中編小説『深海散歩』②

 須田康平君と母親の美樹さんの本格的なカウンセリングは、翌週の木曜日から始まった。

 十時五十分、紺色の麻のワンピース姿で現れた美樹さんは、額にうっすらと汗を滲ませていた。私は、駅からここに来るまでの上り坂と、八月を二週後に控えて日に日に強くなる陽射しのことを思った。

 美樹さんは、受付で私と言葉を交わしてからも、不安げな表情を崩さなかった。私が発した言葉への反応には時間がかかる一方で、視線はせわしなく狭い範囲を小刻みに移動していた。こういった場所を訪れ利用することに、まだ迷いがあるようだった。

 隣の康平君はというと、目の前の私ではなく、事務室の奥の空間を、ポカンと口を開けて見つめていた。どうしてなのか、汗ひとつかいていない。私は、母親のポケットに入れられたミニサイズの康平君を思い浮かべた。

 料金を受け取り、二階に案内する。交わりのない、二人それぞれの気配を背中に感じながら廊下を歩き、階段を上り、また廊下を歩いた。先に面談室に入り、美樹さんに椅子を勧める。壁に設置された電話で、三階の研究室にいる森内先生に内線をかける。はい、今行きます、という返事を受け取り、康平君を振り返った。

「康平君は、もうひとつのお部屋に行くからね」

 私は腰を落とし、手を小さく差し出して言った。康平君は私の手を取らなかったが、拒絶するふうでもなかった。

「手をつなぎたがらないんです」

 美樹さんが遠くから、康平君に確実にきかせる声の強さで言った。私は康平君に触れることなく立ち上がり、ドアのそばに移動した。振り向くと、母子が見つめ合っていた。美樹さんはすでに目が合っている息子に「康平」と呼びかけた。

「お姉さんについて行って。おもちゃで遊んでもらえるよ」

 おもちゃ、という言葉に反応し、康平君は私の足元をすり抜けて廊下に飛び出した。右、左、右と顔を向け、また左を向いたところで視線を止めた。

「こんにちは」

 向こうから姿を現した森内先生は、返事がないことを予期していたみたいに、康平君に頷いて見せた。そして、そのまま美樹さんの待つ面談室に足を踏み入れ、ドアを閉める前に「またあとでね」と声を残した。

 私は、注意を引く大きな動きで、面談室の真向かいにあるプレイルームのドアを開けた。今の状況をどれだけ理解しているのか分からないが、康平君は目の前に現れた空間に興味を示し、私を追い抜いて中に入った。景色が切り替わると関心は壁際に設置されたおもちゃの棚に惹かれたようで、そこしか見えていないみたいに直進して、ミニカーの一台を掴み取った。

 私は受話器を取り、待機室に内線をかける。院生の谷君の、今行きます、という返事をきく。康平君は青いゴミ収集車を、見えなくなるくらいに手のひらで覆って持ち、立ったまま細部を凝視している。谷君が現れて私と言葉を交わしても、ゴミ収集車を捉える視線は動かない。

 ドアを閉めるとき、大きな身体を丸めた谷君が、康平君に声をかける姿が見えた。

 

「どうだった?」

 野宮さんが私の顔を見るなり言った。

「特に問題ないと思いますけど」

 隣の席に腰を下ろしてパソコンを開き、私は答える。

「何か喋った?」

 野宮さんは、発語に遅れが見られる康平君のことを言っているのだった。

「いいえ」と私は否定し、そんなに気になるなら自分が案内をすればいいじゃない、と考えながらパソコンモニターに目を向ける。

 職場で感じた不満を飲み込んだと自覚したとき、私の判断はひどく極端になる。自分が社会に向いていないのではないかという考えに囚われる。しかし、社会不適合者だから大変でさあ、と笑って吹聴するような割り切り方はできない。思ったことすべてを口にしている人なんて、いないのだ。野宮さんにだって、自分の個性だけを特別扱いして免罪符にしようとする人にだって、我慢を強いられる瞬間はあるはずだ。

 そう考えると次に私は、社会でうまくやっている自分を意識することになる。素っ気なく応対されて黙ってしまった野宮さんの横で淡々とパソコン業務を進める私は、この職場に適応しているではないか。すぐに辞めてしまうと思っていた仕事を、七年も続けているじゃないか。

 それにきっと、野宮さんがいなくたって、転職したって、代わりの誰かが、私に影響を与え続ける。その人は、私に快適に仕事をさせる可能性と、私の気を滅入らせる可能性を、同じくらいに有しているのだ。

 世の中にたった一つ自分に合った職場があればいいのだと言いきかせると、私にとってのその職場がここではないという前提を立てていることが明白になった。私は、そのことになぜか驚いた。

 

 夕食に使う材料を残してスーパーで買ってきたものを冷蔵庫にしまったとき、ポテトサラダに入れるキュウリを買い忘れたことに気づいた。

 私は、ジャガイモを袋から取り出し、流水で洗った。黒い土の混じった水が、排水溝に流れていく。色の鮮やかになったジャガイモを五つすべてザルに入れ、蛇口を閉め、キュッという音をきき、シンクの縁に両手をついた。

 美樹さんと康平君、それぞれのカウンセリングが始まって十分ほど経ったとき、私は別の用事でセンターの二階にあがった。廊下を進んでいると、背後で小さな子どもの叫び声が響いた。振り返って続けてきこえてきたのは、院生の谷君の、分かった、分かったから、という声だった。その声にはまだ大人の明るさが残っていたが、余裕を失いかけているようだった。私から見て左側の、プレイルームのドアが開き、康平君と、中腰になって康平君の脇腹に後ろから手をかけている谷君が転がるように出てきた。二人の声は空間の仕切りを失ったことで、鮮明に私の耳に届いた。

 康平君は、まるで化け物から逃れているかのように必死の形相で、全身で床にへばりつき、向かいの面談室に右手を伸ばした。一メートル以上距離があり、ドアに届くはずはなかったが、そのノブが回った。

「どうしましたか」

 いつも以上に落ち着いた声を発した森内先生の後ろに隠れるように、美樹さんが首を伸ばして覗いていた。自分が人見知りの子どものようなことをしているのに、目元からは、康平君への蔑みに似た色の視線が放たれていた。進み出ることもなく右手を口元に添え、その肘を左手で包み、眉間に力を込める姿を、私ははっきり、醜いと思った。

 そのときの康平君は、前方に伸ばした腕を一度も下げることなく、下半身を大口に飲み込まれてしまったみたいに涙を流し、言葉にならない掠れ声を出し、何かを強く訴えていた。私は、とにかく誰かが駆け寄って、抱きしめてあげないといけないと思った。どうして誰もそれをしないのかと憤った。美樹さんも、森内先生も、谷君も、優しくない。美樹さんには、母親の資格がないと思った。そして、自分が覚束ない足取りで近づいて康平君を横から抱きしめることを想像し、一歩踏み出しただけで、足を止めた。

 シンクに伏せていた顔をあげ、ピーラーを取り出し、濡れたジャガイモを手に持った。今なら、ジャガイモをしまい、料理を中止できる。うどんでもそばでも、ピザでもお寿司でも、宅配してもらえばいい。まだ道弘は会社だろうから、帰りにお弁当を買ってきてもらったっていい。そういえば、お米もセットし忘れていた。でもひとたびピーラーをジャガイモの皮にあてれば、ポテトサラダを完成させ、豚の生姜焼きもつくらねばならない。

 どちらを選んでも間違いではないのに、決定打がなく考えをまとめられずにいると、今月は出費がかさんだから自炊を徹底しようと自分で決めたことを思い出した。思い出したくないことを、思い出してしまった気がした。

 私は、憂うつを吐き出すつもりでため息をつき、腕を下ろすその動作の中で素早く、殴りつけるようにピーラーをジャガイモにあてた。深く食い込んだ刃が、大きく切り取った皮を一枚、シンクに落とした。

 

