中編小説『持たざる者』⑥

 短期の仕事は、それからも継続した。派遣会社に電話をしたり、毎日メールで届く求人情報を見て応募したりして、一日か数日ごとに現場を変えながら労働に身を投じた。

 一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、九月も半ばになる頃には、次第にその手間が煩わしくなってきた。そろそろ、長期で働ける仕事へと切り替える時期かもしれない。毎日同じ職場で、同じ人間を相手に、同じ仕事をし、決まった給料をもらう時期が来たのかもしれない。その職場もいずれ去るわけであったが、人並み以下であっても、この方法で、船木は今までなんとかやってきた。

 しかし船木は、短期であるか長期であるかに関係なく、労働そのものに対する意欲が消失していることに気づいた。何もしたいと思えない。食うためには金が必要という道理が働きかけてこない。夜には安物のワインを飲み、寝付けなかった。

 携帯の着信音で目を覚まし、壁の時計で昼過ぎであることを確認すると、船木はふつふつと笑い始めた。ベッドがきしむほど声をあげ、やがて収めた。

 俺は、事業を興して金儲けをする才覚を持たず、与えられた仕事をこつこつとこなして一つの職場に長く勤める根気を持たず、仕方なく、こんな働き方をしているのだ。世間一般にはだらしない男、甲斐性のない男と呼ばれる。どんな職場、職種であるかは関係ない。不動産の営業だろうがビルメンテナンスだろうが、いずれ逃げ出す。この無精は今に始まったことではなく、これから変わる見込みもない。であれば、できるだけ働かずに生きる道を選ぶのが賢明であるはずだ。

 しばらくは貯金を切り崩して生活しようと決めてしまうと、気分は楽になった。

 毎度思う。俺が易々と就ける仕事であっても、俺のような人間に、圧力を与え、強要しているのだと。人は働くべきである。最低でも週に五日、八時間は労働に身を捧げるべきである。三十代ではこれくらい稼いでいるはずである。働くのが正常であり、働かないのは異常である。

 このしがらみを一度でも自覚すると、無職になっても、逃げ切れはしない。いつまでも追われ、囚われる。ほとんどの人間が働きたいとは思っておらず、だがその怠け心に打ち勝って社会生活を送っている事実が突き刺さる。俺は敗北し、仕事をすっぽかして平日の昼間にベッドの中にいる。

 それでもとりあえず、生きている。

 船木は、完全に労働を放棄する。鳴り続ける携帯を放置して、天井を見つめていた。

 

 金が目減りする一方である状況の中を過ごすのは、気持ちの良いものではない。スーパーで食材を買ったり、タバコを買ったりすると、財布の中の金が減る。一万円札が千円札になり、小銭になり、最後には消える。銀行口座の残高も少なくなっていく。なぜか、調理したものを食べるときや、タバコに火をつけるときにも、金が減っていく感覚がある。金はすでにレジで一度支払っているのに、二重に搾取されている気分だった。

 食事は一日一回にした。酒は控え、喉が渇けば水道から水を飲んだ。水を飲めるだけ飲むと、酒も欲しくなくなる。酒が先だと駄目だった。

 タバコを節約しようとすると、いかに普段の自分がたいして吸いたくもないタバコを吸っていたかを思い知らされる。食材とタバコの消費量を抑えるには、睡眠時間を長くするのが手っ取り早かった。起きているとタバコに手が伸びるが、眠っているときにはそうはならない。空腹を感じる時間も短くなる。

 長く眠り、暗闇から押し出されるようにして目を覚まし、品数の少ない食事を摂る。タバコを一本、長く見つめてから火をつけ、フィルターぎりぎりまで吸って、またベッドで横になる。ときどき、外の空気に触れたくなり、ベランダに出る。それでも気が晴れないときには近くを散歩する。

 三日か四日に一度、シャワーを浴びた。身体はそうでもなかったが、頭がどうしようもなくかゆくなる。きっと、シャンプーが良くないのだ。毛穴に化学成分が残っていて、頭皮を刺激し、アレルギーのようなものを起こしているのだ。

