中編小説『深海散歩』④(了)

 夕食の準備をしていると、スマホが鳴った。道弘かと思ったが、電話の主は唯だった。

 今ちょっと大丈夫?と普段にない確認をするので、私はコンロの火を消してスマホを握り直した。

「結婚することにした」

 え、と声を出した私が一瞬の混乱を経ておめでとうという言葉を用意したとき、

「赤ちゃんできたの」

 と唯は続けた。

「お相手は?」

 私はソファに腰を落ち着けてそう言ってから親のような台詞を口にしたと思い、しかし事実そのことが一番気になった。

「バイト先の店長。西沢さんっていうの。ごめん、言ってなかったんだけど、一年前から付き合ってるの」

「バイト先って、カフェの?」

「うん、そう。お姉ちゃんも一回会ってる」

 数ヶ月前、道弘と一緒に唯の働いているカフェを訪れた。オフィス街とファッション街が混じったような大きな通りにある、小洒落た店だった。金色の円筒形のエスプレッソマシンが珍しいらしく、雑誌でもそのことが取り上げられていた。カウンターに立つ西沢さんは、私たちの存在を知るとわざわざテラス席まで足を運んで、いつも唯さんにはお世話になっております、と丁寧な挨拶をしてくれた。

「今、何ヶ月なの?」

「三ヶ月。全然気づかなかった」

「お父さんとお母さんには報告した?」

「うん。昨日二人で実家に挨拶に行った。明日は、西沢さんの実家に行くの」

「どうだった? 怒らなかった? その、お父さん古いからさ」

 語尾で笑って、唯も笑って答えてくれまいかと願うと、その通りの弾んだ声が返ってくる。

「終始笑顔でした。娘と孫をよろしくお願いします、って頭下げてたよ。ふつつかな娘って、本当に言うんだね。最初、お母さん経由で伝えたときには怪しかったけど、昨日はお父さん、ずっと、拍子抜けするくらいご機嫌だった」

 道弘と挨拶に行ったときも、父は思わぬやわらかな社交性を見せて私を驚かせた。きいたことのない下手な冗談も言った。娘の結婚が、それほど嬉しいものだということを私は知らなかった。今回は孫も誕生するというのだから、両親は、私のときよりも喜んだのだろうか。

「近いうちにお姉ちゃんにもちゃんと会わせたいんだけど、会ってくれる?」

 もちろん、と答えてから、電話の向こうに夫となる西沢さんもいるのではないかと思った。

「もう一緒に住んでるの?」

「今物件探してて、十月中に引っ越せたらいいなって感じ。お姉ちゃんのところみたいな、素敵なマンションが見つかったらいいんだけど」

 それから、西沢さんが私と同じ三十歳であること、アルバイトはあと数ヶ月続ける予定であり、職場の仲間だけでなくカフェの経営者からも祝福してもらっているという話をききながら、私の頭は少しずつ、深いところから滲みだした不穏な問いに占められていった。きけるわけがない、きいて一体どうするのと言いきかせていると、こめかみのあたりに嫌な汗をかいた。

 唯は、西沢さんは、避妊をしたのだろうか? 

「おめでとう」

 と最後に言ったとき、この簡単な祝福の言葉を伝えることが、ずいぶんと遅くなってしまったと思った。

 

 夕食の準備を終わらせると、私はスマホを持ってソファに移動し、あるサイトを開く。どのページも、子どもに対するネガティブな意見で埋めつくされている。言葉遣いと内容から、コメントを書き込んでいる人のほとんどが女性と思われた。

 妊娠や出産、育児に対して不安や抵抗を持つ人が集まる場所なので、自然、不安を持つ者同士が互いの正当性を助長させる内容が並ぶ。健全ではないと思いながらも、書き込みを眺めていると気持ちが落ち着いた。

 私だけじゃないと知って安心しました。子どもを生むことだけが人生じゃありませんよね。女性のキャリアアップのためには正直子どもはデメリットになります。お金がないとひいひい言って子どもを育てるよりも、少しだけ余裕を持って二人で生きた方がいい。いつまでもカップルみたいな夫婦でいられます。趣味に時間とお金をかけられる環境の方が私にとっては大切でした——。

 知らない人のありきたりな言葉も、世の中にそういった考えが存在すること教えてくれるという意味で、私にとっては貴重だった。産んで後悔している、という子持ちの親の書き込みもあり、それはより根拠のある実体験として多くの人の参考となり、慰めとなっているようだった。日が変われば数えきれないくらいの新しい書き込みが増えている、そういったサイトがネット上にはいくつも存在した。

 しかしスマホでそれらのサイトを閲覧できる時間は限られていた。道弘と一緒にいるときや、混み合う電車の中で見るわけにはいかない。仕事から帰って夕食の準備をしている合間、夕食ができてから道弘が帰宅するまで、ページをスクロールしては救いの言葉を探した。

 私が自らコメントを書き込むことはなかった。共感を得たい、示したい、あるいは非難したいとも思わなかった。外から眺め、自分が一人きりで潮流に抗っているわけではないことを確認するだけだった。彼女たちは私の仲間ではなく、反対に忌むべき人でもなく、ただ同じ時間にどこかに存在してくれればそれで十分なのであった。

 道弘からもうすぐ着くという連絡があると、私はまずそのサイトを閉じ、続けて予測変換の候補に挙がる危ういワードも削除する。ブックマークもしない。道弘が人のスマホを見るわけはないのに、私はさまざまなことにおそれを抱きすぎなのだろうか。

 今まで、自分一人の時間がほしいなんて思ったことはなかった。こんなことで自分の時間がないと明確に実感している哀れを、私は押し殺すことができた。

 

 帰宅した道弘に、唯の結婚と妊娠を伝えた。お腹に赤ちゃんいるんだって、今三カ月、と口にするとき、私は道弘から目を離せず、自分が努めて明るく振る舞おうとしていることを意識させられた。

「よかったじゃん」

 キッチンに立つ私に向かって、道弘はあまり驚いた様子もなく言った。

「旦那さんって、もしかして倫子と行ったあのカフェの店長?」

「そうだけど、どうして分かったの?」

 道弘はスウェット姿でソファに腰を下ろし、あははと声を出す。

「いやあ、なんとなくそんな気がしたんだよな。あの店長——西沢さんか、俺のこと一回だけ『お義兄さん』って呼んだんだ。すぐに言い間違えたふりして、旦那さんって言い直したけど。もしかして付き合ってるのかな、って思ってた」

 西沢さんの失言を、私は覚えていなかった。そのような些細なことから道弘が二人の関係を読み取ったことに、私は緊張を強いられた。

「入籍はもうしたって? お腹に赤ちゃんいるんだったら、結婚式はどうするんだろ」

「入籍は来月。西沢さんの誕生日。結婚式は、十一月に身内だけでやるって言ってた」

「身内って、俺も入るのかな」

「当たり前でしょ」と私は笑った。

「身内じゃないつもりだったの?」

「いや、そういうわけじゃないけどさ」

 道弘はリモコンに手を伸ばし、テレビを点けた。あちこちのチャンネルを数秒ずつ見て、ニュース番組で止める。私には、まだ伝えるべきことが残っていた。

「それでさ、結婚式の前に、私と道弘、唯と西沢さんの四人で食事でもって、唯が」

「お義父さんとお義母さんは?」

 道弘はテレビに視線を留めたまま、心持ち顔をこちらに向けて声を出す。

「二人は、昨日会ってるからさ。両家の親だけで顔合わせもするらしいし。来週の平日の仕事のあと、予定どう? どこかで時間つくれないかな。土日は、西沢さんがどうしても休めないらしくって」

「それって、晩ごはん食べるってこと?」

「決めてないけど、多分そうかな。お茶でもいいと思うけど」

「うーん、来週はちょっと忙しくなりそうだし、俺に合わせてたら遅くなるし、もし急に行けないってなったら迷惑かかるし——」

 再来週は?と言いかけて、私はやめた。

「俺も、カフェで一回会ってるしなあ」

「そっか。また、会えるときでいいよ。急ぐことじゃないから。とりあえず、私だけ会ってくるね」

 私がキッチンに身体を向ける寸前、うん、と口を開かない返事があった。テレビ画面では、ニュースキャスターが深刻な顔で原稿を読み上げていた。ネットカフェで、若い男が女性店員を人質にして立てこもっている。犯人はナイフのようなものを持っている。しかし何も要求してこない。ただ、今から死ぬと言っている。警察は引き続き説得にあたっています。

 なぜ、世の中ではこんな悲しいことが起こっているのだろう。

 

 私は、道弘のごまかしを明らかにしようとは思わなかった。それは理屈ではなく、自然になされた、私自身の防御反応のような判断だった。はっきりさせない方がいいこともあるのだ、うやむやのまま忘れてしまった方がいいこともあるのだ、とその考えだけで頭を占めようとした。

 夕食も後片付けも、またそのあいだの何気ない会話も、普段通りのものだった。道弘と私は、いつもこんなふうに違和感を消し去ってきたのだろうか。違和感は本当に消えているのだろうか。どこか暗い場所で積み重なっていて、いつか突然目の前に高い壁となって現れたりしないのだろうか。

 完璧に理解し合えることはないという前提に、どれくらいなら甘えても許されるのだろうか。

 洗い物を終えると、道弘は早々に風呂に入った。それは、セックスの時間を長くとりたいときのサインだった。私が風呂から出たとき、道弘はその意図を強調するように、テレビのスイッチを消してベッドに向かった。

 気乗りがしなかった。道弘から漂う欲求に、硬さがあった。それでも、断るという選択肢はなかった。私の想いを道弘が必ず受け入れてくれるように、道弘がしたいと思うのであれば私も積極的な姿勢をもって応えたかった。歯を磨いてから、ダイニングの電気を消し、深呼吸をして寝室に入った。

 想像していた激しさはなかった。いつもと同じように、緩やかな盛り上がりを経て行為は進んでいった。私は落ち着きを取り戻し、リラックスして身を委ねた。

 道弘はしきりに「愛してる」と言った。その声には、返答を求める明瞭さがあった。

「私も」

 三度目に、私は答えた。

「私も?」

 焦点の定まらない近すぎる距離で、道弘は私に問いかけた。

「私も、愛してる」

 道弘は黙って、私の首元に顔を押し付ける。

「本当よ?」

 ああ、と返事ともつかない声が、道弘の喉ぼとけから振動となって伝わってきた。

 

 挿入したままだったペニスが、やがて小さくなり、自然に抜けた。私たちは数分のあいだ、余韻に浸りながら抱き合っていた。しかし道弘は再度身体を擦り合わせ、深いキスをした。それは、眠りかけていた性欲を叩き起こすためのキスのようであり、私も舌の出し入れからセックスに似た高まりを味わった。道弘はまた挿入し、ゆっくりと動かし、体勢を変えることなく、長引かせる気配なく果てた。そして、ほとんど同じことをもう一度繰り返し、三回目の射精を終えると、ピンセットで摘まみ上げられる膜のようにのっそりと私から離れ、ベッドを下りて寝室を出た。遠くで冷蔵庫の明かりがつき、戻ってきた道弘が麦茶の入ったコップを差し出した。

「ありがとう」

 私は身体を起こしてコップを受け取り、麦茶を喉に流した。冷たさが身体にしみわたり、伸びた首筋を、蟻が這うように汗が伝うのを感じた。

「もう一回できる?」

 道弘が言い、顔を上げて私を見た。その言い方は、自分自身に問いかけているようでもあった。

「できるよ」

 私は空になったコップを枕元のサイドテーブルに置き、道弘のやわらかいペニスを口に含んだ。

 

 

 

 本校舎内にある医務室の天井には、染み一つなかった。

真上の一点に焦点を合わせているつもりだったが、そこはまわりと区別のつかない平面であり、自分が本当にその一点を見ているのか、よく分からなかった。ある文字をじっと見つめているとそれがその文字でないように思えてくるときの感覚に似ていた。

 カーテン越しに影が現れ、入りますよ、と声がした。はい、と私は返事をする。

「どう?」

 白衣を着た女性看護師が、私の顔を覗き込むようにして言った。胸に「原」と印字された名札をつけていた。私は一瞬身体を浮かせ、それから力を抜いて息をつく。

「もう少しだけ、横になっていてもいいですか?」

「もちろん」

 四十代半ばに見える原さんは、声色に違わず優しく微笑んだ。

「寝てしまっても大丈夫よ。ときどき覗くようにするから。五時には起こしてあげる。今は四時だから、あと一時間ね」

 原さんは腕時計の盤面を揺らして見せて、カーテンの隙間へと身体を滑り込ませた。私は、その波打ったカーテンの裾の揺れが止まるまでじっと見つめていた。

 瞼を下ろし、深く息をついた。校舎裏のグラウンドでサッカーにでも興じているのか、学生の声がした。威勢のよさと幼さの混じった歓声には、記憶の箱の中で響くような哀愁があった。

 昼休みにトイレでピルを飲んでからしばらくして、気分が悪くなって席を外した。便座の前でしゃがみ、吐こうとして頭を過ぎったのは昨晩の道弘とのセックスだった。たぶん今晩もするセックスだった。吐いたら、妊娠してしまうかもしれない。立ち上がって顔を上げ、酸っぱい胃液を飲み込んだ。目尻から涙が滲み出て、こめかみを伝って耳のくぼみに入った。頭が、くらくらした。様子を見に来た野宮さんが、私を大学校舎の医務室まで送ってくれた。

 顔色が悪いわねと原さんに言われたとき、私は咄嗟に寝不足を申告した。あと今生理なんですとも言った。ペットボトルの水を飲み、ベッドに横になった。体温と血圧を計るあいだ、私はとにかく異常な数値が出ないようにと目を閉じて呼吸を整えることに集中した。原さんはそれぞれの数値を確認し、私の顔を見て、少し血圧が低いけどまあ大丈夫そうねと言った。実際に、気分は大分ましになっていた。

 考えてみれば、鞄に予備のピルが入っていた。吐いたって、それを飲めば問題なかったはずだ。そんなことにも、頭が回らなかった。

 ベッドのまわりは薄暗かったが、カーテンの上五十センチほどがネット状になっており照明の光が射し込んでいた。その光源の下から、原さんのかすかな気配が伝わってくる。椅子がきしむ音、紙をめくる音。小さな咳払いもきこえた。耳を澄ませば、遠くではやはり、学生たちの平和な声。

 私は、小学校の保健室のことを思い出していた。当時、保健室は一部の女子生徒にとっての手軽な避難場所になっていた。授業中でも休み時間でも、気分が悪いと言えば簡単に利用することができた。一時期など、さすがに咎められるのではないかと思うほど、決まった何人かのクラスメイトが頻繁に体調不良を訴えて保健室に行った。そして次の休み時間になると、何食わぬ顔をして教室に戻っているのだった。

 私はなぜ、彼女たちが軽々しく気分が悪いと宣言して、半ば露見しているずる休みができるのか分からなかった。女子の体調が悪いという訴えはどれだけ嘘くさくても無下にできないことを、彼女たちは知っていたのだ。

 しかし私も一度だけ、保健室を利用したことがある。四年生のときだった。私は本当に、気分が悪かったのだ。授業中、不自然にならないように手の甲で何度も額に触れた。熱もあるような気がした。このままでは授業中に吐いてしまうと思い、先生、と手を挙げたときには、頭が蒸れるほどの汗をかいていた。

 二十代の養護教諭は、初めて保健室を訪問した私に心配そうな顔を向けた。額に手のひらを当てられ、体温計で熱を計られ、「平熱って分かる?」ときかれたとき、私は実際より低い平熱を告げた。じゃあちょっと高いわね、と彼女は私をベッドに案内してくれた。私も結局、嘘をついたのだ。

 保健室のベッドの向こうには大きな窓があり、グラウンドが見渡せた。外から注ぐ光が跳ね返るような、真っ白のシーツが敷かれていた。誰かが寝たあとだったかもしれないけれど、とにかく当時の私には、これ以上ないくらい清潔で純白の寝床に見えた。

 あのとき、まだ私は初潮を迎えておらず、産む側ではなく産まれた側であった。しかしその年のうちに授業の一環で生理というものの存在を知り、その三年後に実際に初潮を迎えた。その瞬間、私は産む側に回されたのだった。まわりの友人から実際の話をきいていたので、出血には驚いたものの実感がなく、呑気に、母が炊いた赤飯を食べた。面白がってナプキンを使い始めた。子を宿すことができる身体になっているなんて、本当のところ、私は分かっていなかった。