 豚の生姜焼きとポテトサラダはセットであるべきだ、とは付き合い始めた頃からの道弘のこだわりだった。交互に口に運んでは、味わう顔を私に見せた。

「キュウリ買うの忘れちゃって。ごめんね」

 お代わりしたご飯にとりかかる道弘に、私は言った。

「え、なんの?」

「ポテトサラダにキュウリ入ってないでしょ」

「ああ、ほんとだ」

 道弘の返事が怪しかったので、普段つくるポテトサラダにキュウリが入っていることを知っていたのか、冗談っぽく問い詰めた。道弘は首を傾げながらかわしていたが、何度目かに観念して、「キュウリの存在を意識したことはなかったけど、あった方がうまいと思う」と言った。道弘の返事をきき出して、自分が可笑しくなって笑うと思ったが、急にキュウリを買い忘れたことへの罪悪感が増してきて、その気が萎んだ。

 夕食を終えて九時になると、道弘がソファに移動してテレビのチャンネルを替えた。毎週熱心に観ている、年代の異なる三人の男がシェアハウスで暮らすドラマのオープニングが流れていた。私も隣に腰を下ろし、前のめりになっている道弘の頭越しに、ぼんやりとテレビ画面を眺めた。そして再び、昼間の職場でのことを思い出した。

 森内先生に促されて、ようやく美樹さんは声を枯らした康平君に歩み寄り、腋の下に手を差し入れて抱きかかえた。康平君は喉をひっくひっく鳴らしながら母親に掴まり、首元に顔をうずめた。やがて美樹さんの手のひらが、息子の背中を優しく叩き始めた。

 美樹さんは、警戒の色を浮かべたそれまでの表情から一変し、この状況を唯一打開できるという自信に溢れた、不敵にも見える笑みを浮かべていた。私がこうすれば康平は安らぐに決まっているでしょう、そんなことは分かっているんです。その毅然とした態度によって、少なくとも私と谷君は黙って待つことしかできず、森内先生はあくまで想定内だという余裕のある佇まいで、やはり静かに待っていた。康平君の呼吸が落ち着き、ついには眠ってしまうと、美樹さんは息子を抱いたまま面談室に向かい、森内先生との面談を済ませて予定通りの時間に帰っていった。

 十時にドラマが終わり、道弘が風呂に入った。交代で私も入り、歯を磨き、テレビを消し、一緒に寝室に向かった。

 ベッドで仰向けに並んで少し喋ってから、私は道弘の手を握った。しばらくそのままじっとして、どちらからということもなく、服を脱がし合った。身体を起こしリモコンでエアコンのスイッチを入れる道弘に「してほしい」と私は言った。何をしてほしいのかは言わなかったし、道弘も確かめなかったし、自分でもよく分かっていなかった。道弘は、目を見つめてから、ゆっくりと、まるで意識のない人を扱うように私をベッドに横たえた。そしてその身体に、時間をかけて丁寧にキスをし、指先と手のひらで撫でた。私は道弘の唇を感じ、吐息を感じ、手のぬくもりを感じた。道弘は黙って、私の代わりになって私の身体から何かを探し出すように愛撫を重ねた。妻を理解しようと、慰めようと、快楽に浸らせようとしていることが伝わってきて、私は自分の安堵と喜びの程度を、まるごと道弘に伝えたいと思った。

 行為を終えてからも、道弘は私の身体を抱いてくれていた。二人の汗ばんだ身体は、そのまま溶け、ベッドに沈み込んでしまいそうだった。

 エアコンの稼働音が部屋の静けさと中和した頃、道弘が言葉を発する気配がした。それが何気ないものであればあるほど、私の心を落ち着けてくれるだろうと想像した。目を閉じて、道弘の胸に額をあてた。

「今度の土曜日だよな、唯ちゃんが遊びに来るの」

 私は閉じたばかりの目をそっと開き、「うん」と言った。大学を辞めてからずっとフリーターをしている妹の唯が、遊びに行っていいかと連絡を寄こしたのは先週のことだった。何かあったの、と私がきくと彼女は、別に何もないよ、とだけ返信してきた。

「唯ちゃんって、ミートソーススパゲティ好きなんじゃなかったっけ?」

「うん」

よく覚えてたね、という言葉は、喉が締め付けられて継げなかった。暗さに慣れた瞳孔が、室内に侵入した青白い明るさを感知していた。

「じゃあ土曜日、俺がスパゲティつくろうかな。あ、ちゃんとサラダとかも添えるしさ。朝にでも、スーパーに買い出しに行こう」

 道弘の胸に触れる額で頷き、間もなく眠った。

 

 

 

 唯は、私が勝手に想像していたよりも明るく、元気そうだった。カレッジTシャツにスキニージーンズの恰好で、駅前のケーキ屋で買ったというプリンを手土産に持ってきた。

「素敵なマンション。なんだか、住んでるだけで幸せになれそう」

 挨拶をするなりそう言って、続けてエントランスの解放感や、廊下に長い光を届ける窓の設計や、レトロなデザインの玄関ドアを一つ一つ褒めた。

「俺たちもそこが気に入って引っ越したんだけど、唯ちゃんに言われて久しぶりに思い出したよ。いいマンションなんだよな、ここ。古いけど」

 キッチンから横顔を見せて笑う道弘は、私が普段使う、赤いエプロンをしている。

「これ、お姉ちゃんが買ってきたの?」

 テーブルの上の花瓶に生けたクリーム色のアフリカンマリーゴールドを、唯が近い距離から指差して言った。午前中に道弘と行ったスーパーの帰りに、花屋に寄って買ったものだった。

「うん、ときどきね、買うの」

 私たちの母親は、よく家のあちこちで花を花瓶に生けた。玄関や、リビングや、廊下の小窓や、二人の娘の部屋に。当時の私は、その光景を胸の内で皮肉るべく、花を飾っていったいどうなるの、花びらが落ちて部屋が汚れるじゃないか、などと考えていた。私がお金を出すわけでも、水をやったり掃除をするわけでもないのに。

「唯ちゃん、ビール飲む? あれ、二十歳過ぎてるっけ? ああ、過ぎてるよな。何言ってんだ」

 キッチンで手を動かしながら、道弘が独り言のように言う。唯は声を出さずに笑い、私と目が合うと「じゃあ、いただきます」と首をすくめた。私は冷蔵庫からビールを三本取り出し、冷やしておいたビールグラスに注いだ。

 ミートソーススパゲティ、水菜とツナのサラダ、冷たいカボチャスープがテーブルに並ぶと、え、え、ええ?と唯が声を重ねた。

「道弘さん、料理上手なんですね。いいなあお姉ちゃん」

「唯が好きってきいて、ミートソーススパゲティつくったのよ」

 本当? 嬉しい、と唯は道弘の横顔を見て言った。道弘は頭をかいて分かりやすく照れくさがって、まあまあ、と声を出しながら椅子に腰を下ろしたが、ビールを忘れたことに気づいてキッチンに取りに行った。

 食事が始まると、話題は道弘の仕事のことに集中した。唯が知りたがり、道弘が答えると、唯が感心して質問を重ねる。アルバイトしかしたことのない唯にとって、正社員になって十カ月の道弘は少しだけ先輩だった。クリニックのホームページ製作において、どのような営業がかけられ、どのようなクリエイターが必要で、どれくらいのお金が動くのか、これまで私も詳しくきいたことのない内容を、道弘は最初遠慮がちに、途中から熱心に説明した。

 気分よく喋る道弘を眺めながら、私も普段からもう少し話をきいてみてもいいのかもしれないと思った。なんとなく、家庭内で仕事の話をすることを遠慮していたのだ。しかし私は、自身の無意識によるその回避を知るとともに、思い出してもいた。フリーランスのカメラマンとして生計をたてていたとき、こうすればもうちょっとうまくいくんじゃない、という私の提案に、ひどく不機嫌になった道弘を。カメラマンという仕事にプライドがあって、今の営業の仕事にプライドがないわけではない。私が言い切れるくらいに、入社後の道弘が未知の世界を知ろうと、仕事を覚えようと努力する姿を見てきた。

「先月、営業成績トップだったんだよね」

 そう口を挟んだとき、道弘の真剣な表情が緩んだところを、瞬きもせずに見つめていた。

 

