中編小説『持たざる者』⑧(了)

 おそらく風俗店の男から、何度も携帯に着信があった。着信拒否設定にすると、今度は番号非通知での着信に切り替わったが、それも無視した。携帯をサイレントモードにし、放っておいた。

 免許証に載っている住所は、今はコインパーキングになっているはずだ。奴らが無駄足を運び悔しがるところを想像すると、愉快だった。

 舌や食べ物が触れたとき、折れた前歯が痛んだ。みぞおちの痛みが軽快していくのとは逆に、歯の痛みは次第に強さを増し、広がっていった。三日後には、ズキズキと常に響いた。歯茎が腫れ、夜中に何度も痛みで目を覚ますようになってから、船木は駅前の歯科医院を受診した。

 外観は古ぼけていたが、中は掃除と手入れが行き届いているらしく、明るかった。待合室には、白髪の老婆と、若い親子連れがいた。老婆が、隣の女が抱く赤子に、ひび割れた指を握らせ、顔を近づけていた。性別の分からない赤子は不思議そうな顔をしていたが、大人二人はにこやかであった。この町に、こんな光景があることを、船木は知らなかった。

 縦にも亀裂が入り、神経がむき出しになり、感染を起こし、炎症が拡大し、折れた歯を残すことはできないと告げられた。タオル屋を退職したときに健康保険の切り替えをしていなかったので、十割負担になる。とりあえず、抜歯だけすることにした。三十代半ばに見える院長は、抜歯した後の治療について、ひどく心配していた。

「できるだけ早く保険の手続きをして、入れ歯かブリッジをしてください。保険外の治療だと、インプラントという方法もあります。抜けたままにしていると、隣の歯が倒れてきます。噛み合わせも悪くなります。一本の歯がないまま放置して、次々と歯を失うこともあります」

 丸椅子を回転させ、院長は棚からパンフレットを抜き取り、船木に差し出した。手製らしく、端がホッチキスで留められている。

「入れ歯、ブリッジ、インプラントのメリットとデメリットについて書いています。時間のあるときに読んでください」

 麻酔をかける前、抜歯した前歯を持ち帰るかどうかきかれて、船木はなんとなく、持って帰ることにした。院長は少し驚いた様子だったが、それからなぜか、うれしそうに目を細めた。

 受付は中年の、いかにもベテランの女だった。支払いのときに、喧嘩したの、と無遠慮にきかれた。まあ、と船木が答えると、そうだと思ったという呆れと満足の混じった顔を見せた。

「男前が台無しじゃない。今は良い入れ歯もあるんだから、ちゃんと治すのよ。うちの先生、入れ歯得意だから、安心してね」

 急患として扱われたため、老婆の治療が後回しになっていた。船木は礼を言い、歯科医院を後にした。

 

 いよいよ金がなかった。全財産を手元に置いて計算すると、半月後の家賃の支払いができないことがほぼ確実となった。

 しかし船木には、自分でも不審に思うほど、焦りがなかった。これからさらに金が減ると俺はどうなるのかということに、興味があった。大家から催促の電話がかかってきたり、ガスや電気、水道が止まったりといった現実に直面したときに抱く感情。情けなさ、あるいは申し訳なさ、そんな単純な気持ちに支配され、行動してみたかった。自棄になったら、それはそれでよかった。とにかく、突き動かされたかった。それまで、待とうと思った。こたつテーブルの上の一万円札や千円札が少なくなるたび、悪銭が貯まっていくかのように、にやりとしてみるのであった。

 日中はテレビを見て過ごし、腹が減れば食事を摂り、夜にはポートワインを飲んだ。タバコを我慢することもやめた。二日に一度はシャワーを浴び、五日に一度は洗濯機を回した。ときどき、歯科医院から持ち帰った歯を眺めた。

 折れた断面は刃物のように鋭く尖り、指先を強く当てると、血が滲んだ。根元に向けて次第に細くなり、そちらは猛獣の牙のようだった。全長は三センチに及ぶ。普段隠れている部分の方が、ずっと長かったのだ。

