中編小説『持たざる者』③

 フルタイムの仕事を辞めたあと、無職の期間を経て就くのは、決まって短期の仕事だった。毎日同じ時間、同じ人間と、同じ場所で、同じ仕事をすることが嫌になって辞めたのに、また同じようなところに戻ろうとは思えなかった。

 一日きり、三日きり、一週間きり、一ヵ月きりと近い将来の終わりが見える短期の仕事とは、気軽に向き合えた。会社側も気軽に雇った。双方とも、契約期間以外のことを考える必要はない。求人誌を開けば、短期の仕事はいつでも、いくらでも転がっていた。

 職歴にもならないそれらの職場では、連日の勤務であってもしょっちゅう顔触れが変わるので面倒な人間関係がない。たとえ一日だけの仕事であれ、そこには一日だけの人間関係というものが存在するはずだった。しかし互いに二日目以降の関係を構築する意思がないために積み上がることがない。

 そうしてしばらく短期の仕事で食いつないでいると、また心変わりする。今度は、毎日決まった時間に出社し、同じ相手と慣れた仕事をして、決まった給料をもらう方が楽であるように思えてくるのだ。

 結局どちらの働き方に適しているのか、船木には判断がつかなかった。差し当たっては、両者のあいだを行ったり来たりする働き方が、自分がなんとかこの世で金を稼いでいける方法なのだと考えるようにしていた。

 

 月曜日の朝、船木は始発電車に乗って街に出た。駅のロータリーの噴水の縁に腰かけてタバコを吸い、時間が進むのを待った。

 ビルのあいだから、朝陽がのぼってくる。目を細めてその光源を眺めていると、自分が数十年にわたって勤勉な労働者として身を粉にしてきた錯覚に陥りそうになった。

 まだ金はあった。急いで働き始める特別な理由はなかった。しかし何かが、必要に迫られるよりも早い時期に、船木を労働へと向かわせた。

 宇津井の乗ったBMWを見送ったあと、アパートに戻り、数日ぶりに日中を起きてすごした。外には出ず、かといって部屋で何をしたわけでもなかった。昼前に缶ビールを一本開け、夕方に残った半分を捨てた。これまでも、無為な一日は数えきれないほど経験してきた。しかしその日は、うまく時間の波に身を任せることができなかった。時計の針がガタガタと震えるような、凍った急斜面を一歩一歩踏ん張りながらくだるような時間のすごし方に終始した。俺は、何もしないことの巧者ではなかったのか? 翌日、以前から利用している派遣会社に電話をし、仕事をもらった。

「派遣の人ですか?」

 すぐそばに同い年くらいに見える男が立っていた。頭の高さまである、登山用のリュックを背負っている。

「そうだけど」

「私もなんです」

 男は言い、待ち合わせをしていたかのように、遠慮も警戒もない滑らかさで隣に腰を下ろした。

「今日って、いくらもらえるか分かります?」

「千円かける八時間だから、八千円じゃないの」

「それって、いつ振り込まれるんですかね?」

 船木は携帯を取り出し、メールで受け取っていた募集要項を確認する。

「ちょうど一週間後だ」

 え、と男は声をあげ、自らの愚鈍を愛おしむような首のひねり方を見せた。

「一週間、どうやって生活しようかなあ」

「金、ないのか?」

「あと三千円しかないんです」

 男は財布の中身でも見せようと思ったのか、ズボンのポケットをまさぐった。しかし何も出てこなかった。

「三千円あれば、自炊してなんとかなるだろ」

「家がないんですよ。ホームレスなんです」

 船木は、男の足元に投げ出された大きなリュックに目を向けた。

「荷物は全部そこに入ってるってこと?」

「まさか」

 男は、まるで船木が見当はずれなことを言ったような顔を見せる。

「残りは、駅のコインロッカーに預けてます」

 何も言うべきことがなかったので、船木はあたりを見回した。五人の男たちが、互いに背を向け、しかし指定された集合場所である噴水の前からは離れすぎない位置で時間を潰している。視線も言葉も交わさない。