 唯と洗い物を片付けてから、三人でテレビゲームをした。三時には、唯の手土産のプリンと、私たちが買ってきたアップルパイを食べた。アップルパイは、きれいに半分残した。

 五時になり唯を駅まで送るときになって、私は唯が何か相談事があって会いにきたのではなかったか、ということを思い出した。唯が切符を買うタイミングで、そばに寄って後ろから声をかけた。

「バイト、順調?」

「普通に順調だよ。どうして?」

「ううん、今日、道弘の話ばっかりだったからさ」

「そう? あ、やばい、あと一分で電車来る」

 唯は慌てて切符を引き抜き、道弘に挨拶をして、手を振りながら改札へと走っていった。

 

 マンションに着いたとき、私の身体は疲労に満ちていたが、登山の帰りに感じたものとは違った。私の気持ち次第で忘れられそうな、重量のない疲労だった。しかし私は、そうしようとは思わなかった。

 道弘も似たことを感じているのか、まっすぐにソファに向かって腰を落とし、今日のできごとを平板な声で振り返りながら、ときどき、私の反応も気にせず一人で笑った。

 出しっぱなしのゲーム機と、テーブルの上のアップルパイが、楽しい時間の残り火のように映った。子どもの頃の、友達が帰ったあとの自室の風景と重なった。しかしあのときは、不意に涙が出そうなくらい、寂しかったように思う。私は、私と道弘が一つの家族であることを新たに強く意識した。半年前に結婚してからの私には唯や両親よりも道弘が長くそばにいて、私たちに会いにきた人は、妹であっても、必ず去っていくのだ。私たちは、どれだけ大切な人を迎え見送っても、二人が残るから、寂しくないのだ。

 何ごともスマートにこなす紗枝と隆二さんのような夫婦でなくたっていい。彼らと一緒に暮らすわけではないし、家が隣というわけでもない。一生付き合っていくかときかれれば、そうはならないという気もする。たぶんそう遠くない未来、彼女たちが、私たちから離れていく。そしてそのときも、私は傷ついたりしない。

 私がアップルパイを一切れずつラップで包んでいると、道弘がソファを離れてゲーム機を片付け始めた。カサカサ、カチャカチャ、という音が、レースのカーテンを透かして夕陽が射し込む部屋に響いていた。

 

 

 

 誕生日前日の日曜日、山登りのときに合流した駅で、今度は改札口の外で紗枝と待ち合わせた。

 訪れたことのない町の、入ったことのない店で誕生日のお祝いをする——紗枝が言い始めたこの遊びを、私は気に入っている。市内でさえ、降りたことのない駅がたくさんあった。もし私が大都会や片田舎に憧れそれが叶わぬ人間であったとしても、この発見があれば、前向きに同じ場所に住み続けられた気がする。

「道弘さん、たいしたことなくてよかったね。もうすっかり大丈夫なの?」

「うん。家に帰るまでは辛そうだったけど、夜にはほとんど治ってた。長く歩くと、ときどきああなるんだって」

 本当は、登山の翌日も道弘は一日中寝ていたし、数日間は痛みを引きずっていた。けれど、かっこ悪いからすぐ治ったことにしてくれと頼まれていた。私は思わず笑ってしまったけど、続けて道弘は、心配かけちゃ悪いから、次誘いにくくなっちゃうだろうし、と脚のつけ根に湿布を貼りながら殊勝なことを言ったのだ。

「また四人で遊ぼうね。今度は、海に行こう」

 改札口から歩き始めると、ここにいない道弘の心境を悟ったみたいに紗枝が言った。私は頷き、海なら怪我しないしね、多分、と応じた。

 駅舎からの連絡通路を渡り大型ショッピングモールに入ると、ファッションフロアも、食料品のフロアも、買い物客で溢れていた。私たちはエスカレーターで一階に降り、建物を出て、住宅街の方へと進んだ。カフェや雑貨店を横目に適当に右に左に折れ、最初に見つけた、赤ちょうちんをぶら下げた焼鳥屋に入った。

 カウンター席につくと、十代らしき女の子が注文を取りにきた。慣れた様子でおしぼりを渡し、お飲み物は、と尋ねる。伝票の挟まった小型のバインダーを持つ手は、剥きたてのように肌理が細かかった。その滑らかさは衝撃的と言ってもいいほどで、私は咄嗟に自分の手と見比べようとした視線をなんとかカウンターの木目に留めた。

 私は梅酒ソーダを、紗枝はレモンサワーを注文した。つき出しと一緒に出てきたグラスを合わせ、乾杯する。

「もう三十歳かあ」

 唇からグラスを離してそう言ったのは、紗枝だった。

「ねえ、私だよ、誕生日なの。紗枝は十二月じゃない」

「そうだそうだ」紗枝は、本当に勘違いしていたみたいに、自分の言葉を笑った。「でも倫子も、正確にはまだ二十九歳でしょ」

「うん、あと数時間は」

 私は答え、狭い店内を見回した。時計は見当たらなかった。テーブル席を含め、二十ほどある席はほぼ客で埋まっている。古い幼馴染に向けるようなガラガラとした声が、そこかしこであがっていた。どこかの声が大きくなれば、どこかの声が小さくなっているとでもいうのか、響く全体の音の量は一定のように感じられた。

「倫子は、二十六日の何時に産まれたの?」

「え、分かんない。何時だろう——。紗枝は、自分が産まれた時間知ってるの?」

「夕食の準備してたら産気づいて、タクシーで病院に行って、夕方の五時四十二分に産まれたってきいたよ。お母さん、タクシーに乗ってからコンロの火を点けっぱなしだったような気がしてきて、途中でタクシー停めて公衆電話使って、お祖母ちゃんに火を止めに行くように頼んだんだって。結局、火は消してたんだけど」

 嘘でしょ、と私は口元が緩むのを感じながら言い、自分が産まれたのが何時であれば嬉しいだろう、と考えた。朝に産まれるというのは、少しできすぎている。真っ昼間というのも、気が利いていない。夕方——夕方が素敵だ。紗枝はその夕方に産まれたのか。

 お待たせしました、という声と一緒に、二本ずつの焼き鳥が三種、目の前に置かれた。頭にタオルを巻いた若い男性店員が、ハツと、ネギマと、砂ずりです、と手のひらで示してくれる。私はネギマを、紗枝はハツを自分の皿に取り、かぶりつく。

 紗枝は早くも一杯目を飲み干し、さっきの女の子を呼んで、レモンサワーのお代わりを注文した。

「高校生くらいかな」

 紗枝は、カウンターに置いた空のグラスに指を添えたまま、Tシャツの生地を浮かせている細い背中を眺めて言った。

「あの子も、生まれて十何年か経ってるんだね」

「どうしたの?」私は、疑問と可笑しさが混じるのを感じて言った。「紗枝、今日はすごく、歳を気にしてる」

 紗枝は今気づいたような顔を見せ、ふふ、と笑う。

「三十歳って、もっと大人だと思ってなかった? お父さんとかお母さんのこと考えるとさ。両親が三十歳のときって、私は七歳だったわけだから。子どものあるなしもそうだけど、今の私よりずっとしっかりしてたように思う」

 それは、紗枝と私がいるなら私の方が口にすべきことであるような気がした。しかし代わりに頭に浮かんだ、紗枝でしっかりしていないなら私はどうなるのよ、という台詞も、気づいたときには声にするタイミングを逸していた。

「二人が付き合ってた頃の写真が実家の寝室に飾ってあるんだけど、襟裳岬でさ、お父さんはお母さんの肩を抱いて、お母さんはお父さんの腰に手を回して、お揃いのサングラスしてさ、もう夫婦みたいなんだよね。まだ大学生だったらしいんだけど。なんていうか、男女二人として完成してるって雰囲気があるの。この先ずっと幸せであることを二人が望んでいて、しかもそれが保証されてるのを分かってるって感じなの」