 一本の歯を失うということは身体の一部を失うということなんです、とあの院長はそのときだけ厳しい表情を見せて言った。今思い返してもかすかな反発を覚えることが、船木は意外だった。しかしあれは自分に都合の良いように物事を捉えた、屁理屈だと思った。腕や脚を切断すれば、船木も身体の一部を失ったと考える。眼球や舌も同じだろう。しかし爪はどうなのか? 体毛は? あの歯科医師は、自分の職業が高尚なものであると言いたかっただけなのではないか。

 ニュース番組の画面が切り替わり、アナウンサーがコンビニ強盗逮捕の速報を伝える。防犯カメラの映像では、水色のシャツを着た痩せた男が、店員に果物ナイフを突きつけていた。店員が慌てた様子でレジを操作する中、男が出入口の方に気を取られた一瞬だった。棚の影から勢いよく客らしき男が現れ、飛び蹴りを見舞った。犯人の身体はカウンターを乗り越え、床に落ちる。飛びついた客が馬乗りになり、ナイフを取り上げ、そこで映像は停止した。

 途中から感じ始めた動悸は、強盗犯の顔がズームアップされて激しさを増した。そして「強盗未遂 無職 山根浩容疑者(40)」というテロップを見たときには、胸が潰れそうだった。

 顔を隠さず、貧弱な身体で、ちゃちな刃物を突きつけ、客がいないことの確認さえしていない。一般人に制圧され、凶器も奪われた。その幼稚な犯行内容と、名前と顔が、全国に知れ渡った。

 どうしてお前はそれで、強盗ができると思ったのだ。どうしてそれで、人生が良くなると信じることができたのだ。自分を受け入れていると、言ったじゃないか。

 船木は、泣いていた。嗚咽し、ニュースが替わっても、テレビ画面を見続けていた。滲んだ光が、船木を慰めるように、きらきらとしていた。涙を止めようと食いしばり、下を向くと、かつて歯が存在した穴から唾液が垂れ、畳を濡らした。

 

 携帯が使えなくなったので、宇津井には連絡をせずに会いに行った。

 受付の女は船木のことを覚えていた。内線をかけようと受話器に手を伸ばし、そこで何かに気づきこちらを見た。

「すみません、宇津井は今、面接中でして。あと十分もすれば終わると思いますので、お待ちいただけますか?」

「面接?」

「はい」

「面接って、事務員さんの?」

「いえ、営業希望の方ですが」

「そっか。——じゃあ、出直そうかな」

 船木が腰を上げると、女が手のひらで制する。

「あの、本当に、あと少しで終わると思いますので、良かったら、ここでお待ちください。社長も、喜ぶと思いますから」

「喜ぶって、宇津井が、俺と会えて?」

「ええ」

 船木は女を見つめる。宇津井の古い友人であることが、この愛想のいい女に余計な気遣いをさせている。悪いのはこの女ではなく宇津井と俺だ、と船木は考える。

「じゃあ、そうするよ」

 硬い椅子に座り直したものの、話すことがなかった。船木は、テーブルの上に視線をうろつかせる。気まずい雰囲気の中で話題を探そうともしない、鈍感な呑気者でいたかった。

「風邪ですか?」

「え?」

「マスクしてらっしゃるから」

「ああ」

 マスクの内側で、歯茎を舐める。歯を失ってできた穴は、再生が進み、塞がりかけていた。

「すんごい風邪ひいちゃってさ。あいつにうつしてやろうと思って。四十五度あるんだ」

 女は楽しそうに笑い、コーヒーを淹れると言って席を離れた。

 

 二階の部屋を訪れたとき、宇津井はすでに応接セットのソファに座っていた。見るからに疲れており、おう、とため息のような声を出すと、伸びた前髪をかき上げた。

「忙しいのか?」

「まあな。しかしちょっとのあいだのことだ。来月には落ち着くと思う。なんだ、風邪か?」

 壁に設置された、薄型テレビが目についた。譲ってもらったものより、二回りは大きかった。モニターは真っ暗で、照明の光を鈍く反射させている。

「最近、コンビニ強盗あったの、知ってるか?」

 世間話とかできるだろう——。テレビをやるという話になったとき、宇津井は確かにそう言った。

「どうだろう。そんなの、日本中で毎日起きてるんじゃないか?」

「そいつはさ、顔も隠さずにおもちゃみたいな包丁で店員を脅したんだ。ちんたらしてたら、後ろから客にドロップキックをかまされて、包丁も奪われて、捕まった。知らないのか?」

