中編小説『持たざる者』⑦

 店を出て、ホテル街の方角へと歩き出す。星野は何も言わずについてきた。半歩分遅れているためにその顔が見えないのは、船木にとって幸いだった。見たくないわけではなかった。ただ、目が合ったときに口にする言葉が見当たらなかった。

 スクランブル交差点を渡るとき、手探りで、星野の手を取った。抵抗はなく、冷たかった。歩く振動に合わせて血が通っていくように指が動き、やがてやわらかく握り返された。

 もう、自分たちは交わるのだと確信した。鼠捕りほど明らかな誘いに、船木は乗ったのだ。いや、誘いではなかったかもしれない。無精子症を理由に離婚したから欲求不満だとは言えない。船木を求めるとは限らない。しかし自分たちがホテル街へと向かっており、星野もそれを理解しているのは確かだった。

 ラブホテルが点在する区画は、ひと気が少なかった。同い年くらいに見える男女や、風俗嬢と客であろう歳の離れた男女が何組かいた。無言で手をつなぎ、目を合わせようともしない二人組は自分たちだけだった。船木と星野は、灰色の雑居ビルに挟まれた道を歩いた。明かりは少なく、弱かった。

「今、何時だろう?」

 携帯を取り出せば確認できることを、船木は前を向いたまま尋ねた。

「どうだろうね」

 すげない返事が、船木を落胆させることはなかった。むしろ今の状況に相応しく、空気を濃密に、目的を明確にした。

 前方に、暖色のライトアップがなされたラブホテルが現れた。引き返すことはできないと覚悟したのは、ホテルに向けて星野の手を少しだけ引いたときだった。目隠しのための植木をよけて自動ドアをくぐり、空室の目立つパネルのボタンを押す。ルームキーを手に取り、エレベーターに乗って三階に上がった。赤い絨毯の敷かれた廊下を歩き、ランプが点滅する部屋のドアを開けて中に入る。奥に進んで振り返り、星野と向き合う。

 そこには、初めての夜に恋人に見せるような、はにかんだ顔があった。船木は驚きつつ、嬉しく思わないはずがなく、こうであれば入室してすぐに押し倒せば良かったと後悔さえした。

「シャワー、浴びさせて」

 相手を焦らすことを承知しているのか、星野は置き捨てるように言って脱衣所へと向かった。バスルームのドアの開く音がして、閉じる音がした。

 一人になった船木は、ソファに腰を落とした。革張りで、身体は深く沈んだ。備品のライターでタバコに火をつけ、部屋を見回す。

 壁紙はすべての光を吸収してしまいそうな艶のない黒色で、間接照明の光が伸びる天井は乳白色に映った。テレビモニターの横には電子レンジと冷蔵庫が備え付けてある。ダブルベッドの上にはアンティーク風の照明が設置され、控えめな明るさを巨大な枕に届けていた。枕元には空調や室温を調整するパネルがあり、そのそばに置かれた小箱には、おそらくコンドームが入っている。

 船木は視線を戻し、光沢のない黒い壁紙を、長く見つめた。そして、星野を置いて、ここを出ていくことを考えた。

 なぜ自分がそのような考えに至ったのか、俄かには理解できなかった。不思議なのは、星野と寝るのと同じ重さで、ごく当たり前の選択肢として現れたことだった。

 星野とのセックスに、障害はなかった。星野は離婚し、船木は長く一人であった。その二人が酒を飲み、手をつないでホテルに入り、今があるのだ。星野にも、他の誰にも責められることはないはずだった。

 女と一夜限りの関係を結んだ場合、その女との友人としての関係が崩れることが懸念された。しかしもともと、星野と友人関係を続けていきたいなどと、船木は思っていなかった。いくつかの偶然が重なって再会を果たしたが、その偶然が訪れるまでに船木は何ら行動を起こさなかったのだ。前回だって、懐かしさと気安さを求めるふりをしながら、結局は星野と、女とセックスをしたかっただけなのだ。星野にしても、ストレスや性欲を発散するのに丁度良い相手を求めているとしても、今更船木との友情を掘り返し、たとえば定期的に会い近況を報告し合うということは望んでいないだろう。