 帰ったら、今日もセックスをするのだろうか。今日は、しない方がいいかもしれない。けど明日か明後日には、やはりするのだ。私が妊娠するまで、道弘はコンドームを使用しないセックスを求め続けるのだろうか。一体、何歳まで? 私がピルを飲んでいると知らずに一生懸命にセックスをする道弘を想像し、不憫に思った。しかしそれは、私が、私だけの嘘で引き起こす、いやすでに引き起こしている現実なのだった。

 紗枝は、元気にしているだろうか。唯は西沢さんと仲良くやっていけるだろうか。それぞれの家庭で、無事元気な赤ちゃんが、産まれるのだろうか。美樹さんと康平君は、向き合うべき課題を乗り越えられるのだろうか。

「みんなが、幸せになったらいいのになあ」

 囁いてみると、かあっと目の奥が熱くなって、湧いてきた空気のかたまりが喉から溢れた。(了)

中編小説『深海散歩』③

 四回目のカウンセリングの日、受付で代金を受け取り二階に案内するというときになって、康平君がそばに来て「てて」と言った。

 差し出された小さな手とその期待を込めた表情に、私は康平君の発した言葉の意味を理解した。咄嗟に美樹さんに視線を移すと、心配した通り苦しそうに皺の寄せられた口元を認めた。私は視界から美樹さんを払いのけるべく、中腰になって康平君の顔をのぞき込み、細い肩に手を当てた。

「すぐだからね、一人で歩こうね。谷君がいっぱい遊んでくれるからね。谷君、いつものお兄さん」

 いやあ、と康平君が声を出したとき、美樹さんの影が私の横を通り過ぎた。振り返ることなく遠ざかり、階段に足をかける。

「ほら、早くしないとお母さん行っちゃうよ」

 母親の背中に視線を貼り付ける康平君の耳に、私の声は届いていないようだった。足早に踊り場を越えた美樹さんの姿が見えなくなると、康平君は私のスカートから手を離し、駆けだした。私もすぐに後を追い、康平君が階段から転げ落ちないように背中に手を添えた。康平君はときどき一段につき二歩をかけて、階段を上がっていった。

 二階に辿り着いたのは、美樹さんが面談室に入ってドアを閉めたあとだった。康平君にもそれは理解できたようだったが、プレイルームを前にすると母親のことを忘れたみたいに瞳を輝かせ、両手を翼のようにしてぐるぐると絨毯の上を走り回った。

 私はまずプレイルームから待機室の谷君に内線をかけ、準備ができたと伝えた。受話器を置き、次に面談室に向かうことを考えた。面談室の電話で研究室にいる森内先生を呼ぶのが決まりだったからだ。だが今からドアを開けて美樹さんと顔を合わせることには躊躇いがあり、下手に行動しない方がいいと言いきかせて握ったままの受話器を持ち上げた。電話口に出た森内先生にプレイルームからの連絡になってしまったいきさつを説明したが、うまくまとまらず、正確に伝わっている気がしなかった。

「分かりました。とりあえず、すぐに向かいます。桜井さんは、そのまま事務室に戻ってください。念のため、今日の見送りは野宮さんにしてもらいましょう」

 と森内先生は言って、電話を切った。

 

 その日の午後、時間があるときに研究室に来てください、と森内先生からメールが届いた。隣を見ると、野宮さんはとろんとした目でパソコンモニターを眺めている。私はトイレに立ち、席に戻って数分パソコンを触ってから、三階の研究室へと向かった。

 私たちは低いテーブルを挟んでソファに腰を下ろした。森内先生は普段通りの穏やかな表情を浮かべていた。常にこの表情でいることで内心を隠そうとしているのでは、と私はこれまで考えたことのなかった不審を抱いた。

「どうしてプレイルームからの連絡になったのか、もう一度話してくれますか」

 何度も整理した内容を頭で順に並べながら、康平君が自分と手をつなぎたがったこと、それを見て美樹さんが顔をしかめて一人で面談室に向かい中に入ってドアを閉めてしまったこと、その美樹さんと顔を合わせることに抵抗があり面談室に入れなかったことを説明した。

「これ以上お母さんの機嫌を損ねてはまずい、と感じたのでしょうか」

「はい。面談前に興奮させてしまってはよくないと思いました」

「面談に支障が出ないようにと考えてくれたんですね。その点は問題ありません。滞りなく面談を行うことができました」

 森内先生が黙ると、部屋はしんとした。スチール製のデスクや本棚が、急にひやりとした冷たさを持ったかのように映った。何か誘導されている気がしたが、考えることは諦めた。

「お母さんは、怒っていませんでしたか? 私のことを、あまりよく思っていないような気がするのですが」

「どうしてそう思うのでしょうか」

「私が康平君と親しげにしていると、嫉妬——と言うのか分かりませんが、少し機嫌が悪くなるように見えます」

 森内先生は、私に言い残しがないことを確認するように、十秒ほど間を置いてから口を開いた。

「嫉妬、もしくはそれに近い感情は誰にでもあります。須田さんが桜井さんに嫉妬したとしても、そのことで桜井さんが康平君との交流を躊躇わなくてもよいと私は思います。もちろん、仲のよさを見せつける必要はありませんが、康平君が桜井さんとの交流を求めていて、桜井さんが職員としての範囲内でその気持ちに応えようと思うのであれば、自然に振る舞えばいいのではないでしょうか。もう少し具体的に言うと、手をつないであげればよかったのでは、と思います。子どもが親しみを覚える人と手をつなぎたいという欲求を持つこと、また実際に手をつなぐ行為は、一般的に考えてごく自然なものです。お母さんが嫉妬をしている自分を意識したり、康平君にとっての世界が母親だけで構成されているわけではないことに気づいたりして、それが二人をよい方向へと向かわせるきっかけになるかもしれません」

「逆の方向、悪い方向へと向かうきっかけになる可能性というものもあるのでしょうか?」

 心理学部の学生のような質問を、なぜか私は投げかけずにはいられなかった。

「あります」森内先生は、森内先生にしては早いと思えるタイミングで答えた。「しかしこれは須田さんにとって、避けられない課題なのです。息子が自分以外の大人に懐くことに対する嫉妬も、段階的な子離れも、いずれどこかで向き合わなければなりません。そして須田美樹さんが課題に向き合うということは、須田康平君が課題に向き合うということでもあります。カウンセリングセンターという比較的不確定要素の少ない環境では、外の世界よりも、そのステップアップに邪魔が入りにくいと言えます。私たちは——これは桜井さんや野宮さんを含めてということですが——クライアントが少しでも安全な形で課題と向き合えるよう配慮すべきだと私は考えます。そううまくいくことばかりではありませんが、少なくともあのとき、桜井さんが須田さんと顔を合わせることを避けたのは、カウンセリングセンターの職員として十分に責任を果たしたとは言いがたいのではないでしょうか。須田さんは、桜井さんが自分のことを避けた、自分のことを面倒ごとと捉えた、と考えたかもしれません」

 最後の指摘は、私にとってショッキングなものであった。そしてまた、この数時間で何度も頭を過りながら、捕まえることを避けてきた自らへの苦言だった。状況に合わせた行動をしていると思い込んでいただけで、美樹さんからすれば逃げたも同然なのだった。

「クライアントとは、適切な距離をとらねばなりません。と同時に、責任を持って接しなければなりません。たとえ須田さんが桜井さんの顔を見て余計に腹を立てたとしても、やはりあのとき桜井さんは、面談室のドアを開け、いつも通りの仕事を全うすべきだったと私は思います。そこで生まれたぶつかり合いも、須田さん、あるいは桜井さんにとって、向き合うべき課題になったはずです」

 

 帰宅するなりベッドに飛び込んで、枕に顔を押しつけた。すべて忘れて眠りたいのに、頭の中を森内先生の言葉の断片が駆け巡り、チクチクした痛みがそうさせなかった。

 どうして、正しいことだけを告げるのだろう。次に気をつけてくれればいいのでという励まし、とはいえいつも桜井さんには感謝してるんですという気遣い、そんな一言さえ添えてくれればと考える私は甘ったれなんだろうか。あれなら、叱り飛ばしてくれた方が楽だった。

 顔を横に向け、スマホを取り出し、ネットニュースを眺めた。芸能人の不倫もお盆の渋滞予想も政治家の失脚も私には関係なかった。しかし普段はこんなタイトルをクリックしてはその内容を読み、読んだ端から忘れてしまうのだった。であればくだらないのはニュースの内容よりも私だという気がした。なぜ私は暇なときだけでなく今のような状況でもこんなものを見てしまうのだろうか。

 ブラウザを閉じ、ホーム画面を見つめた。アイコンが滲み、自分が泣いたかと思ったが、焦点が合わないだけだった。

 向き合うべき課題、と森内先生は言った。美樹さんや康平君にとっての、もしくは私にとっての課題。向き合って乗り越えられなかったら、乗り越えたとしてもボロボロに傷ついたら、どうしてくれるのだろう。

 目を強く閉じてから開き、スマホの検索バーに「彫金 doigt」と入力する。紗枝のブログを、その存在を知ってから十日が過ぎて初めて開いた。

 薄いブラウンの背景に日付順の記事が並んでいるだけの、よくある無料の個人ブログだった。各ページにはアクセサリーの写真と説明文、税込価格が載せられている。写真はどれもプロのカメラマンが撮ったもののように思えた。指輪やバングルが白い珊瑚に引っかけられていたり、ネックレスがさざ波のように皺を寄せた布の上に置かれていたりとそれらしい工夫があった。ピアスは人の耳につけた状態での撮影で、顔は映っていなかったがモデルはおそらく紗枝だ。うなじに二つ並ぶ小さなほくろのことを、私はよく覚えていた。

 ページを切り替えるたび、「SOLD OUT」の赤字が目についた。その下には、「受注は可能ですが、現在、二ヶ月ほどお時間をいただいております」の一文。

 離したスマホがベッドの下に落ち、フローリングとぶつかる音がした。慌てて覗き込み、無事を確認する。いっそ壊れてしまえばよかったのにと考えて、その不貞腐れた自分が嫌になって再び枕に顔をうずめる。

 そして思う。いっそ、窒息してしまえばいい。

 私はいつも、そうならないことが分かってから、投げやりになる。

 

 

 

 十日間の長いお盆休み、例年になく古い友人からの誘いが多く、頻繁に自宅をあけた。

 中学校と高校の同窓会にも参加した。どちらの集まりでもだいたい半数が結婚しており、三児の親になっている友人もいた。

 年齢を重ねても私の前ではあの頃の同級生でしかなく、合い言葉のように交わされた「変わらないねえ」の挨拶通り、見た目も話す内容も特別に歳を重ねたという感じはしない。ただ、最近どうなの何してるのと尋ねる一方で相手の現在のすべてや未来予想を知ることには遠慮する雰囲気に、私は自分たちが三十代という微妙な年齢に差し掛かっていることを意識した。勝った叶った合格したと抱き合ったり、かわいそうだねひどいねと手を握ったりする青さを、私たちは気づかぬうちに捨ててきた。それが大人というものだという説明でもの悲しさをごまかそうとするけれど、代わりに何を手に入れたのかと考えると途端に理解が難しくなる。

 彼氏がいるいない、結婚した離婚した、今どこに住んでいる、子どもができて今年何歳になったの、わあ同学年だね、転職したの給料下がったけど、そんなここ数年の報告がピンポン玉のように行き交う。そういった事実報告は早く終わらせたいという気配さえある。そしてその話の先にあり、みんなが均等に求めているのが昔話だ。思い出は色褪せるどころか脚色されたり新しい事実が飛び出したりして、おおいに盛り上がる話題となる。これまで何度繰り返された話であっても、クツクツと笑いを堪えながら、みんなで耳を傾けて最後に爆笑する。涙を流すくらい楽しいこともある。こんなことをずっと続けていられたらと思う。けれどそうはならない。私たちはそれぞれの元の今の生活に戻らないといけないし、あの頃のように、明日もあさってもしあさっても会うというわけにはいかないのだ。延々と笑い合える友人とも、もう毎日会いたいとは思っていないのだ。私たちは新しい世界を知り、思い出を、違う人とつくろうとしている。つくろうとすることに忙しい。

 資料作成や打ち合わせで実質お盆休みのなかった道弘は、私の帰りが遅くなってもいやな顔ひとつ見せなかった。それどころか毎回、楽しんできてと送り出してくれる。「結婚してからも友達を大切にしてほしいし、俺もそうしたい」といつか道弘は言っていた。

 自宅に帰ると、何を食べたのときいてくれる。おいしかったかときいてくれる。浴槽にお湯を張ってくれている。洗濯物を取り込んでいてくれる。私は一つ一つにお礼を言って、道弘が淹れたコーヒーを飲む。そして一緒に歯を磨いて、ベッドに入り、セックスをした。

 クラゲが出る前に四人で海に行こうという紗枝からの誘いは、自分のスケジュールや道弘と相談することなく予定があると言って断った。初めて紗枝に嘘をついたような気がしたが、多分そんなことはないんだろうと思った。

 私は、プレゼントされてからいつも着けていたバングルを、アクセサリーケースにしまった。

 

 お盆休みが明けた木曜日、仕事の帰りにクリニックに寄った。きれいな服を着た女性が二人、距離を置いた席でスマホを触っている。メロディだけのBGMが流れていることを、一ヵ月前の受診では意識しなかった。今日の私はリラックスしているのかもしれない、とよい方へと考える。

 康平君が手をつなぎたがったらそうしてあげよう、美樹さんが不機嫌になったらなったで仕方ないと覚悟を決めて午前十一時を迎えたのに、杞憂に終わった。その二人が、手をつないで現れたのだ。美樹さんの腕は、まるでつっかえ棒のようにピンと張って見えた。一方で康平君は、三歳の子どもらしく上手に母の手を握っていた。微笑みを期待して視線を移した先には、想像とは違いぎこちない美樹さんの表情があったが、それでも私は自分たちのあいだに漂う喜びを感じ、やけに明るい声を出したのだった。

 名前を呼ばれ、診察室に入る。老齢の医師はピルの副作用の有無を一つ一つ口頭で確認し、「では、今回からは三ヶ月分に増やしておきましょう」と言った。

 しばらくはここに来ないのかと考えると、それがほんのりと寂しいことのように思えた。香水のにおいのする無言の待合室やそこにいる若い女性患者、機敏に動く無表情の女性看護師、歓楽街の中で長年ひっそりと診療を続けている年老いた医師を、私は好いているのかもしれなかった。

 三カ月後はクローゼットに眠っているドレスを着て来ようかと冗談のつもりで考えてみると、それが案外素敵な思いつきであるような気がした。(続く)

中編小説『深海散歩』②

 須田康平君と母親の美樹さんの本格的なカウンセリングは、翌週の木曜日から始まった。

 十時五十分、紺色の麻のワンピース姿で現れた美樹さんは、額にうっすらと汗を滲ませていた。私は、駅からここに来るまでの上り坂と、八月を二週後に控えて日に日に強くなる陽射しのことを思った。

 美樹さんは、受付で私と言葉を交わしてからも、不安げな表情を崩さなかった。私が発した言葉への反応には時間がかかる一方で、視線はせわしなく狭い範囲を小刻みに移動していた。こういった場所を訪れ利用することに、まだ迷いがあるようだった。

 隣の康平君はというと、目の前の私ではなく、事務室の奥の空間を、ポカンと口を開けて見つめていた。どうしてなのか、汗ひとつかいていない。私は、母親のポケットに入れられたミニサイズの康平君を思い浮かべた。

 料金を受け取り、二階に案内する。交わりのない、二人それぞれの気配を背中に感じながら廊下を歩き、階段を上り、また廊下を歩いた。先に面談室に入り、美樹さんに椅子を勧める。壁に設置された電話で、三階の研究室にいる森内先生に内線をかける。はい、今行きます、という返事を受け取り、康平君を振り返った。

「康平君は、もうひとつのお部屋に行くからね」

 私は腰を落とし、手を小さく差し出して言った。康平君は私の手を取らなかったが、拒絶するふうでもなかった。

「手をつなぎたがらないんです」

 美樹さんが遠くから、康平君に確実にきかせる声の強さで言った。私は康平君に触れることなく立ち上がり、ドアのそばに移動した。振り向くと、母子が見つめ合っていた。美樹さんはすでに目が合っている息子に「康平」と呼びかけた。