 店員の女の子が、レモンサワーです、と言って紗枝の前にグラスを置く。紗枝は、あいたグラスを彼女に渡す。

「それは、二人が今も一緒にいることを、紗枝が知ってるから」

「そうなんだけど、私が三十になって、やっとあの写真のときの、二十歳のお父さんとお母さんに追いついた感覚」

「だからあ、紗枝はまだ三十歳じゃないじゃん」

 新しいレモンサワーに紗枝が口をつけ、三分の一ほど喉に流す。私は、紗枝の様子がおかしいような気がして、違和感を本人に伝えるつもりで視線を送る。紗枝は視線に気づき、たまに見せる、訳をすべて分かったような、口を開かずに口角を上げる微笑みを浮かべる。

 私は一気に、分かっていないのは自分の方で、紗枝にそれを見透かされ、傷つかないように指摘されている気持ちになった。しかし紗枝が次に口にした言葉で、私はその劣等感をほとんど意識する間もなく、思考を停止させられた。

不妊治療始めたの」

 何秒かしてから私は「え」と声を出し、どうして、と考え、セックスをしても妊娠しないからだ、と頭の中で自分に教えた。そして、医療機関に頼る前に一般に考えられる方法を紗枝や隆二さんが試していないはずがなく、それも正確に根気強く続けたに違いなく、それだけで、胸がいっぱいになった。

「だから、お酒は今日で飲み納め」

 私は早く言葉を継がなければならず、それは私が紗枝を大切な友達だと考えているからだった。

「検査してもらったってこと?」

 ありきたりで答えの分かっている質問であったが、声を出せたことで、緊張が緩んだ。そして不妊症の検査がどんなものであったかということに、素早く考えを巡らせた。

「うん、してもらった」

「その、隆二さんも?」

「一緒に受けてくれたわ。ていうか、できないねって話になったとき『俺は検査受けてみようと思うけど、紗枝も一緒に受けに行かない?』って隆二から誘ってくれた」

「何それ、優しすぎるよ。いや、優しいというか、当たり前といえば当たり前なのかもしれないけど、なかなか言えないよ、普通。一人で受けに行かされる話とか、よくきくし」

 そう言ってから私は、そんな話を実際には耳にしていないことに気づいた。

「うん、すごく心強かった」

 紗枝は、憧れの先輩のことを話すときのような、遠い目をしていた。十代の女の子に戻ったようで、危うさを感じたけれど、紗枝が話しているのは自分の夫のことなのだ。

「隆二さんって本当に、頼りになるよね。優しいし、頭もいいし、運動もできるし——山登りのときも、道弘を背負ってずんずん歩いて、平気な顔してるし」

 紗枝は、それについては何も言わず、両肘をカウンターについて手元のおしぼりのあたりに視線を落とした。

 カウンターの向こうから、男性店員が焼き鳥を乗せた皿を並べて、部位の名称を教えてくれる。紗枝も私も、焼き鳥をじっと見つめて曖昧に頷き、説明をきき終えてからグラスに口をつけた。私がそのうちの一本に手を伸ばして口に運ぶと、紗枝も同じようにした。

 そうして続いた静けさの中、私は自分が褒め足りなかったような気がしてきて、隆二さんがメガバンクの行員であることだとか、百メートル走でインカレに出たことだとか、二人が去年一軒家を購入したことだとか、そういったことを口にしてみるべきなのかもしれないと考え始めていた。

「でも、理屈っぽいところあってさあ、隆二」

 紗枝が、顔をこちらに向けて喋り始めた。

「よく言えば合理的なんだけど。たとえば私がチラシで安い肉を見つけるとするでしょ。で、普段は行かないそのスーパーに行ったりすると、何十円かの違いなんだから、その時間を違うことに使った方がいい、なんて言うの。それはそうかもしれないけどさ、その安い肉を見つけたとか、売り切れになる前に買えたとか、そういう喜びもあるでしょ? いつもと違う道を歩くっていう楽しみも、ちょっとはあるでしょ。新しくできたお店を見つけるかもしれないし。まあ、特に何も見つからなかったんだけどさ」

 急に話の風向きが変わったことに私は驚きつつ、紗枝が愚痴を言ったことに瑞々しい親しみを感じていた。

「そんなこと言ったらさ、登山だってなんなのって話でしょ? ストレス解消したければ家で映画でも見てればいいし、運動したいなら近所のスポーツジムでトレーニングすればいいじゃん。ああ、でもそんなこと言ったら、登山はそれが一度に叶えられるから、とか反論されそう」

 紗枝は焼き鳥を頬張り、流し込むように大きくグラスを傾けて眉間に皺を寄せた。私が堪えきれずに笑ってしまうと、紗枝も表情を崩して歯を見せた。それから、紗枝と私の夫の愚痴合戦となり、私の誕生日のお祝いという雰囲気は完全になくなり、しかしとても楽しい時間が始まった。

 

 焼鳥屋を出たときには、十一時を回っていた。住宅街は静まり返っており、自分たちの声は大きすぎないはずだったが、よく響いてきこえた。古いブロック塀やこんもりした生垣は、実家の近くにもあったことを覚えており、違う町であるのに懐かしい気持ちになった。

「そういえば、前に言ってた親子セラピー、順調?」

「まあ、順調だよ。ちょうど先週、個別のカウンセリングが始まったばっかりだけど」

「森内先生が担当するなら、安心だね」

 そうだね、と私は同意しながら、不妊治療を始めた紗枝が親子の話をきいて気分を害さないか心配した。しかしこの話を切り出したのが紗枝であることを思い、またよく気遣いのできる紗枝が人からの気遣いにはときに抵抗を示すことを思い出した。

「お父さんって、いるんだっけ?」

「その子が生まれてすぐ、別れちゃったみたい。詳しいことは、私も分からないんだけど」

 私は、カウンセリングセンターの二階で起きた小さな事件のことを、紗枝に話してみようかと考えた。けれど、紗枝に説明する中で、どこかに自己弁護の気持ちが混じってしまうと思った。私たちは三歳の康平君を声が枯れるほど泣かせてしまった。その彼を泣きやませたのは、クライアントである母親の美樹さんだった。私が内心で母親失格の烙印を押した美樹さんこそが、結局は康平君の安息の地だった。

 康平君があれほどに美樹さんを求める瞬間があるということを、想像できていなかった。私は、母と子の絆を侮っていたのだろうか。床を這いつくばう康平君が、美樹さんのいる面談室のドアに右手を伸ばしていた光景が、冴えない頭の中でチラチラと映った。

 駅が見えてきた頃、紗枝が立ち止まり、鞄から小さな紙袋を取り出して私に握らせた。

「何?」

 紗枝は答えず、私を見ていた。紙袋を開いて逆さにすると、金色の、細いバングルが手のひらに落ちた。

「仕事辞めてから、趣味で彫金始めたの。まだまだなんだけど、出来のいいの選んできたから、よかったら使って」

「つくったの? これ、紗枝が?」

 紗枝は恥じらいのある顔を見せて、うん、と頷いた。私は、指先で摘まんだバングルの角度をクルクルと変えて、街灯の明かりに照らした。不規則な加工を施された表面が鈍く光って、優しく私の目に射し込んだ。

「ありがとう。この、端っこが水滴みたいに丸く膨らんでるの、かわいい」

「じゃ、こちらこそありがとう。私もそこが気に入ってるの」

バングルの内側には、私のイニシャルと誕生日、そしてその隣には「doigt」という文字が印刻されていた。

「これ、ブランド名?」

「ブランドっていうほど立派なものじゃないけど、一応、そうかな、ただの名前」

「なんて読むの? 英語じゃないよね?」

「フランス語で、指っていう意味。ドワ、って読むの」

 なおも照れくさそうに答える紗枝を面白がって、私はいろいろと質問をぶつけた。きっかけは何気なく通い始めた彫金教室であったこと、講師に頼み込んで個人的に指導を受けたこと、自宅の一室にこもって日中に作業をしていること、ジュエリーショップを営む親戚に紹介してもらった業者から金や石を仕入れていること、ブログを始めてアクセサリーの通販をしていること——。私の知らなかったことが、トランプをめくるみたいに次々に明らかになっていった。

