中編小説『持たざる者』②

 無職になると、自分が従事していた仕事の形がはっきりとした輪郭をもって浮かびあがってくる。朝四時半に起きる必要はなく、前日の深酒を控える必要はなく、濡れたタオルで満杯になった袋を担ぐ必要もない。誰かと喋ったりタイムカードを押すこともない。

 大学を半年で中退してから、船木は職を転々として十年ばかりをすごした。アルバイトでも契約社員でも正社員でも、あるタイミングでどうしようもなくそこに留まっていられなくなるのだった。社長や上司に貴重な働き手と認識されていることを感じたとき、仕事に慣れここで働き続けるのも悪くないと思い始めたとき、安らぎを感じる一拍を挟んで、途端に退職への欲求に支配される。

 就きたい仕事があるわけではない。特別な何者かになりたいわけでもない。ただ、その職場から、そこにいる人々から離れたくなるのであった。親切にしてくれた会社の人間が信用ならなくなった。入社してからの日々は俺を飲み込むための下準備だったのではと訝った。船木のためを思って発せられたであろう言葉は、余計に拒絶の意思を揺るぎないものにした。

 次の仕事は決まっているのかと、これまでの職場で幾度となくきかれた。決まっていないと答えると、相手は不思議がった。空白期間があると次の就職のときに不利になると忠告する者もいた。それならそれで仕方ないと船木は答えた。あまりにしつこいときには、ダメならホームレスにでもなりますよと言った。すると相手はつまらない冗談を吐かれたように苦い顔をして黙る。船木は真面目に話をしているつもりだった。

 好きな時間に寝起きし、好きな時間に食事を摂った。三日に一度はスーパーに行き、その日に安売りされている食材を買ってくる。肉野菜炒め、うどん、カレー、シチュー、親子丼、チャーハンなどの簡単な料理を、以前に勤務したホテルや飲食店で教わった通りに作った。アレンジしたもの、凝ったものは作らない。状況によっては何食も何日も続けて同じものを食べた。食材を腐らせたり、めったに使わない調味料を買って駄目にしてしまうことを船木は嫌った。

 気の向くままに散歩をし、夜には安いポートワインを飲んだ。海沿いに建つアパートの二階の部屋からは海と砂浜が見え、波の音がきこえた。ワインを飲みながら耳を澄ませていると、このまま死んでもどうということはないと思えた。

 錆びた鉄柵の隙間から暗い海を眺め、その考えが真実であることに気づく。喉が真空になったように締めつけられ、ゆっくりと緩む。俺が死んでも世の中は何も変わらない。それは当たり前の真実の再発見であり、失望することではなかった。

 船木はかつて、自殺について書かれた本を図書館で手当たり次第に読み漁ったことが あった。自分に自殺を試みた経験がないことが解せなかった。少なくとも一度くらいは、自殺を検討すべき人間であるように思われた。しかし手に取った本の多くは直接的または間接的に読者に自殺を思い留まらせようとするものだった。自殺という手段が存在することを救いと書く本も、結局は読者を生に導こうとしている。

 冊数を重ねるにつれて分かってきたのは、誰かの意見や教えではなく、事実としてどのような自殺が存在するのかを自分が知りたがっているということだった。考察や分析をされたり、恣意的に切り取られた情報に価値は見い出せなかった。これまでに自殺した一人ひとりの生育歴や学歴、職歴、年収、恋人の遍歴と婚姻歴、家族構成、趣味、自殺した原因や遺書の有無と内容、実際の自殺の手順などが詳細に記録された事典のようなものがあれば読みたいと思った。だが図書館にそういった本や資料は置いていなかった。

 やがて船木はこう結論づけた。自分が真に欲しているのは、これまでに起こった自殺を、旋回しながら森を見下ろすイヌワシのように、全体的かつ一つひとつの細部まで同時に、公平に知覚することなのだと。当然ながら、自分がイヌワシの眼と耳で世の自殺を認識できるわけがなかった。

 広い部屋で一万冊の本を広げたとしても、船木はある一冊の、どこかのページの一文を現在進行形で読み進めることしかできない。記憶という能力も頼りにならない。呼び出された時間には必ず濃淡があり、そこに残る記録の正確性は一分一秒の時間とともに薄れ損なわれる。同時性も公平性も担保されない。

