先で、カーペットに擦りつける。顔を上げると、宇津井がこちらを見ていた。

「悪いな」

 その謝罪を最後にするというように、宇津井は肘掛を掴み勢いよく立ち上がる。

「瑛人も昼メシ行かないか? 何かつまむか、ビールでも飲んでりゃいい」

「いい。食いすぎたんだ」

 船木はタバコの火を消しながら答え、自分が朝から何も食べていないことを思い出す。立ち上がると、目の前に宇津井の顔があった。どちらも口を開かず、近い距離で向き合っていた。

 船木は、何かが二人のあいだで歪み始めている気がした。耐えられずに目を逸らし、ドアへと向かう。

「瑛人」

 何度も耳にしてきた声に、その主が宇津井でないことを祈る寂しさを感じながら振り返る。

「こっちの方が早い」

 部屋の反対側で、宇津井が別のドアのノブに手をかけていた。空想の物語に出てくる案内人のように、開いたドアを支えて四角い景色を見せる。外付けの非常階段に続く出口だった。

 ふわふわとした足取りで、宇津井が示す方へと進む。踊り場に立つと、空き地を挟んで向かいに建つ古いビルが見えた。その外壁に張り付くおびただしい数の窓と室外機に、船木は自然界に時折り現れる規則的な模様を見たような気味悪さを感じた。

 宇津井が階段を下りていく。船木は、自分の足の裏が鉄製の板を踏みしめていることを意識しながら、宇津井のシャツの縫い目に視線を固定する。

「瑛人はあれか、仕事探してるのか」

 背中越しに、よく通る声が響く。宇津井の声量はいつも、ひと目盛り単位で調整しているように的確だった。

「まあ、そんなとこかな」

「正社員で?」

「一応」

「ビルメンテナンスの仕事だったら、紹介できると思う」

 歩道に降り立ったところで、宇津井は振り返った。また、真っすぐに向き合う形となる。俺たちは、いちいちこんなふうにして喋っていただろうか。

「ビルメンテナンス?」

「清掃と設備管理が主な業務。電気とかエレベーターの資格も取れる。社長は若いけど、信頼できる人間だ」

「いやあ、掃除とか資格取るとか、苦手なんだよ」

 不義理は、承知していた。宇津井が怒りだすか、呆れて愛想を尽かすということも考えた。だが船木は、冗談めかした、身勝手な返答をせざるをえなかった。戒められるべき振る舞いによって、自身の傲慢が白日の下にさらされることを望んでいた。

「感電死するのも嫌だし」

 それでも宇津井は、その表情を、記憶を一つ一つ掘り起こして自らの落ち度を認めるものへと変えていった。

「確かに、瑛人にモップは似合わないかもな」

 船木にはもう、この場で発するべき言葉が残っていなかった。しかしそれを宇津井に気取られるわけにはいかなかった。

 翌朝に顔を合わせることが決まっていた中学時代の気安い視線を投げかけ、じゃあなと声を振り絞り、身を翻し駅へと歩き出した。

 

 電光掲示板でちょうど普通電車が出たばかりであることを知ったとき、船木は懐かしさのある、十代のような急な空腹を覚えた。そして、このまま帰る気分ではないことに気づいた。

 高架下に並ぶ店舗の中で古い喫茶店を見つけ、一番奥のテーブル席に腰を落ち着ける。栓が抜けたように、疲労と安堵の残留物が、背骨から全身の隅々へと広がった。深い色の木材で統一された内装と薄暗さは、世間から船木を匿ってくれる同胞の隠れ家のようであった。

 ナポリタンの大盛りとコーヒーを注文し、タバコを切らしていたことを思い出す。店員に売っている場所を尋ねると、お客さんが忘れていったのでよかったら、と数本減ったキャメルを渡された。

 マッチで火をつけて、煙を吐く。一人きりの先客である頭の禿げた老人が、窓際の席で、虫メガネを片手に新聞を読んでいた。

 暇を持て余し何時間も居座る常連客なのだろう、と船木は考える。その決めつけには、なんの不安もない代わりに大きな目的もなく、ただ漫然と毎日を過ごす人間の存在を肌で感じたいという欲求が働いているらしかった。

 宇津井とのやりとりを思い返した。お前の店で営業をしたいと伝えると、人は足りていると断られ、ビルメンテナンスの仕事であれば紹介できると提案された。船木は身の程知らずのふざけた態度でそれを却下し、別れた。

 想定していたことだ。営業マンへの立候補など、断られて当然だった。しかし宇津井と顔を合わせるまでの自分は、歓迎されることを信じて疑わない別の人間のようだった。

 俺は最初から、断られることを期待して話を持ちかけたのではなかろうか。十九歳の宇津井をなぞることさえできない自らの社会的不信用を、確認しに来たのではないか。試みたけれど駄目だったとの口実を、自分だけのために、作りたかったのではないか。

 成り上がるために違う仕事を探したり、他の不動産会社の求人に応募する気概は、船木にはなかった。やる気は当然あるし機会をもらえれば実行するという態度で宇津井のもとを訪れたのに、実は初めからそうでなかったことを知った。

 やはり俺は、何も、強くは求めていない。安酒を飲んだり、タバコをもらったり、ナポリタンを大盛りにしたり、金を払って女を抱いたりして、小まめに、刹那の満足を得ることで沈没を免れながら、誰も留まりたがらない隙間で生きていくべき人間。絶望に陥らないために、希望を持たず、生きていくべき人間——。

 ナポリタンが到着する。ケチャップの色に染まった山盛りの麺と、刻んだハムとピーマンと玉ねぎ。立ち上がる湯気と、トマトの酸っぱい香り。黒光りする鉄板に、油と手垢が染み込んだ木製プレート。じゅうじゅうと焼ける音。