「すごい行動力。どうして、そんな素敵なことばっかり思いつくの?」

「ちょっとやってみて、楽しそうなこと続けてるだけだから、すごくないよ。そのうち嫌になってやめちゃうかもしれないし」

 私は何かを言おうとした。けれど咄嗟に、今の時間の心地よさを優先し、そこに浸った。きっと、たわいもないことなのだろうと考えると、言葉にしかけていた内容もあっさりと忘れられた。

 人影のほとんどなくなった駅前で、バングルを着けてアクションヒーローのようなポーズをとると、紗枝がスマホで写真を撮ってくれた。

 

 マンションに帰ったとき、道弘はすでにベッドで眠っていた。冷蔵庫を覗くと、切らしていたと思っていた麦茶がガラスポットにたっぷり冷やされていた。道弘が、パックのお茶を買ってきてつくってくれたのだ。

 麦茶をコップに注いで二杯飲み、バングルをテーブルに置くと、バスタオルと下着を持って風呂に向かった。湯が貯まるのを待つ気力はなく、ぬるいシャワーを浴びて汗を流した。

 ざっと身体を拭いて、パジャマを着てベッドに向かう。さっきまでセミダブルベッドの真ん中にいた道弘が、壁際に寄っていた。静かに身体を横たえると、後頭部と枕のあいだですぐに水気が温まり始めた。ドライヤーを省略したことを後悔し、朝の寝ぐせを覚悟した。そして、明日の仕事のことを思い、そこに今から塞いでいく気持ちがあることを認めた。

 紗枝は月曜日を、明日をこわがっていない。翌日が仕事でも休日でも、同じ種類の希望を持って眠りについているように思える。大学三回生になってから進路変更をして、経済学部から心理系の大学院へと進み、臨床心理士の資格を取った。近くに求人が少ないとみると県を二つ跳び越えた引っ越しをしてから就職活動を始め、三つの職場を掛け持ちした。私が知るどの臨床心理士より、情熱を持って仕事に取り組んでいた。そして隆二さんと結婚すると一転、仕事をすべて辞め、二人で一軒家を購入し、私の知らないうちに彫金を始めて販売までしているという。毎月二人で登山を楽しみ、隆二さんは勤続十一年で支店長代理。子どもができなくたって、それを忘れるくらいの充実が、あの二人を満たしている。そして私の勘によると、たぶん、子どもも結局は授かるのだ。

 私は、やりたい仕事でもないのに、辞められないでいる。洒落た趣味も見つけられない。登山だって、特別楽しくもない。

 ふっと湧いた、道弘が私を安定して養える夫だったら、という気持ちを慌てて抑え込んだ。おそるおそる振り向いた先にいる道弘は、小さな寝息をたてて眠っていた。

 いったいなんてことを、人の、それも道弘のせいにしようとしていたのだろう。私は、そういう人間を嫌っていたのではなかったか。

 明日、正確な出生時間は知らないけれど、私は、三十歳になる。

 

 

 

 朝、道弘に誕生日おめでとうと言われ、仕事終わりの外食に誘われた。混んだ電車に乗り込んでスマホを見ると、父と母から、それぞれお祝いのメッセージが届いていた。長文の返事を打っていたら、次は妹の唯と、紗枝からもメッセージが届いた。

 立て続けの祝福に思わず口元を緩めたとき、自分が昨晩、ベッドで後ろ向きの感情に囚われていたことを思い出した。一晩眠って誕生日を迎えただけで、私はそこからあっさりと抜け出していた。

 吊り革を持ち直すと、右腕でバングルが揺れた。くすんだ金色は、腕によく馴染んでいた。何年も使い込んできたような、私のお守りとしてさまざまな経験を潜り抜けてきたような愛着を覚えた。カウンセリングセンターで働いていた頃の紗枝は、中学の入学祝いに親に買ってもらったという腕時計を着けていた。しかし最近の紗枝がどうであったかは、昨日も会ったというのに覚えていなかった。

 メッセージはあとで返すことにして、スマホを鞄にしまい、晴れた窓の外を眺めた。いつもと同じ景色であるはずだったが、新しい日々が始まった気がした。いや実際に、今日は昨日とは違う、新しい一日であった。私は、そんなことも忘れていたのだ。

 出勤して顔を合わせた途端野宮さんが私の誕生日を祝ってくれるという妄想をして、そうならなかったときでさえ、清々しい気持ちでいられた。職場に誕生日を祝う習慣はなかったし、そもそも野宮さんが私の誕生日を知っているはずがなかった。自分を騙して絶対に起こらないことに期待してみる遊びは、今日の夕食を楽しみにしていることの証拠となって、気分のよさを確固たるものにしてくれた。

 定時であがり、七時に道弘の職場の近くで待ち合わせ、タクシーを拾った。十五分ほどで到着したのは、県立公園のそば、見晴らしのいい丘の上にあるフレンチレストランだった。赤いウロコ瓦の屋根と白壁は、立派な一軒家が並ぶ一帯の中でも目を引いた。

「こんな格好で大丈夫かな?」

 私は、ベージュのブラウスに抹茶色のパンツを履いていた。

堅苦しいところじゃないから。営業先の院長に教えてもらったんだけど、デニムだって大丈夫」

 火の灯るランプが吊るされた玄関に立つと、白いシャツに黒いベストを身に着けた四十代くらいの女性が出迎えてくれた。短い廊下を渡り、一面ガラス張りの部屋に足を踏み入れる。長方形のその空間には、等間隔に丸いテーブルが三つ並んでいた。他に客はいなかった。

 真ん中のテーブルにつき、道弘と女性店員とのやり取りを見届け、窓の外に目をやると、県立公園の並木道がすぐ近くにあるように見下ろせた。その向こうには、ビルの立ち並ぶ景色が広がっている。

 そのシチュエーションだけで、私の胸は高鳴っていた。ちゃんと完食できるだろうかという不安さえ生まれた。それでも、食前酒を喉に流すと空腹を感じ、運ばれてくる本格的なフレンチを食べ進めた。魚料理も肉料理も凝りすぎず、私たちは肩肘張らずにおいしいおいしいと言い合った。

 アイスクリームを食べたと思ったら、そのあとのコーヒーと一緒に、ロウソクの立ったカボチャのケーキが出された。特別な演出はなかったが、女性店員と白ひげを生やしたシェフが出てきて、おめでとうございますと微笑んだ。談笑ののち彼らがキッチンに引き返し、道弘から真珠のついたシンプルなネックレスを受け取ると、もう自分の中には何も言葉が残っていないように思えた。

 

 駅までのタクシーの中でも、電車の中でも、マンションまで手をつないで歩いているあいだも、自分は幸福の中にいるのだと感じていた。交代で風呂に入り、身体を拭いてパジャマを身に着けてベッドに向かうときにやっと、これでこの幸せな時間は一応の区切りがつくのだと意識した。

 ベッドに入るなりキスをして、着たばかりのパジャマを脱がし合った。少しだけ飲んだワインの酔いを、身体の火照りで今さらながらに自覚した。互いにいつも以上に、相手を求めていた。アルコールのせいでも、誕生日を祝ってもらった高揚感のせいでもよかった。求めた、セックスをしたという既成事実をもとに、またいっそう道弘を好きになるのだと思った。

 ふと、上になっていた道弘が愛撫をやめ、身体を離した。黙ったままベッドから降りて窓を閉め、エアコンのスイッチを入れた。私たちはすでに、じっとりと汗をかいていた。

 道弘は私のそばで一度膝立ちになり、それから腰を下ろした。

「今日、なしでいい?」

「なしって?」

「ゴム、しないでいい?」

 これまで、道弘は私とのセックスにおいて必ず避妊をしてきた。どんなに気持ちが盛り上がっていたときも、必ず、安全なタイミングでコンドームを着用した。行為を終えたときには、コンドームがきちんと役目を果たしたことを確認した。その道弘が、避妊をしたくないと言っている。

「子ども、つくろう」

 薄暗がりの中、濃い影が顔を覆っていた。就職してからうっすらと脂肪がつき始めた身体は、窓の外から射し込む明かりで滑らかで真っ白だった。表情を読み取ろうとは、なぜか思わなかった。