 図書館で最後に借りた何冊かの本を、船木は夜の砂浜で燃やした。立ち上がる炎を見つめながら、自分は自殺する人間ではないことを悟った。そして、それが人生に希望を抱く理由になるわけではないと念を押した。

 

 携帯が鳴ったのは、仕事を辞めた一週間後の土曜日だった。

 船木は夕食を済ませ、プラスチックのコップでワインを飲んでいた。あとは寝るだけという状態だった。あるいは一晩中起きていても構わなかった。

「瑛人(えいと)」と電話口から宇津井の声がした。下の名を呼ばれたのは久しぶりのことだった。半年前、最後に船木を瑛人と呼んだのも宇津井だ。あの日二人は中華街に繰り出し、朝まで飲んだ。船木は二日酔いで仕事を休んだ。この一年で唯一の欠勤だった。

「今、家か?」

 この短い言葉だけで嫌味のない快活さを伝えてくる男を、船木は宇津井以外に知らない。しかしそれは、数カ月に一度であっても定期的に連絡を寄こしてくる人間が他にいないからかもしれない。

「家だよ」

「予定ないのか? 中学の同窓会とかさ」

 電話の向こう側では、男女の声と食器がぶつかる音がしていた。宇津井はその喧噪から距離をとっているようで、ジッポーのキャップが開く音とホイールが擦られる音が鮮明にきこえた。

「呼ばれてない」

「前もって知らせたら瑛人は絶対に断るからな」

 船木は黙る。その通りだった。

「俺も今来たとこだからさ、出て来いよ。前に飲んだ店の近くの居酒屋だ」

 船木は壁の時計を見た。針が止まっていることを理解するまで時間がかかった。携帯を耳から離して画面を確認する。七時だった。ずいぶん早くに夕食を摂ったものだと思ったが、それは夕方に目を覚ましたからだった。

「星野咲も来てるぞ」

 返事をしない船木に、宇津井が助け舟を出す調子で言う。

「まごまごしてると、俺が取っちゃうぜ?」

「何を?」

「星野を、だよ」

「お前なんかに落とせっこないよ」

 船木の宣告に、宇津井は正論を突きつけられたような重いため息をつく。

「じゃあ、瑛人がなんとかしてみろよ」

「そもそも、あいつは結婚してる」

 結婚という単語が、強く響いてしまった気がした。畳の一点を見つめて冷やかしを予期するが、宇津井にそのつもりはないらしかった。

「まあいいさ、ダメ元で誘ったんだ。じゃあ二次会終わって、行けたら瑛人んちに行こうかな」

「今日はそっちで楽しめよ」

「女を二人、連れて行くからさ」

 電話を切ると、静寂が船木を待っていた。電話の前より静かになったようだった。耳を澄ませると、網戸越しに波の音がきこえた。

 

 行こうかな。行けたら行くよ。宇津井がそう言ったなら、必ず行くということだった。

 船木はサンダルをつっかけ、アパートを出た。国道沿いに一分歩き、古い一軒家と一軒家のあいだ、柵のない狭い敷地をすり抜ける。短い階段をおり砂浜に出る。目の前と言っていい距離に波が迫る、小石とゴミの多い砂浜だ。国道の街灯が砂の上を照らしていたが、波打ち際より向こうは途端に沖が始まるかのように暗かった。

 近くの海水浴場から流れ着いたゴミを避けて歩く。ペットボトル、空き缶、ビニール袋、プラスチック容器、しぼんだ浮き輪。

 足元に野球の軟式ボールを見つけ、つま先で蹴りながら波打ち際を進む。表面の凹凸を失ったボールは、ときどき波にさらわれそうになりながら、砂の上をボテボテと不格好に転がった。

 砂浜が途切れた。道路にあがる前に、船木はボールを拾い沖に向かって思い切り投げた。白球は暗闇に紛れ、着水の音さえ残さなかった。またいつか砂浜に打ち上げられ、また誰かに海に向かって投げられるのだ。軟式ボールの中は空洞であるはずだった。表面が擦り切れてあるとき破裂するのだとしたら、その瞬間を見てみたかった。

 