「うまそうだ」

 振り向いて喜びを伝えるつもりが、そこに店員の姿はなかった。

 

中編小説『持たざる者』④

 ファッション、メイク、雑貨など計八種類の女性向け雑誌を集めてビニールでひとまとめにしてレーンに流す。レーンの先には、宛先の印刷されたラベルを貼る係がいる。そのさらに先には、台車を使って雑誌をトラックまで運ぶ者がいる。

 なぜ雑誌をまとめる必要があるのか、どんな女がこんな雑誌の束を買い求めるのか、船木ら派遣労働者には関係なかった。ただここで一日言いなりになり金をもらう。好奇心は不要だ。

 たかが雑誌をまとめる仕事。しかし一冊ずつピックアップし、端を揃えてビニールで包むためには、作業台の上で何度もその束を持ち上げなければならない。延々と繰り返していると、腕がだるくなってくる。肩と肘の関節がきしみ、手が浮腫む。種類ごとに分けられた雑誌が、船木を囲んで山のように積み上げられていた。

 五十歳前後の男が一人、午前中に脱落した。班長の判断で、男はラベル貼りに回された。こういった現場で仕事がなくなることはない。船木たちは、時間を買われているのだ。違う現場でベルトコンベアが故障したときには、敷地内の草むしりをさせられた。

「お前、意外とやるんだな」

 休憩時間、喫煙所で班長が言った。半日働いて、初めて個人的に投げかけられた言葉だった。午後になってまた一人、脱落者が出て他の持ち場に回されていた。

「お前が最初に音をあげるって賭けてたのによ。一番人気は、ラベル貼りに回されたあのおっさんだ。あいつ、喜んでたぞ。——俺がお前に賭けたのはだな、まさにギャンブル精神ってやつだ。こんな仕事つまんねえ、くだらねえって顔してる奴がだんだん辛そうになっていくのが、一番面白いからな」

 班長は悪びれることなく言った。

「うちは今日で終いだろう。明日からどうするんだ?」

 明日は別の工場に行くみたいです、と船木は答える。

「みたいですって、人ごとみてえだな」

 班長は連なる銀歯を見せて笑った。そして船木をまじまじと見つめた。

「そんなふうだと、損しないか? いや、得なのか? まあいいや。またうちから求人出ると思うから、暇だったら来いよ。次はお前も賭けてみるか?」

 満足げな表情でカッカと喉を鳴らした班長は、タバコを地面に捨て、プレハブの事務所の方へと歩いて行った。

 

 夕方、派遣会社の社員がワンボックスカーで迎えに来た。

 同じ方面に自宅がある七人が乗り込む。車はすぐに発進し、砂埃の舞う敷地を出てアスファルトを走った。車内では、行きとは違う、じめっとした沈黙が満ちていた。エンジン音、誰かの咳払い、遠くのカラスの鳴き声がきこえた。窓は全開にしてある。エアコンのスイッチには、「故障」と書かれた紙が貼られていた。外に目を向けると、稲穂が夕日を浴びて輝いていた。

 昨晩、宇津井から会社で余っていたという薄型テレビが届いた。電話で礼を伝えると、そういや同窓会で星野が瑛人のことを気にしてたぞ、と宇津井は言った。電話を切ってから受信したメールには、星野咲の電話番号とメールアドレスが記載されていた。

 船木は気づいていた。隣に座る今日二人目の脱落者が、星野が住む街で降りるということに。今朝も、男はその街から乗り込んできたのだ。船木は雑誌を持ち上げながら、弁当を食いながら、タバコを吸いながら、ずっとそのことを考えていた。

 携帯を開き、メールの作成画面を呼び出す。宛名の欄に星野のアドレスを入力する。隣の男の影が動いた。船木が顔を上げると、男は慌てて視線を逸らし、目を閉じた。

 今から会えるかとメールを送ったら、星野はどう思うだろうか。最後に合ったのは、去年の夏のことだった。街で名前を呼ばれ、振り返ると星野と背の高い男がいた。何してるの、元気だった、といった質問に船木が答えると、星野はその内容はどうでもよさそうに微笑んだ。髪を伸ばし、少し痩せていたが、強気な瞳を相手に真っすぐに向けるところは変わっていなかった。二人は急いでいたらしく、長身の男がどこの誰であるのかを知ることもなく別れた。たぶん、あれが夫なのだろう。

 車が減速する。高速の出口に差し掛かっていた。間もなく、星野が住む街に着く。ハンドルを握る社員が名前を呼ぶ。船木の隣で狸寝入りをしていた男が、今目を覚ましたと言いたげな生返事をする。親に命令された中学生のように、緩慢な動作で足元から鞄を取り出す。

「俺も降ります」

 その宣言に、隣の男が喉を詰まらせたような声をあげ、横目で船木を見た。携帯を覗き込んだ仕返しに遭うと勘違いをしている男に、船木は出鼻を挫かれた苛立ちを覚える。

 

 星野とは中学で三年間、同じクラスだった。

 入学直後から属していた不良グループでの立ち位置は、常に端か後ろという感じであった。しかし星野がその位置に収まっていたのは、お情けでグループに加入を許されたための遠慮によるものではなさそうだった。リーダー格の女子が、一派としての体裁を保つために星野を入れないわけにはいかないと考えた結果であるように映った。

 星野は勉強にせよ運動にせよ、そつなくこなした。授業中に指されれば正しい回答をしたし、テニス部でも活躍しているらしかった。眉を細くしたり靴下を異常に短くしたりといった校則違反については他の不良と足並みを揃えていたが、教師に反抗したり同級生を威圧したりすることはなかった。かといって愛想がいいわけでもない。