 そこまで考えを巡らせたとき、船木は思わず立ち上がった。風呂場ではまだシャワーの音が響いていた。浴槽に湯を張っているのか、太い水流が滝壺に落ちる音もきこえる。

 船木は、二人のうちどちらかが、本気で相手を愛し始めているという可能性に気づいた。そしてその可能性があるとすれば、自分ではなく星野の方であった。

 注意深く、船木は、星野と一緒になることについて考えた。星野は、あの、海水浴場で出会って二ヶ月で別れた女とは違った。今からであっても、改めて、愛することができると思った。

 船木はまず仕事を探すだろう。自分に合っているとまでは言えなくても、合っていないところができるだけ少ない、長く働ける職場を見つける。運よく潜り込めば、そのことを感謝する気持ちも湧くだろう。次に新しく二人の部屋を借りる。家賃は今より上がり、簡単には仕事を辞めない。ともすれば月々の出費が多いほど、期限ぎりぎりで支払うほど、充実感に満たされる。転じて、仕事にやりがいさえ覚える。上司に頼まれれば残業や休日出勤に応じ、年に一度の昇給に喜び、ボーナスが出たことに喜び、休日には星野とどこかへ出かける。何かの記念日には高価なプレゼントも買ってやる。眺めの良い場所にも連れて行く。星野も、きちんと感謝の気持ちを示してくれる。当分は共働きになるだろうが、それも仕方あるまい。金が貯まればせっせと子をつくり、ファミリーカーを買い、一軒家をローンで購入し、生活を豊かにしていく。人生を、彩りのあるものにしていく——。

 慎重に、頭を絞って考えた二人の物語であったにもかかわらず、いつの間にか船木が浸かっていたのは、自分だけを飲み込んでいく沼だった。

 

 腰の動きに合わせ、目の前で大ぶりな胸が揺れている。唇が離れて目が合うと何か言ったが、大音量のBGMにかき消される。声を漏らすまいと、手のひらで自分の口を塞ぎ、苦しそうな表情を見せつけている。船木の後頭部に手が伸び、ぶつかるようなキスをする。頬と頬を合わせて、強く密着する。

 ミラーボールの光が、暗闇の中を飛び交っていた。プラネタリウムみたいだ、と船木は考える。抱きしめている女が星野であると思い込もうとして、やめた。

「やば、気持ちいい」

 キセキの幼い声がした。いきそう、と囁く声がした。粘液に水分が加わり、びちゃびちゃと音が響く。

 そのとき、仕切りの上に、坊主頭の男の顔が見えた。しかし船木の心は平常に保たれていた。気が大きくなっていることが、自分でも分かった。腰の豊かなふくらみを鷲掴み、指を食い込ませ、激しく動かした。動きが止まることは、許せなかった。自分の快楽だけを求め、唇に吸い付き、肉を叩きつける。

 俺は、絶対に、ここで、果てぬわけにはいかない。

 坊主頭が靴のままシートに踏み込むのと、船木が射精をしたのが、ほぼ同時だった。子犬のように短く鳴き絶頂に達したキセキは、船木にしがみついたまま、荒い呼吸をし、身体を震わせている。

 男は上半身が異常に発達しており、ぴったりとした長袖のTシャツでそれを誇示していた。

「お兄さん、何してるの?」

 それでも船木は、恐れなかった。目が合ってからも行為を継続したために、男の脅しの第一声が遅れたことに、満足していた。

 キセキが悲鳴に近い声をあげ、船木から離れて濡れたシートに尻もちをつく。本番行為の証拠が露わになった。船木は失笑した。外れかけたコンドームの先に、白濁した液体が溜まっている。勃起を維持しようと、尻の穴に力を入れた。この状況で勃起していることで、もっと滑稽な場面が訪れるのではないかという気がした。みんなも笑ってくれるのではないかと思った。