 国道沿いにぽつんとあるスーパーで、単三電池とスーパードライをワンパック買った。幅の狭い歩道を伝ってアパートに戻るあいだ、誰とも会わなかった。

 ビールを冷蔵庫にしまう。壁掛け時計に電池をセットして、携帯で時報をきいて針を合わせた。八時前だった。

 出かける前に飲んだワインの酔いは醒めていた。ボトルの残りを飲むかどうか考えて、やめておくことにした。畳に横になり、シミの浮いた天井を見つめる。

 中学三年のときに同じクラスになった宇津井は、野球部のキャプテンでエースピッチャー、そして学級委員長を務めていた。船木の方は部活にも入らず、委員になることもなく、心を許せる友達もおらず、何者とも説明がつかなかった。一学年は三クラスきりであったが、三年になるまで宇津井は船木の存在さえ知らなかったはずだ。

 夜中のあいだに思春期の屈折をまとめて発散しているとでもいうのか、宇津井は同年代の男には到達できない明朗さを持っていた。加えて恵まれた体格と運動神経を備え、ごく自然に教師と生徒からの信頼を得ていた。宇津井が特異であったのは、真面目でおとなしい生徒、活発で不良じみた生徒、そのあいだに属する生徒に、均等に一目置かれている点だった。学年一の秀才やスポーツマンにも、悪ぶることで注目を集める荒くれ者にも獲得できない、万能型の人望を、難なく保っていた。

 三年生になり新しいクラスで過ごすうち、船木は、宇津井が自分と仲良くなりたがっていることに気づいた。宇津井のような立場の人間からそういった気配を感じるのは初めてのことだった。学級会でふと目が合ったとき、実務的な用事があって話しかけられたとき、目線や口元に、船木にだけ知らせたいサインのようなものが見え隠れした。

 夏休み前に野球部を引退してから、宇津井は両親とともに船木の実家近くの団地に越してきた。その転居について、終礼で教師がクラス全体に報告した直後だった。

「一緒に帰ろう。家、近いだろう」

 教室を出ようとした船木の前に立ち塞がり、宇津井は言った。まわりの生徒ほどには宇津井を信用していない船木がまず考えたのは、騙されてはいけないということだった。しかし胸板の厚い大きな身体を前にして、背中に視線を浴びて、決断は迫られていた。隙のない笑みと、くすぐる騒めきが、答えを絞っていった。

「いいよ」

 了承を確認した宇津井はすぐに廊下に出て、数歩行ったところで船木を待った。まるで、教室の人間を二人の仲を取り持つ証人と捉えているような振る舞いであった。罪を認めさえすれば求刑を軽くしてやりたいという情のある検察官のようでもあった。

 校舎を出て校庭を横切るところで、宇津井は自身にかけられた疑いを思い出した様子で小さく笑い、船木の気を引いてから言った。

「ああでもしないと、断られるかと思ったからさ」

 その包み隠さぬ言葉と笑顔が、船木だけに向けられた。船木は、クラスメイトや教師が、いかにしてこの男に魅了されてきたのかを理解した。躊躇なく、大胆に投げかけられた好意は受け止めざるを得ず、手を開くとそこにボールではなくコインが見つかったように、船木と宇津井は、顔を見合わせて微笑んだのだった。

 二人は一緒に登下校し、どちらかの家で夕食までの時間を共にした。テレビゲームをしたり、勉強をしたりしていると時間はあっという間にすぎていった。初めて公園でキャッチボールをしたとき、宇津井は船木の肩の強さに驚き、でたらめなコントロールをからかった。

 親しくなってからも、学校での宇津井は取り巻きと行動を共にしていた。そこに、船木が入り込んでいく余地はなかった。宇津井にとっての船木はただの登下校のあいだの暇つぶしであると、当初まわりは思っていただろう。

 しかしときどき、宇津井が自陣から離れ、船木のもとを訪れることがあった。休み時間いっぱい語らう二人を見た取り巻きや他の生徒が、徐々に自分に対して一定の価値を認め始めていることを、船木は肌で感じ取った。俺は今まで目立たなかっただけで、飛び抜けたとは言わないまでも、なんらかの魅力を秘めているのではないか思ったことを覚えている。

 宇津井は決して、船木を集団に取り込もうとはしなかった。まわりの連中が何かの拍子で船木に話しかけるときも、そこに一切参加しないということで、宇津井は態度を明確にした。あくまで一対一の友人として、仲を深めていった。騒々しい、常に茶化し合う集団に、船木が馴染めるわけがないと分かっていたのだ。船木にとっては、それも自分が大切に扱われていると感じる要因だった。