 常に余力を残した顔で必死な姿を見せることはなく、輪の中にいてもどこか白けていた。教師でさえ、星野を名指しで叱ること、反対に褒めることにも躊躇いがある様子だった。

 初めて言葉を交わしたのは、同じ高校に進学し、またしても同じクラスになったときだった。席が隣になり、星野から声をかけてきた。

「また一緒になったね」

 当時の驚きを、船木は鮮明に覚えている。まさか声をかけられるとも、中学で同じクラスだったことに触れられるとも思っていなかった。

「知らない子ばっかりで、不安だったの」

「星野でも、不安になるのか」

「なるわよ。私のこと、なんだと思ってるの」

 急な不満げな言いように、船木は慌てた。

「そういうタイプじゃないと思ってたからさ」

「船木にそんなこと言われたくないよね。いつも、うれしいとか悲しいとか知らねえって顔してたじゃん。でも中三になって、宇津井と仲良くなったでしょ? 急にどうしたのかと思ったけど、あいつと話してるときの船木、すごく楽しそうだった」

「別にそんなことないと思うけど」

「私にはそう見えたの」

 星野はスカートの裾を手で払った。新しい生地の、折り紙のようにくっきりとしたひだが揺れた。

「いいなって思った。私も、高校ではちゃんと友達を作ろうと思った。ありがと」

 予想外の感謝に、船木はどういう反応をすればいいのか、なんと言えばいいのか、分からなかった。その日は午前中に家に帰ったが、自室で何度も星野の顔を思い浮かべ、気づいたときには昼食も摂らぬまま夕方になっていた。あの顔をまた近くで見られると、あくる日を待ちわびた。

 同じ中学から進学しながら、高校でできた最初の友人として、二人は毎日言葉を交わすようになった。たわいもない会話をするときでさえ、船木の胸は高鳴った。席が離れてからも、すれ違ったときには一言を交換した。星野の近くを通ったときに自然な会話をするため、話の内容を決めてから行きたくもないトイレに立つこともしばしばだった。

 星野は入学初日に言った通り、中学時代より積極的に友人を作ろうとした。ぎこちなくではあったが、クラスメイトに話しかけ、小さな輪を増やしていった。やがて特定のグループに落ち着き、その中心になった。そこで起きたおかしなできごとを、成果報告をするように、船木に伝えてくれた。

 そうして馴染んでいく星野を眺めていると、船木は少なからず自分が力になれた感慨に浸ることができた。また報告であれなんであれ、星野の話をきいている時間は至福だった。宇津井と高校が別々になり、代わりに学校生活に光を見せてくれたのは、間違いなく星野だった。

 しかし男女としての進展はなかった。星野には常に恋人がいた。それはときに同級生であり、先輩であり、他校の生徒であった。中学から高校にあがり、男女交際が隠すべきものではなくなったため、星野が誰と歩いていた、付き合っているという情報はなんの障害もなく広まった。船木も、人の都合を考えないその拡散から逃れることはできなかった。耳を塞ぎたい気持ちに襲われながら、無視するわけにはいかず、まるで辱めを受けた被害者のように苦しみつつも情報を飲み込んだ。そして星野本人の前では、恋人のことなど露ほども気にしていない態度で、できる限りそういった話題とは関係のない話をするのが、自分に対するせめてもの労わりだった。

 二年、三年と再び同じクラスになることはなかったが、船木は星野のことを想い続けた。夜には星野の裸体を思い浮かべ、自慰をした。制服の下の身体はどんな形と色をしていて、どんな肌触りとやわらかさであるのかを何度も想像した。学校で星野の姿を眺めては、描いた図と重ね合わせた。

 星野と交際することはできないと、船木は理解していた。星野と恋仲になる男は、校内で幅を利かしていた。そういった権力者、有名人でなければ、たとえ肩肘張らずに話せる相手としてうってつけであるとしても、星野に選ばれることは考えられなかった。自分と星野を男女として客観視してみると、もはや何をどうすれば新しい可能性が生まれるという関係ではなくなっていた。

 

 駅前でワンボックスカーを降りたとき、船木は携帯を握りしめていた。まだ星野にメールを送っていない。一緒に下車した男は、汚れたスポーツバッグを抱えて、そそくさとロータリーを離れていった。

 現在の星野について船木が知っているのは、結婚してこの街に住んでいることと、携帯の連絡先だけだ。自宅が駅から近いのか遠いのか、仕事をしているのかどうかも不明だった。駅舎の時計は五時半を指している。火曜日のこの時間、勤め人であるならまだ職場に残っているかもしれない。

 携帯を開き、再びメールの作成画面を呼び出す。用件は、夕食の誘いだ。しかしこの突然の連絡には、まず動機や経緯の説明が必要になると思われた。

 タバコが吸いたかった。人通りが多く、公共の灰皿も見当たらない。目についた喫茶店に入り、入口そばの席につくとコーヒーを注文してタバコに火をつけた。煙を肺に入れ、大きく吐き出す。段取り良く人と会うことさえできない自分を、からかい半分で責めてみる。今に始まったことではないと思うと、少し気持ちが落ち着いた。

 なぜこの街に来たのか、急にどうしたのか、なぜ今日なのか、特別な用事でもあるのか、何かの勧誘か。星野の立場になって考えると、疑問はいくらでも浮かぶ。そして船木には、その疑問を余すことなく解消し、星野に安心してもらえる説明を、メールで簡潔に伝えられそうになかった。

 高校の三年間、船木はついに、星野と連絡先を交換するに至らなかった。連絡先を知ってどうするのかという自問が先行し、その簡単にも思える提案はずっと喉に引っかかったままだった。また船木の心配は、連絡先を手に入れた後にも及んでいた。その交換の事実を、星野が悪気なくまわりの女子へと伝え、彼女たちが船木を嘲ることを恐れたのだった。二人が男女として不釣り合いであるという共通認識がある以上、たとえ親しみの込められた冷やかしであったとしても、船木には笑ってごまかす自信がなかった。