「子ども?」

「そう、子ども。俺と倫子の」

 私の問い返しに丁寧に答えた道弘の声には、愛の形を整えて差し出したような優しい響きがあった。

「仕事が——」

 肌の露わが、急に恥ずかしくなった。私は右手で胸を隠し、足元で丸まっていた薄い掛け布団を左手で引き寄せる。

「仕事?」

「産休とったら、戻りにくいし」

 道弘が正座を解いてあぐらをかき、顔の高さが変わったことで、緊張が崩れた表情が見えた。

「産休とったら戻りにくいって、いつの時代だよ。大学職員なんだから、そこはきっちりしてるはずだよ。育休だってとれるさ。多少戻りにくいって気持ちは分かるけどさ、だから子どもをつくらないってことにはならないだろ」

「うん、そうだね。でも——」

「辞めてもいいよ」

「え?」

「仕事、辞めてもいい。俺が稼ぐから」

 四方八方から問い詰められているように、私は混乱する。

「ちょっと待って、ちょっと、待って。考えるから」

 私は道弘の脇を抜け、ベッドの足元から床に降りた。掛布団を落とすように残して裸のまま洗面所に行き、しかしそこでは一人きりになれない不安があり、浴室に入ってタイルの床に座り込んだ。

 いつかこのときが訪れることを、私は知っていたはずだ。道弘と将来の子どもの話をしたことはあったし、ほしいね、と口に出してもいた。二人で名前を考えたこともあった。そしてさっきのような場面が訪れたとき、自分はごく自然に受け入れるのだろうと思っていた。お腹に命を授かる不安、その命を守っていく不安、経済的不安、そういったものが立ち塞がったとしても、世の中のほとんどの女性がそうであるように、跳び越えていけるものだと思っていた。ぬめりのような不安にまとわりつかれたとしても、ハードルを越えれば百点を取ったのと同じになるのだからと、私は高をくくっていたのだろうか。何の訓練も、何の準備も必要ないと。

 いや、と私は首を振る。ごく普通に三十年を生きてきた自分が子を産むのに、訓練や準備など必要ない。仮に必要だったとしても、これまでの経験の中に組み込まれているはずだ。真面目すぎず不良でもない私は、おおよそ平均的なことを、一通り、ほとんど漏れなく経験してきた。

 産んで育てるという覚悟さえ、本当はいらないのかもしれない。普通の女が、普通に妊娠と出産、子育てをしようというのだ。むしろ、飛び抜けた何かがあるわけではない私のような人間こそ、何も考えずに、乗り越えるべきことなのだ。

 立ち上がり、腿の内側に右手を差し入れた。先程は確かに濡れていたところが、乾いていた。心だけでなく身体も避妊をしないセックスを拒んでいるという絶望が、頭を過ぎった。しかし性的興奮の鎮静と時間経過による乾燥だという当たり前の事実に気づき、鼓動が落ち着くのを待ってシャワーの栓をひねった。

 

 寝室で、道弘はパジャマを着てベッドに腰かけていた。私は、きれいに畳まれた自分の下着とパジャマを手に取り、身に着けていく。

「ごめんな。急すぎたよな。さっき風呂覗いたんだけど、一人にした方がいいかなと思って」

「ううん」

 私は最後のボタンを留め、道弘の隣に腰かける。夫の身体に触れないように、ベッドに手を置いた。

「ちょっとびっくりしたの」

「なんで俺って、いっつもこうなんだろうな。前もって言っとけば問題ないようなことなのに。でも、ちゃんと覚悟して言ったってことは分かってほしい。勢いで言ったわけじゃないってこと。ずっと、考えてたんだ」

「うん」

「だから、今日はもうやめとくよ。遅くなっちゃったし。明日、二人とも仕事だし」

「大丈夫だよ」

「え? 大丈夫って?」

 顔を向けた道弘の表情には、隠しきれない期待があった。私は、震えないように注意深く声を発した。

「ゴム、なしで」

 道弘は表情を消し、私の手を取った。それは、初めてキスをしたときの触れ方に似ていた。

 

 

 

 避妊をしないセックスを終えて三日目の朝、自宅トイレで周期通りの出血を認めた。その瞬間に私を支配したのは、安堵だった。次に、どうせなら妊娠してしまえばよかったのに、という投げやりな気持ちが生まれた。妊娠すれば、私は産まざるを得ないのだ。産めば、育てざるを得ないのだ。決定が先にあれば、私という人間はそれに従い、進んでいく。それどころか、身体の変化によって、産みたい、育てたいという欲求の萌出さえ期待できた。

 ナプキンを挟んで下着を履いてからも、私は長く便座に腰を沈めたまま、規則正しいでこぼこが並ぶ目の前の白い壁紙を眺めていた。安心したはずなのに、仕事に行くのが億劫だった。

 トイレを出ると、玄関で腰を下ろしている道弘の背中が見えた。

「もう行くの?」

「うん、朝一で契約だから」

 道弘は立ち上がり、こちらを向いた。私は、できるだけさりげない口調になるように唇に意識を集中させた。

「生理、きちゃった」

 声は、思っていたより強く響いた。短い言葉を発するだけの演技を完璧にできなかった事実が、正直に生きてきたつもりの自分に皮肉っぽく突き付けられた。

「男の方も溜めた方がいいらしいから、生理終わるまで頑張るよ」

 道弘は軽く笑い、ドアを押して出ていった。

 部屋は静かになったが、足元にだけ、小さな風が吹いているようだった。落ち着かない感覚のまま移動してソファに座り、壁の時計を見て、家を出るまであと十五分あることを確認した。

 スマホを取り出し、アフター・ピルを処方してもらったクリニックのホームページにアクセスする。予約システムにログインし、「再診」のボタンを押した。

 

 血圧測定と採血を終えて処置室を出ると、待合室の患者が三人から六人に増えていた。そのあいだをすり抜けるとき、ふっと、香水のにおいが鼻をついた。どの女性もついさっき整えたという髪型と化粧で、私はここが夜の街に紛れる婦人科クリニックであることを再認識する。彼女たちは、今からそれぞれの店へと向かうのだ。

 入口近くの長椅子の端に腰を下ろした。隣の女性は、黒地にブルーの花柄のドレス姿で、組んだ脚でその裾を持ち上げていた。光沢のある薄いストッキングに包まれた、きれいな形をした脚だった。太腿の上には、力なく握られたスマホがある。

 見ると、他の患者ももれなく脚を組み、うつむいて、黙ってスマホを操作していた。そして揃って、冷えた目をしていた。私はそこに、典型的な女の悲哀を重ねてみた。初潮、胸のしこり、処女膜、出血、仕事と家庭、子育てのストレス、不倫、養育費、親権、ここに来ている理由——生理痛、生理不順、避妊、妊娠、あるいは性感染症

 慌てて、自分が陥りそうになっていた穴から這い出す。何も、悲しいことではない。ここが女性のためのクリニックというだけで、男性にも悲哀はある。私も、おそらく他の患者も、別に男に傷つけられたわけではない。待合室なのだから、他人同士なのだから黙っていて当然だ。診察まで特にすることもないのだから、スマホで暇を潰して当然だ。彼女たちが皆、スマホでつまらないマンガを読んでいるところを想像し、溢れたおかしさを、口元に手をあてて隠した。勝手に想像した悲しさは、簡単に吹き飛ばすことができる。

 低用量ピルは、アフター・ピルと同じくあっけなく処方された。問診票と検査結果に目を通した老齢の医師は、最初は一か月だけにしておきますね、と言いながら私と控えめに目を合わせ、疲れた笑みを見せた。その表情や仕草はまるで、映画に出てくる名脇役の演技のようだった。大切なことをさりげなく、けれど確実に、それも私ではなく観客に伝えるような。

 建物の一階に下りて通りに出ると、来たときとは違う世界かと錯覚するほど、活気に満ちた夜の街が延々と続いていた。熱気と吐息が混じったぬるい夜風が私の頬から首筋を撫で、それは不快ではなかった。

 