「お姉さんについて行って。おもちゃで遊んでもらえるよ」

 おもちゃ、という言葉に反応し、康平君は私の足元をすり抜けて廊下に飛び出した。右、左、右と顔を向け、また左を向いたところで視線を止めた。

「こんにちは」

 向こうから姿を現した森内先生は、返事がないことを予期していたみたいに、康平君に頷いて見せた。そして、そのまま美樹さんの待つ面談室に足を踏み入れ、ドアを閉める前に「またあとでね」と声を残した。

 私は、注意を引く大きな動きで、面談室の真向かいにあるプレイルームのドアを開けた。今の状況をどれだけ理解しているのか分からないが、康平君は目の前に現れた空間に興味を示し、私を追い抜いて中に入った。景色が切り替わると関心は壁際に設置されたおもちゃの棚に惹かれたようで、そこしか見えていないみたいに直進して、ミニカーの一台を掴み取った。

 私は受話器を取り、待機室に内線をかける。院生の谷君の、今行きます、という返事をきく。康平君は青いゴミ収集車を、見えなくなるくらいに手のひらで覆って持ち、立ったまま細部を凝視している。谷君が現れて私と言葉を交わしても、ゴミ収集車を捉える視線は動かない。

 ドアを閉めるとき、大きな身体を丸めた谷君が、康平君に声をかける姿が見えた。

 

「どうだった?」

 野宮さんが私の顔を見るなり言った。

「特に問題ないと思いますけど」

 隣の席に腰を下ろしてパソコンを開き、私は答える。

「何か喋った?」

 野宮さんは、発語に遅れが見られる康平君のことを言っているのだった。

「いいえ」と私は否定し、そんなに気になるなら自分が案内をすればいいじゃない、と考えながらパソコンモニターに目を向ける。

 職場で感じた不満を飲み込んだと自覚したとき、私の判断はひどく極端になる。自分が社会に向いていないのではないかという考えに囚われる。しかし、社会不適合者だから大変でさあ、と笑って吹聴するような割り切り方はできない。思ったことすべてを口にしている人なんて、いないのだ。野宮さんにだって、自分の個性だけを特別扱いして免罪符にしようとする人にだって、我慢を強いられる瞬間はあるはずだ。

 そう考えると次に私は、社会でうまくやっている自分を意識することになる。素っ気なく応対されて黙ってしまった野宮さんの横で淡々とパソコン業務を進める私は、この職場に適応しているではないか。すぐに辞めてしまうと思っていた仕事を、七年も続けているじゃないか。

 それにきっと、野宮さんがいなくたって、転職したって、代わりの誰かが、私に影響を与え続ける。その人は、私に快適に仕事をさせる可能性と、私の気を滅入らせる可能性を、同じくらいに有しているのだ。

 世の中にたった一つ自分に合った職場があればいいのだと言いきかせると、私にとってのその職場がここではないという前提を立てていることが明白になった。私は、そのことになぜか驚いた。

 

 夕食に使う材料を残してスーパーで買ってきたものを冷蔵庫にしまったとき、ポテトサラダに入れるキュウリを買い忘れたことに気づいた。

 私は、ジャガイモを袋から取り出し、流水で洗った。黒い土の混じった水が、排水溝に流れていく。色の鮮やかになったジャガイモを五つすべてザルに入れ、蛇口を閉め、キュッという音をきき、シンクの縁に両手をついた。

 美樹さんと康平君、それぞれのカウンセリングが始まって十分ほど経ったとき、私は別の用事でセンターの二階にあがった。廊下を進んでいると、背後で小さな子どもの叫び声が響いた。振り返って続けてきこえてきたのは、院生の谷君の、分かった、分かったから、という声だった。その声にはまだ大人の明るさが残っていたが、余裕を失いかけているようだった。私から見て左側の、プレイルームのドアが開き、康平君と、中腰になって康平君の脇腹に後ろから手をかけている谷君が転がるように出てきた。二人の声は空間の仕切りを失ったことで、鮮明に私の耳に届いた。

 康平君は、まるで化け物から逃れているかのように必死の形相で、全身で床にへばりつき、向かいの面談室に右手を伸ばした。一メートル以上距離があり、ドアに届くはずはなかったが、そのノブが回った。

「どうしましたか」

 いつも以上に落ち着いた声を発した森内先生の後ろに隠れるように、美樹さんが首を伸ばして覗いていた。自分が人見知りの子どものようなことをしているのに、目元からは、康平君への蔑みに似た色の視線が放たれていた。進み出ることもなく右手を口元に添え、その肘を左手で包み、眉間に力を込める姿を、私ははっきり、醜いと思った。

 そのときの康平君は、前方に伸ばした腕を一度も下げることなく、下半身を大口に飲み込まれてしまったみたいに涙を流し、言葉にならない掠れ声を出し、何かを強く訴えていた。私は、とにかく誰かが駆け寄って、抱きしめてあげないといけないと思った。どうして誰もそれをしないのかと憤った。美樹さんも、森内先生も、谷君も、優しくない。美樹さんには、母親の資格がないと思った。そして、自分が覚束ない足取りで近づいて康平君を横から抱きしめることを想像し、一歩踏み出しただけで、足を止めた。

 シンクに伏せていた顔をあげ、ピーラーを取り出し、濡れたジャガイモを手に持った。今なら、ジャガイモをしまい、料理を中止できる。うどんでもそばでも、ピザでもお寿司でも、宅配してもらえばいい。まだ道弘は会社だろうから、帰りにお弁当を買ってきてもらったっていい。そういえば、お米もセットし忘れていた。でもひとたびピーラーをジャガイモの皮にあてれば、ポテトサラダを完成させ、豚の生姜焼きもつくらねばならない。

 どちらを選んでも間違いではないのに、決定打がなく考えをまとめられずにいると、今月は出費がかさんだから自炊を徹底しようと自分で決めたことを思い出した。思い出したくないことを、思い出してしまった気がした。

 私は、憂うつを吐き出すつもりでため息をつき、腕を下ろすその動作の中で素早く、殴りつけるようにピーラーをジャガイモにあてた。深く食い込んだ刃が、大きく切り取った皮を一枚、シンクに落とした。

 

 豚の生姜焼きとポテトサラダはセットであるべきだ、とは付き合い始めた頃からの道弘のこだわりだった。交互に口に運んでは、味わう顔を私に見せた。

「キュウリ買うの忘れちゃって。ごめんね」

 お代わりしたご飯にとりかかる道弘に、私は言った。

「え、なんの?」

「ポテトサラダにキュウリ入ってないでしょ」

「ああ、ほんとだ」

 道弘の返事が怪しかったので、普段つくるポテトサラダにキュウリが入っていることを知っていたのか、冗談っぽく問い詰めた。道弘は首を傾げながらかわしていたが、何度目かに観念して、「キュウリの存在を意識したことはなかったけど、あった方がうまいと思う」と言った。道弘の返事をきき出して、自分が可笑しくなって笑うと思ったが、急にキュウリを買い忘れたことへの罪悪感が増してきて、その気が萎んだ。

 夕食を終えて九時になると、道弘がソファに移動してテレビのチャンネルを替えた。毎週熱心に観ている、年代の異なる三人の男がシェアハウスで暮らすドラマのオープニングが流れていた。私も隣に腰を下ろし、前のめりになっている道弘の頭越しに、ぼんやりとテレビ画面を眺めた。そして再び、昼間の職場でのことを思い出した。

 森内先生に促されて、ようやく美樹さんは声を枯らした康平君に歩み寄り、腋の下に手を差し入れて抱きかかえた。康平君は喉をひっくひっく鳴らしながら母親に掴まり、首元に顔をうずめた。やがて美樹さんの手のひらが、息子の背中を優しく叩き始めた。

 美樹さんは、警戒の色を浮かべたそれまでの表情から一変し、この状況を唯一打開できるという自信に溢れた、不敵にも見える笑みを浮かべていた。私がこうすれば康平は安らぐに決まっているでしょう、そんなことは分かっているんです。その毅然とした態度によって、少なくとも私と谷君は黙って待つことしかできず、森内先生はあくまで想定内だという余裕のある佇まいで、やはり静かに待っていた。康平君の呼吸が落ち着き、ついには眠ってしまうと、美樹さんは息子を抱いたまま面談室に向かい、森内先生との面談を済ませて予定通りの時間に帰っていった。

 十時にドラマが終わり、道弘が風呂に入った。交代で私も入り、歯を磨き、テレビを消し、一緒に寝室に向かった。

 ベッドで仰向けに並んで少し喋ってから、私は道弘の手を握った。しばらくそのままじっとして、どちらからということもなく、服を脱がし合った。身体を起こしリモコンでエアコンのスイッチを入れる道弘に「してほしい」と私は言った。何をしてほしいのかは言わなかったし、道弘も確かめなかったし、自分でもよく分かっていなかった。道弘は、目を見つめてから、ゆっくりと、まるで意識のない人を扱うように私をベッドに横たえた。そしてその身体に、時間をかけて丁寧にキスをし、指先と手のひらで撫でた。私は道弘の唇を感じ、吐息を感じ、手のぬくもりを感じた。道弘は黙って、私の代わりになって私の身体から何かを探し出すように愛撫を重ねた。妻を理解しようと、慰めようと、快楽に浸らせようとしていることが伝わってきて、私は自分の安堵と喜びの程度を、まるごと道弘に伝えたいと思った。

 行為を終えてからも、道弘は私の身体を抱いてくれていた。二人の汗ばんだ身体は、そのまま溶け、ベッドに沈み込んでしまいそうだった。

 エアコンの稼働音が部屋の静けさと中和した頃、道弘が言葉を発する気配がした。それが何気ないものであればあるほど、私の心を落ち着けてくれるだろうと想像した。目を閉じて、道弘の胸に額をあてた。

「今度の土曜日だよな、唯ちゃんが遊びに来るの」

 私は閉じたばかりの目をそっと開き、「うん」と言った。大学を辞めてからずっとフリーターをしている妹の唯が、遊びに行っていいかと連絡を寄こしたのは先週のことだった。何かあったの、と私がきくと彼女は、別に何もないよ、とだけ返信してきた。

「唯ちゃんって、ミートソーススパゲティ好きなんじゃなかったっけ?」

「うん」

よく覚えてたね、という言葉は、喉が締め付けられて継げなかった。暗さに慣れた瞳孔が、室内に侵入した青白い明るさを感知していた。

「じゃあ土曜日、俺がスパゲティつくろうかな。あ、ちゃんとサラダとかも添えるしさ。朝にでも、スーパーに買い出しに行こう」

 道弘の胸に触れる額で頷き、間もなく眠った。

 

 

 

 唯は、私が勝手に想像していたよりも明るく、元気そうだった。カレッジTシャツにスキニージーンズの恰好で、駅前のケーキ屋で買ったというプリンを手土産に持ってきた。

「素敵なマンション。なんだか、住んでるだけで幸せになれそう」

 挨拶をするなりそう言って、続けてエントランスの解放感や、廊下に長い光を届ける窓の設計や、レトロなデザインの玄関ドアを一つ一つ褒めた。

「俺たちもそこが気に入って引っ越したんだけど、唯ちゃんに言われて久しぶりに思い出したよ。いいマンションなんだよな、ここ。古いけど」

 キッチンから横顔を見せて笑う道弘は、私が普段使う、赤いエプロンをしている。

「これ、お姉ちゃんが買ってきたの?」

 テーブルの上の花瓶に生けたクリーム色のアフリカンマリーゴールドを、唯が近い距離から指差して言った。午前中に道弘と行ったスーパーの帰りに、花屋に寄って買ったものだった。

「うん、ときどきね、買うの」

 私たちの母親は、よく家のあちこちで花を花瓶に生けた。玄関や、リビングや、廊下の小窓や、二人の娘の部屋に。当時の私は、その光景を胸の内で皮肉るべく、花を飾っていったいどうなるの、花びらが落ちて部屋が汚れるじゃないか、などと考えていた。私がお金を出すわけでも、水をやったり掃除をするわけでもないのに。

「唯ちゃん、ビール飲む? あれ、二十歳過ぎてるっけ? ああ、過ぎてるよな。何言ってんだ」

 キッチンで手を動かしながら、道弘が独り言のように言う。唯は声を出さずに笑い、私と目が合うと「じゃあ、いただきます」と首をすくめた。私は冷蔵庫からビールを三本取り出し、冷やしておいたビールグラスに注いだ。

 ミートソーススパゲティ、水菜とツナのサラダ、冷たいカボチャスープがテーブルに並ぶと、え、え、ええ?と唯が声を重ねた。

「道弘さん、料理上手なんですね。いいなあお姉ちゃん」

「唯が好きってきいて、ミートソーススパゲティつくったのよ」

 本当? 嬉しい、と唯は道弘の横顔を見て言った。道弘は頭をかいて分かりやすく照れくさがって、まあまあ、と声を出しながら椅子に腰を下ろしたが、ビールを忘れたことに気づいてキッチンに取りに行った。

 食事が始まると、話題は道弘の仕事のことに集中した。唯が知りたがり、道弘が答えると、唯が感心して質問を重ねる。アルバイトしかしたことのない唯にとって、正社員になって十カ月の道弘は少しだけ先輩だった。クリニックのホームページ製作において、どのような営業がかけられ、どのようなクリエイターが必要で、どれくらいのお金が動くのか、これまで私も詳しくきいたことのない内容を、道弘は最初遠慮がちに、途中から熱心に説明した。

 気分よく喋る道弘を眺めながら、私も普段からもう少し話をきいてみてもいいのかもしれないと思った。なんとなく、家庭内で仕事の話をすることを遠慮していたのだ。しかし私は、自身の無意識によるその回避を知るとともに、思い出してもいた。フリーランスのカメラマンとして生計をたてていたとき、こうすればもうちょっとうまくいくんじゃない、という私の提案に、ひどく不機嫌になった道弘を。カメラマンという仕事にプライドがあって、今の営業の仕事にプライドがないわけではない。私が言い切れるくらいに、入社後の道弘が未知の世界を知ろうと、仕事を覚えようと努力する姿を見てきた。

「先月、営業成績トップだったんだよね」

 そう口を挟んだとき、道弘の真剣な表情が緩んだところを、瞬きもせずに見つめていた。

 

 唯と洗い物を片付けてから、三人でテレビゲームをした。三時には、唯の手土産のプリンと、私たちが買ってきたアップルパイを食べた。アップルパイは、きれいに半分残した。

 五時になり唯を駅まで送るときになって、私は唯が何か相談事があって会いにきたのではなかったか、ということを思い出した。唯が切符を買うタイミングで、そばに寄って後ろから声をかけた。

「バイト、順調?」

「普通に順調だよ。どうして?」

「ううん、今日、道弘の話ばっかりだったからさ」

「そう? あ、やばい、あと一分で電車来る」

 唯は慌てて切符を引き抜き、道弘に挨拶をして、手を振りながら改札へと走っていった。

 

 マンションに着いたとき、私の身体は疲労に満ちていたが、登山の帰りに感じたものとは違った。私の気持ち次第で忘れられそうな、重量のない疲労だった。しかし私は、そうしようとは思わなかった。

 道弘も似たことを感じているのか、まっすぐにソファに向かって腰を落とし、今日のできごとを平板な声で振り返りながら、ときどき、私の反応も気にせず一人で笑った。

 出しっぱなしのゲーム機と、テーブルの上のアップルパイが、楽しい時間の残り火のように映った。子どもの頃の、友達が帰ったあとの自室の風景と重なった。しかしあのときは、不意に涙が出そうなくらい、寂しかったように思う。私は、私と道弘が一つの家族であることを新たに強く意識した。半年前に結婚してからの私には唯や両親よりも道弘が長くそばにいて、私たちに会いにきた人は、妹であっても、必ず去っていくのだ。私たちは、どれだけ大切な人を迎え見送っても、二人が残るから、寂しくないのだ。

 何ごともスマートにこなす紗枝と隆二さんのような夫婦でなくたっていい。彼らと一緒に暮らすわけではないし、家が隣というわけでもない。一生付き合っていくかときかれれば、そうはならないという気もする。たぶんそう遠くない未来、彼女たちが、私たちから離れていく。そしてそのときも、私は傷ついたりしない。