 後悔、というほどのものでもない。結局は、飢えた者が腐った肉を食うほど、金のない者が盗みをはたらくほど、星野を欲してはいなかったのだ。

 しかし今、星野に会いたい気持ちが確かにあった。同窓会に行った宇津井から、星野が船木のことを気にしていたと伝聞があり、連絡先を教わった。その翌日に、仕事で星野の住む街を通ることになった。この偶然の重なりがなければ、星野に会いたいとは思わなかったはずだ。だが現に船木は、自らの意志で送迎車を途中で降り、星野に近づいていた。

 考えて行動したことが正しいわけでもない。考えずに行動することの最大の強みは、機会を逃さないということだ。喫茶店でうだうだとメールの内容を考えていては、その利は無となる。考えた末に何もしないという結果が待っている。

 火をつけたばかりの二本目のタバコを灰皿に押しつけ、コーヒーを飲み干した。レジで金を払い、店を出た。

 駅前広場へと歩みを進めながら、勢いに任せ、携帯で星野の電話番号を呼び出し発信する。チャンスは一度きりだと自分に言いきかせた。この電話に星野が出なければ、諦めて家に帰ろう。折り返しの電話があっても出まい。自分だけが知る、小さな賭け。いつもと違ったのは、出ろ、出ろ、出ろと強く願ったことだった。

 七回目のコールが途切れ、もしもし、と星野の声がきこえた。その向こうでは、駅の構内のような、雑踏の気配があった。言葉を用意していなかった船木は、まず息をすることを思い出し、これから飲みに行かないかと言った。ほとんど間を置かず、いいよと軽い返事がある。今いる場所を伝えると、三十分後に着くと告げて電話は切られた。

 船木は広場の真ん中で、茫然と突っ立っていた。駅へと急ぐ者、家に帰る者が、船木には目もくれずに行き交っている。なぜか彼らが、とても冷淡な人間に見えた。脚がぐらぐらして、花壇のそばにあったベンチに腰を下ろす。

 電話での星野の話しぶりには、突然の連絡を怪しむ様子も、驚く様子も見受けられなかった。互いが覚えているに違いない約束を、念のためにと前日に確認したときのような淡泊さだけが伝わってきた。

 船木はハッとする。宇津井が、本人の了承を得ずに連絡先を教えるはずがなかった。星野は、船木から連絡が来るかもしれないということを、分かっていたのだ。

 本当に俺は、心配ばかりして、肝心なことを見落としているか、忘れているか、そんなことが多い。

 

 定期入れを改札機にタッチすると、星野は顔を上げて船木と視線を合わせた。まるでその地点に船木が立っており、自分を見ていることを知っていたみたいだった。

 星野はゆったりとした半袖のブラウスに濃紺のパンツという格好だった。ブラウスの裾が透けていて、腰の曲線がくっきりと浮かんでいた。長く眺めていたかったが、距離が縮まると星野の顔を見ないわけにはいかなかった。

「何食べる?」

「何でもいい」

「三十分も待ってたのに、決めてなかったの?」

 挨拶を省略して話し始め、星野は船木らしいと言いたげな顔でクスクスと笑った。

「私がときどき行く焼鳥屋でいい?」 

 ああ、と返事をする。星野はにぎやかな商店街の方へと身体を向けた。船木が大きく踏み出して隣に並んだとき、何かの花のにおいがした。

 夕陽が、余った力を出し切るように輪郭を震わせていた。手前にはアーケードのない商店街が横たわり、外灯の白い光を連ねている。その景色は、船木に古い温泉街を思わせた。しかし視線を落として一つひとつの店舗に目を向けると、派手な店構えの新しい店が多く、こぢんまりとした個人商店は数えるほどしか見当たらなかった。

「結構便利なのよ。帰りにお惣菜とかパパッと買って帰れるからさ。船木は、自炊してるの?」

「自炊しかしてない」

「船木がフライパンを振ってるところ、想像できないんだけど」

 星野は船木の顔を覗き込み、また前を向いて口角を上げた。船木はそこに、高校時代の星野の横顔を重ね見た。鼻梁から頬に伸びる影が、校庭の子どものように、すばしっこく動いていた。

 赤提灯をぶら下げた焼鳥屋に入る。二人、と星野が告げると、テーブル席に案内された。カウンターに立つ店主がこちらを見たが、特に声をかけるわけでもない。

 船木がビールを、星野がハイボールを注文した。店内は空いていたが、店主以外に店員が三人いた。

「変わってないね。改札出て、すぐ分かったわ」

 そうかな、と船木は声を出す。ちょうど一年前に街で偶然会ったことを、星野は覚えていないのかもしれない。

「元気にしてたの?」

 ありきたりな質問が、船木には嬉しかった。そんなことを確認してなんになるのかという皮肉めいた考えは、欠片ほども生まれなかった。

「この通り」

 とぼけて言うと、星野は呆れた表情を見せる。

「どの通りよ。見た目はあんまり元気なさそうだけど」

「見た目の三倍、元気なんだ」 

「まあ、昔からそんな感じか」

 酒と付き出しが運ばれ、乾杯する。冷えたビールが、身体に染み渡った。喫茶店でコーヒーを飲んだことが悔やまれるほど、うまかった。

「仕事だったの?」

「ああ。たまたま近くを通ったからさ」

「なんの仕事してるの?」

「業務用のタオルの配達してたんだけど、辞めて、今は日雇いの仕事してる」

 会えば仕事の話も出ること、その内容の報告に自分の胸が痛むことを、船木は覚悟していた。

「日雇いの仕事って、どんなの?」

 星野からの躊躇いのない問いかけが継がれたことで、針が皮膚の浅いところで溶けていく。

「今日行ったのは、雑誌の包装をする工場だった」

「明日はまた違うの?」

「明日は、休みにするかな」

 そう言いながら、日中には明日も働くつもりでいたことを、船木は思い出していた。

「そんな感じでいいんだ」

「そっちは」

「私は先月転職したの。人材派遣会社で広報の仕事してる」

 皮膚下で消えかけていた針の先が、神経に触れる。

「なんて会社?」

 星野が答えた社名は、船木が利用している派遣会社とは違っていた。船木はそのことに救われた気持ちになる。しかし考えてみれば、同じ会社であったとしても、広報担当の星野と派遣労働者である船木が関わる機会はない。

