中編小説『持たざる者』①

 何百回と通ったその道の景色を、船木は初めて、意思を持って眺めた。今日で仕事を辞めることが作用しているのは明らかだった。感傷的だと自分を批判しかけるが、そういった反抗はやめて身を任せようと言いきかせる。

 ハイエースは、一方通行の三車線道路の真ん中を進んでいた。左右には街路樹が並び、枝葉を揺らしている。道路わきに設置された花壇では、黄色とオレンジ色の花が咲いている。軒を連ねる店舗のうちのいくつかが、プランターや大小の植木鉢を出し、思い思いの草花で、さらに色彩を豊かにしようとしている。

 午後の暑さと怠惰な時間の流れは、人びとの視線をその彩りへと向かわせない。通行人は前方の地面の一点を見つめ、何者かの残骸をそこに思い浮かべているようだった。同時に自らも、粘つく影をこすりつけるようにして、つま先を低く低く押し出している。梅雨が明けてから、長く雨が降っていない。

 車内はエアコンが効いていた。フロントガラスを突き刺す日差しを浴びながら涼しさを享受する違和感を、船木は未だ払拭できずにいた。目の前にあるからと利だけを摘まみ取っていると、裏で何かがそれ以上の規模で消費されるような気がした。

 船木が消費を気にかけているのはガソリンではなく他の何かだった。社用車でいくらガソリン代がかかろうと従業員には関係ない。また船木は原油の枯渇や排ガスによる環境問題を懸念する男でもなかった。

 助手席の多田が腰を浮かせる。後ろポケットからスマホを取り出すのを見て、船木は口を開く。

「好きなのかけろよ」

 多田は無言のまま口元を緩め、スマホの画面を操作した。ギターらしき楽器の前奏が始まる。続いて女の声が響く。

 この音はギターではなくベースかもしれない、と思い直す。どちらも同じような形をした弦楽器だが、異なる音を出す。船木はその音の違いを確認したことがなかった。船木が考える確認とは、これがギターでこんな音が出る、これがベースでこんな音が出るという説明を受けながら目と耳で確かめることだった。

 一人で配達先を回っているときは、ラジオをきいていた。局と番組が一致しないので、AMもFMも関係なく耳あたりの良さを求めて小まめにチューニングした。歌詞のない曲やラジオパーソナリティの雑談をきいていることが多かった。天気予報や交通情報も心地良かったが、そういったコーナーに割り当てられる時間は短すぎた。

 二週間前、多田を伴って働くようになったのを機にラジオを消した。すると三日目に多田がスマホで音楽をききたがった。旧式の携帯しか持たない船木にはスマホで音楽をきくという発想がなかった。以来毎日、配達を終えて帰社するタイミングで多田が選んだ曲を流す。

 どれも歌い手は十代か二十代のようだった。それが分かるくらいには耳を傾けていた。歌詞を伴う音楽に本格的に意識を向けると、曲中に表される物語や主義主張への理解が追いつかず置き去りにされた気分になる。その距離は開いていく一方であり、すると気づいたときには次の曲が始まっているという事態に陥るのであった。

 エアコンを使い始めたのも多田が来てからだ。窓を全開にして車を走らせていたら、暑すぎませんかと多田は言った。額には大粒の汗を浮かべており確かに暑いらしかった。そうかもなと船木は答え、エアコンのスイッチを入れた。送風口からカビ臭い風が流れ出て、隣で多田が鼻をスンスンと鳴らした。あのとき、においについて多田が不満を述べなかったことを、船木は好ましく思った。

 前方の交差点の信号が黄色に変わる。船木はブレーキを踏み、停止線でハイエースを止める。歩行者が横断歩道を渡り始める。

 一年前の勤務初日の光景が蘇った。先輩社員がハンドルを握り、船木は助手席にいた。なんでこんな仕事をしようと思ったのかと先輩は尋ねた。その場面を最初に頭に浮かべた自分に船木は腹を立て、早々に記憶を追い払う。

 視界に侵入してきた影を察知し、ルームミラーに目をやった。鏡面に映る白いセダンの迫り方に、ハンドルを掴む手がこわばる。シルエットが見慣れない大きさになったのを認め、左手を叩きつけるように伸ばし多田の胸を支えた。

 ハイエースの長いボディを伝わってきた衝撃が、二人の背中をシートから浮かせる。車体はわずかに前方に動き、母親に手を引かれて横断歩道を渡っていた三歳くらいの少年が転ぶ。船木は冷たい汗を全身に感じ、歯を食いしばった。サイドブレーキを目いっぱい引く。