 あの夜、道弘がコンドームを装着せずに侵入してきたとき、私はこれまでにないほど、道弘の存在を強く感じた。自分たちが、深く結ばれていると思った。同時に、自分があくまで侵入されている側であることを意識した。私は、どんな体勢であっても、侵入されている側であり、道弘は侵入する側なのであった。ペニスのあたたかさに集中しても、快楽の頂に達しようというときには、ぎりぎりで罠に気づいたような感覚に襲われ、目を開いて自分たちの行為を確認しなければならなかった。

 そこに、恐怖や焦りはなかった。死のような取り返しのつかないことでも、静かに受け入れられそうな落ち着きがあった。私はときどき、そういった心境になることがあった。死にたいわけではないけれど、何もこわくない。すべてを、誰かに委ねてもいい。ただ、その実行の瞬間を見逃すわけにはいかない。だからどうせやるなら早くしてほしいし、もしやり切らないなら今すぐ中止してほしい。今この瞬間を決定づけて、未来をはっきりさせたい。

 道弘の腰がゆっくりと動き、私の腹の底を行き来した。繰り返しているだけなのに、下腹部からじんわりとした痺れが広がっていく。薄い皮膚だけを残して、肉は無感覚に近くなる。だが脳はその事象をあますことなく拾いあげている。理解している。何かが、身体の中を駆け上がってくる。私は目を閉じずには、身体を反らさずには、声を出さずにはいられなくなる。指先が、道弘の背中に食い込む。爪が刺さるところを想像する。

 道弘が激しく動き、唸るような短い声をあげる。

 腹の中で噴きつけられた精液が、そこに残るのだということを、荒い呼吸をしながら考えた。

 

 

 

 五日経ち、一日着けていたナプキンに一点の赤も認められなかったとき、私は、自分の身体がセックスに応じられる状態に戻ったと思った。しかし別に、異常から正常に戻ったわけではなかった。月々の生理とはまさしくヒトの生理であり、妊娠という役割と機能を維持するための正常な現象の一部なのだった。

 しかし今の私はもはや出血を伴う生理の有無に関係なく、異常と言えるのかもしれなかった。低用量ピルの作用で、生理はあったが排卵がない。私は、自分のバイオリズムの一つに変更を強いた。この錠剤を、生理期間の移動という目的で使用する女性もいるらしい。飲むだけで、排卵がなくなる。飲むだけで、生理が早まったり遅れたりする。病気を治したり細菌やウイルスを殺滅したりする薬とはまるで異なる、不思議な作用であるように思われた。偶然を装って自然の摂理に逆らっているという感じがする。

 世の中にピルなんて存在しなければ、コンドームなんて存在しなければ、私は何も考えずに妊娠できたかもしれない。できるときはできるのだ生まれたら育てるのだという諦めにも切望にもなる態度で避妊なしのセックスをしたかもしれない。生理がこなければ妊娠したかもしれないと思い、超音波検査の結果でやはりそうだと知り、微熱や吐き気や肌荒れを単純な気持ちで不快に思い、休日は眠気に任せてぐうぐう眠る。お腹が目立つようになると神経質になって道弘にあたり喧嘩をするが、赤ちゃんによくないと道弘が歩み寄って何度も仲直りをする。画数を数えながら名前を考え、ベビーウェアやおもちゃを買い揃え、十カ月後には鼻の穴からスイカを出す痛みに耐えて出産するのだ。

 大変だが、難しいことではない。私の母も道弘のお母さんも、何人もの友人も通り過ぎてきたこと。深く考えてよい結果が得られるというものではない。

 結果?

 私は立ち止まる。結果とは、子のことなのだろうか。母の妊娠の結果は、私なのだろうか。だとしたら、今の私は、成功なのだろうか。ニュースで見た、通学路にトラックが突っ込んで亡くなった小学生の男の子は、失敗なのだろうか。彼の両親は、絶望ののち、いつかこう考えるだろう。あるいは考えようとするだろう。悲しみは癒えないけれど、産んでよかった、と。

 もしそうなることが分かっていても、という浅はかな問いかけを思い浮かべ、すぐに捨てた。

 

「コーヒー飲もうか」

 洗い物を終えた道弘が、冷蔵庫からチーズケーキを取り出して言った。

 うん、と私は返事をして、やかんに水を入れて火にかける。揃いのカップを二つと、インスタントコーヒーの粉を用意する。

「あ、今日さ、豆も買ってきたんだ」

 道弘はそう言いながら、食器棚からコーヒーミルを取り出す。うっすらとかぶった埃を手で払い、調理台に置く。いつも私に旧型の郵便ポストを連想させる、黒い陶器製のミル。実家では使わないからと道弘が持ってきた、おじいさんの形見だ。二人で暮らし始めてからしばらくはこのミルを使って豆を挽いていたが、少し高めのインスタントコーヒーを試してみたら思いの外おいしくて、いつからか食器棚の奥にしまわれていた。

 道弘は鋏でコーヒー豆の袋を開封し、鼻に近づけた。ミルの丸みのある蓋を開け、褐色の豆を乾いた音をたてて注ぐ。蓋を下ろす。鋏を引き出しにしまい、左手でミルの本体を、右手でミルの横から出るハンドルを持つ。安全確認をするように一呼吸置いてから、ハンドルを回し始めた。

 このミルを前にすると、道弘の所作は途端に慇懃になる。普段も雑というわけではないけれど、今はまるでビデオ教材のような無駄のない動きで、一つ一つの作業をこなしている。じいちゃん家に行ったらいつも豆挽いてくれてさ、という一度だけきいた思い出話を、私はこの光景を目にするたびに思い返している。

 ごりごりごり、という一定のリズムで音をたてるミルを、私は道弘の隣に立って眺めた。道弘は黙ってハンドルを回し続け、同じように手元の黒い鉄のかたまりに視線を留めている。

 手持ち無沙汰だったが、ここから離れようという気持ちにはならなかった。コーヒーができあがるまで、このままでいた方がいいという気がした。そしてなぜか、道弘も同じ気持ちでいることが分かった。

 子どものことも、私たちはこのように眺めるのだろうか。二人のあいだに生まれた、二人の遺伝子を受け継いだ子ども。両親の遺伝子の染色体を、きっかり半分ずつ受け取るというのはできすぎているように思える。奇跡のように扱われることのある精子卵子の受精で、染色体の比率が揺るがないというのは、奇跡性を飛び越えて、嘘のようにもきこえる。担がれているような気持ちにさせられる。私の子どもは、私のよいところを、どれくらい受け取ってくれるのだろうか。道弘のよいところを、どれくらい受け取ってくれるのだろうか。どのタイミングでセックスをしたときに、よい子が産まれてくるのだろうか。悪い子は産まれないのか。

 私は、障害を持って生まれた自分の子どもを想像した。彼または彼女は、私に後悔をさせるだろうか。産まなければよかったと、妊娠しなければ、セックスしなければよかったと。いや、私はおそらく気にしない。障害のある子をすんなり受け入れるという確信に近い自信がある。しかしそれは私が慈愛に満ちているとか、常に前向きであるとかいうことではなく、すでに訪れた目の前の現実に対しては、抵抗しても仕方ないとあっさりと受け入れる性質によるものだと思う。障害でなくても、克服し切れないことについては、潔くも見える自然な心境で受け入れる。努力しても意味がないということを、努力しなくてもいいと捉えることができる。であれば私は、何をおそれているのか。

 豆を挽き終わると、道弘はやかんの湯をドリップケトルに移した。コーヒーサーバーにペーパーと挽いた豆をセットし、湯を細く落とす。粉が息をするように膨らんでは、ゆっくりと沈んでいく。

「いい香り」

 久しぶりに発した声は、私たち二人の心の声のようであった。道弘は黙って頷き、円を描くように、湯を注いでいく。クリーム色の細かい泡立ちの上で、曲線が現れては消える。豆を挽いていたときに感じた無限にも思える時間の循環が、また私たちを惹きつけた。

 道弘がドリップケトルを調理台に置き、サーバーからカップにコーヒーを注いた。私はチーズケーキを小皿に移してフォークを添える。二人でテーブルに移動して、椅子に腰を下ろす。