 いつであったか、二人で酔っぱらっているとき、脈絡もなく宇津井は言った。瑛人は孤独を恐れない、と。誰もいない道を、一点を見つめて真っすぐ歩くことができる。けど孤独を愛しているわけでもないはずだ。

 船木は黙って耳を傾け、その言葉を頭で反芻し、記憶に留めようとした。今でもときどき思い出し、では何かを愛しているのかと考える。

 

 宇津井がやって来たのは、零時をすぎた頃だった。

 ワイシャツ姿で狭い玄関に立つ宇津井は、右手にチェックの夏用ジャケットを抱え、左手にコンビニの袋を提げていた。

 船木は言った。

「女がいないみたいだけど」

 裸電球の下で、宇津井は左手の袋を顔の高さに掲げて、微笑んだ。

「代わりに、おっさん連れてきた」

 白いビニールを透かして、鯛を抱え、釣り竿を肩にかつぐ七福神のえびすが見えた。

 部屋にあがった宇津井は、こたつテーブルの真ん中にヱビスビールのパックを置いた。船木は冷蔵庫からスーパードライを持ってきて、その隣に並べる。互いに買ってきたビールを交換し、紙パックをむしり取る。

 船木のアパートで飲むときは、相手の好みのビールを用意するのが恒例になっていた。船木は特にビールの銘柄にこだわりがあるわけではなかった。ただその味に舌が馴染んでいるというだけだった。

 乾杯して一息つくと、しばらく黙った。宇津井は後手を畳につき、二人のあいだに浮かぶ空間を眺めていた。顔色は普段と変わりなかった。気持ち良さそうに目を細め、新鮮な酔いを何度も味わい直しているようだった。

 宇津井が見返してくる。宇津井と目が合ったときには視線を逸らさないと、船木は決めていた。

「先週で仕事を辞めたんだ」

 口を開いたのは船木だった。

 宇津井は申し訳程度に姿勢を改め、そうかと眠そうな声で言った。

「じゃあ昼間、暇だろう。いや、夜も暇か」

「暇なのは嫌いじゃない。仕事してるよりはずっといい」

 そうだろうな、と宇津井は笑う。部屋を見回し、ビールに口をつける。

「そういえば会社でテレビ余ってるんだ。いるか? 型落ちだけど」

 船木は実家を出てから十年以上、テレビを持っていなかった。また、欲しいとも思っていなかった。

「最近のニュースとか、全然知らないだろ」

「知ってた方がいいのか?」

 宇津井はポケットからピースのボックスケースを取り出す。一本抜き取り、ジッポーで火をつけて深く吸い、煙を吐く。

「ニュースがすべてだと信じ込んで、矮小な価値観に染まっている奴もいる。ほとんどがそうかもしれない。けど、瑛人はそうはならない」

 最後の口調は断定的だった。

「そうならないなら、テレビを見たらどうなるんだろう、俺は」

「世間話とかできるだろう、職場で」

「辞めたんだ」

「そうだけどさ」

 宇津井は肩を揺すって言った。それから重そうに腕を伸ばし、長くなったタバコの灰をアルミ灰皿に落とした。ビールを飲み干し、二本目を開ける。

「暑いな」

 宇津井が手で顔を扇いで言った。船木は、暑さを感じ取ろうとした。暑いと言えば暑かった。押し入れに扇風機があるはずだったが、出すのが面倒だった。

「窓開けていいか?」

「開いてる」と船木は窓の方を見て言った。

 宇津井はビールを置いて窓辺に向かい、半分ほど開いた網入りガラスを網戸と一緒に目いっぱいスライドさせた。その足で玄関に移動し、ドアを開けてストッパーを挟む。換気扇の紐を引く。わざとらしく悠々とした足取りで戻ってきて、腰を下ろす。

「徹底的にやるんだ、何ごとも」

 宇津井は真面目ぶった顔を突き出して言い切り、笑顔を作った。よく笑う男だと船木は思った。おそらく自分も宇津井といると普段より頻繁に表情を緩めているのだろう。すると宇津井もまたその自分の姿を見ているということが意識された。