 少年を抱き起こした若い母親は、しゃがんだままフロントガラス越しに船木を睨んだ。船木は大丈夫かと声を張る。しかしパワーウィンドウを下げていなかった。シフトレバーをパーキングに切り替えシートベルトを外したが、すでに親子は背中を向けて歩きだしていた。道路を渡り切った少年が、一度だけこちらを振り向いた。恐怖や驚きの色はなかった。だが純真な知的好奇心の広がるなめらかな眉間は、より深刻な非難を船木に訴える。

 車内に女の叫び声が響いた。船木は一瞬の錯覚ののち、それが床に転がったスマホから発せられる歌声だと気づく。

「くそっ、オカマかよ」

 多田が後方に怒りを向けて車を降りようとする。船木は腕を掴んで引き止める。

「いいから警察呼べ。あと会社に電話して社長に来るように言ってくれ」

 多田は士気を抜かれた顔で船木を見つめ、ああ、はいと声を出す。足元に潜りスマホを拾う。力を溜め込むように低音で唸っていた女の声が、ぷつんと途切れた。

 船木はサイドブレーキが効いていることを確認し、ハザードランプのスイッチを入れて運転席から降りた。何台かの車がそばを通りすぎていった。ハイエースの後方に回ると、リアガラスが割れ落ちて粉々になっていた。バックドアは人力では開けられそうにないほど変形している。白いセダンの前座席では、年老いた夫婦が、まるで事故相手が目の前の連れ合いであるかのように激しく言い争っていた。しぼんだエアバッグから、白煙があがっていた。

 

 タクシーで多田と整形外科に行き、医師の診察を受けた。最近開院したらしい清潔なクリニックで、他に患者はいなかった。検査では二人とも異常なしのとのことだった。もし痛みやしびれなどの症状が出たらすぐに連絡してください、と頭を刈り込んだ若い医師は張り切った調子で言った。まるで後遺症を心待ちにするかのようだった。

 会社に戻ったのは夕方の五時だった。定時を三時間半すぎていた。事務員たちも帰り支度をしている。船木が着替えてロッカーの荷物をまとめていると社長がやってきた。太った身体によく合ったスーツに、香水のにおい。

「最終日に追突されるなんて、お前もついてないなあ」

 医師にせよ社長にせよ、ずいぶんと落ち着いている。交通事故というものは、実は俺が思うよりありふれた事象なのかもしれないと考える。

「車、修理ですか」

「ああ、ありゃ廃車だってよ」

「え?」

「どうした」

「いや、あれくらいで廃車になるんだなと思って」

 修理をして事故車として返ってくるより、買い替えとなった方が社長としては好都合なのかもしれない。相手方は任意保険に入っていなかった。こちら側の治療費は検査代のみとしても、車両代はあの老夫婦が負担するのだろうか。

「あとはこっちでやっとくから、心配するな。残業もつけとくからな」

 現場に駆けつけた警官からの聴取で、船木はあったままのことを伝えた。信号待ちをしていたらセダンが突っ込んできた。ドライブレコーダーにも映っていると思う。何キロ出ていたのか、ブレーキがあったかどうかは分からない。

 追突された衝撃で少年を轢きかけたことは言わなかった。なぜかあの親子に逃げられたような、見捨てられたような、そんな気がしていた。

「そういえば今日、送別会やるから、お前も来いよ」

 社長が船木の肩に手を置いて言った。

「送別会って、誰の?」

「お前のだよ。時間ないか?」

 ありますけど、と船木は答えた。

 

 社長が予約した居酒屋は雑居ビルの地下にあった。金曜日ということもあり店内は混んでいた。社長と向かい合い、船木と多田が並んだ。参加者はそれきりだった。

「二人は、いくつ違うんだ」

 顔を見合わせ、多田が答える。

「六個です。船木さんが三十で、僕が二十四なんで」

「じゃあ、兄弟みたいなもんだなあ」

 社長は目を伏せてタバコに火をつけた。運ばれてきたビールで乾杯をすると、半分ほど一気に喉に流しジョッキをテーブルに置いた。

「船木がいなくなったら寂しいよな」

 はい、と多田が答える。

「まだ覚えてないこともあるもんな?」

 今度は迷う数秒があったが、はい、と多田は繰り返した。

「なあ船木」

 社長が身体の向きを変え、船木を正面から見つめる。

「考え直さないか」

 この一カ月間、会社に残るよう何度も説得された。また同じ話が始まるのかと船木はうんざりした。だがこれが最後の説得になるであろうと思うと心が揺らいだ。俺は、考え直した方がいいのかもしれない。

