中編小説『深海散歩』④(了)

 夕食の準備をしていると、スマホが鳴った。道弘かと思ったが、電話の主は唯だった。

 今ちょっと大丈夫?と普段にない確認をするので、私はコンロの火を消してスマホを握り直した。

「結婚することにした」

 え、と声を出した私が一瞬の混乱を経ておめでとうという言葉を用意したとき、

「赤ちゃんできたの」

 と唯は続けた。

「お相手は?」

 私はソファに腰を落ち着けてそう言ってから親のような台詞を口にしたと思い、しかし事実そのことが一番気になった。

「バイト先の店長。西沢さんっていうの。ごめん、言ってなかったんだけど、一年前から付き合ってるの」

「バイト先って、カフェの?」

「うん、そう。お姉ちゃんも一回会ってる」

 数ヶ月前、道弘と一緒に唯の働いているカフェを訪れた。オフィス街とファッション街が混じったような大きな通りにある、小洒落た店だった。金色の円筒形のエスプレッソマシンが珍しいらしく、雑誌でもそのことが取り上げられていた。カウンターに立つ西沢さんは、私たちの存在を知るとわざわざテラス席まで足を運んで、いつも唯さんにはお世話になっております、と丁寧な挨拶をしてくれた。

「今、何ヶ月なの?」

「三ヶ月。全然気づかなかった」

「お父さんとお母さんには報告した?」

「うん。昨日二人で実家に挨拶に行った。明日は、西沢さんの実家に行くの」

「どうだった? 怒らなかった? その、お父さん古いからさ」

 語尾で笑って、唯も笑って答えてくれまいかと願うと、その通りの弾んだ声が返ってくる。

「終始笑顔でした。娘と孫をよろしくお願いします、って頭下げてたよ。ふつつかな娘って、本当に言うんだね。最初、お母さん経由で伝えたときには怪しかったけど、昨日はお父さん、ずっと、拍子抜けするくらいご機嫌だった」

 道弘と挨拶に行ったときも、父は思わぬやわらかな社交性を見せて私を驚かせた。きいたことのない下手な冗談も言った。娘の結婚が、それほど嬉しいものだということを私は知らなかった。今回は孫も誕生するというのだから、両親は、私のときよりも喜んだのだろうか。

「近いうちにお姉ちゃんにもちゃんと会わせたいんだけど、会ってくれる?」

 もちろん、と答えてから、電話の向こうに夫となる西沢さんもいるのではないかと思った。

「もう一緒に住んでるの?」

「今物件探してて、十月中に引っ越せたらいいなって感じ。お姉ちゃんのところみたいな、素敵なマンションが見つかったらいいんだけど」

 それから、西沢さんが私と同じ三十歳であること、アルバイトはあと数ヶ月続ける予定であり、職場の仲間だけでなくカフェの経営者からも祝福してもらっているという話をききながら、私の頭は少しずつ、深いところから滲みだした不穏な問いに占められていった。きけるわけがない、きいて一体どうするのと言いきかせていると、こめかみのあたりに嫌な汗をかいた。

 唯は、西沢さんは、避妊をしたのだろうか? 

「おめでとう」

 と最後に言ったとき、この簡単な祝福の言葉を伝えることが、ずいぶんと遅くなってしまったと思った。

 

 夕食の準備を終わらせると、私はスマホを持ってソファに移動し、あるサイトを開く。どのページも、子どもに対するネガティブな意見で埋めつくされている。言葉遣いと内容から、コメントを書き込んでいる人のほとんどが女性と思われた。

 妊娠や出産、育児に対して不安や抵抗を持つ人が集まる場所なので、自然、不安を持つ者同士が互いの正当性を助長させる内容が並ぶ。健全ではないと思いながらも、書き込みを眺めていると気持ちが落ち着いた。

 私だけじゃないと知って安心しました。子どもを生むことだけが人生じゃありませんよね。女性のキャリアアップのためには正直子どもはデメリットになります。お金がないとひいひい言って子どもを育てるよりも、少しだけ余裕を持って二人で生きた方がいい。いつまでもカップルみたいな夫婦でいられます。趣味に時間とお金をかけられる環境の方が私にとっては大切でした——。

 知らない人のありきたりな言葉も、世の中にそういった考えが存在すること教えてくれるという意味で、私にとっては貴重だった。産んで後悔している、という子持ちの親の書き込みもあり、それはより根拠のある実体験として多くの人の参考となり、慰めとなっているようだった。日が変われば数えきれないくらいの新しい書き込みが増えている、そういったサイトがネット上にはいくつも存在した。