 私がアップルパイを一切れずつラップで包んでいると、道弘がソファを離れてゲーム機を片付け始めた。カサカサ、カチャカチャ、という音が、レースのカーテンを透かして夕陽が射し込む部屋に響いていた。

 

 

 

 誕生日前日の日曜日、山登りのときに合流した駅で、今度は改札口の外で紗枝と待ち合わせた。

 訪れたことのない町の、入ったことのない店で誕生日のお祝いをする——紗枝が言い始めたこの遊びを、私は気に入っている。市内でさえ、降りたことのない駅がたくさんあった。もし私が大都会や片田舎に憧れそれが叶わぬ人間であったとしても、この発見があれば、前向きに同じ場所に住み続けられた気がする。

「道弘さん、たいしたことなくてよかったね。もうすっかり大丈夫なの?」

「うん。家に帰るまでは辛そうだったけど、夜にはほとんど治ってた。長く歩くと、ときどきああなるんだって」

 本当は、登山の翌日も道弘は一日中寝ていたし、数日間は痛みを引きずっていた。けれど、かっこ悪いからすぐ治ったことにしてくれと頼まれていた。私は思わず笑ってしまったけど、続けて道弘は、心配かけちゃ悪いから、次誘いにくくなっちゃうだろうし、と脚のつけ根に湿布を貼りながら殊勝なことを言ったのだ。

「また四人で遊ぼうね。今度は、海に行こう」

 改札口から歩き始めると、ここにいない道弘の心境を悟ったみたいに紗枝が言った。私は頷き、海なら怪我しないしね、多分、と応じた。

 駅舎からの連絡通路を渡り大型ショッピングモールに入ると、ファッションフロアも、食料品のフロアも、買い物客で溢れていた。私たちはエスカレーターで一階に降り、建物を出て、住宅街の方へと進んだ。カフェや雑貨店を横目に適当に右に左に折れ、最初に見つけた、赤ちょうちんをぶら下げた焼鳥屋に入った。

 カウンター席につくと、十代らしき女の子が注文を取りにきた。慣れた様子でおしぼりを渡し、お飲み物は、と尋ねる。伝票の挟まった小型のバインダーを持つ手は、剥きたてのように肌理が細かかった。その滑らかさは衝撃的と言ってもいいほどで、私は咄嗟に自分の手と見比べようとした視線をなんとかカウンターの木目に留めた。

 私は梅酒ソーダを、紗枝はレモンサワーを注文した。つき出しと一緒に出てきたグラスを合わせ、乾杯する。

「もう三十歳かあ」

 唇からグラスを離してそう言ったのは、紗枝だった。

「ねえ、私だよ、誕生日なの。紗枝は十二月じゃない」

「そうだそうだ」紗枝は、本当に勘違いしていたみたいに、自分の言葉を笑った。「でも倫子も、正確にはまだ二十九歳でしょ」

「うん、あと数時間は」

 私は答え、狭い店内を見回した。時計は見当たらなかった。テーブル席を含め、二十ほどある席はほぼ客で埋まっている。古い幼馴染に向けるようなガラガラとした声が、そこかしこであがっていた。どこかの声が大きくなれば、どこかの声が小さくなっているとでもいうのか、響く全体の音の量は一定のように感じられた。

「倫子は、二十六日の何時に産まれたの?」

「え、分かんない。何時だろう——。紗枝は、自分が産まれた時間知ってるの?」

「夕食の準備してたら産気づいて、タクシーで病院に行って、夕方の五時四十二分に産まれたってきいたよ。お母さん、タクシーに乗ってからコンロの火を点けっぱなしだったような気がしてきて、途中でタクシー停めて公衆電話使って、お祖母ちゃんに火を止めに行くように頼んだんだって。結局、火は消してたんだけど」

 嘘でしょ、と私は口元が緩むのを感じながら言い、自分が産まれたのが何時であれば嬉しいだろう、と考えた。朝に産まれるというのは、少しできすぎている。真っ昼間というのも、気が利いていない。夕方——夕方が素敵だ。紗枝はその夕方に産まれたのか。

 お待たせしました、という声と一緒に、二本ずつの焼き鳥が三種、目の前に置かれた。頭にタオルを巻いた若い男性店員が、ハツと、ネギマと、砂ずりです、と手のひらで示してくれる。私はネギマを、紗枝はハツを自分の皿に取り、かぶりつく。

 紗枝は早くも一杯目を飲み干し、さっきの女の子を呼んで、レモンサワーのお代わりを注文した。

「高校生くらいかな」

 紗枝は、カウンターに置いた空のグラスに指を添えたまま、Tシャツの生地を浮かせている細い背中を眺めて言った。

「あの子も、生まれて十何年か経ってるんだね」

「どうしたの?」私は、疑問と可笑しさが混じるのを感じて言った。「紗枝、今日はすごく、歳を気にしてる」

 紗枝は今気づいたような顔を見せ、ふふ、と笑う。

「三十歳って、もっと大人だと思ってなかった? お父さんとかお母さんのこと考えるとさ。両親が三十歳のときって、私は七歳だったわけだから。子どものあるなしもそうだけど、今の私よりずっとしっかりしてたように思う」

 それは、紗枝と私がいるなら私の方が口にすべきことであるような気がした。しかし代わりに頭に浮かんだ、紗枝でしっかりしていないなら私はどうなるのよ、という台詞も、気づいたときには声にするタイミングを逸していた。

「二人が付き合ってた頃の写真が実家の寝室に飾ってあるんだけど、襟裳岬でさ、お父さんはお母さんの肩を抱いて、お母さんはお父さんの腰に手を回して、お揃いのサングラスしてさ、もう夫婦みたいなんだよね。まだ大学生だったらしいんだけど。なんていうか、男女二人として完成してるって雰囲気があるの。この先ずっと幸せであることを二人が望んでいて、しかもそれが保証されてるのを分かってるって感じなの」

 店員の女の子が、レモンサワーです、と言って紗枝の前にグラスを置く。紗枝は、あいたグラスを彼女に渡す。

「それは、二人が今も一緒にいることを、紗枝が知ってるから」

「そうなんだけど、私が三十になって、やっとあの写真のときの、二十歳のお父さんとお母さんに追いついた感覚」

「だからあ、紗枝はまだ三十歳じゃないじゃん」

 新しいレモンサワーに紗枝が口をつけ、三分の一ほど喉に流す。私は、紗枝の様子がおかしいような気がして、違和感を本人に伝えるつもりで視線を送る。紗枝は視線に気づき、たまに見せる、訳をすべて分かったような、口を開かずに口角を上げる微笑みを浮かべる。

 私は一気に、分かっていないのは自分の方で、紗枝にそれを見透かされ、傷つかないように指摘されている気持ちになった。しかし紗枝が次に口にした言葉で、私はその劣等感をほとんど意識する間もなく、思考を停止させられた。

不妊治療始めたの」

 何秒かしてから私は「え」と声を出し、どうして、と考え、セックスをしても妊娠しないからだ、と頭の中で自分に教えた。そして、医療機関に頼る前に一般に考えられる方法を紗枝や隆二さんが試していないはずがなく、それも正確に根気強く続けたに違いなく、それだけで、胸がいっぱいになった。

「だから、お酒は今日で飲み納め」

 私は早く言葉を継がなければならず、それは私が紗枝を大切な友達だと考えているからだった。

「検査してもらったってこと?」

 ありきたりで答えの分かっている質問であったが、声を出せたことで、緊張が緩んだ。そして不妊症の検査がどんなものであったかということに、素早く考えを巡らせた。

「うん、してもらった」

「その、隆二さんも?」

「一緒に受けてくれたわ。ていうか、できないねって話になったとき『俺は検査受けてみようと思うけど、紗枝も一緒に受けに行かない?』って隆二から誘ってくれた」

「何それ、優しすぎるよ。いや、優しいというか、当たり前といえば当たり前なのかもしれないけど、なかなか言えないよ、普通。一人で受けに行かされる話とか、よくきくし」

 そう言ってから私は、そんな話を実際には耳にしていないことに気づいた。

「うん、すごく心強かった」

 紗枝は、憧れの先輩のことを話すときのような、遠い目をしていた。十代の女の子に戻ったようで、危うさを感じたけれど、紗枝が話しているのは自分の夫のことなのだ。

「隆二さんって本当に、頼りになるよね。優しいし、頭もいいし、運動もできるし——山登りのときも、道弘を背負ってずんずん歩いて、平気な顔してるし」

 紗枝は、それについては何も言わず、両肘をカウンターについて手元のおしぼりのあたりに視線を落とした。

 カウンターの向こうから、男性店員が焼き鳥を乗せた皿を並べて、部位の名称を教えてくれる。紗枝も私も、焼き鳥をじっと見つめて曖昧に頷き、説明をきき終えてからグラスに口をつけた。私がそのうちの一本に手を伸ばして口に運ぶと、紗枝も同じようにした。

 そうして続いた静けさの中、私は自分が褒め足りなかったような気がしてきて、隆二さんがメガバンクの行員であることだとか、百メートル走でインカレに出たことだとか、二人が去年一軒家を購入したことだとか、そういったことを口にしてみるべきなのかもしれないと考え始めていた。

「でも、理屈っぽいところあってさあ、隆二」

 紗枝が、顔をこちらに向けて喋り始めた。

「よく言えば合理的なんだけど。たとえば私がチラシで安い肉を見つけるとするでしょ。で、普段は行かないそのスーパーに行ったりすると、何十円かの違いなんだから、その時間を違うことに使った方がいい、なんて言うの。それはそうかもしれないけどさ、その安い肉を見つけたとか、売り切れになる前に買えたとか、そういう喜びもあるでしょ? いつもと違う道を歩くっていう楽しみも、ちょっとはあるでしょ。新しくできたお店を見つけるかもしれないし。まあ、特に何も見つからなかったんだけどさ」

 急に話の風向きが変わったことに私は驚きつつ、紗枝が愚痴を言ったことに瑞々しい親しみを感じていた。

「そんなこと言ったらさ、登山だってなんなのって話でしょ? ストレス解消したければ家で映画でも見てればいいし、運動したいなら近所のスポーツジムでトレーニングすればいいじゃん。ああ、でもそんなこと言ったら、登山はそれが一度に叶えられるから、とか反論されそう」

 紗枝は焼き鳥を頬張り、流し込むように大きくグラスを傾けて眉間に皺を寄せた。私が堪えきれずに笑ってしまうと、紗枝も表情を崩して歯を見せた。それから、紗枝と私の夫の愚痴合戦となり、私の誕生日のお祝いという雰囲気は完全になくなり、しかしとても楽しい時間が始まった。

 

 焼鳥屋を出たときには、十一時を回っていた。住宅街は静まり返っており、自分たちの声は大きすぎないはずだったが、よく響いてきこえた。古いブロック塀やこんもりした生垣は、実家の近くにもあったことを覚えており、違う町であるのに懐かしい気持ちになった。

「そういえば、前に言ってた親子セラピー、順調?」

「まあ、順調だよ。ちょうど先週、個別のカウンセリングが始まったばっかりだけど」

「森内先生が担当するなら、安心だね」

 そうだね、と私は同意しながら、不妊治療を始めた紗枝が親子の話をきいて気分を害さないか心配した。しかしこの話を切り出したのが紗枝であることを思い、またよく気遣いのできる紗枝が人からの気遣いにはときに抵抗を示すことを思い出した。

「お父さんって、いるんだっけ?」

「その子が生まれてすぐ、別れちゃったみたい。詳しいことは、私も分からないんだけど」

 私は、カウンセリングセンターの二階で起きた小さな事件のことを、紗枝に話してみようかと考えた。けれど、紗枝に説明する中で、どこかに自己弁護の気持ちが混じってしまうと思った。私たちは三歳の康平君を声が枯れるほど泣かせてしまった。その彼を泣きやませたのは、クライアントである母親の美樹さんだった。私が内心で母親失格の烙印を押した美樹さんこそが、結局は康平君の安息の地だった。

 康平君があれほどに美樹さんを求める瞬間があるということを、想像できていなかった。私は、母と子の絆を侮っていたのだろうか。床を這いつくばう康平君が、美樹さんのいる面談室のドアに右手を伸ばしていた光景が、冴えない頭の中でチラチラと映った。

 駅が見えてきた頃、紗枝が立ち止まり、鞄から小さな紙袋を取り出して私に握らせた。

「何?」

 紗枝は答えず、私を見ていた。紙袋を開いて逆さにすると、金色の、細いバングルが手のひらに落ちた。

「仕事辞めてから、趣味で彫金始めたの。まだまだなんだけど、出来のいいの選んできたから、よかったら使って」

「つくったの? これ、紗枝が?」

 紗枝は恥じらいのある顔を見せて、うん、と頷いた。私は、指先で摘まんだバングルの角度をクルクルと変えて、街灯の明かりに照らした。不規則な加工を施された表面が鈍く光って、優しく私の目に射し込んだ。

「ありがとう。この、端っこが水滴みたいに丸く膨らんでるの、かわいい」

「じゃ、こちらこそありがとう。私もそこが気に入ってるの」

バングルの内側には、私のイニシャルと誕生日、そしてその隣には「doigt」という文字が印刻されていた。

「これ、ブランド名?」

「ブランドっていうほど立派なものじゃないけど、一応、そうかな、ただの名前」

「なんて読むの? 英語じゃないよね?」

「フランス語で、指っていう意味。ドワ、って読むの」

 なおも照れくさそうに答える紗枝を面白がって、私はいろいろと質問をぶつけた。きっかけは何気なく通い始めた彫金教室であったこと、講師に頼み込んで個人的に指導を受けたこと、自宅の一室にこもって日中に作業をしていること、ジュエリーショップを営む親戚に紹介してもらった業者から金や石を仕入れていること、ブログを始めてアクセサリーの通販をしていること——。私の知らなかったことが、トランプをめくるみたいに次々に明らかになっていった。

「すごい行動力。どうして、そんな素敵なことばっかり思いつくの?」

「ちょっとやってみて、楽しそうなこと続けてるだけだから、すごくないよ。そのうち嫌になってやめちゃうかもしれないし」

 私は何かを言おうとした。けれど咄嗟に、今の時間の心地よさを優先し、そこに浸った。きっと、たわいもないことなのだろうと考えると、言葉にしかけていた内容もあっさりと忘れられた。

 人影のほとんどなくなった駅前で、バングルを着けてアクションヒーローのようなポーズをとると、紗枝がスマホで写真を撮ってくれた。

 

 マンションに帰ったとき、道弘はすでにベッドで眠っていた。冷蔵庫を覗くと、切らしていたと思っていた麦茶がガラスポットにたっぷり冷やされていた。道弘が、パックのお茶を買ってきてつくってくれたのだ。

 麦茶をコップに注いで二杯飲み、バングルをテーブルに置くと、バスタオルと下着を持って風呂に向かった。湯が貯まるのを待つ気力はなく、ぬるいシャワーを浴びて汗を流した。

 ざっと身体を拭いて、パジャマを着てベッドに向かう。さっきまでセミダブルベッドの真ん中にいた道弘が、壁際に寄っていた。静かに身体を横たえると、後頭部と枕のあいだですぐに水気が温まり始めた。ドライヤーを省略したことを後悔し、朝の寝ぐせを覚悟した。そして、明日の仕事のことを思い、そこに今から塞いでいく気持ちがあることを認めた。

 紗枝は月曜日を、明日をこわがっていない。翌日が仕事でも休日でも、同じ種類の希望を持って眠りについているように思える。大学三回生になってから進路変更をして、経済学部から心理系の大学院へと進み、臨床心理士の資格を取った。近くに求人が少ないとみると県を二つ跳び越えた引っ越しをしてから就職活動を始め、三つの職場を掛け持ちした。私が知るどの臨床心理士より、情熱を持って仕事に取り組んでいた。そして隆二さんと結婚すると一転、仕事をすべて辞め、二人で一軒家を購入し、私の知らないうちに彫金を始めて販売までしているという。毎月二人で登山を楽しみ、隆二さんは勤続十一年で支店長代理。子どもができなくたって、それを忘れるくらいの充実が、あの二人を満たしている。そして私の勘によると、たぶん、子どもも結局は授かるのだ。