「自分じゃ気づいてないみたいだけど、評判いいんだよ、お前。やることきちっとやるだろう。タオル屋の仕事、嫌いか?」

 一年間、ハイエースでタオルを運び続けた。朝五時半からビジネスホテルやラブホテル、スポーツジム、ヨガスタジオ、スーパー銭湯、それにありとあらゆる業態の飲食店を回った。発注された種類と枚数のタオルを決められた時間帯に届け、使用済み分を回収する。バスタオル、フェイスタオル、おしぼり、バスローブやバスマットも取り扱う。

「一人で動けるし、自分に合ってると思います」

「だったら、なあ」

 同意を求められた多田が視界の端で頷く。

 船木は、なぜ辞めるのか、できるだけ詳しく、自分なりの言葉で、社長に説明してみようかと思った。これだけ引き留めてくれるのだ。キュウリの浅漬けをかじり、ビールで流し込み、タバコに火をつけ、唇を閉じたまま小さなげっぷをして、やはりよしておくことにした。どうであれ、辞めるのだ。

「すいません」

「なあんだよお」

 じっと返事を待っていた社長は、焦れた声を出しのけぞった。

「分かった。もう言わないよ。でもな船木、もしまた働く気になったら、連絡くれよな。そのときは、多田に辞めてもらうから」

「マジっすか」

 多田が本気にしてたじろぐ。社長の乾いた笑い声が響いた。

 

 一時間ほどして、社長が店員を呼んで会計を済ませた。さらに一万円札を船木に差し出し「ガールズバーでも行ってこい」と言って席を立った。

 店の前でタクシーを見送ると、船木は多田を振り返る。

「戻るか」

「え? 戻るって?」

 今しがたのぼってきた階段をおり、入口で案内を待つ団体客の横をすり抜ける。席に戻ると、大きな盆を持った二十歳くらいの男の店員がテーブルを片付けようとしていた。社長に半ば強引に注文させられた料理が、どの皿にも中途半端に残っている。

「やっぱりまだ食うんで、そのままで」

 船木が言うと、店員は戸惑いの表情を浮かべて身体の動きを止めた。客が並ぶ入口を振り向き、ちょっと店長にきいてきます、と逃げるように厨房に引っ込んだ。船木は席につき、空揚げをレタスにくるんで口の中に放り込む。

 多田がそれを見て短く笑って、向いの席に腰を下ろした。テーブルの上に放り出されていた箸を拾い、ゴーヤチャンプルーを口に運ぶ。一口に時間をかけ、ジョッキに手をかける。

「船木さんほんと、なんで辞めちゃうんですか?」

「じゃあお前は、なんで辞めないんだよ」

「僕はだって、働き始めたばっかりだし、辞めるもなにもないでしょう?」

 船木は答えなかった。戻ってきた店員が、二人に声をかける。

「あの、もう一回お通し代かかっちゃうみたいなんですけど、それでよかったら大丈夫だそうです」

 船木は黙って食事を続け、多田が代わりに返事をする。店員は船木からの了解を得ていないことが心残りであるように、その場でまごついてから背中を向けた。

 多田が両肘をテーブルにつき、身を乗り出す。

「船木さん、正社員になるって話あったんでしょ?」

 茶色く染めた髪をワックスで逆立て、眉を細くした幼い顔が、こちらを見ていた。

「そういうこと言われると、急にやる気なくなっちゃうんだ」

「そういうことって、正社員にしてもらえるって話ですか?」

 うん、と口が塞がったまま返事をした船木は、自分が説明を始めたことをすでに後悔していた。しかし予想外に多田は黙り、腕を組んで考え込んだ。船木は咀嚼に集中し、口の中のものを飲み込む。

「急に嘘くさくなるんだ。社長が嘘ついてるとかそういうことじゃないんだけど、俺の方が嘘にしか見えなくなるんだよ。そう見えたら、それは嘘なんだ」

 船木の説明は具体性に欠け、ほとんど伝わりそうになかった。しかしその中途半端が、どうせなら最後まで吐き出してしまおうと思わせた。

「悪気はないんだろうけどさ、俺もう、引っかかりたくないんだ。騙された気分になるのは嫌なんだ」

 船木は多田の反応を待たずに店員を呼び止めて追加のビールを注文した。すぐに食事に戻り、鉄板の上の冷めたステーキを口に運ぶ。添えられたフライドポテトを唇の端から押し込む。

「なんか、分かります」

 多田が神妙な面持ちで言った。

「嘘つけよ」

 新しいビールがテーブルに置かれた。入口に溜まっていた団体客が大声をあげながら背後を通りすぎていった。船木はジョッキを掴み、ビールを飲んだ。ぬるかったが、酒であればそれでいいような気がした。そもそも、普段の自分は冷えたビールをうまいと感じていたのか、怪しいものだった。