 しかしスマホでそれらのサイトを閲覧できる時間は限られていた。道弘と一緒にいるときや、混み合う電車の中で見るわけにはいかない。仕事から帰って夕食の準備をしている合間、夕食ができてから道弘が帰宅するまで、ページをスクロールしては救いの言葉を探した。

 私が自らコメントを書き込むことはなかった。共感を得たい、示したい、あるいは非難したいとも思わなかった。外から眺め、自分が一人きりで潮流に抗っているわけではないことを確認するだけだった。彼女たちは私の仲間ではなく、反対に忌むべき人でもなく、ただ同じ時間にどこかに存在してくれればそれで十分なのであった。

 道弘からもうすぐ着くという連絡があると、私はまずそのサイトを閉じ、続けて予測変換の候補に挙がる危ういワードも削除する。ブックマークもしない。道弘が人のスマホを見るわけはないのに、私はさまざまなことにおそれを抱きすぎなのだろうか。

 今まで、自分一人の時間がほしいなんて思ったことはなかった。こんなことで自分の時間がないと明確に実感している哀れを、私は押し殺すことができた。

 

 帰宅した道弘に、唯の結婚と妊娠を伝えた。お腹に赤ちゃんいるんだって、今三カ月、と口にするとき、私は道弘から目を離せず、自分が努めて明るく振る舞おうとしていることを意識させられた。

「よかったじゃん」

 キッチンに立つ私に向かって、道弘はあまり驚いた様子もなく言った。

「旦那さんって、もしかして倫子と行ったあのカフェの店長?」

「そうだけど、どうして分かったの?」

 道弘はスウェット姿でソファに腰を下ろし、あははと声を出す。

「いやあ、なんとなくそんな気がしたんだよな。あの店長——西沢さんか、俺のこと一回だけ『お義兄さん』って呼んだんだ。すぐに言い間違えたふりして、旦那さんって言い直したけど。もしかして付き合ってるのかな、って思ってた」

 西沢さんの失言を、私は覚えていなかった。そのような些細なことから道弘が二人の関係を読み取ったことに、私は緊張を強いられた。

「入籍はもうしたって? お腹に赤ちゃんいるんだったら、結婚式はどうするんだろ」

「入籍は来月。西沢さんの誕生日。結婚式は、十一月に身内だけでやるって言ってた」

「身内って、俺も入るのかな」

「当たり前でしょ」と私は笑った。

「身内じゃないつもりだったの?」

「いや、そういうわけじゃないけどさ」

 道弘はリモコンに手を伸ばし、テレビを点けた。あちこちのチャンネルを数秒ずつ見て、ニュース番組で止める。私には、まだ伝えるべきことが残っていた。

「それでさ、結婚式の前に、私と道弘、唯と西沢さんの四人で食事でもって、唯が」

「お義父さんとお義母さんは?」

 道弘はテレビに視線を留めたまま、心持ち顔をこちらに向けて声を出す。

「二人は、昨日会ってるからさ。両家の親だけで顔合わせもするらしいし。来週の平日の仕事のあと、予定どう? どこかで時間つくれないかな。土日は、西沢さんがどうしても休めないらしくって」

「それって、晩ごはん食べるってこと?」

「決めてないけど、多分そうかな。お茶でもいいと思うけど」

「うーん、来週はちょっと忙しくなりそうだし、俺に合わせてたら遅くなるし、もし急に行けないってなったら迷惑かかるし——」

 再来週は?と言いかけて、私はやめた。

「俺も、カフェで一回会ってるしなあ」

「そっか。また、会えるときでいいよ。急ぐことじゃないから。とりあえず、私だけ会ってくるね」

 私がキッチンに身体を向ける寸前、うん、と口を開かない返事があった。テレビ画面では、ニュースキャスターが深刻な顔で原稿を読み上げていた。ネットカフェで、若い男が女性店員を人質にして立てこもっている。犯人はナイフのようなものを持っている。しかし何も要求してこない。ただ、今から死ぬと言っている。警察は引き続き説得にあたっています。

 なぜ、世の中ではこんな悲しいことが起こっているのだろう。

 

 私は、道弘のごまかしを明らかにしようとは思わなかった。それは理屈ではなく、自然になされた、私自身の防御反応のような判断だった。はっきりさせない方がいいこともあるのだ、うやむやのまま忘れてしまった方がいいこともあるのだ、とその考えだけで頭を占めようとした。