 服を脱ぎ風呂場に立ち、鏡を覗き込む。髭が伸びているが、やつれているわけではない。皮膚が脂ぎり、表情がぼんやりしている。俗世間から離れつつある人間の顔だ。頭から熱いシャワーを浴びると、こびりついた脂の上を湯が滑っていくのが分かる。身体の内側は弛緩しているはずなのに、皮は敏感になっているのだった。石鹸を泡立て、頭からつま先までを洗っていく。足の指のあいだまで丁寧に擦る。桶に湯を溜め、髭を剃る。

 再び、シャワーを浴びる。脂と泡と混じり、足元のタイルを打つ。うつむいて、閉じていた瞼を上げる。排水口で渦を巻く泡の白さに、船木は目を奪われる。自分の身体を洗い流した石鹸の泡は、雑巾のしぼり汁のような混濁を見せるに違いないという思い込みに騙されたのだった。シャワーヘッドを掴み放水を向けると、泡沫は砕けて金属の網の目に沈んでいった。

 風呂場を出て身体を拭き、部屋に戻って畳の上を歩く。下着を身につける。Tシャツを着て、ジーンズを穿く。こんなことで気分がさっぱりするのは、人を少しでも死から遠ざけるためであろうか。こんなことを考えてしまうのは、生への渇望が薄れているからであろうか。

 ベランダに出た。頭上にはうろこ雲が広がり、はるか彼方まで続く。砂浜には、また今日も新しいゴミが流れついている。十月に入ると、迷い込んでくる者もいない。夏は去り、気配さえ消したのだった。

 軟風が身体を撫で、寒さを感じた。しかしそれは厚手の服を羽織って解消される寒気ではなさそうだった。大風邪をひき、夜中に布団の中で丸まっているときに襲われる無力感を孕んでいた。

 ベッドわきに放置された携帯が鳴った。無断欠勤をした日に派遣会社から何度か着信があった。といっても、それも三十分程度のことだった。無視していたら、ピタリと鳴らなくなった。船木が来ないことが心配だったのではない。労働者が一人足りないことに困っていたのだ。

 あれからもう、三週間が経っていた。携帯を拾い、開く。電話の主は、星野咲だった。唾を飲み込み、通話ボタンを押す。

「あ、今日は休みなの?」

 電話に出たことが意外だった様子で、星野は言った。

「メアド見て思い出したんだけどさ、船木、明日誕生日でしょ。今日の夜とか、飲みに行かないかなと思って。前祝いってことで」

 船木は部屋を見まわした。しかしそこにカレンダーやそれ以外の日付を示すものはなかった。壁掛け時計は、午後の二時を指していた。久しく見上げていなかった時計の佇まいは、安物のプラスチックであることを思いつめるように自信なさげだった。船木は秒針を凝視し、規則的に動いていることを確認する。

「俺と飲みに行くって?」

「え? うん、船木と飲みに。今日は忙しい?」

 いいや、と船木は声を出す。今までに、俺は忙しい時間をすごしたことがあっただろうか。しかし仕事を終えて迎える余暇、無職の期間、いったい何をしていたのか思い出せなかった。ただずっと、ずっと、疲れていた。

「じゃあ行こうよ。なんか私もさ、ぱあっと飲みたい気分なの」

 その一見強引にきこえる誘い文句には、自身に対する薄っすらとした困惑の影があった。これまで見下ろしていた相手に今回ばかりは頼らざるを得ないときに生じる惑いだった。逡巡の末、なんらかの観点から、船木以外の人間が除外されたのだ。

 船木の腹で、この女とセックスをしようという決心がついた。突然生まれた考えではなかった。以前から存在しながら、船木自身によって隠されていた。焼鳥屋で飲んだときも、俺は、ただやりたかっただけなのだ。かつて抱いた恋心に言いくるめられて、善人を気取っていた。星野の乗ったタクシーを見送り、その足でキセキに会いに行った。