「転職っていうか、しばらく働いてなくて、イチから就活して就職したの——。あれ、私、船木に言ったっけ?」

「言ったって、何を?」

「離婚したって話」

「いや」

 船木はジョッキを掴んで口をつける。宇津井からも、その話はきいていなかった。

「知らなかった」

「私、結婚して、離婚したの」

 船木は黙って星野の目を見た。茶色がかった瞳が、おかしみと哀しみのあいだで揺れ動いていた。

「俺は、離婚してない」

「え? 結婚してたんだっけ?」

「それもしてない」

 なによそれ、と笑顔が弾ける。中学時代の、冷めた表情ではなかった。高校時代の、努力の跡が見える表情でもなかった。大学生活、就職、結婚、離婚。そんなものが星野を変えてくれたのだとしたら、感謝したいという気がした。

 焼鳥が運ばれてくる。星野も腹を空かしていたらしく、二人はテーブルに置かれたそばから手を伸ばした。

 星野は、船木の生活のことを知りたがった。船木は、大学に進学して半年で中退したこと、これまで就いたいくつもの、さまざまな種類の仕事のこと、何もせずにただぼんやりとすごした時期のことを話した。その一つひとつの話を、星野は楽しんでいた。星野が笑ったり呆れたりするのを見ていると、今日までの自分の人生が、それほど悪いものではないと思えた。

 話題は二週間前の同窓会の話に移り、今度は星野が喋った。誰がどんな姿かたちになっていて、何をしているのか。何もかもがありきたりで、船木に興味を抱かせることはなかった。しかし、クラスの連中が、酔いと扇動に任せて自虐的になりながら、居酒屋で爆笑を巻き起こしている光景が頭に浮かんだ。自分もその場にいれば、酒の力を借りながらではあっても、渦に巻き込まれていたのではないかと考える。

 星野はよく飲んだ。頬に赤みが出て、肌の艶が増した。

「今って、どこに住んでるの?」

 船木が答えた最寄り駅に、星野は馴染みがないらしく、ふうんと眠たげな声を出す。

「部屋から、海が見える」

 そう言いながら脳裏に浮かんでいたのは、擦り切れた畳だった。シミの浮いた天井だった。大きな音をたてて閉まるドアだった。アパートの外壁に稲妻のように走る、亀裂だった。

「いいじゃん」

 星野がアパートに遊びにくるところを想像する。その星野はなぜか高校時代の制服姿で、海が見えるというだけで、はしゃいでいるのであった。

「そうでもないんだけどな」

 船木はビールをあおり、新しいタバコに火をつけた。

 

中編小説『持たざる者』③

 フルタイムの仕事を辞めたあと、無職の期間を経て就くのは、決まって短期の仕事だった。毎日同じ時間、同じ人間と、同じ場所で、同じ仕事をすることが嫌になって辞めたのに、また同じようなところに戻ろうとは思えなかった。

 一日きり、三日きり、一週間きり、一ヵ月きりと近い将来の終わりが見える短期の仕事とは、気軽に向き合えた。会社側も気軽に雇った。双方とも、契約期間以外のことを考える必要はない。求人誌を開けば、短期の仕事はいつでも、いくらでも転がっていた。

 職歴にもならないそれらの職場では、連日の勤務であってもしょっちゅう顔触れが変わるので面倒な人間関係がない。たとえ一日だけの仕事であれ、そこには一日だけの人間関係というものが存在するはずだった。しかし互いに二日目以降の関係を構築する意思がないために積み上がることがない。

 そうしてしばらく短期の仕事で食いつないでいると、また心変わりする。今度は、毎日決まった時間に出社し、同じ相手と慣れた仕事をして、決まった給料をもらう方が楽であるように思えてくるのだ。

 結局どちらの働き方に適しているのか、船木には判断がつかなかった。差し当たっては、両者のあいだを行ったり来たりする働き方が、自分がなんとかこの世で金を稼いでいける方法なのだと考えるようにしていた。

 

 月曜日の朝、船木は始発電車に乗って街に出た。駅のロータリーの噴水の縁に腰かけてタバコを吸い、時間が進むのを待った。

 ビルのあいだから、朝陽がのぼってくる。目を細めてその光源を眺めていると、自分が数十年にわたって勤勉な労働者として身を粉にしてきた錯覚に陥りそうになった。

 まだ金はあった。急いで働き始める特別な理由はなかった。しかし何かが、必要に迫られるよりも早い時期に、船木を労働へと向かわせた。

 宇津井の乗ったBMWを見送ったあと、アパートに戻り、数日ぶりに日中を起きてすごした。外には出ず、かといって部屋で何をしたわけでもなかった。昼前に缶ビールを一本開け、夕方に残った半分を捨てた。これまでも、無為な一日は数えきれないほど経験してきた。しかしその日は、うまく時間の波に身を任せることができなかった。時計の針がガタガタと震えるような、凍った急斜面を一歩一歩踏ん張りながらくだるような時間のすごし方に終始した。俺は、何もしないことの巧者ではなかったのか? 翌日、以前から利用している派遣会社に電話をし、仕事をもらった。