 夕食も後片付けも、またそのあいだの何気ない会話も、普段通りのものだった。道弘と私は、いつもこんなふうに違和感を消し去ってきたのだろうか。違和感は本当に消えているのだろうか。どこか暗い場所で積み重なっていて、いつか突然目の前に高い壁となって現れたりしないのだろうか。

 完璧に理解し合えることはないという前提に、どれくらいなら甘えても許されるのだろうか。

 洗い物を終えると、道弘は早々に風呂に入った。それは、セックスの時間を長くとりたいときのサインだった。私が風呂から出たとき、道弘はその意図を強調するように、テレビのスイッチを消してベッドに向かった。

 気乗りがしなかった。道弘から漂う欲求に、硬さがあった。それでも、断るという選択肢はなかった。私の想いを道弘が必ず受け入れてくれるように、道弘がしたいと思うのであれば私も積極的な姿勢をもって応えたかった。歯を磨いてから、ダイニングの電気を消し、深呼吸をして寝室に入った。

 想像していた激しさはなかった。いつもと同じように、緩やかな盛り上がりを経て行為は進んでいった。私は落ち着きを取り戻し、リラックスして身を委ねた。

 道弘はしきりに「愛してる」と言った。その声には、返答を求める明瞭さがあった。

「私も」

 三度目に、私は答えた。

「私も?」

 焦点の定まらない近すぎる距離で、道弘は私に問いかけた。

「私も、愛してる」

 道弘は黙って、私の首元に顔を押し付ける。

「本当よ?」

 ああ、と返事ともつかない声が、道弘の喉ぼとけから振動となって伝わってきた。

 

 挿入したままだったペニスが、やがて小さくなり、自然に抜けた。私たちは数分のあいだ、余韻に浸りながら抱き合っていた。しかし道弘は再度身体を擦り合わせ、深いキスをした。それは、眠りかけていた性欲を叩き起こすためのキスのようであり、私も舌の出し入れからセックスに似た高まりを味わった。道弘はまた挿入し、ゆっくりと動かし、体勢を変えることなく、長引かせる気配なく果てた。そして、ほとんど同じことをもう一度繰り返し、三回目の射精を終えると、ピンセットで摘まみ上げられる膜のようにのっそりと私から離れ、ベッドを下りて寝室を出た。遠くで冷蔵庫の明かりがつき、戻ってきた道弘が麦茶の入ったコップを差し出した。

「ありがとう」

 私は身体を起こしてコップを受け取り、麦茶を喉に流した。冷たさが身体にしみわたり、伸びた首筋を、蟻が這うように汗が伝うのを感じた。

「もう一回できる?」

 道弘が言い、顔を上げて私を見た。その言い方は、自分自身に問いかけているようでもあった。

「できるよ」

 私は空になったコップを枕元のサイドテーブルに置き、道弘のやわらかいペニスを口に含んだ。

 

 

 

 本校舎内にある医務室の天井には、染み一つなかった。

真上の一点に焦点を合わせているつもりだったが、そこはまわりと区別のつかない平面であり、自分が本当にその一点を見ているのか、よく分からなかった。ある文字をじっと見つめているとそれがその文字でないように思えてくるときの感覚に似ていた。

 カーテン越しに影が現れ、入りますよ、と声がした。はい、と私は返事をする。

「どう?」

 白衣を着た女性看護師が、私の顔を覗き込むようにして言った。胸に「原」と印字された名札をつけていた。私は一瞬身体を浮かせ、それから力を抜いて息をつく。

「もう少しだけ、横になっていてもいいですか?」

「もちろん」

 四十代半ばに見える原さんは、声色に違わず優しく微笑んだ。

「寝てしまっても大丈夫よ。ときどき覗くようにするから。五時には起こしてあげる。今は四時だから、あと一時間ね」

 原さんは腕時計の盤面を揺らして見せて、カーテンの隙間へと身体を滑り込ませた。私は、その波打ったカーテンの裾の揺れが止まるまでじっと見つめていた。

 瞼を下ろし、深く息をついた。校舎裏のグラウンドでサッカーにでも興じているのか、学生の声がした。威勢のよさと幼さの混じった歓声には、記憶の箱の中で響くような哀愁があった。

