短編小説『きっとそれは最高に違いない』

 

 アルコールだけでなく夜遅くまで家庭的な料理を出してくれるバーで出会った男とその日のうちに寝た。

 私はそれまで、知り合ったその日に男と寝たことはもちろん、声をかけてきた男と甘い言葉を交わしたり、危うい雰囲気になったりといった経験がなかった。一夜限りのセックスがそこらじゅうで発生していることは知っていたが、親しくもない男と肌を重ねたり、無防備になることには抵抗があるし、もし酔っぱらって踏み外してしまったときには翌朝に激しい自己嫌悪に陥ると思っていた、というかそういう女だと信じていた。

 だが実際にその男にカウンターで声をかけられたとき、私は頬杖をついて控えめに微笑み、マスターにビールのお代わりを頼み、バッグをどけて男のためにスツールを空けたのだった。男は嬉しさを隠すことなくスツールに腰をかけ、かわいいね、おごるよ、と言って、火のついていない煙草をダーツの矢のように摘まんで見せた。

 そのとき私は、どちらかというと落ち込んでいた。それは認めないわけにはいかない。毎日一人で夕食を摂るのが寂しく、しかし騒がしい場所には行きたくなかった。中途半端な、ごくありきたりな孤独を感じていた。思い切ってクラブというところに顔を出してみようかと考え始めた頃、焼き魚や煮物を出してくれる風変りなバーの看板を仕事帰りに見つけたのだった。

 男は自分が注文しただし巻きを、コレおいしいよ、と言って箸で二つに等分した。そのときの、だし巻きの真ん中でプラスチックの箸がぶつかってたてたプチンという音と、真っ黄色の断面が、私を幸せな気持ちにさせた。視線を上げるとそこには危害を与えたことも被害を受けたこともなさそうな笑顔があり、一方でその瞳はまるで私の存在を忘れたみたいな一直線の関心をもって黄色い食べ物に向かっていた。

 男の話は、私の内側や、向こう側には及ばなかった。かわいいね、睫毛が長いね、ワンピースよく似合ってる、といった単純な誉め言葉が並び、そのあいだに、出された飲み物や食べ物の感想が挟まれた。私は、褒められたことに感謝の言葉を述べ、ほんとだ、おいしい、と相槌を打っていればよかった。そして、そうして私をいい気分にさせてくれる、まだ何の長所も短所も知らない男と、このまま寝てみたいと思った。好きにも嫌いにもなっていないことが、私が抱いた好感のすべてだった。

 どちらも大して酔わないまま、お腹がいっぱいになったという理由をつけてバーを出た。居酒屋の客引きのあいだをすり抜け、適当にぶらぶらと歩いていたら、同じ場所に戻ってきた。長く笑ってから男は、喉を落ち着かせ、家の近くまで送っていくよ、と言った。

 自宅の場所を知らせるかどうか、自宅にあげるかどうかは君に委ねるという優柔不断を、そのとき私は嫌わなかった。私が決定し、従わせたいと思った。差し出された手綱を自由自在に操って、好きなようにしたいと思った。

 私は、男の手を引き、コンビニに入った。トイレ?ときいてくる声を無視して、棚からコンドームを取り、レジカウンターに立てて置き、袋いらないです、と言った。背後で男が一度財布を取り出し、何秒か考えてからもとの尻ポケットに戻した。男と、コンドームの箱にテープを貼る店員とが戸惑っていることに、私は喜びを感じた。こんなふうに人を驚かせることができるのかと、新しい自分を発見した気がした。まだまだ私にはいろんなことが、人の感情を揺さぶることができるのだ。小銭と一緒に受け取ったレシートにはコンドームの商品名が印字されていて、私はそれを何度も読み返してから折りたたんで財布にしまった。

 マンションの近くまで来ても、ここで大丈夫、とも、寄っていく?とも私は言わなかった。建物に入り、エントランスで郵便受けを確認し、エレベーターに乗って五階にあがり、部屋にたどり着くまで、ひと言も喋らなかった。

 男が靴を脱ぐ前に、いいの?ときいてきたことに、私は初めての不満を抱いた。最後までのことを私に任せたのだから、確認なんてしてほしくなかった。答える代わりにキスをして、男の腕を自分の背中に回させた。男は次第に息を荒くしたが、私はそれを咎めるべく、ゆっくりと身体を動かした。

 もつれあい、電気もつけないまま、ベッドに向かい、服を脱がせ合った。私は、男のシャツのボタンを手探りで外しながら、これが今までの記憶が全部塗り替えられるようなセックスになると信じて疑わなかった。