 部屋を風が抜け、身体に張りついていた熱が流れる。宇津井が目論んだ通りの現象が起こっている。だがそのことを口にはしなかった。他の話題を探し、尋ねた。

「同窓会、どうだった?」

「どうだったって?」

「楽しかったか?」

「ああ、まあ、楽しかったよ」

 宇津井がそれ以上の感想を継がないことに、船木は物足りなさを感じる。しかし考えてみれば同窓会がどんな様子であったかを特に知りたいわけではなかった。十年以上会っていない中学校の同級生が結婚した子どもができた家を建てたどこに住んでいるとそんなことを自分が知って、いったいなんになる。船木は今、宇津井と時間と空間を共にしているのであった。もし話題にするなら宇津井か自分に関することであるべきだった。また無理に話題を探す必要もないはずだった。宇津井とであれば黙って酒を飲んでいるだけで、いや酒がなかろうと一緒にいれば心安らぐのだ。細々とであれ宇津井とつながっていることは、この世の中を生きていく上できっと自分に良い影響を与える。テレビが宇津井の代わりになるはずもない。

 船木は沈黙に満足を得た。リラックスした姿勢でタバコの煙を眺める宇津井も、自分と同じ気持ちでいるように映った。

 会話はなかったが、ビールが順調に消費されていった。全開になった窓の向こうの波の音がきこえ、二人の体表から発せられる熱は風が運び去ってくれた。その波音や風の感じ方さえ、寸分たがわず宇津井と同じものを共有している心地があった。

 やがて宇津井が、身体を横たえ瞼を下ろした。船木はまだ眠くなかった。明日は何時に起きるつもりなのか寝入る前に確認しかけて、一度開いた唇を閉じた。それは船木が心配することではなかった。物音を立てないように注意して立ち上がり、畳に放り出されたチェックのジャケットを拾ってハンガーに吊るした。

 時刻は夜中の二時を回っていた。窓辺のパイプベッドのそばの蛍光灯だけ残し、部屋の明かりを落とす。こたつテーブルに戻り、缶に残ったビールを少しずつ飲んだ。宇津井のスラックスの折り目を、長いあいだ見ていた。

 

 別々の高校に進むと、二人は疎遠になった。宇津井が隣県の野球の強豪校に入学し、寮生活を始めたのだ。正月や盆には帰省していたはずだが、その機会に連絡を取ることもなかった。互いに別々の高校生活を送り、卒業した。船木は大学を半年で中退し、宇津井は進学せずに不動産会社に就職した。

 再会したのは五年前、二人が二十五になった年の冬だった。日雇い労働を終えた船木が、たまたま立ち寄ったバーでのことだった。カウンター席で女と並ぶ宇津井は仕立てのいいスーツを着て、ジェルで髪をきれいに撫でつけていた。腕時計の文字盤に刻まれたブランドロゴは、船木の知らないものだった。だが高級時計であることは見て取れた。

 宇津井は独立し、社長になったばかりだった。

「一通り覚えたらあとはやること変わらないからさ。上司もうるさいし、伝手もできたし、じゃあもう自分でやろうと思って」

 連れの女は船木が同席しても嫌な顔ひとつ見せなかった。ぴったりとしたラメ入りのドレスを身につけ、スタイルの良さを強調していた。キャバクラ嬢で、これから自分が籍を置く店に宇津井と同伴するという。

「瑛人も行こうぜ。おごるからさ」

 その誘いを、船木は用事があると言って断った。宇津井が残念がる横で、女は無言で微笑んだ。瞳の向く先を曖昧にする目の細め方だった。

 ぽつりぽつりと言葉を交わしながら、船木は中学時代の思い出を拾い集めていた。三年間のうちの半年程度ではあったが、明朗で親切な友人との時間は、それまでの二年半の色彩をあっさりと奪ってしまうほど色濃かった。

「一年か二年で出会ってたら、野球部に誘ってたんだがなあ。キャッチャーをやらせたら、セカンドでいくつ盗塁を刺したか分からない。センターやライトだっていい」

 宇津井は手振りを交えて、船木の肩の強さを女に説明した。女はなぜか噴き出すのをこらえるようにして話をきいていた。

 ひとしきり喋ってから、宇津井がトイレに立った。すると女は初めて船木の方を真っすぐに見て、「用事ってなんですか?」と言った。船木は答えずにマスターを呼び、自分の分の支払いを済ませて店を出た。この店に来ることも、宇津井と会うことも、もう二度とないだろうという気がした。