 昼休みにトイレでピルを飲んでからしばらくして、気分が悪くなって席を外した。便座の前でしゃがみ、吐こうとして頭を過ぎったのは昨晩の道弘とのセックスだった。たぶん今晩もするセックスだった。吐いたら、妊娠してしまうかもしれない。立ち上がって顔を上げ、酸っぱい胃液を飲み込んだ。目尻から涙が滲み出て、こめかみを伝って耳のくぼみに入った。頭が、くらくらした。様子を見に来た野宮さんが、私を大学校舎の医務室まで送ってくれた。

 顔色が悪いわねと原さんに言われたとき、私は咄嗟に寝不足を申告した。あと今生理なんですとも言った。ペットボトルの水を飲み、ベッドに横になった。体温と血圧を計るあいだ、私はとにかく異常な数値が出ないようにと目を閉じて呼吸を整えることに集中した。原さんはそれぞれの数値を確認し、私の顔を見て、少し血圧が低いけどまあ大丈夫そうねと言った。実際に、気分は大分ましになっていた。

 考えてみれば、鞄に予備のピルが入っていた。吐いたって、それを飲めば問題なかったはずだ。そんなことにも、頭が回らなかった。

 ベッドのまわりは薄暗かったが、カーテンの上五十センチほどがネット状になっており照明の光が射し込んでいた。その光源の下から、原さんのかすかな気配が伝わってくる。椅子がきしむ音、紙をめくる音。小さな咳払いもきこえた。耳を澄ませば、遠くではやはり、学生たちの平和な声。

 私は、小学校の保健室のことを思い出していた。当時、保健室は一部の女子生徒にとっての手軽な避難場所になっていた。授業中でも休み時間でも、気分が悪いと言えば簡単に利用することができた。一時期など、さすがに咎められるのではないかと思うほど、決まった何人かのクラスメイトが頻繁に体調不良を訴えて保健室に行った。そして次の休み時間になると、何食わぬ顔をして教室に戻っているのだった。

 私はなぜ、彼女たちが軽々しく気分が悪いと宣言して、半ば露見しているずる休みができるのか分からなかった。女子の体調が悪いという訴えはどれだけ嘘くさくても無下にできないことを、彼女たちは知っていたのだ。

 しかし私も一度だけ、保健室を利用したことがある。四年生のときだった。私は本当に、気分が悪かったのだ。授業中、不自然にならないように手の甲で何度も額に触れた。熱もあるような気がした。このままでは授業中に吐いてしまうと思い、先生、と手を挙げたときには、頭が蒸れるほどの汗をかいていた。

 二十代の養護教諭は、初めて保健室を訪問した私に心配そうな顔を向けた。額に手のひらを当てられ、体温計で熱を計られ、「平熱って分かる?」ときかれたとき、私は実際より低い平熱を告げた。じゃあちょっと高いわね、と彼女は私をベッドに案内してくれた。私も結局、嘘をついたのだ。

 保健室のベッドの向こうには大きな窓があり、グラウンドが見渡せた。外から注ぐ光が跳ね返るような、真っ白のシーツが敷かれていた。誰かが寝たあとだったかもしれないけれど、とにかく当時の私には、これ以上ないくらい清潔で純白の寝床に見えた。

 あのとき、まだ私は初潮を迎えておらず、産む側ではなく産まれた側であった。しかしその年のうちに授業の一環で生理というものの存在を知り、その三年後に実際に初潮を迎えた。その瞬間、私は産む側に回されたのだった。まわりの友人から実際の話をきいていたので、出血には驚いたものの実感がなく、呑気に、母が炊いた赤飯を食べた。面白がってナプキンを使い始めた。子を宿すことができる身体になっているなんて、本当のところ、私は分かっていなかった。

 帰ったら、今日もセックスをするのだろうか。今日は、しない方がいいかもしれない。けど明日か明後日には、やはりするのだ。私が妊娠するまで、道弘はコンドームを使用しないセックスを求め続けるのだろうか。一体、何歳まで? 私がピルを飲んでいると知らずに一生懸命にセックスをする道弘を想像し、不憫に思った。しかしそれは、私が、私だけの嘘で引き起こす、いやすでに引き起こしている現実なのだった。

 紗枝は、元気にしているだろうか。唯は西沢さんと仲良くやっていけるだろうか。それぞれの家庭で、無事元気な赤ちゃんが、産まれるのだろうか。美樹さんと康平君は、向き合うべき課題を乗り越えられるのだろうか。

「みんなが、幸せになったらいいのになあ」

 囁いてみると、かあっと目の奥が熱くなって、湧いてきた空気のかたまりが喉から溢れた。(了)