 さ、食べよう、と道弘が気を取り直すように言った。

「珍しいよね、道弘が行列に並んでケーキ買うなんて」

「そうなんだよ、いつもは通り過ぎるんだけどさ、なんとなく、買って帰ろうと思って」

 フォークで切り取られたチーズケーキが、道弘の口に運ばれる。もう、豆を挽いていたときの空気の硬さはない。

「ちゃんとコーヒー淹れたのも久しぶりよね。やっぱりおいしい」

「そうだったかなあ。まあ、インスタントもうまいんだけどな」

 私は、チーズケーキを小さく切って食べる。舌で触れたところから溶けて、底の生地だけ噛んで飲み込む。スーツ姿でケーキを求めて行列に並ぶ道弘が脳裏に浮かぶ。コーヒー豆を選ぶ道弘の眼差しを想う。

「生理、終わったよ」

 こみ上げる何かを、ぐっと堪えねばならなかった。道弘は、子どもをほしがっている。私を妊娠させたいと思っている。これまでの愛情と性欲に、新しい目的を加えて、セックスをしようとしている。父親になろうとしている。元気な子が産まれ、育つ家庭に相応しい、彩りのある暮らしをしようとしている。疲れた身体で、チーズケーキとコーヒー豆を買ってきて。唯がうちに来た日に買ったアフリカンマリーゴールドは、枯れて捨ててしまった。

「そっか、うん、分かった。いや、分かったってのも変だけど」

 道弘は笑い、フォークでチーズケーキを切り取る。口に運ぶ前にコーヒーを飲む。ケーキを食べ、またカップに口をつける。ズズッと吸う。リモコンを手に取り、テレビを点ける。バラエティー番組で歓声があがっているが、私たちはこれまでの経過を知らないから黙っている。そんなに面白いことがあったのかと、次の笑いどころを求めて、テレビ画面に視線を留めている。口元は、いつでも笑える準備をしている。

 なんて、小さな世界なのだろう。この部屋で起こっていることを、私と道弘しか知らない。それぞれの実家の両親も、唯も、隣の部屋に住む夫婦も、どこかを歩いている誰かも、私たちがコーヒーとチーズケーキを前に、生理がどうだと話していることを知らない。コンドームを着ける着けない、ピルを飲む飲まない、今晩セックスをするしない、そんなことを考えているなんて知らない。

 私は、核戦争だとか伝染病の流行だとか隕石の衝突だとか、そんな未来の到来をおそれて妊娠を拒んでいるのかもしれないと本気で考えてみて、それを完全否定できないことに、空っぽの身体の中に靄がかったような居心地の悪さを感じた。何か別に理由があるのに、それを自分で知りたくなくて、今まで考えもしなかった大げさな言い訳を引っ張り出しているような気がした。

 

 精子を溜めすぎると逆に妊娠率が低下するという情報をどこからか仕入れてきた道弘は、これまで以上に頻繁にセックスを求めた。そして毎回時間をかけて、丁寧に愛撫をしてくれた。またほとんどの行為において、私をオーガズムに導いた。

 回数を重ねるごとに、私は、薄いゴムの隔たりが取り払われた交わりに、深い喜びを感じられるようになっていた。直に伝わるあたたかさと、奥深くで精子がしみ込んでいく感覚は、コンドームを使っているときのセックスにはなかった。私たちはたった一組のペアだけれど、これが集まったものが人類の営みであり、私が私でなくてもいいような、生命体としての一体感を味わった。子をお腹に宿し、この世界に産み落とし、世代をつなぐだけの役割を果たせばすべて許される、いや許されるどころか神聖な行為として胸を張れる充足感。

 しかし、私は妊娠しない。毎日ピルを飲み、排卵を抑えているから。正常に機能しようとしている身体を騙し、快楽と仮の充足感だけを受け取っている。そのことに抵抗を覚えないのは、自分でも意外だった。それは、この秘密の避妊が一時的なものであり、そのうち自分がピルの使用をやめるだろうと考えているからかもしれなかった。何しろ、私はありふれた人間なのだ。これまでの人生がそうであったように、そのうち自分の立場を自覚して、女としての妻としての役割を受け入れる心境へと変化する。

 射精し力尽きた道弘の重さを、ずしりと感じた。荒い息遣い。首筋の汗。私の中で縮んでいくペニス。ありがとう、という少年のような弱々しい声。

 この真っすぐな夫に対する裏切りは、私の人生においてもっとも残酷な行為であるはずだった。しかし真実を告白するわけにはいかない。理解され受け入れられるための言葉が、思考が、私の中で揃い整っていない。準備ができてから、黙ったままピルを飲むのをやめればいい。黙ったまま、妊娠すればいい。どちらかが大きな傷を負うことを、今は優先して回避すべきだった。

 

 通勤中や休日に道弘と出かけたとき、小さな子どもの姿に気をとられるようになった。そして、その子はすぐそばにいる両親が避妊せずにセックスをして生まれたのだと頭の中で言葉にした。コンドームやピルのないセックスを、彼らはどのようにして迎えたのだろう。避妊をしないという宣言と確認があったのだろうか。それとも、特に何も言わずに避妊をやめたのだろうか。

 予定外に子どもができたから結婚したという友人もいる。どうして、そんなことができるのだろう。外で出すからという言葉に私の友人は頷いたのだろうか。あるいは安全日だからと自ら望んだのだろうか。しかしピルやコンドームも、公式な避妊法として認められているというだけで完璧ではない。

 ときどき、紗枝のことも考えた。不妊治療を試みるあの夫婦は、今どのような方法に取り組んでいるのだろう。紗枝本人にきいてみたい気持ちはあったが、それをきいてどうするのと自分にたしなめられる。知ったところで何かできるわけでもないのに幼稚な興味を持ってしまうことが、恥ずかしかった。

 

 須田親子は、毎週木曜日十一時からのカウンセリングを続けていた。初めの三回を乗り越えるとその後も通所を継続する傾向があるため、私たちはひとまずほっとしていた。

 特に康平君は、初回にあれほど拒んだプレイセラピーを心から楽しんでいるようだった。ルームに入るときも出てくるときも、同じ笑顔を私に見せた。おもちゃを持ち出して迎えにきた私にプレゼントしようとしたり、谷君のシャツの裾をめくったりしてみせて、私たちが笑うと彼も声をあげて笑った。

「遊びに熱中しすぎて興奮することもあるんですけど、駄々をこねることはありません。お母さんがすぐ近くの部屋にいるってことを理解して安心したんじゃないでしょうか。ゴミ収集車がお気に入りみたいで、ずっと握っています」

 親子を見送ってから、院生の谷君が教えてくれた。

 家族以外の人間と関わり、それも良好な関係を築きつつあるのは、康平君の社会性の獲得という意味でよい兆候に違いなかった。しかしそのそばにいる美樹さんの様子は、息子が私たちと必要以上に親しくなることをあまりよく思っていないように映った。康平君が近づいてきたとき、私は美樹さんの目を意識せずにはいられなかった。

 康平君は今、美樹さんに望まれて存在しているのだろうか。生まれたときがどうだったか分からないけれど、昨日や今日や明日は、いてほしいと思ってもらえているのだろうか。そうであるなら、妊娠や出産の経緯などさして問題でないという気がする。

 この子が存在するとすれば自分の身近でしかなく、また自分が養わなければならず、しかも心身の健康にも配慮しなければならないというのは、想像を超える重圧であるということを、美樹さんを見ていると考えてしまう。しかしそれは美樹さんにとってということで、いとも簡単に育児をしているように見える母親もいる。愛の深さでその差が生まれるのだとしたら、まだ見ぬ子に対する私の愛の大きさを先に知りたい。

 気にしなければいいのに。子どもなんて適当に育てていればそれなりに大きくなるのに。ちょっと言葉が遅れていたっていいじゃない。まだ三歳じゃない。母親が気に病むとそれが伝染しちゃうっていうのが分からないのかな。カウンセリングを受けるなら受けるで、楽しく通えばいいのに。

 簡単に思い浮かぶ安っぽい言葉は、きっと何度も美樹さん自身が投げつけてきた。(続く)