「いや、知らないなあ」

 宇津井は力なく笑う。

「コンビニ強盗なんて割の合わない犯罪をする奴は、頭のネジが一本か二本、ぶっ飛んでんだろう」

「そうかもな」

 船木は呟き、ソファに座る。向き合うと、静かになった。宇津井が思い出したように、小型冷蔵庫に手を伸ばす。ヱビスビールを一本取り出し、テーブルの上に置く。

「買っといたぞ。まあ風邪じゃ、飲まない方がいいかもな」

 船木は黙って、金色のラベルを眺める。

「どうした、まさか酒やめたとか? 俺はまだ人と会うから飲めないけど、いっちゃってくれよ、ぐいっと。あ、グラスいるか?」

「俺がいつでも飲めるとは限らないだろう」

 肘掛を掴んで立ち上がろうとする宇津井に、船木は言った。

「なんだよ、どうしたんだよ」

「面接だったらしいな」

 宇津井は静止し、それからソファに腰を落とす。その頭の中で起こる葛藤が、激しいものであることを船木は願った。困惑し、焦り、できれば、悲しんでほしかった。

「そうだ」

 宇津井が表情を変えずに答えるまで、長かったのか短かったのか、船木には分からなかった。正直に答えてくれたことは救いのようでもあったが、もう、手遅れだった。

 船木はマスクを外し、ポケットに突っ込んだ。タバコを取り出し、火をつける。そして一本、差し出した。

「前に来たとき、一本もらったろ。返しとくよ」

「いや俺、最近タバコやめたんだ。ていうか瑛人、どうしたんだよ、その歯——」

「吸えよ」

 宇津井は船木の口元に視線を留めたまま、ゆっくりとした動作で手を伸ばす。受け取ったタバコを、口に咥える。

 ホイールに親指をかけた百円ライターを、船木はテーブルの上に突き出した。宇津井が顔を近づけながら、拳を警戒する表情になっていることが、可笑しかった。

 力を込め、ホイールを擦り、火をつけてやる。タバコの先端が、赤く光る。二人の身体は、重力が二倍になったように時間をかけて離れ、背もたれに着地した。煙を吐きながら、ときどき、目が合った。そのたびに、どちらともなく、顔を逸らした。天井の空調機が、稼働音を響かせ、紫煙を吸い込んでいく。

「行くよ」

 船木は立ち上がり、非常階段から外に出た。

 

 携帯のアラームで目を覚ます。台所に向かい、インスタントコーヒーを作り、食パンを焼く。テレビを点け、情報番組を眺めながらトーストをかじる。食器を下げ、作業着に着替える。歯を磨き、コップの水に浸しておいた部分入れ歯を装着する。歯茎との境目に金具が見えるが、何もないよりはましだった。

 壁掛け時計で時刻を確認し、ベランダに出る。温まり始めていた身体に、冷たい風が当たった。

 タオル屋が倒産したことは、多田から電話できいた。社長は家族と共に雲隠れし、給与も未払いということだったが、失業保険はもらえるらしい。おごるんで今後飲みに行きましょうよ、と多田は微塵の不安もない声で言った。

 砂浜に、柴犬を連れた少年と、ジョギングをする若い女の姿が現れた。すれ違うとき、女がキャップの庇に手をやり、少年が小さく頭を下げた。

 波は朝陽に煌めき、砂浜に打ちつけては白い泡となって消えた。反射する光は、減っているようでも、増えているようでもあった。波が影をつくることを、初めて知った気がした。

 水平線には、タンカーが浮かんでいる。

 秋晴れの空は、何もかもを押し潰さんばかりに、大きかった。(了)