中編小説『持たざる者』⑤

 電車を降りたのは、自宅の最寄り駅ではなかった。

 私鉄と連絡するその駅の構内も、駅を出た通りも、人工の光で溢れ、人でごった返していた。帰路につく者、まだまだ飲み足りない者、飲みたくないのに帰れない者、あてもなくさまよう者、何かが起きるのを何もせずにじっと待つ者。

 ドラッグストアの角を曲がり通りを外れると、明かりの数が途端に少なくなる。しかし代わりにその一つひとつが、どぎつい色と最大の光量で男たちを引きつける。スーツを着崩し、たっぷりと整髪料をつけた客引きの男がぽつぽつと店の前に立つ。

「お兄さん――」

 船木は足を早め、その声を振り切る。やがて薄汚れた細いビルが現れると、迷わず階段をおり地下へと進む。黒服が奥から出て来る。

「ご指名はありますか?」

 キセキさんで、と船木は告げる。時間を決め、先に金を払う。BGMの流れる待合室に通され、ソファに座る。他に客がいなくても、必ずここで待たされた。

 黄色い壁には、年齢とスリーサイズが添えられた女の写真が並んでいる。キセキのプロフィールには二十歳と書かれていた。本当は二十二歳だと以前に本人からきいたことがあったが、船木にはその詐称にどれほどの効果があるのか分からない。

 五分経ち、黒服に呼ばれる。短いL字の通路を抜けて遮光カーテンを潜ると、BGMの音量が跳ね上がり、ミラーボールの回る大部屋が現れる。左右には胸の高さの壁で隔てられた二畳ほどの空間がずらりと並んでいる。暗闇と光と音楽の隙間から男女のささやき声がきこえる。時おり、あえぐ声が混じる。

 区切られた小さな空間のうちの一つに案内され、黒服が去ると、船木は合皮のフラットシートに仰向けに寝転がった。大音量が振動として身体に響いてくる。天井は配管がむき出しで、その全てがタールのようなべっとりとした黒で塗りつぶされていた。

 星野とは、十時すぎまで飲んだ。焼鳥屋を出たとき、足取りのおぼつかない星野が、船木の肩に手を置いた。反射的にその手を掴みかけた船木であったが、ブラウスの背中を手のひらで支えるに留めた。初めて、星野に触れた瞬間だった。

 身体を支えながら駅に向かって歩くあいだ、星野のマンションまで送ることを考えた。しかし送れば、帰らないだろう。その二つの行程は一連であるべきという考えが自分の中に存在することを、船木は知らなかった。躊躇っているうちに、星野が乗ったタクシーのドアが閉まった。

「あーん、瑛ちゃん」

 視線を向けると、スイングドアからキセキが入ってくるところだった。下着のような薄地のドレスをまとい、サービスの生ビールを持っている。

「もう来てくれないかと思った」

「なんで?」

 船木は笑いながら尋ねたが、キセキにはきこえていないようだった。シートにあがり、横になったままの船木の脇に座り込む。

「でも俺、来たよ」

 船木は言葉を変えた。

「うん、だからうれしいの。はい、ビール。お疲れさま」

 身体を起こし、受け取ったビールを半分飲んで差し出す。

「あと、飲めよ」

「いいの? って、ちょっと期待してたけど」

 キセキはジョッキを両手で持ち、二回に一回こぼす幼子のように、そろそろと傾けた。傷だらけのジョッキの中の黄金が、半裸の女の唇へと流れ込んでいく。途中で口を離し、船木を見る。

「全部飲めよ」

 キセキはだらしなく笑い、ビールを最後まで飲み干した。

「ごちそうさま。今日はお仕事だったの?」

 船木の返事を待たずに、キセキが腰にまたがる。ジョッキを棚に置いた腕が、船木の首に伸びてきてからみつく。甘いにおいを漂わせる。豊かな胸が、船木の顎先に迫る。

「こっち見てよ」

「見てるよ」

 船木は胸の谷間から目を逸らさずに言った。

「違う、喋ってるのこっち」

「そうだったのか」

「お疲れさま」

「さっききいたよ」

「本当に思ってたら何回言っても良くない?」

 キセキは言い、船木の頭の後ろに手を添えて、舌を出して深いキスをする。

 