 私は、やりたい仕事でもないのに、辞められないでいる。洒落た趣味も見つけられない。登山だって、特別楽しくもない。

 ふっと湧いた、道弘が私を安定して養える夫だったら、という気持ちを慌てて抑え込んだ。おそるおそる振り向いた先にいる道弘は、小さな寝息をたてて眠っていた。

 いったいなんてことを、人の、それも道弘のせいにしようとしていたのだろう。私は、そういう人間を嫌っていたのではなかったか。

 明日、正確な出生時間は知らないけれど、私は、三十歳になる。

 

 

 

 朝、道弘に誕生日おめでとうと言われ、仕事終わりの外食に誘われた。混んだ電車に乗り込んでスマホを見ると、父と母から、それぞれお祝いのメッセージが届いていた。長文の返事を打っていたら、次は妹の唯と、紗枝からもメッセージが届いた。

 立て続けの祝福に思わず口元を緩めたとき、自分が昨晩、ベッドで後ろ向きの感情に囚われていたことを思い出した。一晩眠って誕生日を迎えただけで、私はそこからあっさりと抜け出していた。

 吊り革を持ち直すと、右腕でバングルが揺れた。くすんだ金色は、腕によく馴染んでいた。何年も使い込んできたような、私のお守りとしてさまざまな経験を潜り抜けてきたような愛着を覚えた。カウンセリングセンターで働いていた頃の紗枝は、中学の入学祝いに親に買ってもらったという腕時計を着けていた。しかし最近の紗枝がどうであったかは、昨日も会ったというのに覚えていなかった。

 メッセージはあとで返すことにして、スマホを鞄にしまい、晴れた窓の外を眺めた。いつもと同じ景色であるはずだったが、新しい日々が始まった気がした。いや実際に、今日は昨日とは違う、新しい一日であった。私は、そんなことも忘れていたのだ。

 出勤して顔を合わせた途端野宮さんが私の誕生日を祝ってくれるという妄想をして、そうならなかったときでさえ、清々しい気持ちでいられた。職場に誕生日を祝う習慣はなかったし、そもそも野宮さんが私の誕生日を知っているはずがなかった。自分を騙して絶対に起こらないことに期待してみる遊びは、今日の夕食を楽しみにしていることの証拠となって、気分のよさを確固たるものにしてくれた。

 定時であがり、七時に道弘の職場の近くで待ち合わせ、タクシーを拾った。十五分ほどで到着したのは、県立公園のそば、見晴らしのいい丘の上にあるフレンチレストランだった。赤いウロコ瓦の屋根と白壁は、立派な一軒家が並ぶ一帯の中でも目を引いた。

「こんな格好で大丈夫かな?」

 私は、ベージュのブラウスに抹茶色のパンツを履いていた。

堅苦しいところじゃないから。営業先の院長に教えてもらったんだけど、デニムだって大丈夫」

 火の灯るランプが吊るされた玄関に立つと、白いシャツに黒いベストを身に着けた四十代くらいの女性が出迎えてくれた。短い廊下を渡り、一面ガラス張りの部屋に足を踏み入れる。長方形のその空間には、等間隔に丸いテーブルが三つ並んでいた。他に客はいなかった。

 真ん中のテーブルにつき、道弘と女性店員とのやり取りを見届け、窓の外に目をやると、県立公園の並木道がすぐ近くにあるように見下ろせた。その向こうには、ビルの立ち並ぶ景色が広がっている。

 そのシチュエーションだけで、私の胸は高鳴っていた。ちゃんと完食できるだろうかという不安さえ生まれた。それでも、食前酒を喉に流すと空腹を感じ、運ばれてくる本格的なフレンチを食べ進めた。魚料理も肉料理も凝りすぎず、私たちは肩肘張らずにおいしいおいしいと言い合った。

 アイスクリームを食べたと思ったら、そのあとのコーヒーと一緒に、ロウソクの立ったカボチャのケーキが出された。特別な演出はなかったが、女性店員と白ひげを生やしたシェフが出てきて、おめでとうございますと微笑んだ。談笑ののち彼らがキッチンに引き返し、道弘から真珠のついたシンプルなネックレスを受け取ると、もう自分の中には何も言葉が残っていないように思えた。

 

 駅までのタクシーの中でも、電車の中でも、マンションまで手をつないで歩いているあいだも、自分は幸福の中にいるのだと感じていた。交代で風呂に入り、身体を拭いてパジャマを身に着けてベッドに向かうときにやっと、これでこの幸せな時間は一応の区切りがつくのだと意識した。

 ベッドに入るなりキスをして、着たばかりのパジャマを脱がし合った。少しだけ飲んだワインの酔いを、身体の火照りで今さらながらに自覚した。互いにいつも以上に、相手を求めていた。アルコールのせいでも、誕生日を祝ってもらった高揚感のせいでもよかった。求めた、セックスをしたという既成事実をもとに、またいっそう道弘を好きになるのだと思った。

 ふと、上になっていた道弘が愛撫をやめ、身体を離した。黙ったままベッドから降りて窓を閉め、エアコンのスイッチを入れた。私たちはすでに、じっとりと汗をかいていた。

 道弘は私のそばで一度膝立ちになり、それから腰を下ろした。

「今日、なしでいい?」

「なしって?」

「ゴム、しないでいい?」

 これまで、道弘は私とのセックスにおいて必ず避妊をしてきた。どんなに気持ちが盛り上がっていたときも、必ず、安全なタイミングでコンドームを着用した。行為を終えたときには、コンドームがきちんと役目を果たしたことを確認した。その道弘が、避妊をしたくないと言っている。

「子ども、つくろう」

 薄暗がりの中、濃い影が顔を覆っていた。就職してからうっすらと脂肪がつき始めた身体は、窓の外から射し込む明かりで滑らかで真っ白だった。表情を読み取ろうとは、なぜか思わなかった。

「子ども?」

「そう、子ども。俺と倫子の」

 私の問い返しに丁寧に答えた道弘の声には、愛の形を整えて差し出したような優しい響きがあった。

「仕事が——」

 肌の露わが、急に恥ずかしくなった。私は右手で胸を隠し、足元で丸まっていた薄い掛け布団を左手で引き寄せる。

「仕事?」

「産休とったら、戻りにくいし」

 道弘が正座を解いてあぐらをかき、顔の高さが変わったことで、緊張が崩れた表情が見えた。

「産休とったら戻りにくいって、いつの時代だよ。大学職員なんだから、そこはきっちりしてるはずだよ。育休だってとれるさ。多少戻りにくいって気持ちは分かるけどさ、だから子どもをつくらないってことにはならないだろ」

「うん、そうだね。でも——」

「辞めてもいいよ」

「え?」

「仕事、辞めてもいい。俺が稼ぐから」

 四方八方から問い詰められているように、私は混乱する。

「ちょっと待って、ちょっと、待って。考えるから」

 私は道弘の脇を抜け、ベッドの足元から床に降りた。掛布団を落とすように残して裸のまま洗面所に行き、しかしそこでは一人きりになれない不安があり、浴室に入ってタイルの床に座り込んだ。

 いつかこのときが訪れることを、私は知っていたはずだ。道弘と将来の子どもの話をしたことはあったし、ほしいね、と口に出してもいた。二人で名前を考えたこともあった。そしてさっきのような場面が訪れたとき、自分はごく自然に受け入れるのだろうと思っていた。お腹に命を授かる不安、その命を守っていく不安、経済的不安、そういったものが立ち塞がったとしても、世の中のほとんどの女性がそうであるように、跳び越えていけるものだと思っていた。ぬめりのような不安にまとわりつかれたとしても、ハードルを越えれば百点を取ったのと同じになるのだからと、私は高をくくっていたのだろうか。何の訓練も、何の準備も必要ないと。

 いや、と私は首を振る。ごく普通に三十年を生きてきた自分が子を産むのに、訓練や準備など必要ない。仮に必要だったとしても、これまでの経験の中に組み込まれているはずだ。真面目すぎず不良でもない私は、おおよそ平均的なことを、一通り、ほとんど漏れなく経験してきた。

 産んで育てるという覚悟さえ、本当はいらないのかもしれない。普通の女が、普通に妊娠と出産、子育てをしようというのだ。むしろ、飛び抜けた何かがあるわけではない私のような人間こそ、何も考えずに、乗り越えるべきことなのだ。

 立ち上がり、腿の内側に右手を差し入れた。先程は確かに濡れていたところが、乾いていた。心だけでなく身体も避妊をしないセックスを拒んでいるという絶望が、頭を過ぎった。しかし性的興奮の鎮静と時間経過による乾燥だという当たり前の事実に気づき、鼓動が落ち着くのを待ってシャワーの栓をひねった。

 

 寝室で、道弘はパジャマを着てベッドに腰かけていた。私は、きれいに畳まれた自分の下着とパジャマを手に取り、身に着けていく。

「ごめんな。急すぎたよな。さっき風呂覗いたんだけど、一人にした方がいいかなと思って」

「ううん」

 私は最後のボタンを留め、道弘の隣に腰かける。夫の身体に触れないように、ベッドに手を置いた。

「ちょっとびっくりしたの」

「なんで俺って、いっつもこうなんだろうな。前もって言っとけば問題ないようなことなのに。でも、ちゃんと覚悟して言ったってことは分かってほしい。勢いで言ったわけじゃないってこと。ずっと、考えてたんだ」

「うん」

「だから、今日はもうやめとくよ。遅くなっちゃったし。明日、二人とも仕事だし」

「大丈夫だよ」

「え? 大丈夫って?」

 顔を向けた道弘の表情には、隠しきれない期待があった。私は、震えないように注意深く声を発した。

「ゴム、なしで」

 道弘は表情を消し、私の手を取った。それは、初めてキスをしたときの触れ方に似ていた。

 

 

 

 避妊をしないセックスを終えて三日目の朝、自宅トイレで周期通りの出血を認めた。その瞬間に私を支配したのは、安堵だった。次に、どうせなら妊娠してしまえばよかったのに、という投げやりな気持ちが生まれた。妊娠すれば、私は産まざるを得ないのだ。産めば、育てざるを得ないのだ。決定が先にあれば、私という人間はそれに従い、進んでいく。それどころか、身体の変化によって、産みたい、育てたいという欲求の萌出さえ期待できた。

 ナプキンを挟んで下着を履いてからも、私は長く便座に腰を沈めたまま、規則正しいでこぼこが並ぶ目の前の白い壁紙を眺めていた。安心したはずなのに、仕事に行くのが億劫だった。

 トイレを出ると、玄関で腰を下ろしている道弘の背中が見えた。

「もう行くの?」

「うん、朝一で契約だから」

 道弘は立ち上がり、こちらを向いた。私は、できるだけさりげない口調になるように唇に意識を集中させた。

「生理、きちゃった」

 声は、思っていたより強く響いた。短い言葉を発するだけの演技を完璧にできなかった事実が、正直に生きてきたつもりの自分に皮肉っぽく突き付けられた。

「男の方も溜めた方がいいらしいから、生理終わるまで頑張るよ」

 道弘は軽く笑い、ドアを押して出ていった。

 部屋は静かになったが、足元にだけ、小さな風が吹いているようだった。落ち着かない感覚のまま移動してソファに座り、壁の時計を見て、家を出るまであと十五分あることを確認した。

 スマホを取り出し、アフター・ピルを処方してもらったクリニックのホームページにアクセスする。予約システムにログインし、「再診」のボタンを押した。

 

 血圧測定と採血を終えて処置室を出ると、待合室の患者が三人から六人に増えていた。そのあいだをすり抜けるとき、ふっと、香水のにおいが鼻をついた。どの女性もついさっき整えたという髪型と化粧で、私はここが夜の街に紛れる婦人科クリニックであることを再認識する。彼女たちは、今からそれぞれの店へと向かうのだ。

 入口近くの長椅子の端に腰を下ろした。隣の女性は、黒地にブルーの花柄のドレス姿で、組んだ脚でその裾を持ち上げていた。光沢のある薄いストッキングに包まれた、きれいな形をした脚だった。太腿の上には、力なく握られたスマホがある。

 見ると、他の患者ももれなく脚を組み、うつむいて、黙ってスマホを操作していた。そして揃って、冷えた目をしていた。私はそこに、典型的な女の悲哀を重ねてみた。初潮、胸のしこり、処女膜、出血、仕事と家庭、子育てのストレス、不倫、養育費、親権、ここに来ている理由——生理痛、生理不順、避妊、妊娠、あるいは性感染症

 慌てて、自分が陥りそうになっていた穴から這い出す。何も、悲しいことではない。ここが女性のためのクリニックというだけで、男性にも悲哀はある。私も、おそらく他の患者も、別に男に傷つけられたわけではない。待合室なのだから、他人同士なのだから黙っていて当然だ。診察まで特にすることもないのだから、スマホで暇を潰して当然だ。彼女たちが皆、スマホでつまらないマンガを読んでいるところを想像し、溢れたおかしさを、口元に手をあてて隠した。勝手に想像した悲しさは、簡単に吹き飛ばすことができる。

 低用量ピルは、アフター・ピルと同じくあっけなく処方された。問診票と検査結果に目を通した老齢の医師は、最初は一か月だけにしておきますね、と言いながら私と控えめに目を合わせ、疲れた笑みを見せた。その表情や仕草はまるで、映画に出てくる名脇役の演技のようだった。大切なことをさりげなく、けれど確実に、それも私ではなく観客に伝えるような。

 建物の一階に下りて通りに出ると、来たときとは違う世界かと錯覚するほど、活気に満ちた夜の街が延々と続いていた。熱気と吐息が混じったぬるい夜風が私の頬から首筋を撫で、それは不快ではなかった。

 

 あの夜、道弘がコンドームを装着せずに侵入してきたとき、私はこれまでにないほど、道弘の存在を強く感じた。自分たちが、深く結ばれていると思った。同時に、自分があくまで侵入されている側であることを意識した。私は、どんな体勢であっても、侵入されている側であり、道弘は侵入する側なのであった。ペニスのあたたかさに集中しても、快楽の頂に達しようというときには、ぎりぎりで罠に気づいたような感覚に襲われ、目を開いて自分たちの行為を確認しなければならなかった。

 そこに、恐怖や焦りはなかった。死のような取り返しのつかないことでも、静かに受け入れられそうな落ち着きがあった。私はときどき、そういった心境になることがあった。死にたいわけではないけれど、何もこわくない。すべてを、誰かに委ねてもいい。ただ、その実行の瞬間を見逃すわけにはいかない。だからどうせやるなら早くしてほしいし、もしやり切らないなら今すぐ中止してほしい。今この瞬間を決定づけて、未来をはっきりさせたい。

 道弘の腰がゆっくりと動き、私の腹の底を行き来した。繰り返しているだけなのに、下腹部からじんわりとした痺れが広がっていく。薄い皮膚だけを残して、肉は無感覚に近くなる。だが脳はその事象をあますことなく拾いあげている。理解している。何かが、身体の中を駆け上がってくる。私は目を閉じずには、身体を反らさずには、声を出さずにはいられなくなる。指先が、道弘の背中に食い込む。爪が刺さるところを想像する。

 道弘が激しく動き、唸るような短い声をあげる。

 腹の中で噴きつけられた精液が、そこに残るのだということを、荒い呼吸をしながら考えた。

 

 

 

 五日経ち、一日着けていたナプキンに一点の赤も認められなかったとき、私は、自分の身体がセックスに応じられる状態に戻ったと思った。しかし別に、異常から正常に戻ったわけではなかった。月々の生理とはまさしくヒトの生理であり、妊娠という役割と機能を維持するための正常な現象の一部なのだった。

 しかし今の私はもはや出血を伴う生理の有無に関係なく、異常と言えるのかもしれなかった。低用量ピルの作用で、生理はあったが排卵がない。私は、自分のバイオリズムの一つに変更を強いた。この錠剤を、生理期間の移動という目的で使用する女性もいるらしい。飲むだけで、排卵がなくなる。飲むだけで、生理が早まったり遅れたりする。病気を治したり細菌やウイルスを殺滅したりする薬とはまるで異なる、不思議な作用であるように思われた。偶然を装って自然の摂理に逆らっているという感じがする。

 世の中にピルなんて存在しなければ、コンドームなんて存在しなければ、私は何も考えずに妊娠できたかもしれない。できるときはできるのだ生まれたら育てるのだという諦めにも切望にもなる態度で避妊なしのセックスをしたかもしれない。生理がこなければ妊娠したかもしれないと思い、超音波検査の結果でやはりそうだと知り、微熱や吐き気や肌荒れを単純な気持ちで不快に思い、休日は眠気に任せてぐうぐう眠る。お腹が目立つようになると神経質になって道弘にあたり喧嘩をするが、赤ちゃんによくないと道弘が歩み寄って何度も仲直りをする。画数を数えながら名前を考え、ベビーウェアやおもちゃを買い揃え、十カ月後には鼻の穴からスイカを出す痛みに耐えて出産するのだ。

 大変だが、難しいことではない。私の母も道弘のお母さんも、何人もの友人も通り過ぎてきたこと。深く考えてよい結果が得られるというものではない。

 結果?