「ちょっと、一緒に来てもらいますよ」

 坊主頭が低い声で言い、船木の腕を掴む。その後ろには、見知った店員が立ち、携帯で誰かと話していた。

「さっき、目合ったよね。俺のこと、ナメてるよね。とりあえず行こう」

 手を振り払うと、男は身構えた。しかし船木に逃げるつもりがないことが分かると、視線は逸らさず、一歩引いた。

 船木はコンドームを引き外し、タオルで身体を拭き、服を拾って身につけた。靴を履き、背中側のベルトを掴まれた状態で、色とりどりの光線が行き交う中を歩いた。

 大部屋を出て通路の突き当り、外に続く非常扉をくぐろうと身をかがめたとき、後ろから蹴り倒された。地面についた両手と身体の前面が、ぬかるみにはまる。立ち上がり、そこがビルとビルのあいだの細い敷地であることを知る。前方は金網で、その先は真っ暗だった。

 振り返ると、肩をいからせた坊主頭が距離をとって立っていた。首を突き出し、下げた腕の先で拳を軽く握っている。両側のコンクリートの外壁と擦れるほどの肩幅だった。

「本番の罰金は百万って、分かってる?」

 坊主頭の後ろの非常扉から、黒いスーツ姿の男が現れた。薄髭を生やし、痩せた背の高い男だった。本格的に参戦するつもりはないらしく、黙ったまま、扉の前で腕を組んで片足に体重をかける姿勢になった。そのさらに向こう側には繁華街の光が差していたが、やはり金網で隔てられている。逃げ道はなかった。

 船木は天を仰ぎ見て、幅の狭い空に、月を探した。ホテルに向かう途中、満月だと星野に教えようとして、やめたのだった。

「あんな女でも、良かったよ」

 視線を下ろし、二人の男に交互に向ける。

「めちゃめちゃ気持ち良かった」

 坊主頭が背後に目配せをする。スーツの男は、姿勢を変えずに小さく頷く。

「お兄さん、罰金じゃ済まないことが決まったよ」

「お前のをしゃぶってやるから、それでチャラにしてくれよ」

 岩のような体躯が迫り、人中を殴られる。その瞬間の痛みはなく、ただぶつかり、弾き飛ばされたことが分かった。水たまりに背中を打ち、口の中で温かい血液を感じる。身体を起こそうとすると、腹を踏みつけられた。激痛に腹を抱えると足で転がされ、押さえつけられ、後ろポケットから財布を抜かれる感触があった。

 胸倉を掴まれ、引き起こされる。膝立ちの状態になると、腹にフックを入れられる。息ができず、身体を折り曲げようとするが、自重に負けて腹部が露わになる。庇いきれないところを、また殴られる。前ポケットから、携帯を抜かれた。

「船木瑛人。三十歳。お、あんた、明日誕生日じゃん」

 スーツの男の嘲る声がきこえた。瞼を上げると、坊主頭の背後で、船木の財布と免許証を手にしていた。

「これ、コピーとらせてもらうから、逃げられると思わないでね。頭金ってことで、この一万と、五千円か。もらっとくから。あとは金つくって持ってきて。三日以内」

「百万なんて、ない」

 船木が声を絞ると、男は顎髭を撫でて笑った。

「あんたが百万払えるなんて、最初から思ってないよ。ピンサロで本番したからって、法律上は罰金の支払い義務なんてない。知らないの? ただね、慰謝料は請求できるんだ。女の子、泣いてたよ。かわいそうに。あんたに迫られて、断り切れなかったんだ。精神的な苦痛に対する慰謝料、三十万。これは相場だから。弁護士に相談してみるといいよ。あんたみたいなのは、その方が話が早いかもしれない」