「おごってくれるなら、行ってもいいぜ」

 冗談めかしてではあっても横柄な言葉を返したのは、確認のためだった。星野はどれくらいの強さで、俺と会うことを望んでいるのか。そして飲んだあと、セックスはできるのか。

 結果、電話越しに星野は笑った。やや呆れの色が混じっていたが、それが前面に押し出されなかった事実は、船木の見立てが正しいことの根拠となった。

 待ち合わせ場所として、船木は歓楽街に近接する駅を指定した。歩いて行ける距離に、ラブホテル街がある。そこで星野と交わりさえすれば、あとのことは、どうでもよかった。

 

 すぐに家を出た。部屋の中を無意味に往復したり、タバコに手を伸ばしては引っ込めたりしていては、自らの決意が揺らぐ予感があった。

 国道沿いを歩いても、見かけるのは老人ばかりだった。平日の午後二時過ぎ、仕事のある者は職場で汗水を垂らしている。仕事のない者は家に籠っているか、街に出ている。子どもは学校だ。夫や子を送り出した妻も、スーパー以外に足を運ぶ先がない。戸建の住宅街が広がる丘と鈍色の砂浜に挟まれた細長いこの地域は、古くから住み子に出ていかれた高齢者と、土地や家賃の相場が安いという理由で集まってきた若い世代で成り立っていた。

 三年前、船木は家探しを宇津井に依頼した。当時住んでいたアパートは街なかにあったが、その取り壊しが管理会社から通告されたのだった。家賃が安く街に出やすいところと要望を伝え、宇津井が持ってきた一件目が、船木が今住む物件だ。

「こんなの、なかなかないぜ? 静かだし」

 他に言うことがなかったのか、宇津井は窓を開け放して海と砂浜を披露した。

「敷礼もゼロだし」

 宇津井は鉄柵に手をつき、振り返った。船木の曖昧な記憶の中で、塗料の剥げた手すりを握る拳は、ベランダの崩壊を恐れているかのようにこわばっていた。

 自宅だけではなく、この潮臭い一帯からも早く離れたがっていることを、船木は意識した。強い人工の光と、喧噪と、数多の人の顔と、誘惑と、十把一絡げの欲望に満たされた街に、一刻も早く紛れ込んでしまいたかった。

 

 普通電車に二十分揺られて到着した駅には、船木が求めていた人ごみと喧噪が用意されていた。これから刻一刻とこの景色が色濃く無秩序になり、約束の六時には自分が活き活きと泳ぎ始めるのだと思うと期待に胸が膨らんだ。

 先ほどまでの焦燥感は船木の外に追いやられ、消えていた。星野との待ち合わせ時刻までまだ三時間あったが、そのこともまるで期限のない休暇のように、船木の心に余裕を持たせた。

 人と店を眺めながら、駅のまわりを適当に歩いた。目にする誰もが目的を持っているようであり、船木はその一点で彼らに共感を覚えた。人は皆大小の課題を抱え、それをこなすことで時間を消費し、生きている。生き方に貴賤はなく、勤め人も遊び人も、一生懸命に人生を先へ先へと進めているのだ。船木は目の前に広がる人びとの中に、強盗犯や異常性愛者が混じっていてもいいと思った。混じっているのが至当だと肯定すべき使命感に駆られた。

 通りを抜けると、その先は人流が分散しオフィス街が広がっていた。道を一本外れ、スナックや喫茶店が並ぶ景色の中を歩く。猫と鼠を、一匹ずつ見た。割れた看板と、スプレーで落書きされた自動販売機を見た。

 久しぶりに雑踏にもまれ、身体は休息を求めていた。だが気力は萎えず、星野と酔い、そして交わることを今か今かと待ち望んでいる。ここで酒を飲むことはもちろん、喉を潤すことさえ憚られる気がして、船木は目についたビデオボックスに入り、二時間分の代金を前払いした。陳腐なタイトルとけばけばしいパッケージのハリウッド映画を選び、個室に入ってDVDプレーヤーに挿入すると、シートに寝転がってリモコンで再生ボタンを押し、目を閉じた。