 私は立ち止まる。結果とは、子のことなのだろうか。母の妊娠の結果は、私なのだろうか。だとしたら、今の私は、成功なのだろうか。ニュースで見た、通学路にトラックが突っ込んで亡くなった小学生の男の子は、失敗なのだろうか。彼の両親は、絶望ののち、いつかこう考えるだろう。あるいは考えようとするだろう。悲しみは癒えないけれど、産んでよかった、と。

 もしそうなることが分かっていても、という浅はかな問いかけを思い浮かべ、すぐに捨てた。

 

「コーヒー飲もうか」

 洗い物を終えた道弘が、冷蔵庫からチーズケーキを取り出して言った。

 うん、と私は返事をして、やかんに水を入れて火にかける。揃いのカップを二つと、インスタントコーヒーの粉を用意する。

「あ、今日さ、豆も買ってきたんだ」

 道弘はそう言いながら、食器棚からコーヒーミルを取り出す。うっすらとかぶった埃を手で払い、調理台に置く。いつも私に旧型の郵便ポストを連想させる、黒い陶器製のミル。実家では使わないからと道弘が持ってきた、おじいさんの形見だ。二人で暮らし始めてからしばらくはこのミルを使って豆を挽いていたが、少し高めのインスタントコーヒーを試してみたら思いの外おいしくて、いつからか食器棚の奥にしまわれていた。

 道弘は鋏でコーヒー豆の袋を開封し、鼻に近づけた。ミルの丸みのある蓋を開け、褐色の豆を乾いた音をたてて注ぐ。蓋を下ろす。鋏を引き出しにしまい、左手でミルの本体を、右手でミルの横から出るハンドルを持つ。安全確認をするように一呼吸置いてから、ハンドルを回し始めた。

 このミルを前にすると、道弘の所作は途端に慇懃になる。普段も雑というわけではないけれど、今はまるでビデオ教材のような無駄のない動きで、一つ一つの作業をこなしている。じいちゃん家に行ったらいつも豆挽いてくれてさ、という一度だけきいた思い出話を、私はこの光景を目にするたびに思い返している。

 ごりごりごり、という一定のリズムで音をたてるミルを、私は道弘の隣に立って眺めた。道弘は黙ってハンドルを回し続け、同じように手元の黒い鉄のかたまりに視線を留めている。

 手持ち無沙汰だったが、ここから離れようという気持ちにはならなかった。コーヒーができあがるまで、このままでいた方がいいという気がした。そしてなぜか、道弘も同じ気持ちでいることが分かった。

 子どものことも、私たちはこのように眺めるのだろうか。二人のあいだに生まれた、二人の遺伝子を受け継いだ子ども。両親の遺伝子の染色体を、きっかり半分ずつ受け取るというのはできすぎているように思える。奇跡のように扱われることのある精子卵子の受精で、染色体の比率が揺るがないというのは、奇跡性を飛び越えて、嘘のようにもきこえる。担がれているような気持ちにさせられる。私の子どもは、私のよいところを、どれくらい受け取ってくれるのだろうか。道弘のよいところを、どれくらい受け取ってくれるのだろうか。どのタイミングでセックスをしたときに、よい子が産まれてくるのだろうか。悪い子は産まれないのか。

 私は、障害を持って生まれた自分の子どもを想像した。彼または彼女は、私に後悔をさせるだろうか。産まなければよかったと、妊娠しなければ、セックスしなければよかったと。いや、私はおそらく気にしない。障害のある子をすんなり受け入れるという確信に近い自信がある。しかしそれは私が慈愛に満ちているとか、常に前向きであるとかいうことではなく、すでに訪れた目の前の現実に対しては、抵抗しても仕方ないとあっさりと受け入れる性質によるものだと思う。障害でなくても、克服し切れないことについては、潔くも見える自然な心境で受け入れる。努力しても意味がないということを、努力しなくてもいいと捉えることができる。であれば私は、何をおそれているのか。

 豆を挽き終わると、道弘はやかんの湯をドリップケトルに移した。コーヒーサーバーにペーパーと挽いた豆をセットし、湯を細く落とす。粉が息をするように膨らんでは、ゆっくりと沈んでいく。

「いい香り」

 久しぶりに発した声は、私たち二人の心の声のようであった。道弘は黙って頷き、円を描くように、湯を注いでいく。クリーム色の細かい泡立ちの上で、曲線が現れては消える。豆を挽いていたときに感じた無限にも思える時間の循環が、また私たちを惹きつけた。

 道弘がドリップケトルを調理台に置き、サーバーからカップにコーヒーを注いた。私はチーズケーキを小皿に移してフォークを添える。二人でテーブルに移動して、椅子に腰を下ろす。

 さ、食べよう、と道弘が気を取り直すように言った。

「珍しいよね、道弘が行列に並んでケーキ買うなんて」

「そうなんだよ、いつもは通り過ぎるんだけどさ、なんとなく、買って帰ろうと思って」

 フォークで切り取られたチーズケーキが、道弘の口に運ばれる。もう、豆を挽いていたときの空気の硬さはない。

「ちゃんとコーヒー淹れたのも久しぶりよね。やっぱりおいしい」

「そうだったかなあ。まあ、インスタントもうまいんだけどな」

 私は、チーズケーキを小さく切って食べる。舌で触れたところから溶けて、底の生地だけ噛んで飲み込む。スーツ姿でケーキを求めて行列に並ぶ道弘が脳裏に浮かぶ。コーヒー豆を選ぶ道弘の眼差しを想う。

「生理、終わったよ」

 こみ上げる何かを、ぐっと堪えねばならなかった。道弘は、子どもをほしがっている。私を妊娠させたいと思っている。これまでの愛情と性欲に、新しい目的を加えて、セックスをしようとしている。父親になろうとしている。元気な子が産まれ、育つ家庭に相応しい、彩りのある暮らしをしようとしている。疲れた身体で、チーズケーキとコーヒー豆を買ってきて。唯がうちに来た日に買ったアフリカンマリーゴールドは、枯れて捨ててしまった。

「そっか、うん、分かった。いや、分かったってのも変だけど」

 道弘は笑い、フォークでチーズケーキを切り取る。口に運ぶ前にコーヒーを飲む。ケーキを食べ、またカップに口をつける。ズズッと吸う。リモコンを手に取り、テレビを点ける。バラエティー番組で歓声があがっているが、私たちはこれまでの経過を知らないから黙っている。そんなに面白いことがあったのかと、次の笑いどころを求めて、テレビ画面に視線を留めている。口元は、いつでも笑える準備をしている。

 なんて、小さな世界なのだろう。この部屋で起こっていることを、私と道弘しか知らない。それぞれの実家の両親も、唯も、隣の部屋に住む夫婦も、どこかを歩いている誰かも、私たちがコーヒーとチーズケーキを前に、生理がどうだと話していることを知らない。コンドームを着ける着けない、ピルを飲む飲まない、今晩セックスをするしない、そんなことを考えているなんて知らない。

 私は、核戦争だとか伝染病の流行だとか隕石の衝突だとか、そんな未来の到来をおそれて妊娠を拒んでいるのかもしれないと本気で考えてみて、それを完全否定できないことに、空っぽの身体の中に靄がかったような居心地の悪さを感じた。何か別に理由があるのに、それを自分で知りたくなくて、今まで考えもしなかった大げさな言い訳を引っ張り出しているような気がした。

 

 精子を溜めすぎると逆に妊娠率が低下するという情報をどこからか仕入れてきた道弘は、これまで以上に頻繁にセックスを求めた。そして毎回時間をかけて、丁寧に愛撫をしてくれた。またほとんどの行為において、私をオーガズムに導いた。

 回数を重ねるごとに、私は、薄いゴムの隔たりが取り払われた交わりに、深い喜びを感じられるようになっていた。直に伝わるあたたかさと、奥深くで精子がしみ込んでいく感覚は、コンドームを使っているときのセックスにはなかった。私たちはたった一組のペアだけれど、これが集まったものが人類の営みであり、私が私でなくてもいいような、生命体としての一体感を味わった。子をお腹に宿し、この世界に産み落とし、世代をつなぐだけの役割を果たせばすべて許される、いや許されるどころか神聖な行為として胸を張れる充足感。

 しかし、私は妊娠しない。毎日ピルを飲み、排卵を抑えているから。正常に機能しようとしている身体を騙し、快楽と仮の充足感だけを受け取っている。そのことに抵抗を覚えないのは、自分でも意外だった。それは、この秘密の避妊が一時的なものであり、そのうち自分がピルの使用をやめるだろうと考えているからかもしれなかった。何しろ、私はありふれた人間なのだ。これまでの人生がそうであったように、そのうち自分の立場を自覚して、女としての妻としての役割を受け入れる心境へと変化する。

 射精し力尽きた道弘の重さを、ずしりと感じた。荒い息遣い。首筋の汗。私の中で縮んでいくペニス。ありがとう、という少年のような弱々しい声。

 この真っすぐな夫に対する裏切りは、私の人生においてもっとも残酷な行為であるはずだった。しかし真実を告白するわけにはいかない。理解され受け入れられるための言葉が、思考が、私の中で揃い整っていない。準備ができてから、黙ったままピルを飲むのをやめればいい。黙ったまま、妊娠すればいい。どちらかが大きな傷を負うことを、今は優先して回避すべきだった。

 

 通勤中や休日に道弘と出かけたとき、小さな子どもの姿に気をとられるようになった。そして、その子はすぐそばにいる両親が避妊せずにセックスをして生まれたのだと頭の中で言葉にした。コンドームやピルのないセックスを、彼らはどのようにして迎えたのだろう。避妊をしないという宣言と確認があったのだろうか。それとも、特に何も言わずに避妊をやめたのだろうか。

 予定外に子どもができたから結婚したという友人もいる。どうして、そんなことができるのだろう。外で出すからという言葉に私の友人は頷いたのだろうか。あるいは安全日だからと自ら望んだのだろうか。しかしピルやコンドームも、公式な避妊法として認められているというだけで完璧ではない。

 ときどき、紗枝のことも考えた。不妊治療を試みるあの夫婦は、今どのような方法に取り組んでいるのだろう。紗枝本人にきいてみたい気持ちはあったが、それをきいてどうするのと自分にたしなめられる。知ったところで何かできるわけでもないのに幼稚な興味を持ってしまうことが、恥ずかしかった。

 

 須田親子は、毎週木曜日十一時からのカウンセリングを続けていた。初めの三回を乗り越えるとその後も通所を継続する傾向があるため、私たちはひとまずほっとしていた。

 特に康平君は、初回にあれほど拒んだプレイセラピーを心から楽しんでいるようだった。ルームに入るときも出てくるときも、同じ笑顔を私に見せた。おもちゃを持ち出して迎えにきた私にプレゼントしようとしたり、谷君のシャツの裾をめくったりしてみせて、私たちが笑うと彼も声をあげて笑った。

「遊びに熱中しすぎて興奮することもあるんですけど、駄々をこねることはありません。お母さんがすぐ近くの部屋にいるってことを理解して安心したんじゃないでしょうか。ゴミ収集車がお気に入りみたいで、ずっと握っています」

 親子を見送ってから、院生の谷君が教えてくれた。

 家族以外の人間と関わり、それも良好な関係を築きつつあるのは、康平君の社会性の獲得という意味でよい兆候に違いなかった。しかしそのそばにいる美樹さんの様子は、息子が私たちと必要以上に親しくなることをあまりよく思っていないように映った。康平君が近づいてきたとき、私は美樹さんの目を意識せずにはいられなかった。

 康平君は今、美樹さんに望まれて存在しているのだろうか。生まれたときがどうだったか分からないけれど、昨日や今日や明日は、いてほしいと思ってもらえているのだろうか。そうであるなら、妊娠や出産の経緯などさして問題でないという気がする。

 この子が存在するとすれば自分の身近でしかなく、また自分が養わなければならず、しかも心身の健康にも配慮しなければならないというのは、想像を超える重圧であるということを、美樹さんを見ていると考えてしまう。しかしそれは美樹さんにとってということで、いとも簡単に育児をしているように見える母親もいる。愛の深さでその差が生まれるのだとしたら、まだ見ぬ子に対する私の愛の大きさを先に知りたい。

 気にしなければいいのに。子どもなんて適当に育てていればそれなりに大きくなるのに。ちょっと言葉が遅れていたっていいじゃない。まだ三歳じゃない。母親が気に病むとそれが伝染しちゃうっていうのが分からないのかな。カウンセリングを受けるなら受けるで、楽しく通えばいいのに。

 簡単に思い浮かぶ安っぽい言葉は、きっと何度も美樹さん自身が投げつけてきた。(続く)

中編小説『深海散歩』①

 部屋の壁掛け時計の針を確認するとき、駅まで歩きながらスマホでいつもより早い電車の発車時刻を調べるとき、何時何分頃に職場に着くと頭で計算するとき、私はその時間にかかわる情報が間違っていればいい、と心の一点で願っているような気がする。

 時間でなくてもいいのかもしれない。信じて疑わないものに囲まれて生活する私が、未知のものに次々と出くわしていた頃を恋しく思っても不思議ではない。しかし驚いてばかりであったはずなのに、あまりにも連続していたからなのか、当時が刺激的であったという印象は薄い。

 むしろ大人たちの方が私に刺激され、反応を示していたように思う。倫子ちゃんは偉いねえ、とクラスメイトのお母さんに褒められた。大きくなったねえ、きれいになったねえ、と親戚から頭を撫でられ小遣いをもらった。両親には褒められも叱られもしたが、私の変化への反応という意味では同じことで、今となっては嬉しかった悲しかったという過去形の記憶でしかない。

 私の職場であるカウンセリングセンターは、キャンパスから五十メートルほど離れたところに建っている。左右には瀟洒な屋敷が並び、背後からは茂り立つ木々の緑が溢れ、目の前を横切る見通しのよい市道はほとんど車が通らない。朝の七時ということで、道中ですれ違うのは急ぐ様子のない老人と、犬を連れた主婦らしき女性くらいだ。駅からのなだらかな上り坂で弾む呼吸は、きっとクライアントの緊張を適度にほぐしているのだろう、と考える。

 低い門柱を抜け、石畳を進み建物の左側へと回ると、玄関に続く細い通路が現れる。二階までの壁と高い塀によって左右の景色が遮られるが、空間が狭まる感じはしない。意思さえあればいつでも脱出できる状態で、硬質の筒の中に隠れているような気持ちになる。足元には黒い丸石が敷き詰められており、そのあいだの白い飛び石を踏み進むとき、切り取られた空から間接的に陽射しを注ぎ込む七月の太陽が、首を伸ばして私を覗き見た気がした。

 玄関ドアを閉めると屋外の音はほぼ遮断される。しかし静けさは張り詰めず、無人であった時間も空気は沈むことなく夢うつつで漂っていたと思わせる。宙に浮かぶ粒子が、私の身体と擦れて目を覚ましていく気配があった。

 廊下を歩き、事務室に入ってエアコンを稼働させる。鞄を置き、パソコンの電源を入れる。昨日の夕方、計算式を組み込んだ表をいじっているうちにわけが分からなくなり、作業を途中で放り出してしまったのだ。

 マウスのホイールを転がして表を見返していると、カリカリという音で気分が塞がりかけた。しかしその閉塞の寸前、弾けるように、以前に似たような資料の作成を任され、自宅に持ち帰って徹夜で完成させたことを思い出した。共有ファイルの中を漁り、三年前の日付で保存されたデータを見つけたとき、時間の経過が今の一瞬で起こったような感覚に陥って背筋が縮んだ。

 データを開き、手直しを加えて入力し始めると、作業はすぐに軌道に乗った。頭も目も指も、等加速度的に機敏になっていくようだった。一時間以上を覚悟していた表作成が、三十分で終わった。

