悲しいことがあった日、男は港に足を運ぶ。必ず、歩いて行った。悲しみを正しく認識し、反省すべき点を反省し、明日に活かす術について考えるためには、徒歩の運動量と耳目の刺激がちょうどよかった。
突堤の先からは、対岸の商業施設の明かりがキラキラして見えた。その光は、足元で揺れる波にも反射していた。
時々、振り返って山を仰いだ。街なかにいる時はビル群に遮られているが、港に来て視界が開けると、黒々とした影として姿を現す。うっそうと茂る木々の葉が、一色で塗りつぶされて東西に延びている。
自分は海ではなく山を見るためにここに来るのかもしれない、と男は考える。
視線を落とすと、突堤の半ばに女がいた。目が合ってからも、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。手の届くところまで迫って、立ち止まった。
「人を殺しました」
女は表情を変えずに言った。
男は、女のワンピースとそこから伸びる腕に、返り血を探した。しかし薄いブルーの生地にも、白い肌にも、シミひとつなかった。真っすぐで長い髪が、重そうに垂れている。
「誰を?」
「両親。老いてしまったんです」
男は言葉に詰まった。
「それで、私も死のうと思って、海に来ました。ここから飛び込んだら、死ねるかしら?」
「死ねないね」
男は、自分のことを答えるように言った。
「じゃあ、よしておきます。死ねないのなら、意味がないもの」
「老いたからって、殺すのか?」
女の瞼が、わずかに震える。
「自分で何もできなくなって、かわいそうだから、死なせたんです」
「かわいそう?」
男を無視し、女は背を向けた。
「君も、俺から見ればかわいそうだけど」
振り向いた女が、間を置いてから口を開く。
「ですから、死ぬんです」
「君、紐か何か、持ってないかい?」
「どうして?」
「手を縛ってやるよ。そしたら、ここで死ねる」
男はそう言いながら、目の前のワンピースの腹部に、細い革製の飾り紐を発見していた。女も気づいたらしく、結び目をほどき、スルスルと抜き取る。紐を受け取った男は、女の身体の前で両手首を縛ってやった。
「痛くないかい?」
「死ぬんです」
両手の自由を失い、覚束ない足取りで突堤の端に進んだ女が、こちらを向く。
「最後に、抱いてくれませんか?」
男は歩み寄り、女の両腕を持ち上げ、頭をフラフープに通すように、身体に回させた。そして自らも、女の腰に手を回した。
女の髪の毛に鼻をくすぐられ、男は、別れた妻のことを思い出していた。あれは、どんなにおいだったか。頭の高さは、もう少し低かったか。幸せに、してやれなかったか。これから、幸せになるのか。
やがて女が、腕の力を抜き、顔を上げた。しかし革紐で結ばれた両手は、男のベルトをがっちりと掴んでいる。
「何を考えている?」
突堤の下の穏やかな波が、男の耳を湿らせたようだった。
「いけないこと」
初めて微笑みを見せた女は、ベルトにかけていた手指の力を緩め、バンザイをする。
男は、これでよいものかと心残りを感じつつ、身体を離した。きまり悪く、一度足元を見てから、山の方に目をやる。ここから見えるあの真っ暗闇について、何か、オカルトめいた話をしてからかってやろう思い立った時、水面が砕ける音があたりに響いた。(了)