「派遣の人ですか?」

 すぐそばに同い年くらいに見える男が立っていた。頭の高さまである、登山用のリュックを背負っている。

「そうだけど」

「私もなんです」

 男は言い、待ち合わせをしていたかのように、遠慮も警戒もない滑らかさで隣に腰を下ろした。

「今日って、いくらもらえるか分かります?」

「千円かける八時間だから、八千円じゃないの」

「それって、いつ振り込まれるんですかね?」

 船木は携帯を取り出し、メールで受け取っていた募集要項を確認する。

「ちょうど一週間後だ」

 え、と男は声をあげ、自らの愚鈍を愛おしむような首のひねり方を見せた。

「一週間、どうやって生活しようかなあ」

「金、ないのか?」

「あと三千円しかないんです」

 男は財布の中身でも見せようと思ったのか、ズボンのポケットをまさぐった。しかし何も出てこなかった。

「三千円あれば、自炊してなんとかなるだろ」

「家がないんですよ。ホームレスなんです」

 船木は、男の足元に投げ出された大きなリュックに目を向けた。

「荷物は全部そこに入ってるってこと?」

「まさか」

 男は、まるで船木が見当はずれなことを言ったような顔を見せる。

「残りは、駅のコインロッカーに預けてます」

 何も言うべきことがなかったので、船木はあたりを見回した。五人の男たちが、互いに背を向け、しかし指定された集合場所である噴水の前からは離れすぎない位置で時間を潰している。視線も言葉も交わさない。

「私、山根っていうんです」

 男は妙に改まって言い、一人で喋り始めた。船木は二本目のタバコに火をつけ、ゆっくりと吸った。

 山根はもう何年ものあいだ、浮浪者のような生活をしていた。ヒッチハイク不正乗車で都市から都市へと移動し、金が尽きると肉体労働で日銭を稼ぐ。ネットカフェやビデオボックスに泊まる日もあれば、公園のベンチで眠る日もある。しかし汚れたリュックや靴とは違い、襟付きのシャツとズボンはちゃんと洗濯しているらしかった。癖のある髪の毛はゴワゴワしていたが、清潔そうだ。四十歳であるということが、船木を驚かせた。

 五時半になると、派遣会社の社員がワンボックスカーで迎えに来た。七人の男を集め、一覧表を見ながら点呼をとる。

「名前なんて確認する必要あるんですかねえ」

 返事を済ませてぼうっとしていた船木の背後で、山根が呟いた。

「誰でもできる仕事なんだから」

 船木は黙って、前を向いていた。

 

 乗り込んだ順番の関係で、山根が二列目に、船木が三列目に座った。山根は胸に抱えた大きなリュックとドアガラスで頭を挟み、窮屈な体勢で縮こまっていた。隣の男が気を悪くしてもおかしくない距離のとり方だった。

 車内で声を発する者はいない。しかし車が発進し高速に乗ってからも、下道におりてからもぴくりともせずにリュックで顔を隠す山根は、異様であった。意図せず人家に入り込み、網戸に張り付いているカナブンのようだった。全員がある一人をおかしな奴だと認識し、また互いにそれを分かっているときに、彼らは自分がまだ正常だと考える。自身を含めた全員が異常である可能性は考えない。

 田園風景の中に現れた巨大な工場に到着すると、他の地域から集められた派遣労働者と合流した。総勢三十名のうちには、何人か女も混じっていた。再び点呼をして、班分けがなされる。二人は別の班になった。それぞれの持ち場へと向かうとき、山根が目配せをした。船木は顔を背けた。

 船木の班に与えられたのは、すでに箱詰めされた清涼飲料水の一本一本に、サマーキャンペーンのシールを貼る仕事だった。一人が段ボールを開け、一人がシールを貼り、一人がグルーガンで段ボールの封をする。

 同じ班の二人は顔見知りらしく、親しげによく喋った。

「どうしてこんな馬鹿みたいな仕事をしなくちゃなんないんだ?」

「シールを貼るように言われてたのに、うっかり忘れて箱詰めしちゃったんだろ」

「大手飲料メーカーさんが、きいて呆れるよ」

 奴らはそんな会話をし、何かにつけて誰かをあざ笑った。グルーガンを持たされた船木は、黙って作業についていった。

 工場全体にサイレンが響く。休憩の合図だった。グルーガンを放り出し、船木は喫煙所に向かった。すでに何人かの男がベンチで休んでいる。その端で、山根が缶ジュースを飲んでいた。

「ついてましたよ。二十歳くらいの女の子が一緒で、すごい巨乳なんです。肘で触っちゃいました」

 山根は黄色い歯を見せて言った。

 次の休憩時間も、山根は新しい缶ジュースを片手に、同じ班の胸の大きな女について喋った。しかし昼休み、喫煙所に山根の姿はなかった。船木は買ってきていた弁当を食べ、冷水器から水を飲み、タバコを吸った。

 昼休みがあと五分で終わるという頃、敷地の出入り口の方から山根がやってきた。汗染みでシャツの色が変わっていた。

「まわりは田んぼばっかりですね。なんにもない」

 船木の隣に腰を下ろし、ポケットから使い捨てのウェットティッシュを取り出す。

「どうぞ、使ってください」

 船木は一枚抜き取った。顔と首筋を拭くと、冷たくて、気持ち良かった。

「もう一枚、どうですか?」

 いや、いい、と船木は断った。山根は機嫌を損ねることもなく、丸めたウェットティッシュを捨てて立ち上がり、自販機に硬貨を投入する。

「山根さんさ、金ないんだよな?」

「はい。だからお昼ごはんも買えなくて、散歩してたんです」

 船木は何も言わなかった。

 