 

 星野より先に待ち合わせ場所に到着しようと、予定より早めにビデオボックスを出た。

 数時間前の電話では、星野の真意を推し量るため、また自分自身の決意を明確にするため、船木は不遜な態度に出た。しかし、いよいよという段になって臆病風が吹いた。待たせることが、わずかであれ星野の熱を冷ましはしまいかと心配したのだ。ここからは、思いやりのある男へと切り替えるべきだと思った。

 一方で、引き続き星野に対して皮肉屋の態度で接してみたいという欲求も捨てきれなかった。そこには船木がラブホテルでの情事を念頭に置いていることが作用していた。酔いの回る前から牽制しておき、その関係をセックスにも持ち込むのは悪くなかった。あるいは、ホテルに入ってから自分が豹変したり、星野が急にしおらしくなったりする展開も、ありきたりではあったが船木の心をくすぐった。

 夜に向けてすでに走り出している者、走り出そうと躍起になっている者が、通りにあふれていた。五時四十分、船木は駅の北出口に到着する。待ち合わせ場所になることを想定して設計されたであろうスペースには、待ち人たちがスマホを見つめて等間隔に立っていた。船木がそのあいだに入り込むと、均衡を保とうと彼らは一歩二歩、振り子のように移動した。

 何分もたたぬうちにエスカレーターで下りてくる星野を発見したとき、船木は思っていた以上の高ぶりを意識した。星野は膝丈のスカートにシルク地の濃紺のシャツを羽織り、小さな革製の鞄を肩から提げていた。約束の時刻である六時より十五分以上早くに現れたこと、前回の仕事帰りのときよりもシックな装いであることは、星野の意気込みの程度を正確に表しているようだった。

 目が合っても、星野は表情を変えなかった。色褪せたポスターにわけもなく歪んでしまったような物憂げな面持ちを、エスカレーターから船木へと向け続けた。しかし地上に降り立ったときには、ついに耐え切れず足元を確かめる仕草でうつむいた。

 船木が歩み寄ると、星野は下向きの顔を、最後のカードをめくるようにして見せた。そこには一転、揺らぎ続けた気持ちに何らかの決定を下したときの爽やかさがあった。

「魚、好きか?」

 船木の一言目で、星野は普段の調子に戻ったように無垢な笑みを浮かべる。意外性を伴う返答や提案が星野を面白がらせることを、船木は学んでいた。

「好きだよ。魚食べたいの?」

「店、予約しといた」

 え、と口元に手をやる星野に、船木は気障な表情を作って見せた。続いた軽い声を背に、駅を出て歩き始める。

「船木も予約とかできるんだ」

「うまいかどうか、分からないぞ。行ったことない店だから」

「美味しいよ、きっと」

 繁華街のメインストリートに出ると、人の流れが正面からぶつかり合っていた。船木は星野の気配を確認しながら、そこに紛れ込んだ。ポケットに手を入れて、歩みを緩める。

「今日は、仕事休みだったのか」

「うん。有給取ったの」

「仕事は、忙しいのか」

「それがさあ、別に忙しいってわけじゃないんだけど、最近上司がかわって、前の上司と全然やり方が違うから大変。すごく細かい人でさ、正しくない、ルールと違うって言って、いろいろ変えちゃうのよ、根本から。それまでのやり方でうまくいってたのに」

「そういうことって、あるよな」

 星野を連れて街を歩きながら、自分が落ち着いて話せるのは、予め店を選び、予約を済ませていることが影響しているらしかった。少し先の未来を定めるだけで安心が手に入ることを、これまでの自分がまったく考えもしなかったような気がした。

 見当をつけて横道に折れ、記憶した地図を頼りに進むと、目的の店は難なく見つかった。ウッドデッキの上で、青と白の縞のテントを軒先に張り出している。三段きりの階段を上がり、店内に入って名前を告げる。