 二回目の射精をしたとき、船木は汗だくになっていた。シートに押し倒してからのほとんどの時間を、キセキへの愛撫に費やした。

 船木がティッシュボックスを取ってやると、キセキは何枚も重ねたティッシュに口の中のものを吐き出した。

「あー、もうびしょびしょ。ごめんね」

 恥じらう表情を見せ、キセキはシートの上に溜まった水分をバスタオルで拭き始めた。タオルの吸水性が悪いのか、シートの撥水性が高いのか、表面張力で輪郭のくっきりとした水たまりが広がってしまう。船木はティッシュを手に取り、拭くのを手伝った。

「私たちってさ、相性良すぎない? 私、普段潮なんて噴かないよ」

 船木は下着だけ穿き、壁にもたれてタバコに火をつけた。

「なんでそんなに上手なの? 彼女いないって嘘でしょ。それか、取っ替え引っ替えしてるか。ねえ、他のお店、行ってない?」

「ここだけだ」

「本当? ——え、ちょっと待って。ここだけって何? 店の他の女の子とは遊んでるってこと?」

 キセキをからかうとき、船木は心からリラックスしている。口数の多い女は苦手なはずだったが、八つ年下の風俗嬢との四十分間は、むしろ心地よい時間だった。この店に通い始めてから、一年が経っていた。

「ここの女の子も全員試したけど、やっぱりキセキが一番だ」

「もう、サイテー」

 真面目くさった船木の表情に、キセキは瞬時に冗談だと理解してくれる。俺にはもしかしたらこの女が合っているのかもしれないという考えは、持つたびに捨てていた。風俗嬢と客なのだ。

 それに、そうでない関係であったとしても、船木には一人の女を、さまざまな意味で、また最終的に、満足させる自信がなかった。

「ねえ、今度ゴム持ってきて」

 別れ際、キセキが耳元で言った。

「ゴム?」

「エッチしよ」

 少女のように前歯の先を見せた囁きが、船木を黙らせる。

「大丈夫、バレないから。みんなやってるし。約束だよ」

 キスをして、カーテンを潜る。暇そうにしていた黒服の張り付いた笑顔をやりすごし、威勢のいい声を背中できく。

 地上に出ると、顔を赤くした五十代くらいの三人組がいた。どの店にするかで意見が割れているらしかった。船木はそばを抜け、駅に向かった。

 

 毎年、夏が終わる頃になると、アパートの裏手の砂浜に若者が迷い込んでくる。

 たいていが一人で、泳ぐつもりはないらしく、服を着たまま波打ち際を歩いたり遠くを眺めたりして一時間ほどすごす。途中、忘れていたというように、手足を海水で濡らす。帰るときには、足についた砂を丁寧に払い落とすくらいの余裕を取り戻している。

 彼らは、陽射しの似合うとびきりの海を求めているわけではなさそうだった。去り行く夏の残り火を求め、ちょうど何かの終焉のような姿をしたこの砂浜に吸い寄せられているようだった。八月下旬になってもにぎやかな海水浴場を横目に、振り向くまいと努力して通り過ぎてきた彼らを思い浮かべた。

 十九の夏、アルバイト先の同僚たちと海に行った。誰かが三人組の女子大生をナンパしてきた。ビーチバレーをして焼きそばを食べ酒を飲み、船木はそのうちの一人と寝た。短大で心理学を専攻する、おとなしい女だった。なんとなく付き合うことになり、きっちり週に一回のデートを繰り返し、二カ月後に別れた。船木の誕生日の当日だった。「何をあげたら喜ぶのか見当もつかないの」と女は震える声で、ありもしない手料理をぶちまけるように言った。

 相手が星野であれば、あんな台詞は言わせなかっただろう。共にすごす時間を大切にし、愛されようとしただろう。努力が無駄になるかもしれない、適切ではないかもしれないと不安に思いながら、力まずにはいられなかったはずだ。好きなものと、嫌いなものを尋ねる。何を考えているのか教えてほしいと伝える。自分の気持ちを声にする。他の男との恋愛の機会を心配する。慎重を期して迎えたベッドの中で、腹の底から噴き出る喜びを感じる。別れを告げられたときには、暗闇に突き落とされる。自殺が頭をよぎったかもしれない。

 船木は憤った。どうして空想の中で、星野と離れ離れになるのか。それも、自分が捨てられる側なのか。俺という人間は、そこまで自虐的な考えに支配され、生きていかなくてはならないのか。願いは決して叶わない男なのだろうか。望めば最後、山の頂へと一歩を踏み出しても、二歩目で滑り、もといた場所を通過し、谷底へと転げ落ちていくしかないのか。