 なぜ山根を家に誘ったのか、自分でもよく分からなかった。駅前でワンボックスカーを降りて少し歩き、「うちでメシでも食っていきますか」と船木は声に出した。そして山根がニカッと口角を上げたときには、自らの発言を悔いていた。

 荷物を預けているというコインロッカーの扉に、山根は鍵を挿さずにいきなり手をかけた。中は空っぽだった。

「やっぱり駄目でしたか」

 山根は悔しそうに言って、肩を落とした。

「駄目だったって、どういう意味?」

「鍵かけなくても大丈夫かなと思ったんですけど、盗られちゃったみたいです。ほら私、お金ないですから。冬服しか入ってなかったんだけどなあ」

 しばらく考え、船木は理解した。駅員室に行ってみると、若い駅員が呆れた顔で奥から荷物を出してくれた。三時間ごとにロッカーを見回っている清掃員に回収されていたのだ。結局、山根は規定の料金を支払わされた。

 混み合う電車の中で、吊り革に触れる高さのリュックを背負い、両手に紙袋を提げた山根は、船木の住むアパートがどんなところにあり、どんな間取りなのか、着けば分かることをあれこれきいてきた。

 

 ドアの郵便受けに、半額券のついた宅配ピザ屋のチラシが挟まっていた。何か作ってやるのも面倒だったので、山根に風呂を使わせているあいだに電話をかけ、ミックスピザとシーフードピザを注文した。

 交代してシャワーを浴びているとき、ようやく船木は自分がおかしな行動に出ていることを意識した。普通の人間は、山根を自宅に招いたりしない。たとえば宇津井なら、家のない山根と二人になったときも、じゃあまたなとカラッとした声を出し、手のひらを見せてきっぱり別れる。コインロッカーまで同行することさえないだろう。その明確な線引きは、山根を期待させることもなければ、落胆させることもない。

 孤独を愛しているわけではないはずだ、といつか宇津井は言った。だから俺は山根を家に誘ったのかもしれない。なぜか懐いてくる掴みどころのない男で、隙間を埋めようとしたのだろうか。

 その仮説に、船木は反発する。誰かに孤独を埋めてもらいたいわけではない。他人をあてにして自分をどうにかしようというのは愚か者の考え方だ。いつか必ずあてが外れ、どうしようもなくなることを、俺は知っている。俺は、憐れんでいるのだ。山根を憐れむからこそ、悲壮感のない振る舞いに苛立ちながら、同情し誘ったのだ。誘った数秒後に、後悔したのだ。

 突如、山根を疑う気持ちが生まれた。金を盗られるかもしれない。財布の金を抜き取って、部屋から姿を消しているかもしれない。あいつは、俺にさえも疑われるべき人間だ。なぜ今まで怪しまなかったのかと舌打ちをした。

 シャワーを止めて、風呂場を出る。山根は新しいシャツとジーンズを身につけて、ビールを飲みながら窓の外を眺めていた。宇津井が飲み切れなかったスーパードライだ。

「いいですね、海の見える部屋って」

 こちらに顔を向けることなく、山根は言った。

「海を見てると、生きることが簡単そうに思えてきます」

 西日に照らされる横顔には、見られていることを知っている影があった。

「難しいのか?」

 下着だけの格好で、船木は尋ねる。

「私は難しく感じますねえ。すごく難しい。いえ、誰でもそう感じることはあると思いますよ。でもたいていは自分でそう感じるだけで、まわりからは難なく生きているように見えるんです。私は違います。私は、誰から見ても困難なんです。で、それを受け入れてるんです。仕方なくですけど、難ありの自分のまま生きていこうって決めたんです。分かるでしょう?」

 いや、と船木は反射的に否定したが、言葉が続かなかった。頭が混乱し、何を尋ねられたのか、分からなくなる。続くドアチャイムの音で思考は完全に停止したが、身体は玄関へと向かう。ドアノブに手をかけて、自分が下着姿であることに気づく。部屋に戻り、脱ぎっぱなしにしていた作業ズボンと干してあったTシャツを身につけて玄関に引き返す。またチャイムが鳴る。次は財布を忘れたと思ったが、ズボンの後ろポケットに感触があった。

 ピザを受け取り、ドアを閉めてもなお、何か重大なミスを見落としている感覚がくすぶっていた。

 部屋では、山根がこたつテーブルにつき、今にもピザへと手を伸ばそうかと身構えていた。それを見て、なぜか船木は落ち着きを取り戻した。冷蔵庫から出したのだろう、船木の分のビールも置いてある。生きることの困難についての話はこのまま立ち消えそうだった。

 しかし飲み食いしながら、顔を赤くした山根は、自身の生い立ちについて語った。生まれて間もなく父親が蒸発。母親がホステスをして家計を支えた。工業高校を卒業すると同時に実家を出て仕事に就いたが、どれも長続きはしなかった。

「三つくらい職場を経験すれば分かるんです。自分にはこういうことを続けるのは無理なんだってことが。能力的なこともそうですけど、合ってないって。この会社にとかこの職場ってことではなく、今のこの世の中に」

 船木は黙って話をきいていた。山根は相槌を必要としない話し手であった。

「ちょっと電話していいですか?」

 唐突な断りに、船木は首のこわばりを感じながら頷いた。山根はスマホと充電器を取り出し、プラグを近くのコンセントに挿した。誰かに何度かかけ直し、ようやくつながった。

「先輩? お久しぶりです。先月ライン送ったの、見てもらえました? いやあ、ブロックされてるのかと思って、びっくりしちゃいましたよ。お元気ですか? ああ、はい、ちょっと十万ほど、急ぎで貸してほしいんです。いや私、お金ないでしょう。来週には入ってくるんですけど。分かってます、分かってるんですけど、お願いしますよお。野宿しろっていうんですか?」