 奥まった位置の丸いテーブルに案内された。半分ほどの席が埋まり、すべてが若い男女のカップルだった。

 飲み物と料理の注文を済ませると、船木はタバコに火をつけた。それを待っていたように、星野が鞄から加熱式タバコを取り出す。

「最近ね、ときどき吸うの」

 船木が何もきかないうちから、星野は説明した。細く短いタバコを手早く本体に差し込み、口をつけて吸う。すぐに煙を吐き出した仕草には、喫煙を早く自分のものにしてしまいたいという子どもっぽさがあった。

「イライラしてんのか。さっきの上司のことで」

「そうなのかもね。なんだかそんな理由じゃかっこ悪いけど」

「タバコ吸うのに、立派な理由持ってるやつなんていない」

 星野は煙を吐き切ってから、しばらく無表情で船木を見つめた。そして手元にあった灰皿をテーブルの中央に押しやった。

「船木って、人が忘れていることをちゃんと覚えてるよね」

「タバコのこと?」

「違うよ。私が魚を食べたがってたこと」

 最近魚を食べていないなあと星野が焼鳥屋でこぼした一言を、船木は覚えていた。ビデオボックスのパソコンでこの店を調べ、予約したのだった。

「船木ってさ、欲しいものとかあるの?」

 星野が、思い出したように言った。

「買ってくれるのか?」

 だらしない色男になったつもりで、船木は問い返す。

「そうだそうだ、誕生日、おめでとう。明日だけど」

 星野は本気で焦った様子で、加熱式タバコをテーブルに置いて姿勢を改めて言った。

 口の先で礼を言いながらも決まりが悪く、船木はタバコを灰皿の縁で何度も叩いた。本当なら、屈託のない子どものような、期待したものが当たり前に手に入ったような態度でいたかった。

 ビールが二つと、付き出しが運ばれてくる。乾杯のときに、また星野が祝いの言葉を口にした。

「プレゼントはここのごはん代ってことにしてさ、船木にも物欲みたいなものあるのかなって」

 ああ、と船木は質問を受けていたことを思い出す。

「金の延べ棒かな。でかいやつ」

「真面目に答えて」

 星野の眉間に、皺が寄った。船木はその浅い谷を、手を伸ばして広げてやりたいと思う。

「なんだろうな」

 頭では、車や時計のことが浮かんでいた。しかしそれは一般的な、いっぱしの男が欲するべきものだった。船木は、車や高級時計を手に入れようとも、手を動かそうとも、視線を向けようともしてこなかった。

「なんにもないの?」

「ちょっと待て。今考えてる」

 何か答えなければならないという強迫観念じみたものが、ゆっくりと船木に近づいていた。欲しいものの一つくらい、昔はあったはずだ。

「なければいいのよ。それも船木らしいし」

 同情の気配の混じった諦めの言葉が、船木を追い詰める。頭が蒸れ、口が渇く。意固地になることではないと分かっていながら、抵抗しないわけにはいかなかった。

「女かな」

 気づけば、そう口にしていた。どんな反応が待ち受けているのか、予想がつかなかった。すぐに、答えを間違えたという不安に襲われた。不安は苦笑となり、なぜかそれを星野に伝えたいと思い、顔を上げる。

「何よ、それ」

 くだらないというように顔をしかめてから、星野はビールに口をつけた。グラスの中で、口元が隠しきれずに緩むのが見えた。

 店員がテーブルの横に立ち、ホタルイカの酢味噌和えです、刺身の盛り合わせです、アジの南蛮漬けです、と簡単な説明を添えながら料理を並べる。星野はいちいち頷いて見せ、店員が去ると箸を取った。そして一皿ずつ手をつけ、美味しいと言った。

「美味しいよね?」

 箸を止めた星野が、船木を覗き込んで言った。

「うまいよ」

「黙ってるから、美味しくないのかと思った。美味しいなら美味しいって言った方がいいよ」

 星野は船木の反応を待つことなく続ける。

「最近、どうしてたの?」

 派遣の仕事が嫌になって放り出し、何もせず家でぼうっとしていたと船木は答えた。星野はそっかあと声を漏らし、それ以上の説明を求めなかった。一つ前の、所帯じみた台詞を取り消したいようだった。

