2022-10-01から1ヶ月間の記事一覧

中編小説『深海散歩』④(了)

夕食の準備をしていると、スマホが鳴った。道弘かと思ったが、電話の主は唯だった。 今ちょっと大丈夫?と普段にない確認をするので、私はコンロの火を消してスマホを握り直した。 「結婚することにした」 え、と声を出した私が一瞬の混乱を経ておめでとうと…

中編小説『深海散歩』③

四回目のカウンセリングの日、受付で代金を受け取り二階に案内するというときになって、康平君がそばに来て「てて」と言った。 差し出された小さな手とその期待を込めた表情に、私は康平君の発した言葉の意味を理解した。咄嗟に美樹さんに視線を移すと、心配…

中編小説『深海散歩』②

須田康平君と母親の美樹さんの本格的なカウンセリングは、翌週の木曜日から始まった。 十時五十分、紺色の麻のワンピース姿で現れた美樹さんは、額にうっすらと汗を滲ませていた。私は、駅からここに来るまでの上り坂と、八月を二週後に控えて日に日に強くな…

中編小説『深海散歩』①

部屋の壁掛け時計の針を確認するとき、駅まで歩きながらスマホでいつもより早い電車の発車時刻を調べるとき、何時何分頃に職場に着くと頭で計算するとき、私はその時間にかかわる情報が間違っていればいい、と心の一点で願っているような気がする。 時間でな…