 寒い日だった。作業着の襟を立て、肩をすぼめて歩いていると、後ろから宇津井が追いかけてきた。息を切らして船木の肩に手を置いたあのときも、やはり宇津井は笑った。

 女は、と船木は尋ねた。

「いいんだ、どうせやらせてくれないし」

 自分も笑ったのかどうか、船木は覚えていない。俺は、笑ったのだろうか? 自分の表情が確かめられないということが、不条理に思えた。

 

 きき覚えのない電子音が鳴り響く。畳に手をついて上半身を起こすと、宇津井もこたつテーブルの向こうで同じ体勢になっていた。スマホを耳に当てて、寝起きの声で生返事をしている。用件はすぐに済んだようだった。脱いでいた靴下を履き、ハンガーにかかったジャケットを掴む。

「行くよ」

 宇津井は玄関に向かい、畳に座り込んだままの船木に手を挙げて姿を消した。

 静かになった。この部屋は静けさに慣れている。声が響いている時間の方が非日常なのであった。相手がいないと会話が生まれないという自明の理は、一人でいることを過剰に貶める。

 畳を背に伸びをすると、何かが指に触れた。ジッポーだった。携帯を手に取り、宇津井に電話をかけるがコール音が鳴るだけで出なかった。

 メールを一通送っておけば済む話だった。放っておいたっていい。ライターなど、急いで返してやるものではない。しかし船木は携帯をポケットに入れ、ジッポーを握りしめてアパートを出た。最寄り駅には普通電車しか止まらない。追いつけるかもしれない。

 船木には自分だけが知る小さな賭けをする癖があった。またその癖が発動したときには、抗わずに楽しんだ。電車やバスの時刻表を見ずに家を出る、開いているか分からない店に電話をせずに行ってみる、当てずっぽうで進む方向を決める。事前に調べたり確認することを煩わしいと思う気持ちとは別に、自分の時間と労力を無駄にするかもしれないという覚悟をしてみたくなるのであった。

 夏の朝の日差しを浴びながら、駅までの距離を計算すると、船木は駆けだした。三十秒もしないうちに太腿が重くなり、最後に本気で走ったのが遠く以前だということを思い知った。それでも足が止まるまでは走ろうと奮い立った。

 廃れた町の片側一車線の国道に似合わない、ブルーのBMWとすれ違ったときだった。助手席の宇津井と目が合った。船木は惰性で数歩進んでから振り返った。

 BMWは少し行ったところでハザードランプを点滅させ、左側の車輪を歩道に乗り上げて停車した。宇津井が降りてきて、長く船木の方を見ずに、足元に視線を落として歩み寄ってくる。運転席の男が降りてくる気配はなかった。

 声の届く距離まで迫ってから、宇津井はようやくこちらを見てスマホを掲げ示した。

「悪い、電話気づかなかった」

 ああ、と船木は声を出した。

「何かあったか?」

 ジッポーを忘れたことに宇津井は気づいていないのだ、と船木はぼんやり考えた。右手の中の金色のライターを返さないという考えが、頭をよぎる。渡してやるために来たのに、その場面が想定とは違っただけで、好意を示すことに躊躇いが生まれたのだった。

「あれな、社員なんだ。近くに住んでるの思い出してさ」

 半身になって車の姿を見せ、きかれてもいないことを説明する宇津井の笑みに、船木は反応できなかった。生来の人懐っこさに、洗練された陰影が重ねられた表情。

「ライター、忘れてたろ」

 他に適当な言葉が思い浮かばず、船木はそう言ってジッポーを差し出した。宇津井は、それが見覚えのない小石であるかのごとく、手のひらの中央に乗せたまま見つめた。鍵盤をうまく滑りそうな長い指が波打ち、鈍い金色が隠れる。

「タバコ、やめられるとこだったのに」

「やめりゃいい」

「身体に良くないもんな」と宇津井はなぜか楽しげな声を出し、背中を向けた。軽い足取りで離れていき、助手席のドアを閉める直前にも、短く身体を翻して手のひらを見せた。合図をする姿が似合う男だと船木は思った。

 BMWは短いクラクションを鳴らし、走り去った。船木は堤防越しに海を見ながら、アパートに戻った。