短編小説『サイレン』

 サイレンが近くで止まり、救急隊員を呼ぶ怒声が通りに響いた。俺はベッドから身体を起こし、煙草に火をつけてベランダに出た。

 救急車は、向かいのラブホテルの前に停まっていた。隊員の一人が先にホテルに入り、残りの隊員がリアドアからストレッチャーや大きな四角い鞄を引っ張り出してあとに続いた。飲み屋の店員、近くのマンションの住人、犬の散歩中だった女が、その様子を眺めていた。

 黒いオデッセイが通りにやってきて、対面に停車する救急車を窺うようにスピードを落とし、俺のアパートの前に停まった。助手席からリサが、運転席から知らない男が降りて、一帯の野次馬と同じように、ラブホテルの入口に目を向けて突っ立っていた。口だけ動かして、二言三言を交わしたようだった。やがて男だけがオデッセイに乗り込み、救急車の横ギリギリをすり抜けて去っていった。

 俺は部屋に戻った。時計の針は、二時を指していた。夜中の二時だ。水道水を飲んでトイレに行き、便座に腰を下ろした。しばらくすると玄関のドアが開き、リサの足音がトイレの前を通り過ぎた。電気をつけているのだから、俺がトイレにいることは分かっているはずだった。そうでなくたって、俺はこのところずっと家にいるのだが。

 家に帰るといつもいる男、それが一度は愛した男であったとしても、あまりいいものじゃないかもしれない。リサは仕事をしない男を憎んでいた。仕事に貴賤はなく、給料の良し悪しも関係ない。ただ、とにもかくにも働いていることが重要であるらしかった。

 それに、と俺は考える。リサだって、家で一人でゆっくりしたいこともあっただろうな。

 俺はトイレットペーパーを巻き取り、汚れていない尻を拭き、水を流してトイレを出た。そのままキッチンに向かい、石鹸で丁寧に手を洗った。部屋に行くと、リサはすでに着替えており、床に敷いた布団の中でスマホをいじっていた。

「おかえり」と声をかけるとき、俺の胸は締め付けられた。

「ただいま」

「仕事、忙しかったのか?」

「普通」

 こちらを見ずにする返事は反抗期の子どものようで、しかし俺に怒りは湧いてこない。

「仕事終わりにちょっと飲んでたから」

 付け加えられた説明が、帰宅が遅くなったことに対するものだと気づき、そうか、と俺は言った。

 布団の横を通り、ベッドに横になる。電気はついたままで、物音もしない。リサはきっとさっきと同じ格好で、スマホをいじっているのだろう。

「さっきたまたまベランダ出ててさ」

 ちゃんと届くように喉を開いたつもりだったが、その声は少し震えているような気がした。何秒か返事を待ってから、

「あの男と、付き合ってるのか?」

 ときいた。

 布団が擦れる音がした。床にスマホを置く音がした。なんてことない音が、俺をつま先でつつきまわす音のようにきこえた。

「私が不倫してるって言いたいの?」

 いや、と俺は声を出す。ハハ、と短い笑い声がした。

「探偵でも雇って、調べてみれば」

 俺は、何を知りたがっているのだろう。

「証拠が見つかればいいわね」

 盲目的に信じることで、知ることを放棄していたのだろうか。

「雇うお金があるんならさ」

 衝動的に俺はベッドを降り、リサの枕元に立った。リサは顔だけを布団から出し、真上を見つめ、涙を浮かべていた。溢れてこめかみに流れても、拭おうともしなかった。

「ついでに弁護士も雇えばいいわ。それで慰謝料請求すればいい。この女が不倫したんだって。精神的苦痛を受けたって」

 喋るたびに、リサの顎が震えた。俺は、自分が口にできる言葉を探した。しかし、いつまで経っても、見つからなかった。