 また一人、砂浜に人影が現れる。黒っぽい長袖Tシャツと長ズボン姿の男は、風に煽られるように斜めに進み、波打ち際にたどり着く。打ち寄せる海水が靴を濡らさないことを確認し、ポケットに手を突っ込み、沖を向く。

 男の存在は、船木に不快感をもたらした。孤独と不幸を自らに証明し、周囲に見せつける後ろ姿はこれまで何度も目にしてきたが、今はなぜか腹が立った。奴はわざわざ普段見向きもしない静かで汚い砂浜を選び、傷を癒そうとしている。何かを忘れようとしている。心の平穏を取り戻そうとしている。ちょうど雲が立ち込めてきたことにも、きっと満足している。新たな幕開けに向けてのいい演出だと思っている。溜まっていた嫌なものを暗い海にまとめて捨て、自分の住む世界に戻って陽の光の下でやり直そうとしている。

 ベランダから部屋に戻り、畳に寝そべる。擦り切れた畳が、ふくらはぎをチクチクと刺した。体勢を変え、リモコンでテレビを点ける。32型の薄型テレビはこたつテーブルの上に載せるわけにもいかず、壁際の床に直置きしていた。

 ワイドショーで、どこかの大学教授が喋っていた。要点をまとめたボードを示して少子化の原因を説明している。仕事と子育てを両立できる環境整備の遅れ、経済的不安、結婚や出産における価値観の変化。司会者が唸り、コメンテーターに意見を求める。派手なスーツを着た中年女は迷うそぶりなく言う。重要なのは、国民一人ひとりが、少子化問題を自分の問題として捉えることです——。

 それはどこか遠い場所での高説のように響いた。経済が停滞するだとか、年金が減るだとか未来の話をされて、ではそれを回避するために結婚し子どもを作ろうとする者がいるだろうか。心配が及ぶのはせいぜい自分や自分の子どもの生きているあいだのことであり、しかし生きている人間は明日死ぬかもしれないと口には出さずとも本能的に理解している。漠然と未来を想像できるだけで、百年後の経済や誰かの生活のために、現在の自己を犠牲にするほどの理性はない。

 テレビのスイッチを消し、自分が人類最後の一人になることを考える。俺は、水と食料を探すだろうか。それとも、死を受け入れて地面に横たわるだろうか。そのときの俺は、いったい何を望んでいることになるのか。諦めることになるのか。

 

 宇津井の経営する不動産屋は駅からほど近い一等地にあった。五階建てのビルの一階で、大きなガラス窓から広い店内が見渡せた。三組の客が、カウンター越しに営業マンと話し込んでいる。

 船木はドアを押し、受付の女に名前を告げた。

「船木様ですね。少々お待ちください」

 大学を出て間もないように見える若い女は、感じのいい笑みを浮かべて奥に引っ込んだ。

 流線形の硬い椅子に腰かけて店内を見回す。船木が知る不動産屋とは違い、書類棚も、分厚いファイルも、鼠色の事務机も見当たらなかった。壁紙は木目調で、足元には不規則な形をしたタイルが敷き詰めてある。天井の照明とは別に笠つきの電球がぶら下がり、営業マンの手元を照らしている。彼らは皆、皺のないきれいなスーツに身を包み、高そうな腕時計を巻き、額を見せた清潔感のある髪型をしている。マウスをすばやく操作し、モニターで物件情報を表示しては、客の反応を確かめる。

 やがて受付の女が呼びに来る。船木をカウンターの中に招き、壁のあいだの通路を先に立って歩いた。背の低い女で、頭のてっぺんを覗き込めるほどだった。分け目から、皮膚とは思えない白い一直前の地肌が見えた。

 突き当りの階段をのぼり、二つあるドアのうちの一つを引いた女は、手のひらで中を示した。船木はそこから切り替わったカーペットを踏みしめる。陽が広く射し込む、余計な装飾のない部屋だった。

「よう」

 船木が気づくより先に、一つだけあるデスクのパソコンモニターの影から宇津井が顔を出した。ワイシャツ姿で、ネクタイもしていない。女が一礼し、ドアを閉めた。

「悪いな、せっかく連絡くれたのに、午前中はちょっと手が離せなくてさ」

 デスクの隣には応接セットがあった。宇津井が奥のソファに座ると、船木もその向かいに腰を下ろした。

「暑かったろ。なんか飲むか?」

「ビール」

「ないよ、さすがに」

 宇津井が、その冗談に慣れた様子で言う。上半身を伸ばして、小型冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを二本取り出し、ガラス製のローテーブルに置く。