「私、山根っていうんです」

 男は妙に改まって言い、一人で喋り始めた。船木は二本目のタバコに火をつけ、ゆっくりと吸った。

 山根はもう何年ものあいだ、浮浪者のような生活をしていた。ヒッチハイク不正乗車で都市から都市へと移動し、金が尽きると肉体労働で日銭を稼ぐ。ネットカフェやビデオボックスに泊まる日もあれば、公園のベンチで眠る日もある。しかし汚れたリュックや靴とは違い、襟付きのシャツとズボンはちゃんと洗濯しているらしかった。癖のある髪の毛はゴワゴワしていたが、清潔そうだ。四十歳であるということが、船木を驚かせた。

 五時半になると、派遣会社の社員がワンボックスカーで迎えに来た。七人の男を集め、一覧表を見ながら点呼をとる。

「名前なんて確認する必要あるんですかねえ」

 返事を済ませてぼうっとしていた船木の背後で、山根が呟いた。

「誰でもできる仕事なんだから」

 船木は黙って、前を向いていた。

 

 乗り込んだ順番の関係で、山根が二列目に、船木が三列目に座った。山根は胸に抱えた大きなリュックとドアガラスで頭を挟み、窮屈な体勢で縮こまっていた。隣の男が気を悪くしてもおかしくない距離のとり方だった。

 車内で声を発する者はいない。しかし車が発進し高速に乗ってからも、下道におりてからもぴくりともせずにリュックで顔を隠す山根は、異様であった。意図せず人家に入り込み、網戸に張り付いているカナブンのようだった。全員がある一人をおかしな奴だと認識し、また互いにそれを分かっているときに、彼らは自分がまだ正常だと考える。自身を含めた全員が異常である可能性は考えない。

 田園風景の中に現れた巨大な工場に到着すると、他の地域から集められた派遣労働者と合流した。総勢三十名のうちには、何人か女も混じっていた。再び点呼をして、班分けがなされる。二人は別の班になった。それぞれの持ち場へと向かうとき、山根が目配せをした。船木は顔を背けた。

 船木の班に与えられたのは、すでに箱詰めされた清涼飲料水の一本一本に、サマーキャンペーンのシールを貼る仕事だった。一人が段ボールを開け、一人がシールを貼り、一人がグルーガンで段ボールの封をする。

 同じ班の二人は顔見知りらしく、親しげによく喋った。

「どうしてこんな馬鹿みたいな仕事をしなくちゃなんないんだ?」

「シールを貼るように言われてたのに、うっかり忘れて箱詰めしちゃったんだろ」

「大手飲料メーカーさんが、きいて呆れるよ」

 奴らはそんな会話をし、何かにつけて誰かをあざ笑った。グルーガンを持たされた船木は、黙って作業についていった。

 工場全体にサイレンが響く。休憩の合図だった。グルーガンを放り出し、船木は喫煙所に向かった。すでに何人かの男がベンチで休んでいる。その端で、山根が缶ジュースを飲んでいた。

「ついてましたよ。二十歳くらいの女の子が一緒で、すごい巨乳なんです。肘で触っちゃいました」

 山根は黄色い歯を見せて言った。

 次の休憩時間も、山根は新しい缶ジュースを片手に、同じ班の胸の大きな女について喋った。しかし昼休み、喫煙所に山根の姿はなかった。船木は買ってきていた弁当を食べ、冷水器から水を飲み、タバコを吸った。

 昼休みがあと五分で終わるという頃、敷地の出入り口の方から山根がやってきた。汗染みでシャツの色が変わっていた。

「まわりは田んぼばっかりですね。なんにもない」

 船木の隣に腰を下ろし、ポケットから使い捨てのウェットティッシュを取り出す。

「どうぞ、使ってください」

 船木は一枚抜き取った。顔と首筋を拭くと、冷たくて、気持ち良かった。

「もう一枚、どうですか?」

 いや、いい、と船木は断った。山根は機嫌を損ねることもなく、丸めたウェットティッシュを捨てて立ち上がり、自販機に硬貨を投入する。

「山根さんさ、金ないんだよな?」

「はい。だからお昼ごはんも買えなくて、散歩してたんです」

 船木は何も言わなかった。

 

