短編小説『チャールズの独り言』


 チャールズがフランクフルト空港に着いたのは、朝の六時過ぎだった。そこから一時間ほど電車に揺られてフランクフルト駅にたどり着き、二メートルもあるチャールズよりさらに三メートルほど上にある石造りのアーチ型の庇を見あげながらくぐって、立ち止まって顔を正面に戻したとき、
「寒いな」
 とチャールズは呟いた。それは小さな声だったから、ウエストが一メートルもあるチャールズを右に左に避けて歩く人たちの中の誰も振り向かなかったし、彼らはチャールズを柱か何かと勘違いしているかのように、目を伏せて歩いていた。皆、今から仕事に出かけるという様子だった。ほとんどが長袖を着て、鞄を持っていた。薄手のコートを羽織っている人もいた。
「八月なのに」
 とチャールズは嘆くようにして言ってみた。けれどまたしても、誰も振り向かなかった。
 さっきから独り言を我慢できないのは、チャールズが不安を隠そうとしているからだった。周囲の急ぎ足の人たちから、そしてチャールズ自身から。
 自分の口から出た言葉がどこにも誰にも届かずに鼻の先で消えてしまったことで、チャールズは、少しの間忘れていた、自分が一人ぼっちであることをはっきりと思い出した。立ち止まったまま今しがたの自分の独り言の原因について考え、気づいて、自分が不安を抱いていることと、それを隠そうとしていることを恥じ、もう独り言は言うまい、という誓いを立てた。生まれ育ったニューヨークを初めて離れたばかりか、ドイツにまで来てしまったことが、教会にも行ったことのないチャールズに誓いなんてものを立てさせた。
 チャールズはラクダだった。白い半袖シャツを着て、木綿のベージュのズボンを履いている。背中に大きなコブが一つあり(ヒトコブラクダだった)、破れないようにシャツもコブの形に沿って膨らんでいた。特注のシャツだ。人はチャールズの背中を見るとたいていこう言った。
――椅子にもたれるの、大変そうだね。
 その質問に正確に答えて、かつ自分の体を使って実演するのにうんざりして、十歳のときからチャールズは、「はあ」と返事をするのが常だったが、実際は「大変」なんてことはなかった。コブは蹄ほど硬くはないから、少しつぶれることにはなるけれど、ちゃんと背もたれにもたれることができる。力を抜いて、リラックスすることもできる。生まれたときからそうだから、背中にコブのない人から見ると大変そうなことであっても、チャールズにとっては何でもないことだった。
 チャールズは、鞄を持って歩き出した。歩き出さねば、どこにも行けないんだぞ、と思った。石畳の上を、蹄を鳴らして歩いた。その音に、周囲の人たちがちらちらと視線を向けた。少しばかりの注目に、チャールズは不安になることはなかった。蹄の音は、鳴らしたくって鳴らしているんじゃない。どう歩いたって鳴ってしまうのだ。その致し方なさの上での注目だったので、堂々としていればいいんだ、とむしろチャールズは勇気づいた。
「グーテンターグ!」
 緑色のチョッキを着た、太ったおじさんが手をあげて言った。あまりに急だったので、チャールズは言葉を返すことができず、けれど微笑むことはできた。おじさんはそのソーセージみたいなむちむちの手でチャールズの肩を豪快に叩き、笑顔で手を振りながらすれ違って、遠ざかって、駅に吸い込まれていった。チャールズはおじさんの広い背中を見届けると、再び歩きだした。
 ニューヨークと違い、道は美しく舗装され、ゴミも落ちていなかった。空は曇っていて、肌寒くはあったが、もうすぐあったかくなるさ、とチャールズは何の根拠もなしに信じていたから、何度か腕を摩ろうとしたけれどいつもその直前で手を止めて我慢した。大丈夫、きっとあったかくなるさ。
 ビルの群れの中に、ぽっかりと円形の広場があった。円の縁に沿って花壇とベンチが設置されていて、ベンチに座る人たちは皆休日のようだった。広場を一直線に横切って駅に向かう働き者は、ベンチでのんびりする人たちを見ようともしていなかった。
 広場の真ん中で、ニット帽をかぶった親父がホットドッグを売っていた。チャールズは屋台の前まで行って、ポケットを探って、財布がないことに気づいた。
「あれ、どこに落とし――」
 というところまで口にして、さっき立てたばかりの誓いを思い出して、くるっと振り返ると、
「――たのかな?」
 と親父にきいた。
「何だって? いくつ?」親父は右眉をあげて言った。
「いや、一つなんですけど、財布がないんです」
「何? いくつって?」
「いや、財布がないんです」
 親父は、しかめっ面でチャールズを睨んでから、
「財布がほしけりゃ、財布屋に行きな」
 と言って顔を伏せると、トングでソーセージの入ったボイラーをかき回した。
 チャールズは屋台を離れ、人のいないベンチを探して腰をおろした。背もたれにコブを当ててもたれ、腹の前で手を組み、目を閉じてリラックスしようと努めた。深呼吸すると、自分がリラックスできているような気分になってきた。
けど、いつまでもリラックスしているわけにはいかなかったので、目を開いた。広場の縁に沿って等間隔に置かれたベンチでは、やはり今日の予定など何もなさそうな人たちがリラックスした様子で座ったり、横になったりしていた。
 これは少し困ったことになったぞ、とチャールズは思った。あまり中身の入っていない財布だったとはいえ、少しは入っていたのだ。そしてそれを元手にどこかの宿に泊まって、絵を描いて、売って、なんとかやっていくつもりだったのだ。チャールズは画家だった。
「よし!」
 チャールズは膝を叩いて立ち上がった。幸いまだ朝だ。今からどこかで絵を描いて、それを売って宿代を稼ごう、そう決めた。
 決めてしまうと少し気分が落ち着いて、今の「よし!」って独り言になるのかな、と真剣に考えながら、駅とは反対方向に向かって歩き始めた。蹄がカツカツと、地面を鳴らしていたが、独り言について考えているチャールズにはきこえていなかった。どんなに大きな声ではっきりと喋ったって、例えば使う言葉の違う人に叫んでもそれはやっぱり独り言になるのだろうか、なんてことを考えていた。
 結局答えを出せないままに考えることをやめ(チャールズはいつも答えの出ないことばかり考える)、蹄の音がきこえるようになったとき、曇り空ながらもさっきよりあったかくなっていることにも気づいたチャールズは、ドイツに来て初めて、ドイツに来てよかった、と思った。