 早朝は頭が冴える、というのは母の教えだ。しかし頭の冴えない朝というものも存在する。ダイニングテーブルで朝刊を読みながら紅茶を飲む母の前で、参考書を開き眠い目を擦る中学生の自分を思い浮かべた。定期テストが迫り、五時に起こされるのは分かっていたのだから、前日の私はもっと早くに眠るべきだった。もしくは、早起きをきっぱりと断って夜中に勉強すべきだった。

 時計を見て、鞄から心理学の本を取り出し、しおりを挟んでいたページを開く。

——幼少期に心の深い傷を負った人は、親になると自分の子育ての中で同じ課題に向き合う。

 その一文を目で追ってから、私は、自分が深く傷ついた経験を過去から探し出そうとした。しかしこの本を手にしてから何度目かになる今回の追求でも、見つけることができない。本の中では親からの虐待やネグレクト、両親の離婚、再婚後の義父母との不仲などが具体例として挙げられているが、どれも私には当てはまらなかった。

 深い傷って、一体どれくらいのことを指すのだろう。両親からきつく叱られたりクラスメイトから仲間外れにされたことはあるけど、落ち込んだのちに自分の非や欠点を認め、受け入れられようとし、果たしてその通りかそれに近い関係を取り戻せた。特に両親とのあいだでは、論理的で鋭い指摘によって、私の落ち度の輪郭がくっきりと浮かび上がった。こちらに尤もらしい考えがあるときも、あちらの言い分の方が決まって少しだけ正しいように思われた。私は結局、自分が悪かったのだと反省した。

 人格や人生を左右したり決定づけた経験など私にはないのかもしれない、と考えてみるが、そんなわけはなかった。些細なことであるにせよ、今の自分もその積み重ねによって成り立っているのだと頭の中で言葉にしてみると、一つ一つの層の薄っぺらさを寂しく思う一方で、河原で拾ったきれいな小石を箱から取り出すときのような誇らしさを見つけられる。

 中でも受験をして入った高校や大学というものは、進み生きていくべき社会を限定し、人生を分かりやすいものにしてくれた。ある程度の枠の中に収められたからこそ、そこから太く伸びる道の一つを選べば間違いないということが保証された。選べなければ、身を任せることさえあった。努力を重ねた同級生には及ばないにしても、それなりの環境に滑り込むことができた。さらに私は、その環境を、力を振り絞って掴み取ったかのように思い込み、振る舞うこともできた。

 進学先によって就職先が変わり年収や生涯賃金が変わるという事実よりも、たとえば電車に一本乗り遅れることで十年後のある日に着る服が変わるかもしれないという可能性の方が、知らぬうちに知らぬことの変更を強いられるという意味では残酷に感じられる。

 開いたままだった本を閉じるとき、そのページが永久に失われてしまう予感がした。狭まりつつある空間は、左右からの紙の束の圧迫を受け、空気が漏れる微かな音とともに消えた。

 壁に並ぶ本棚まで歩いて、もとあったスペースに挿し込む。両隣の書籍との、摩擦の音がきこえた。いつか、もう一度あのページを開いてみようと考えたが、こういったシナリオめいた思いつきを、私は今まで数えきれないくらい反故にしてきたのだった。

 インスタントコーヒーをつくり、窓辺に立って飲んだ。強さを増した陽射しの中、日傘を差した野宮さんがレモン色のスカートをひらひらさせながら歩いてくる。こちらに気づかず窓の前を横切り、ドアの開閉の音を響かせ、事務室に入ってきた。

「あら、ずいぶん早かったみたいね」

 おはようございます、ちょっとやることあったので、と私は返事をして、野宮さんのカップに冷たい麦茶を注いで渡す。

「ありがとう。今日、私向こうなんだけどね。書類取りにきたの」

 野宮さんは私と同じカウンセリングセンターの事務職員だった。二週に一日だけ、大学の本校舎にある教務部へと出勤している。

「私が行ったって、なんにもないんだけどね。やってることは変わらないんだから。本当は報告だけしてこっちに戻ってきたいんだけど」

 野宮さんは、それが叶えば私も喜ぶはずだと信じ切っている様子で言った。

「ああ、でも寄ってよかった。麦茶おいしい。あっちじゃ誰もお茶つくらないのよ。私がつくるのも変でしょう。みんな、ペットボトルを買うの。一日一本だとしても、馬鹿にならないじゃない? エアコンが効きすぎで寒いしさあ」

 声を発する合間に頻繁にカップに口をつけ、野宮さんは麦茶を飲み干した。棚からファイルを取り出して、鞄を肩にかけたまま流しでカップを手早く洗うと、ごちそうさまと言って出ていった。

 私は今日の予定をメモに書き出し、時計を見て、仕事を再開した。

 

 十時半、三階の研究室にいる森内先生に内線をかける。森内先生は、大学で講義を受け持つかたわら、臨床心理士として学生や地域住民向けのカウンセリングをしている。いつもコール音とコール音の間に受話器を取り、よく湿った喉を想像させる、五十代の男性にしてはききとりやすい声を出す。

「はい、森内です」

「十一時から予約が入っていますので、ご準備をお願いします。須田美樹さんと須田康平くんの事前面談です」

「はい、ありがとうございます。ちゃんと覚えていました」

 先週の会議をすっぽかした森内先生は、受話器の向こうで笑ったようだった。

「桜井さん、ずんだ餅はお好きですか?」

ずんだ餅、ですか」

「枝豆を砕いて餡にして、お餅にからめた宮城県の郷土菓子です」

「へえ、おいしそうですね」

 見た目も味も想像できなかったけれど、そう言うしかなかった。

「優しい甘さで、くせもないので、よかったら食べてください。今から、そちらに持って行きますね」

 私は受話器を置き、ずんだ餅、とパソコンで検索する。近くでずんだ餅を取り扱っている店、ずんだ餅のレシピ、ずんだ餅の通販。なんでも分かる。画像見ると、思っていたより生々しい黄緑色の、砕いた枝豆の形が残った餡が飛び込んできて、好きではないかもしれない、と直感した。「優しい甘さ」というキャッチコピーが、同じ言葉を使った森内先生の顔を思い出させた。

 そうか優しい甘さなのね、と私は分かったような気分になる。もう食べなくてもいいのではないかという気さえする。しかしそうだとしても、間もなくずんだ餅はやってくる。私は、ずんだ餅を小皿に移し、竹串かフォークで口に運んで、おいしいですと言うことになる。それ以前に、森内先生の前で鮮やかな黄緑色にもう一度反応しなくてはならないことを思い、検索なんてしなければよかったと後悔する。ケンサク、という音の響きに嫌な感じを覚える。磨りガラスのはまったドアの向こうに、森内先生の影が見える。私は、ずんだ餅の情報で埋め尽くされたブラウザを閉じて立ち上がった。

 

 定時の六時に職場を出て電車に乗り、七時前にマンションに着いた。買い置きしていた食材を並べ、不足がないことを確認して夕食の支度を始める。

 煮込んだ鶏肉と野菜の灰汁をすくっていると、道弘が帰ってきた。ただいまあ、と声を伸ばして廊下で足音を響かせ、鞄を持ったままキッチンに立つ私のところまで来て、「ボーナス出た」と言った。

「そう。いくら?」

 と私がふざけて言うと、道弘は「たくさん」と腹話術人形みたいにカクカクと口を動かして笑った。

「よかったね。頑張ったもんね」

 道弘は顔を逸らし、キッチンを出て、ソファにどかっと腰を下ろした。そしてたった今大仕事を終えたみたいに、背もたれに後頭部を投げ出し、私に表情を見せない姿勢になって、うん、と喉を締めたような声を出した。

「もうすぐできるから。それか、先にシャワー浴びる?」

声をかけると、道弘の顎が揺れ、「あとで」と返事があった。

「そう、じゃああとでお湯張ろっか」

 お米が炊けたことを知らせるメロディが鳴った。それはいつもより、長くきこえた。先月に三十一歳の誕生日を迎えた道弘だが、ボーナスをもらうのは生まれて初めてのことだった。私は、道弘が声を殺して泣いているのかもしれないと思った。

 部屋が静かになり、コトコトという鍋の音だけが浮かび上がってくると、道弘は身体を起こしてこちらを見た。元気を取り戻したことを示すように勢いをつけて立ち上がり、ハンガーにジャケットをかけ、寝室でスウェットに着替えてくるとテーブルを片付け始めた。

 風呂を後回しにする日、道弘は私を抱く。私は、鍋でルウを溶かしながら、今日はシェーバーで身体の手入れをしなくては、と考える。

 

「毎月給料もらってて、今月も給料出るのに、それと別にボーナスもらえるってやっぱり不思議だよな」

 口に運んだシチューを飲み込んでから、道弘は言った。

「倫子は、これまで何回ボーナスもらった?」

「一応毎年二回ずつ出てるから、二かける七、それと今月のを足した回数かな」

「じゃあ、十五回ってことか。すごいなよなあ——でも、それが普通なんだよな。俺が変なんだ」

「変じゃないよ」

 芸大を卒業してから結婚直前までずっとフリーランスでカメラマンをしていた道弘は、ボーナスだけでなく、毎月の基本給、有給休暇、厚生年金、健康診断とも無縁だった。カメラマンの収入だけでは足りないことがあったようで、ときどき短期のアルバイトもしていた。不安定には違いないが、必要なぶんだけを稼ぎ、好きな季節にテントを担いで風景写真を撮りに行ったり、時間帯を問わずカメラを片手に街を歩き回ったりする暮らしは、充実しているように映った。

「ボーナスなくてもいいから独立したいっていう人、たくさんいると思うけどな。でもなんとなくこわくて、踏み出せないんだよ。道弘は、それで八年もやってきたんだから、偉いよ」

 道弘はそれには答えず、手製のミートボールをレタスに包み、口に入れた。二、三口噛んでから、追いかけるようにご飯をかき込む。そして、柴犬を無理やり笑わせたような表情を見せる。おいしいね、と私が言ってみると、道弘はその顔で頷いた。

 

 夕食後には、温かいお茶を淹れ、ずんだ餅を食べた。

「コンビニで見たことあったけど、初めて食べたよ。うまいんだな」

「コンビニに売ってるの? 知らなかった」

 私は驚いて言った。

「営業先回るとき、アポとった時間までコンビニで涼んでるからさ。買わないけど、なんとなく眺めてるんだ」

 私は、オフィス街を一人突き進む道弘を想像した。以前は一枚も持っていなかったハンカチで額の汗を拭き、反対側の手でジャケットと鞄を持っている。営業先のビルの前まで来ると、時計を見てまだ時間があるなと思う。コンビニに入って冷たい空気を吸い込む。スポーツドリンクを入れたタンブラーはすでに空なので、ペットボトルの飲み物を買う。袋いらないです、と店員に告げる。一度外に出て、飲み物を喉に流し込む。鞄にしまって店内に戻り、約束の時間まで、ぶらぶらと棚を見て回りながら、頻繁に時計を確認する。コンビニで立ち読みができなくなった、といつか道弘は嘆いていた。

 ずんだ餅は、思っていたより私の口に合った。森内先生の前で一つ食べたときも、素直においしいですと言うことができた。事務室の冷蔵庫に入れた残りのずんだ餅を、明日は野宮さんに食べさせなければ、と心に留める。

「その先生、実家は大丈夫だったのかな」

 どういうこと、と私はきく。

地震津波」と道弘が並べた二つの単語で、昨日から姉が遊びに来てるんです、と言った森内先生の顔を思い出した。その表情が柔和であったことにすんでのところで救われた気がしたが、宮城県のお土産としてずんだ餅を受け取っておきながら、そこにある森内先生の実家や家族親戚が震災で被害を受けたのかどうかを考えもしなかった事実に胸が痛んだ。

 たぶん大丈夫だったんじゃないかな、そういえばきいたことなかったな、震災のとき森内先生はまだうちの教授じゃなかったから、ていうか私も大学生だったし、と過去を遡りながら呟き、なおも自分を肯定する材料を探していた。

「まあ、もう十年も前のことだもんな」

 道弘は、私の背中に手を添えるように言った。そしてお茶を飲みながらテレビを眺め、コマーシャルに移るとバスタオルを取りに寝室へと向かった。

 

 

 

 その週の土曜日は、朝から予報通りの快晴だった。私は日焼け止めをたっぷり塗り、道弘にも使うように言った。

「このにおい、好きなんだよな」

 道弘は半袖から伸びる腕を擦りながら、私の首筋に鼻を押し付けた。

先週買ったばかりの夏山登山用のウェアに身を包んで、九時にマンションを出た。ゴツゴツとして重いトレッキングシューズは振り子の作用で意外と歩きやすく、縁の広いサファリハットは首元までを影で覆ってくれた。道弘は何度も帽子をかぶり直し、山登りにキャップってやっぱり変かな、と私にきいてきた。私たちは、似合っていると互いに励まし合いながら駅に向かった。ホームで電車を待っているあいだ、リュックから日焼け止めを取り出して、道弘のうなじに塗ってあげた。

 乗り換えの駅で、紗枝と夫の隆二さんと合流した。社会人の登山サークルで出会った二人は、結婚して二年が過ぎた今も毎月登山を楽しんでいる。ハーフパンツとその下に履くレギンスを、色違いで揃えていた。目的の駅で降り、改札を出ると何組かの登山客が目についた。慣れない服装がようやく身体に馴染んだ気がした。

 登山口の手前の広場に着くと、四人で輪になって準備運動をした。長身の隆二さんは、そこがちょうどいいというように腰に手を当てて、私と道弘を見た。

「頂上まで、二時間半ほどです。登山道と道路がありますが、どうしましょうか?」

「登山道って、崖とかあるんですか? ロープ使って登るような」

 まさかそんなことはないですよね、と言いたげな顔で道弘が訊ねる。

「いやあ、そんなのはありません。ちょっと大きい階段を上がっていく感じですかね。それもずっと続くわけじゃなくて、平らな道もあります。ところどころに休憩用のベンチも置かれてますよ」

「じゃあ、せっかくだし登山道で行きましょう。な?」

 私は頷いた。

「倫子は心配ないよね。屋久島に行ったときも歩けたんだから」

 紗枝が言い、じゃあ、行こう、と小さな拳を上げる。

 十分も進むと、林に入り道幅が狭くなった。針葉樹に日光を遮られた登山道は涼しく、背の低い植物も土も水気を帯びていた。そして斜面とほとんど同化した丸太の階段を、隆二さんと道弘が先に立って上った。お仕事どうですか、お忙しいですか、と二人は取引相手との社交辞令みたいな言葉を交わしていたが、声色にはこれから会話が弾んでいくのだという意志と期待が滲んでいた。かつての道弘だったら、ああいったサラリーマン的なやりとりはできなかったかもしれないなと思い、私はそこに新鮮な愛おしさを感じた。

「倫子はどう、仕事」

 紗枝が、前の二人に影響されたことを分かっている顔で言う。

「変わらないよ。森内先生は相変わらず姿勢がよくて、野宮さんは全然麦茶つくってくれない」

 クスクスと紗枝は笑い、懐かしいなあ、と二人のことを思い出しているようだった。

母校の大学に採用された私が三年目にカウンセリングセンターに配属されたとき、大学院を出て臨床心理士の資格を取ったばかりの紗枝がやってきた。紗枝は三つの職場を掛け持ちしていたので、顔を合わせるのは週に二日だけだった。同い年だった私たちは時間をかけて仲を深め、ときどき休みの日に二人で出かけるようになり、年に一度は旅行をした。

「麦茶があとひと口になると、全然飲まないんだっけ」

「そうそう。でもなんだか最近は、あれは無意識なんじゃないかって思う。だって普通さ、たまには飲み切って、つくって見せて、ごまかすもんじゃない?」

 確かに、と紗枝が相槌を打つ。

「悪気がないって思ったら、もういいやって。私がお茶係なんだって。それで最近、わざと煮出すタイプの麦茶買ってきて、仕事中に沸かすようにしてさ。やかんの前に椅子持っていって、コンロの火を消すまで、十分くらい休憩するの。『火をつけたら離れない』って張り紙、野宮さんが昔貼ったの知ってるから」