 テーブルに静けさが訪れ、まわりの席の声が迫ってきた。相手の素顔を詳しく知りたがり、自分の親切をさり気なく伝えたがる、純愛と打算の入り交じった会話がきこえる。これから仲を深めようとする男女の声は、何もかもがうまくいくと信じ切っているように響いた。

「その上司って、どんな奴なんだ?」

 女を落とす手本が天啓として与えられたかのごとく、突然、船木は星野の愚痴をきいてやろうという気を起こした。まわりにいる小じゃれた格好をしているどの男よりも、親身になって耳を傾けようと思った。

 星野は虚を突かれた顔を見せてから、堰を切ったように、その新しい上司がもたらす堅苦しさについて喋った。広報の業務内容に知識のない船木は、話の腰を折ることはせず、相槌を打ち、共感の言葉を並べ、適度に酒と食事を進めた。上司の姿形を想像し、頭の中で星野やそのほかの社員に厳しく当たる情景を思い浮かべた。彼らは活き活きと動き、怒り、落ち込み、励まし合い、きれいなオフィスで忙しくしていた。

 上司の容姿にまで悪態をついたあと、喋り過ぎた後悔の色を浮かべた星野は、

「まあ、いいところもあるんだけどね」

 と言ってタバコを灰皿に捨てた。

 追加で注文した料理を食べ終わる頃には、星野の頬は艶を帯びていた。薄紙を押し付ければ貼りついてしまいそうな皮脂は、本人が知らぬ間に内側から染み出た健康的な欲のようであった。

「船木は、なんで離婚したのかきかないね」

 皿が下げられると、星野は広々としたテーブルに肘をついて言った。

「それ知って、どうすんだよ。それにその話、今日は出てないしさ」

「普通は、最初に報告したときにきくよ。おそるおそるって感じで、けど必ず。船木、私に子どもがいるかどうかも知らないでしょ」

「いるのか、子ども」

「いないよ」

 星野は素っ気なく答える。

「やっぱり、きいた意味ないじゃないか」

「あるよ。これで私に、子どもがいないってことが分かったでしょ」

「まあ、あれか、礼儀みたいなもんか」

 交換された灰皿に、船木は最初の灰を落とす。新しいビールをひと口飲む。店員が去ると、星野は時間を置いて、口を開いた。

無精子症だったの」

 酔いが混じりぼんやりとした視界に少しでも長く浸るべく、船木は瞬きを堪えようとした。しかし意識するほど目は乾き、瞼が素早く上下する。

「別にそれだけが理由ってわけじゃないだろう」

 船木は、テーブルの真上に垂れる電球を見つめて言った。自分が多くの真実を知っており、しかし肝心のところが抜けているような、そんな気がしていた。

「ううん。それだけ。それ以外に、なんの不満もなかった」

 耳と頭が、おかしくなった。男女の声、有線から流れる音楽、食器がぶつかる音。その音という音が床に落ち、混ざり、はじけ飛んだ。耳から侵入し、頭の中で響いているものが、どんな意味を持つのか、なんなのか、分からなくなる。

 子どもの頃、祭の雑踏の中を進みながら、地面のない夢の中を歩いている感覚に包まれたことを思い出す。誰も自分に気づいてくれない。存在を認識していない。ぶつかりそうになるが、すれすれのところで避けていく。もしぶつかっても、身体がすり抜けてしまいそうな浮遊感。あのとき俺は、迷子になっていたのだろうか?

「出よう」

 船木は伝票を掴み、レジに向かった。店員が計算をしているうちに、星野が駆け寄ってきた。肘で船木の身体を遮り、財布から一万円札を取り出してトレーに置く。

「私が出すって言ったじゃん。前も、ご馳走してもらったんだから」

 船木は財布をしまい、会計を星野に任せた。