 なぜ山根を家に誘ったのか、自分でもよく分からなかった。駅前でワンボックスカーを降りて少し歩き、「うちでメシでも食っていきますか」と船木は声に出した。そして山根がニカッと口角を上げたときには、自らの発言を悔いていた。

 荷物を預けているというコインロッカーの扉に、山根は鍵を挿さずにいきなり手をかけた。中は空っぽだった。

「やっぱり駄目でしたか」

 山根は悔しそうに言って、肩を落とした。

「駄目だったって、どういう意味?」

「鍵かけなくても大丈夫かなと思ったんですけど、盗られちゃったみたいです。ほら私、お金ないですから。冬服しか入ってなかったんだけどなあ」

 しばらく考え、船木は理解した。駅員室に行ってみると、若い駅員が呆れた顔で奥から荷物を出してくれた。三時間ごとにロッカーを見回っている清掃員に回収されていたのだ。結局、山根は規定の料金を支払わされた。

 混み合う電車の中で、吊り革に触れる高さのリュックを背負い、両手に紙袋を提げた山根は、船木の住むアパートがどんなところにあり、どんな間取りなのか、着けば分かることをあれこれきいてきた。

 

 ドアの郵便受けに、半額券のついた宅配ピザ屋のチラシが挟まっていた。何か作ってやるのも面倒だったので、山根に風呂を使わせているあいだに電話をかけ、ミックスピザとシーフードピザを注文した。

 交代してシャワーを浴びているとき、ようやく船木は自分がおかしな行動に出ていることを意識した。普通の人間は、山根を自宅に招いたりしない。たとえば宇津井なら、家のない山根と二人になったときも、じゃあまたなとカラッとした声を出し、手のひらを見せてきっぱり別れる。コインロッカーまで同行することさえないだろう。その明確な線引きは、山根を期待させることもなければ、落胆させることもない。

 孤独を愛しているわけではないはずだ、といつか宇津井は言った。だから俺は山根を家に誘ったのかもしれない。なぜか懐いてくる掴みどころのない男で、隙間を埋めようとしたのだろうか。

 その仮説に、船木は反発する。誰かに孤独を埋めてもらいたいわけではない。他人をあてにして自分をどうにかしようというのは愚か者の考え方だ。いつか必ずあてが外れ、どうしようもなくなることを、俺は知っている。俺は、憐れんでいるのだ。山根を憐れむからこそ、悲壮感のない振る舞いに苛立ちながら、同情し誘ったのだ。誘った数秒後に、後悔したのだ。

 突如、山根を疑う気持ちが生まれた。金を盗られるかもしれない。財布の金を抜き取って、部屋から姿を消しているかもしれない。あいつは、俺にさえも疑われるべき人間だ。なぜ今まで怪しまなかったのかと舌打ちをした。

 シャワーを止めて、風呂場を出る。山根は新しいシャツとジーンズを身につけて、ビールを飲みながら窓の外を眺めていた。宇津井が飲み切れなかったスーパードライだ。

「いいですね、海の見える部屋って」

 こちらに顔を向けることなく、山根は言った。

「海を見てると、生きることが簡単そうに思えてきます」

 西日に照らされる横顔には、見られていることを知っている影があった。

「難しいのか?」

 下着だけの格好で、船木は尋ねる。

「私は難しく感じますねえ。すごく難しい。いえ、誰でもそう感じることはあると思いますよ。でもたいていは自分でそう感じるだけで、まわりからは難なく生きているように見えるんです。私は違います。私は、誰から見ても困難なんです。で、それを受け入れてるんです。仕方なくですけど、難ありの自分のまま生きていこうって決めたんです。分かるでしょう?」

