短編小説『そう甘い人生がお前に用意されるわけがない』

 女は、夜道を歩いていた。残業を一時間してから、混雑した電車に乗り、駅で降り、自宅に向かっていた。

 女は、不機嫌であった。営業部の二人の男のせいで、自分が残業をするはめになったことに憤っていた。十七時ちょうど、女が自分の仕事をすべて終え、帰る支度をしていると、営業先から二人が戻ってきた。持ち帰った見積書の、ちょっとした計算を頼まれるのは、よくあることだった。それがまさに経理部である女の仕事であったからだ。だから、さっさと書類を出して渡してくれれば、女は気にしなかった。しかし、馬鹿みたいに歯が白い先輩の男と、犬のように調子のいい後輩の男は、鞄を放って喫煙所に向かったのだった。

 女は、勝手に鞄を触るわけにもいかず、すっかり支度を整えた格好で、自席で待っていた。鞄を肩にかけたままでいたのは、せめてもの反抗のつもりだった。だが、ほかの社員も、気づいてくれない。皆、身支度を済ませ、出ていく。残っている社員もいたが、彼ら彼女らは自分の仕事に忙しいのであった。

 五分経ち、十分経ち、缶コーヒーを持った営業部の二人が戻ってきた。そして、へらへらと何か喋りながら、女にファイルを差し出した。女が手を伸ばし、ファイルを掴む頃には、とうに依頼の言葉を言い終えており、顔は違う方を向いていた。私がファイルをしっかりと掴まなければどうなっていたか!と女は心中で叫んだ。受け取ってしまったが最後、女は計算をしなくてはならなかった。わざと、電卓を出さずに、スマホで計算を試みた。しかし、数字が合わない。女は電卓を出し、数字を合わせ、顔を上げた。男どもは、急須で茶を淹れ、デスクに腰かけ飲んでいた。甘い缶コーヒーを飲んで喉が渇き、茶を飲んでいる姿は、実に愚かしく映った。女は書類を差し出し、白い歯の男がよそ見をしながら受け取るのを、指がファイルに密着し引かれるまで見届けた。

 というわけで、女の控えめな高さのヒールは、夜道に大きく響いていた。電車の中ではじっと立っていなければならなかったが、こうして音をたて、自分の耳できけるということは、その感情に迷いがないことを実感できたのでまだよかった。運動靴などを履いていれば、女は自宅まで走っていたかもしれない。

 女は、人生に焦っていた。三十代に入り、まわりは結婚、そして出産していた。女は、特別に子どもがほしいとも、恋人や夫がほしいとも思っていなかった。しかしここ数年、自分はセックスさえしていなかった。欲求を抑える努力は不要な性質であったが、子孫を残す生物として、もっともセックスをするであろう年齢を、通り過ぎようとしている自覚があった。また、妊娠の可能性があるものの望まないために避妊をするのと、妊娠の可能性がなくなって安心して避妊をしないのとでは、大きな隔たりがあるように思われた。避妊が必要なセックスができる回数は、もうそう多くない。一年は三百六十五日あり、閉経まで十年以上あったが、ここ数年の自分の様子を鑑みると、すでにカウントダウンが始まっているような気がする。いや、このことだけでなく、残りの人生だって、生まれたときから減り続けているのだ。そう思うと女は、自分が小さくしぼんでいき、プツンと消えるところを想像せざるを得なかった。

 勢いよく通り過ぎた電柱に、暗闇の中に浮かぶ張り紙が見えた。そして、次の電柱にも、女は同じものを認め、その次の電柱で立ち止まり、やはり張り紙を見た。それは、一ヵ月前に逃げたインコを探していますという張り紙だった。インコの写真の下に丁寧な文章が印刷され、雨に濡れても破れないように、きれいにラミネートされている。よく見ると四隅にはパンチか何かで穴が空けられ、針金が通され、電柱を一周していた。そして、お礼をさせていただきます、の一文のあとには、飼い主の住所と氏名まで載せられていた。飼い主は、女性らしい。

 女は、そのときすでに、子どもを一人前に育て終え、夫と二人きりの生活に彩りを添えようと、ペットショップでインコを買ってきた、その飼い主のまっとうな人生を思い描いていた。インコにこれだけ手間をかける時間があり、逃がしてしまったことを悲しみ、住所まで晒している。インコの写真なんて載せちゃって。

 お礼というのは、多分お金のことだろうと女は考える。相場は、一万円くらいだろうか。いやこんな人は、十万や二十万くらい出すかもしれない。ふと、このインコを殺して、この人に届けたら、いったいどんな顔をするだろうかと想像し、一瞬の寒気ののち、再び歩き始めた。

 ヒールの音は、先程より穏やかになり、女はそのことに気づいていない。