「メシ食ったのか」

 ああ、と船木はほとんど無意識に嘘をつく。しかし腹は減っていなかった。

「お前、最近時計してないよな」

「もうずいぶん前からだよ」

 宇津井はペットボトルの蓋を開け、一口だけ飲む。船木も同じようにする。

「売っちゃったのか?」

「一応まだ持ってるけど、考えたら邪魔だなと思って。スマホあれば時間分かるしさ」

 そうか、と船木はあまり納得しないまま声を出し、センター分けの艶のある髪を眺めた。

「なんだよ、瑛人にしちゃ、変なこときくんだな」

 宇津井は片側の口角を上げ、シャツの胸ポケットからピースを取り出し着火する。ジッポーをしまいかけ、顔の横に掲げてクルクルと回す。

「そういや、前、ありがとな。ちゃんと礼を言ってなかった」

「一本もらっていいか?」

 差し出されたタバコを受け取り口に咥えると、宇津井が火をつけてくれた。背もたれに身体を預けて、深く吸った。バニラの香りがあたりに漂っていた。二人の頭上で煙が合流し、天井の空調機に吸い込まれていく。

 宇津井が用件を尋ねてこないことが、もどかしかった。しかし同時に、それが宇津井の気遣いによるものだということも分かっていた。これまで数えきれないほどの配慮を、きっとこの男はしてきたのだろう。そして俺は、おそらくその大半を見落としている。

「そういや、星野に連絡したか?」

 時間をかけて考え、船木は首を横に振った。事実を口にすれば話が長くなることは目に見えていたし、本題を切り出せなくなるかもしれなかった。

「前にさ、営業欲しいって言ってたよな」

「え? ああ」

 宇津井は喉を鳴らし、テーブルの上の灰皿でタバコを叩く。

「やってみようかなと思って」

 一音が喉から洩れるごとに、吐き気が増した。次に、顔の筋肉の震えを感じた。自分が下手な作り笑いをしている気がして、手のひらで頬をさすった。

「やってみるって、瑛人が営業を?」

 ああ、と船木は答える。

「うちで?」

「そうだ」

 宇津井は深く考え込むように眉間に皺を寄せ、視線を膝元に落とした。船木は長い沈黙を覚悟したが、その緊張は数秒で、あっさりと解かれる。

「今、営業マンは足りててなあ」

 突き付けられた朗らかな表情と声に、船木は反応できない。十分に予想できた返答に対して、なぜか言葉を失っていた。

「もともと出入りは激しい業界だけどさ、今うちにいるのが結構頑張ってくれてんだ。あと先月、駅の南側にも出店したからさ、そのときに採りすぎってくらい採用しちゃって――」

「いや、いいんだ」

 船木は相手の説明を遮って言い、手のひらをかざした。

「もし困ってたらって思っただけだから」

 自分がまるで、宇津井のような仕草をしたと思った。腕を下ろしたとき、タバコの先の灰が床に落ちた。靴の先で、カーペットに擦りつける。顔を上げると、宇津井がこちらを見ていた。

「悪いな」

 その謝罪を最後にするというように、宇津井は肘掛を掴み勢いよく立ち上がる。

「瑛人も昼メシ行かないか? 何かつまむか、ビールでも飲んでりゃいい」

「いい。食いすぎたんだ」

 船木はタバコの火を消しながら答え、自分が朝から何も食べていないことを思い出す。立ち上がると、目の前に宇津井の顔があった。どちらも口を開かず、近い距離で向き合っていた。

 船木は、何かが二人のあいだで歪み始めている気がした。耐えられずに目を逸らし、ドアへと向かう。

「瑛人」

 何度も耳にしてきた声に、その主が宇津井でないことを祈る寂しさを感じながら振り返る。

「こっちの方が早い」

 部屋の反対側で、宇津井が別のドアのノブに手をかけていた。空想の物語に出てくる案内人のように、開いたドアを支えて四角い景色を見せる。外付けの非常階段に続く出口だった。

 ふわふわとした足取りで、宇津井が示す方へと進む。踊り場に立つと、空き地を挟んで向かいに建つ古いビルが見えた。その外壁に張り付くおびただしい数の窓と室外機に、船木は自然界に時折り現れる規則的な模様を見たような気味悪さを感じた。