 いや、と船木は反射的に否定したが、言葉が続かなかった。頭が混乱し、何を尋ねられたのか、分からなくなる。続くドアチャイムの音で思考は完全に停止したが、身体は玄関へと向かう。ドアノブに手をかけて、自分が下着姿であることに気づく。部屋に戻り、脱ぎっぱなしにしていた作業ズボンと干してあったTシャツを身につけて玄関に引き返す。またチャイムが鳴る。次は財布を忘れたと思ったが、ズボンの後ろポケットに感触があった。

 ピザを受け取り、ドアを閉めてもなお、何か重大なミスを見落としている感覚がくすぶっていた。

 部屋では、山根がこたつテーブルにつき、今にもピザへと手を伸ばそうかと身構えていた。それを見て、なぜか船木は落ち着きを取り戻した。冷蔵庫から出したのだろう、船木の分のビールも置いてある。生きることの困難についての話はこのまま立ち消えそうだった。

 しかし飲み食いしながら、顔を赤くした山根は、自身の生い立ちについて語った。生まれて間もなく父親が蒸発。母親がホステスをして家計を支えた。工業高校を卒業すると同時に実家を出て仕事に就いたが、どれも長続きはしなかった。

「三つくらい職場を経験すれば分かるんです。自分にはこういうことを続けるのは無理なんだってことが。能力的なこともそうですけど、合ってないって。この会社にとかこの職場ってことではなく、今のこの世の中に」

 船木は黙って話をきいていた。山根は相槌を必要としない話し手であった。

「ちょっと電話していいですか?」

 唐突な断りに、船木は首のこわばりを感じながら頷いた。山根はスマホと充電器を取り出し、プラグを近くのコンセントに挿した。誰かに何度かかけ直し、ようやくつながった。

「先輩? お久しぶりです。先月ライン送ったの、見てもらえました? いやあ、ブロックされてるのかと思って、びっくりしちゃいましたよ。お元気ですか? ああ、はい、ちょっと十万ほど、急ぎで貸してほしいんです。いや私、お金ないでしょう。来週には入ってくるんですけど。分かってます、分かってるんですけど、お願いしますよお。野宿しろっていうんですか?」

 金の無心は十分にも及んだが、良い返事はもらえないようだった。山根は最後まで上っ調子を続け、また連絡しますね、と言って電話を切った。

 面倒だな、と船木は思った。借金を断るのは簡単だが、アパートに居座られると厄介だ。

 山根はスマホを置き、最後のピザに手を伸ばす。冷えた一切れは空中でも形を崩すことなく、脂ぎった唇にたどり着いた。細く伸び、千切れて顎に張り付いたチーズを啜る。残りの半分を折りたたみ、強引に口に入れて咀嚼する。缶に残ったビールを、時間をかけて飲み干した。

「じゃあ、失礼しますね」

 口元を拭い、山根は言った。

「え?」

「ごちそうさまでした。ピザもビールも、おいしかったです。お風呂も、ありがとうございました」

 ああ、と船木は引きつった表情になっているのを自覚しながら声を出した。山根はその返事を確かめてから、リュックを背負って玄関に向かう。上がり框に腰かけて、靴を履く。緩かったらしく、靴紐を一度解いて、結びなおす。後頭部を隠すほど大きなリュックが、グラグラと揺れていた。

「荷物、下ろして履けよ」

 船木の声が届いたのか届かなかったのか、山根は何も言わず、リュックを揺らしながら靴紐を結び終えた。両手に紙袋を持って立ち上がり、こちらを向く。

「船木さん、私と、友達になってくれませんか?」

 今度は自然に頬が緩んだが、それが苦笑いだということが分かった。

「友達って、約束してなるもんじゃないだろう」

「じゃあ、もう友達ってことですか?」

「だからさ、友達だとか友達じゃないとか、どうでもいいんだよ。連絡したければ連絡しろよ。嫌だったら断られるってだけだ」

 山根は長い間を置き、「そうですね」と寂しげに笑った。二人は、連絡先の交換などしていなかった。

「じゃあな」

 閉まるドアの隙間に向けて、船木は自分で驚くほど、強い声を出した。

 