 金の無心は十分にも及んだが、良い返事はもらえないようだった。山根は最後まで上っ調子を続け、また連絡しますね、と言って電話を切った。

 面倒だな、と船木は思った。借金を断るのは簡単だが、アパートに居座られると厄介だ。

 山根はスマホを置き、最後のピザに手を伸ばす。冷えた一切れは空中でも形を崩すことなく、脂ぎった唇にたどり着いた。細く伸び、千切れて顎に張り付いたチーズを啜る。残りの半分を折りたたみ、強引に口に入れて咀嚼する。缶に残ったビールを、時間をかけて飲み干した。

「じゃあ、失礼しますね」

 口元を拭い、山根は言った。

「え?」

「ごちそうさまでした。ピザもビールも、おいしかったです。お風呂も、ありがとうございました」

 ああ、と船木は引きつった表情になっているのを自覚しながら声を出した。山根はその返事を確かめてから、リュックを背負って玄関に向かう。上がり框に腰かけて、靴を履く。緩かったらしく、靴紐を一度解いて、結びなおす。後頭部を隠すほど大きなリュックが、グラグラと揺れていた。

「荷物、下ろして履けよ」

 船木の声が届いたのか届かなかったのか、山根は何も言わず、リュックを揺らしながら靴紐を結び終えた。両手に紙袋を持って立ち上がり、こちらを向く。

「船木さん、私と、友達になってくれませんか?」

 今度は自然に頬が緩んだが、それが苦笑いだということが分かった。

「友達って、約束してなるもんじゃないだろう」

「じゃあ、もう友達ってことですか?」

「だからさ、友達だとか友達じゃないとか、どうでもいいんだよ。連絡したければ連絡しろよ。嫌だったら断られるってだけだ」

 山根は長い間を置き、「そうですね」と寂しげに笑った。二人は、連絡先の交換などしていなかった。

「じゃあな」

 閉まるドアの隙間に向けて、船木は自分で驚くほど、強い声を出した。

 

 翌日以降も派遣会社から短期の仕事をもらい、そのまま土日も休みなく働き続けた。

什器の搬入、量販店の棚卸、イベント会場の設営と撤去。指示をきける耳と健康な身体があれば事足りる仕事だった。しかしダラダラと働こうが、職場放棄しない限り時間分の給料は必ず支払われる。そのことだけが労働者の権利でありまた会社側の義務と言えた。短期の派遣労働において、仕事内容や時給についてどうこう主張する者はいない。求人情報を見て応募しているのはこちら側であり、またその仕事も長く続けるものではないのだ。

 ときどき、以前に違う現場で見た派遣労働者と顔を合わせた。再会とも呼べぬ、深みのないものであった。一瞬目が合って意識し合ったり、ひょいと頭を下げたり、せいぜい休憩時間に二、三の言葉を交わすだけだ。こんなところで何度も見かける奴にまともな人間はいないと誰もが思っている。そもそも、どのように交流を深めていけばいいというのか。よう、と手を挙げて笑顔を作ったならば、次に何を話せばいい? 相手の何を知ればよくて、何を知らないままでいるべきなのか、船木には分からなかった。

 二週間のうちに五つの職場で働いたが、山根の姿を目にすることはなかった。また山根がアパートを訪ねてくることもなかった。もう違う街に移動したのかもしれない。

 山根は、街から街へと移り、金が尽きると肉体労働をしていると言った。好んで風来坊になったわけではないはずだった。しかし定職に就きたいとも思っていない。いったい何がしたいのかと人は言うだろうが、船木には山根の気持ちが分かった。気持ちというよりも、立場が理解できた。ああして生きるしか、方法がないのだ。山根と比べると、船木はいくらか社会に適応していた。アパートに住み、借金をするほど困窮もしていない。

 あの夜、別れ際に、友達になってくれませんかと山根は言った。その懇願を突っぱねた自分がなぜ、山根の不在を気にしているのだろう。

 もっと優しい言葉をかけてやればよかったと反省しているのだろうか。だが船木は十分に親切にしたはずだった。誰が初対面の半浮浪者をその日のうちに家に招き風呂を貸し飲み食いさせてやるだろうか。お人好しと自分で呆れるほど、施しをしたではないか。虐げられてきたであろう山根の四十年の人生の中で、たった数時間かもしれないが、話をきいてやったではないか。

 突き放したのは事実だった。可能性を提示しながら、遮断した。それは初めから無視をしたり嘲笑したり難癖をつけて殴るよりも非道ではないのか。崖の縁にぶら下がり雨水を飲んで凌いでいた山根に手を差し伸べるふりをして、結局は蹴落としたのではないか。底辺を生き続けるしかないと諦めうつむいている人間にわざわざ光を当てて、顔を上げたところで唾を吐いたのではないか。

 滲み始めた自省の念を追い払うため、船木は首を振る。山根がどうなろうが、知ったことか。寂しかろうが崖から落ちようが、俺の人生には関係のないことだ。宇津井のような親しい間柄の人間であればまだしも、山根の人生の悲哀がいくら増そうが、俺が胸を痛めることではない。同情によって示した形だけの関係に、いったいどれだけの価値があるのか。人生における最高責任者は常に自分自身だ。悪意を持つ誰かの力が働いた末の不幸であるとしても、本人が責任を負わないわけにはいかない。

 俺を憎んだり蔑んだりしたければそうすればいい。仕返しをしたければすればいい。逆恨みや復讐によってさらに下劣な人生へと転落をするのは山根の方であり、俺は自らに抱きかけていた不信を払拭し、矛盾して見える自身の言動が臨機応変な判断であったとの根拠を得るのだ。

 灰皿の上で着火された紙切れが不規則に形を失っていくような、小刻みな心の震えを断ち切るべく、船木は働き続けた。