 宇津井が階段を下りていく。船木は、自分の足の裏が鉄製の板を踏みしめていることを意識しながら、宇津井のシャツの縫い目に視線を固定する。

「瑛人はあれか、仕事探してるのか」

 背中越しに、よく通る声が響く。宇津井の声量はいつも、ひと目盛り単位で調整しているように的確だった。

「まあ、そんなとこかな」

「正社員で?」

「一応」

「ビルメンテナンスの仕事だったら、紹介できると思う」

 歩道に降り立ったところで、宇津井は振り返った。また、真っすぐに向き合う形となる。俺たちは、いちいちこんなふうにして喋っていただろうか。

「ビルメンテナンス?」

「清掃と設備管理が主な業務。電気とかエレベーターの資格も取れる。社長は若いけど、信頼できる人間だ」

「いやあ、掃除とか資格取るとか、苦手なんだよ」

 不義理は、承知していた。宇津井が怒りだすか、呆れて愛想を尽かすということも考えた。だが船木は、冗談めかした、身勝手な返答をせざるをえなかった。戒められるべき振る舞いによって、自身の傲慢が白日の下にさらされることを望んでいた。

「感電死するのも嫌だし」

 それでも宇津井は、その表情を、記憶を一つ一つ掘り起こして自らの落ち度を認めるものへと変えていった。

「確かに、瑛人にモップは似合わないかもな」

 船木にはもう、この場で発するべき言葉が残っていなかった。しかしそれを宇津井に気取られるわけにはいかなかった。

 翌朝に顔を合わせることが決まっていた中学時代の気安い視線を投げかけ、じゃあなと声を振り絞り、身を翻し駅へと歩き出した。

 

 電光掲示板でちょうど普通電車が出たばかりであることを知ったとき、船木は懐かしさのある、十代のような急な空腹を覚えた。そして、このまま帰る気分ではないことに気づいた。

 高架下に並ぶ店舗の中で古い喫茶店を見つけ、一番奥のテーブル席に腰を落ち着ける。栓が抜けたように、疲労と安堵の残留物が、背骨から全身の隅々へと広がった。深い色の木材で統一された内装と薄暗さは、世間から船木を匿ってくれる同胞の隠れ家のようであった。

 ナポリタンの大盛りとコーヒーを注文し、タバコを切らしていたことを思い出す。店員に売っている場所を尋ねると、お客さんが忘れていったのでよかったら、と数本減ったキャメルを渡された。

 マッチで火をつけて、煙を吐く。一人きりの先客である頭の禿げた老人が、窓際の席で、虫メガネを片手に新聞を読んでいた。

 暇を持て余し何時間も居座る常連客なのだろう、と船木は考える。その決めつけには、なんの不安もない代わりに大きな目的もなく、ただ漫然と毎日を過ごす人間の存在を肌で感じたいという欲求が働いているらしかった。

 宇津井とのやりとりを思い返した。お前の店で営業をしたいと伝えると、人は足りていると断られ、ビルメンテナンスの仕事であれば紹介できると提案された。船木は身の程知らずのふざけた態度でそれを却下し、別れた。

 想定していたことだ。営業マンへの立候補など、断られて当然だった。しかし宇津井と顔を合わせるまでの自分は、歓迎されることを信じて疑わない別の人間のようだった。

 俺は最初から、断られることを期待して話を持ちかけたのではなかろうか。十九歳の宇津井をなぞることさえできない自らの社会的不信用を、確認しに来たのではないか。試みたけれど駄目だったとの口実を、自分だけのために、作りたかったのではないか。

 成り上がるために違う仕事を探したり、他の不動産会社の求人に応募する気概は、船木にはなかった。やる気は当然あるし機会をもらえれば実行するという態度で宇津井のもとを訪れたのに、実は初めからそうでなかったことを知った。

 やはり俺は、何も、強くは求めていない。安酒を飲んだり、タバコをもらったり、ナポリタンを大盛りにしたり、金を払って女を抱いたりして、小まめに、刹那の満足を得ることで沈没を免れながら、誰も留まりたがらない隙間で生きていくべき人間。絶望に陥らないために、希望を持たず、生きていくべき人間——。

 ナポリタンが到着する。ケチャップの色に染まった山盛りの麺と、刻んだハムとピーマンと玉ねぎ。立ち上がる湯気と、トマトの酸っぱい香り。黒光りする鉄板に、油と手垢が染み込んだ木製プレート。じゅうじゅうと焼ける音。

「うまそうだ」

 振り向いて喜びを伝えるつもりが、そこに店員の姿はなかった。