 翌日以降も派遣会社から短期の仕事をもらい、そのまま土日も休みなく働き続けた。

什器の搬入、量販店の棚卸、イベント会場の設営と撤去。指示をきける耳と健康な身体があれば事足りる仕事だった。しかしダラダラと働こうが、職場放棄しない限り時間分の給料は必ず支払われる。そのことだけが労働者の権利でありまた会社側の義務と言えた。短期の派遣労働において、仕事内容や時給についてどうこう主張する者はいない。求人情報を見て応募しているのはこちら側であり、またその仕事も長く続けるものではないのだ。

 ときどき、以前に違う現場で見た派遣労働者と顔を合わせた。再会とも呼べぬ、深みのないものであった。一瞬目が合って意識し合ったり、ひょいと頭を下げたり、せいぜい休憩時間に二、三の言葉を交わすだけだ。こんなところで何度も見かける奴にまともな人間はいないと誰もが思っている。そもそも、どのように交流を深めていけばいいというのか。よう、と手を挙げて笑顔を作ったならば、次に何を話せばいい? 相手の何を知ればよくて、何を知らないままでいるべきなのか、船木には分からなかった。

 二週間のうちに五つの職場で働いたが、山根の姿を目にすることはなかった。また山根がアパートを訪ねてくることもなかった。もう違う街に移動したのかもしれない。

 山根は、街から街へと移り、金が尽きると肉体労働をしていると言った。好んで風来坊になったわけではないはずだった。しかし定職に就きたいとも思っていない。いったい何がしたいのかと人は言うだろうが、船木には山根の気持ちが分かった。気持ちというよりも、立場が理解できた。ああして生きるしか、方法がないのだ。山根と比べると、船木はいくらか社会に適応していた。アパートに住み、借金をするほど困窮もしていない。

 あの夜、別れ際に、友達になってくれませんかと山根は言った。その懇願を突っぱねた自分がなぜ、山根の不在を気にしているのだろう。

 もっと優しい言葉をかけてやればよかったと反省しているのだろうか。だが船木は十分に親切にしたはずだった。誰が初対面の半浮浪者をその日のうちに家に招き風呂を貸し飲み食いさせてやるだろうか。お人好しと自分で呆れるほど、施しをしたではないか。虐げられてきたであろう山根の四十年の人生の中で、たった数時間かもしれないが、話をきいてやったではないか。

 突き放したのは事実だった。可能性を提示しながら、遮断した。それは初めから無視をしたり嘲笑したり難癖をつけて殴るよりも非道ではないのか。崖の縁にぶら下がり雨水を飲んで凌いでいた山根に手を差し伸べるふりをして、結局は蹴落としたのではないか。底辺を生き続けるしかないと諦めうつむいている人間にわざわざ光を当てて、顔を上げたところで唾を吐いたのではないか。

 滲み始めた自省の念を追い払うため、船木は首を振る。山根がどうなろうが、知ったことか。寂しかろうが崖から落ちようが、俺の人生には関係のないことだ。宇津井のような親しい間柄の人間であればまだしも、山根の人生の悲哀がいくら増そうが、俺が胸を痛めることではない。同情によって示した形だけの関係に、いったいどれだけの価値があるのか。人生における最高責任者は常に自分自身だ。悪意を持つ誰かの力が働いた末の不幸であるとしても、本人が責任を負わないわけにはいかない。

 俺を憎んだり蔑んだりしたければそうすればいい。仕返しをしたければすればいい。逆恨みや復讐によってさらに下劣な人生へと転落をするのは山根の方であり、俺は自らに抱きかけていた不信を払拭し、矛盾して見える自身の言動が臨機応変な判断であったとの根拠を得るのだ。

 灰皿の上で着火された紙切れが不規則に形を失っていくような、小刻みな心の震えを断ち切るべく、船木は働き続けた。