 坊主頭が頬を叩き、きいているのかと確認する。

「あと、この怖い人はうちの人間じゃないから。たまたま近くを通って、あんたと喧嘩になっただけだから。オーケー?」

 襟首を掴んでいた手が解かれ、船木は崩れ落ちた。

 

 目が覚め、黒いコンクリートの隙間の、細く青白い空を見た。餌を求めるカラスの声がきこえた。屍になった気分だったが、身体は動いた。みぞおちに鈍い痛みが残っており、口の中ではやはり血の味がした。

 立ち上がり、歩けることを確認する。舌に違和感があった。指で触ると、上の前歯が一本、真ん中あたりからぽっきりと折れ、先端が鋭利になっている。あたりを見回してみるが、ゴミの多さとぬかるんだ地面に、破片を探す気も失せる。

 非常扉は、昨晩の人の出入りをとぼけるような佇まいで閉ざされていた。代わりに金網についた小さな扉が開け放たれており、そこから帰れということらしかった。

 通りには、夜を明かした若者の姿があった。歩道の端のところどころに、業務用のゴミ袋が積まれている。そのうちの一つの山で、ぼろきれのような布をまとった老人が一人、袋を漁っていた。すでに食べ物を探し当てたらしく、干からびた頬がまるで尺取虫のようにうごめいている。船木が近づいても、老人は変わらず作業に没頭していた。誰かの存在を意識することを、やめてしまったのかもしれない。

 汚い格好をした、年老いた人間を見るたびに船木は不思議に思った。こいつらは、どこで、どのようにして今まで生き延びてきたのだろう。輝かしい過去があったのか、ずっとこうなのかは分からないが、とりあえず今、目の前で生きて、動いている。目で物を見ている。布で身体を隠し、食っている。多分、今日中に死ぬことはない。あの調子なら、明日もあさっても、乗り越えるだろう。数々の問題を素通りし、明日を迎えることを、何年、何十年と続けてきたのだ。そんな技術を、いったい誰に教わったのか。

 背後を通り過ぎるとき、船木はその老人に振り向いてほしいような、呼び止めてほしいような、そんな気がしていた。

 

 財布に残されていた小銭で切符を買い、電車に乗った。朝五時台の下り線の車内は空いており、泥だらけの船木を見咎める者はいなかった。久しく浴びていなかった朝陽が、座席の上の身体を温めた。

 一万五千円の現金の他は、何も盗られていなかった。銀行のカードも、免許証も、財布にあった。携帯もポケットに戻されていた。電話番号と住所を知られたのだから、放置していれば、取り立てがあるのだろう。

 携帯に着信がないことを確認して思い出したのは、星野のことだった。シャワーを浴びている星野を置いて、ラブホテルを出てきた。テーブルの上に残された一万円札を見て、あいつはどう思っただろうか。

 これで、星野との縁は完全に切れる。そのことにどこかホッとしている自分がいた。いつか俺は、宇津井に対しても、同じような感情を抱き、拒絶するのだろうか。不動産屋を何店舗も経営し、タワーマンションに住み、高級車に乗り、使わないからとブランド物の腕時計を家に置き、一方で古い友情を大切に扱う姿が腹立たしくなり、連絡を断つのだろうか。

 嫉妬や僻み、そんな言葉がぴったりであるはずなのに、自分が宇津井に対して抱く感情はそう単純ではないと信じていた。複雑で入り組んでおり誰も理解できないと考えることで、どちらが悪いのかはっきりしないまま、仕方ないと薄笑いを浮かべて、宇津井から離れていくのだ。

 免許証が手の中から滑り落ち、拾い上げたとき、記された住所が前のアパートのものになっていることに気づいた。その横には、無表情にこちらを見つめる自分がいた。

「笑えよ」

 船木はつぶやき、免許証をしまった。