 紗枝はまた笑った。

「おととい」私は次の話題を見つけて声を出し、今日の自分がよく喋ることを意識した。「新規で、親子の事前面談だったの」

「森内先生の担当?」

「そう。三十代のお母さんと、三歳の男の子」

 私は、お尻が落ちないか心配になるほど浅くソファに座る須田康平君の姿を思い出した。隣に座る母親は、色の白い、美しい人だった。

「並行面接?」

「うん、そうなりそう。森内先生と院生が担当するって。その男の子ね、靴脱ぐのも歩くのも、ふわふわ、ふわふわしてるの。それがなんというか、すごくかわいいんだけど」

「かわいいよね、子どもは」

「私がプレイセラピーしたいくらい」

「そういえば倫子って、大学の頃、プレイセラピーしてたって言ってなかったっけ?」

 心理学部の学生だった頃、ボランティアとして小学一年生の女の子のプレイセラピーを担当した。児童養護施設で週に一回、棚からおもちゃが溢れるプレイルームで、絵本を読んだり絵を描いたり、おままごとをして遊んだ。

「あの頃は、大学院に行って臨床心理士になろうと思ってたからなあ」

 自分の口調が自虐的に響いたと感じたが、相手が紗枝だと思い、気にしないようにした。

 クライアントが自傷したり自死することがあるという現実を講義で知って、私は大学三回生のときに臨床心理士になることを諦めた。今になって思うのは、そのくらい大学に入る前に知っておけよ、ということだ。なんとなくカウンセラーという仕事が自分に合っているつもりになって心理学部をいくつも受験したというのは、十八歳という若さを差し引いても思慮が足りず、しかしそれが私らしいとも思う。

 林の中を流れる小川に、短い橋が架かっていた。先に渡った隆二さんが一眼レフカメラをリュックから取り出して、私と紗枝にポーズをとるように言った。私たちは他の登山客が途切れたところを見計らって、ピースをしたり欄干にもたれかかったりして写真を撮ってもらった。

 何度かシャッターを切ったあと、隆二さんは手を止めて、「道弘くんに撮ってもらった方がいいですよね」と言った。

「もう全然駄目なんですよ」

 道弘は、差し出されたカメラをやんわりと手のひらで遮った。隆二さんはそれ以上勧めることはなく、また何枚か私たちの写真を撮り、カメラをしまった。

 階段が途切れ、道幅の広い緩やかな山道が続いた。木洩れ日が増え、踏み固められて乾いた土の上を軽やかに進んだ。四人とも視線が上を向き、鳥がいたとか雲が一つもないとか緑のいいにおいがするとか、目にしたものや感じたことを意味もなく口にした。道弘がクヌギの木にへばりついたクワガタを見つけて捕まえ、ヒラタだミヤマだとてんで詳しくないくせに検証し始めた。手元を覗いた隆二さんに「オオクワガタですね、これ」と教わって高く売れるといっそう騒いだが、続けて絶滅危惧種なんですと言われるとあっさりと逃がしてやった。何ごともなかったかのように先頭を歩く道弘の後ろで、三人が顔を見合わせた。

「道弘さんって、面白いね」

 耳元で言った紗枝に、私は声を出さずに頷いた。

 

 昨日の昼休み、生協に配達してもらう弁当を食べたあと、冷蔵庫にとっておいたずんだ餅を小皿に移して野宮さんに差し出した。

 大好きなのと野宮さんは喜び、すぐに食べるか三時に食べるか悩み、早く食べた方がいいわよねと自分に言いきかせるように呟いた。野宮さんがフォークでずんだ餅を小さく切り分けようとするのだが、餡がこね回される様子が私は気になって仕方なかった。目に入れまいと視線を上げると、野宮さんもしっかりと私を見て喋り続け、それでまた手元の作業が疎かになってしまう。話が途切れたところで、お茶いりますよね、と言って立ち上がり、二人分のお茶を持って席に戻ってきた私は、森内先生の実家が震災でどうなったのか、家族は無事だったのかを、野宮さんが教えてくれないかと期待していることに気づいた。そのあと、自分でもひどいと思うくらいに、野宮さんの話を右から左へときき流したのだった。

 私たち四人は予定より早い時間に山頂の広場に到着し、レジャーシートを広げて持ち寄った弁当を食べた。隆二さんと道弘はシートの端にお尻だけ乗せて、おにぎりを片手に眼前に広がる街についてあれこれと議論している。紗枝と私も有名な商業ビルや県立公園を探しあてるまでは参加していたが、電鉄間の連絡や駅の構造、道路網、高速道路の出口の場所がよい悪いという話になるとついていけずに脱落した。弁当のおかずを交換してレシピを教え合ってから、そういえばさ、と私は切り出した。

「森内先生の実家って、震災のとき大丈夫だったのかな? 知ってる?」

「お父さんとお母さんと、それと妹さん、本震が収まってから貴重品だけ持ってすぐに山の方に避難したんだって。森内先生の実家は古い木造で、海岸から三十メートルくらいしか離れてなかったから流されちゃったけど。近くに住んでた親戚も仙台のお姉さんも、全員無事だったってきいたよ」

 紗枝は淡々とした調子で、私が知りたかったことを教えてくれた。やはり、紗枝にきいてよかったと思った。野宮さんならきっと、私が耳にしたくないことを、ニュースできいた悲惨な話や根拠のない噂話まで詰め込んで喋ってしまう。森内先生の知り合いの中には亡くなった人もいたはずだとか、海岸に遺体が打ち寄せられていたらしいとか、年老いた親が自分を置いていくように息子に言ったそうだとか、悲しいけれどどうしようもないことまで。そして多分私より先に、吐き出した言葉を忘れる。

「知って、倫子はどうするの?」

 緩みかけていた心が締め付けられ、私は紗枝を見返した。

「たとえばこれから森内先生と話すとき、震災の話の尻尾みたいなものが出てきたら、話題を変えると思う? それとも、そういえばご両親はどうされてますか、復興は進んでますかって踏み込んできく?」

「私は多分、できるだけ自然に話題を変えるかな。暗黙の了解というか、いいできごとではないからさ、先生から話してこない限り、あえて触れたりはしないと思う」

 紗枝の意図を理解しないまま、私は精一杯正直に答えた。それでも自分が何か繕いながら喋っている気がして、正解があるわけではないこと、自分の回答が無難な倫理観から逸脱していないことを、揺らぐ頭で繰り返し確認した。

「もちろんどっちが正しいとか、そんなのないと思うけど、私も倫子と同じ。過去の悲しい体験のことを、わざわざきいたりしない。その人は忘れたがっているかもしれないもんね。共有したいと思ったときには、自分から話すだろうし。——でもときどき、それじゃ現実から目を逸らしていることになるのかなって不安になることがあるの。あんなひどい震災って、人生で二度経験する可能性はすごく低いわけでしょ? それならまだ経験していない人こそ、知っておいた方が社会全体のためになる。国とか自治体の対策も大切だけど、普段の備えだとか、逃げる逃げないの判断は最終的に一人一人がするわけだから、機会があるなら、やっぱり被災した人や、森内先生みたいな被災者家族から話をきくべきなのかもしれない。あと、これは忘れがちだけど、話をきく側も責任は持つべきだと思うの。質問するだけでその人を傷つけるかもしれないとか、悲惨さを胸に刻むとか、現実的な教訓をちゃんと自分の人生に活かすだとか、そういった覚悟がないと、きいちゃ駄目だと思う」

 箸を止めて喋る紗枝から目を逸らせず、真っ当な意見を受け取りながら、自分が同じことを口にしたときには、もっと子どもじみた恥じらいがあるだろうと考えていた。

「私、自信ないかも」

「私もない。だからやっぱり、自分からはきけない。テレビとかネットとは本とかで分かった気になってる。これくらい分かってたらまあいいかっていうラインをまわりを見ながら引いて、それをちょっとだけ上回ったら、もう満足してるの。悲惨さをリアルに知るためにもっとできることがあるのに、きりがないってどこかで考えてて——あれ、ってことは私、諦めることで、安心しちゃってるってことか」

 紗枝は、思いがけない発見をした少女のように素直な驚きの表情を見せた。その様子を見てまず私が感じたのはかわいいなということだったが、喋りながら思考を深め必要に応じて修正する一連の流れに、久しぶりに触れた気がした。紗枝は、自分の考えの変更や過ちを認めることも躊躇わない。

 紗枝、とプラスチックボールを投げたような声が、私たちのあいだに届いた。隆二さんと道弘が、こちらに顔を向けていた。

「ほら、倫子さんの誕生日の話」

 あっと紗枝は声をあげ、「二十六日、誕生日」とメモを読むみたいに短く言った。私たちは毎年、互いの誕生日の前後に二人で食事に行く。出会った年から、途切れることなく続いている。

「倫子、何食べたい?」

「なんでもいいよ。紗枝と一緒なら」

「またそんなこと言う」

 紗枝は頬を膨らませて見せて、ふふっと吹き出した。

「当日でいっか。二十五日あいてる? 日曜日」

「うん、あいてる」

 私は、今年はおそらくこの日になるのだろうと予想して、誕生日の前日の予定をあけ、道弘にも伝えていた。その道弘が、靴を脱いでシートにあがり、

「いいなあ、俺も参加したいなあ」

 と怠け者のような声を出す。私のリュックから、お菓子の袋を取り出すつもりらしい。

「駄目。道弘さんは、別でちゃんとお祝いしてあげてください」

「冗談冗談。前に倫子にきいたときも、真面目な顔で断られたから」

 そう言った道弘の向こう側で、隆二さんが声を出さずに微笑んでいた。目を細め、白い歯を少しだけ覗かせる、その場の事物の位置関係や人の感情をすべて把握したような微笑み。無添加の材料を機械に入れてつくったような微笑み。

 私には、あのような笑い方はできない。道弘の二つ、私の三つ年上というだけなのに。いや、年齢の問題ではないのかもしれない。小学生の隆二さんが、クラスメイトの馬鹿話に同じ表情を見せているところが、ありありと想像できる。

 私はハッとした。紗枝も、同じような表情をすることがある。道弘は、できない。

 似た者同士が結婚したということなのだろうか。

 笑い方で? まさか、と胸のうちで呟き、道弘が差し出したエム&エムズのチョコレートを手のひらで受け取る。黄色の一粒を、指で摘まんで口に入れた。顔をしかめそうになるくらい、甘かった。

 

 山を下り始めてしばらくすると、隣を歩いていた影が立ち止まった。振り向くと、道弘が両手を腰に当て、足元に視線を落としていた。

「どうしたの?」

「やばいかも。股関節。いてえ」

 道弘は眉間に皺を寄せたが、紗枝と隆二さんが引き返してくるとやけに明るい表情をつくり、「いやあ、ちょっと、すいません」と声を出して足踏みをした。私はそれで、痛みが相当ひどいことを悟った。

 登山道の端に寄り、状況を確認した。歩けないわけではないが、大きな段差を下りるときに股関節に痛みが出るらしい。斜面の角度に沿って急な階段が続いたところだった。道弘は隆二さんに促され、ごつごつした岩の縁に腰を下ろして水筒のお茶を飲んでいる。

 財布に常備している絆創膏のことを思い出したが、役に立つわけがないと頭から放り出した。初夏の休日に、家族連れで登るような低い山で、こんなことが起こると思っていなかった。遅れをとって迷惑をかけるとすれば自分だと、それもだらしないなとみんなにからかわれるような、単なる体力不足による遅れだと思っていた。

「道路に出ましょう」

 私があれこれ考えているうちに、隆二さんが提案した。

「少し引き返したら、道路に出られる脇道がありますから」

「そうね、バスも通ってるし」

 紗枝が続いたあと、私たち夫婦が言葉を発する間もなく、隆二さんがリュックを下ろして屈み込み、背中を差し出した。道弘は一瞬戸惑いの表情を見せたが、私と目を合わせると、すみません、と従った。私は道弘からリュックを受け取り、紗枝を真似て身体の前で抱えた。

 六十キロはある道弘を背負って、隆二さんは力強く階段を上っていった。ふっふっとリズムよく息を吐きながら、子どもを喜ばせるようなスピードで進み、背中の道弘は実際に額に汗を浮かべながらも思春期前の少年のような照れ笑いを見せた。

 途中で横に折れて険しい脇道を進むと、隆二さんの言った通り舗装された道路に出た。道弘はアスファルトに降り立ち、ぎこちない歩き方で道路を横断し、戻ってきた。道が平坦であれば痛みは出ないようだった。

 道弘を気遣いながら、私たちは緩やかな傾斜の道路を下っていった。十分も歩けばバス停があり、そこでまた十分待てばバスが来ると、紗枝がリュックから取り出した紙を広げて言った。観光案内サイトの地図とバスの時刻表をプリントアウトしたものだった。スマホを見ると、電波の圏外だった。私は、山の上が圏外だとか圏外じゃないとか、何かが起きてバスに乗るかもしれないとか、考えもしなかった。

 バス停に差し掛かったとき、私と道弘だけバスに乗る、ということを一応提案してみた。紗枝と隆二さんは笑ってそれを却下した。「楽しかったから」と紗枝がきっぱりと言い、隆二さんがその後ろで頷いた。

 乗客のまばらなバスに乗り込み、並んで座ってから、道弘がごめんなと私に言った。

「私にまでそんなこと言わないでよ。仕方ないよ。それに、楽しかったんだから、私も」

 左右に大きくカーブするバスの中で、私たちは身体を揺られながら、言葉少なだった。前のシートに座る紗枝と隆二さんは、空の青と山の緑が激しく入れ替わる景色を眺め、ときどき顔を近づけて言葉を交わしている。何か、私が口にしたことも耳にしたこともないような、素敵な言葉がやりとりされている気がした。二人はまだまだ、いくつもの山を越えていけそうだ。きっと、登山でケガをしたことなどないのだ、とぼんやりした頭で私は決めつけた。それも、股関節を痛めるなんてケガは。

 バスを待っているときに押し寄せた疲労感は、今もなお増しているようだった。道弘は、窓枠に頭の側面を当て、すでに目を閉じている。

 こんもりした木々の緑を眺めていると、三年前の夏、紗枝と屋久島に行ったときのことを思い出した。私は靴擦れを起こして、紗枝に貸してもらったトレッキングシューズを血で汚してしまった。そのときの焦りと申し訳なさが、バンガローに泊まったことや、縄文杉を見た記憶に、糸くずのようにまとわりついて持ち上がってくる。靴なんて、それも登山用の靴なんて、人から借りるようなものではないのだ。

 足元を覗くと、先週買ったばかりのトレッキングシューズの真新しさが眩しかった。まるで、そこに靴がないことを願っていたみたいな気持ちになり、足からもぎ取って窓から投げ捨てることを考えるだけ考えて、背もたれに身体を預けた。(続く)

 

詩『持たざる者』

人類はいずれ絶滅するということが

ある者の心を脅かすことはない

 

ある者に脅しをかけるのは

金の不足や死や病気や孤独

 

しかしその個人の不安は

まるで人類の危機のように語られる

 

一人の不幸を

人類の不幸と考える

 

不安が不安を呼び

世界経済の心配をしたりする

自然を守らなくてはなどと言う

核ミサイルや抑止力の話をする

 

こわいと口にしながらも

本当に恐れてはいない

そうやって独りごちているうちに

人生は何の問題もなく終わるだろうと考えている

 

近所にあるスーパーがつぶれないこと

たまに癒されるためのちょっとした緑が残ること

向こうから歩いてくる男がいきなり襲ってきたりしないこと

そればかりを日々願っているのに

人はまた今日もニュースを漁り

人類が絶滅しない方法を探すフリをしている

(3)『交差点』

やけにきれいに舗装された道路を走り

ワンボックスカーは高速に乗った

車内には作業着姿の六人の男

 

 

疲労

すでに明日の疲労を見据えた苛立ちで満ちていた

それではやりきれないと

誤魔化すように

あちこちでライターを擦る音がきこえる

家に帰ればタバコがビールになる

 

 

こんなことをいつまで続けるのか

いやオフィスで働く男たちも

案外俺たちと変わらないのかもしれない

うまくいったと思う一日だって

かつて思い描いた

画用紙や原稿用紙の上に描いた夢とは違っている

 

 

俺がもっとも愛した女

それもそんな気がするだけで

実は愛してなどいないのかもしれない

何度も思い浮かべた裸体や

心が震えるほどの怒りや悲しみの瞬間

それどころか

お前の好物だって俺はよく知らない

好きな映画も小説も

そんなものがあるとして

 

 

あらゆる場面での

知ってどうなるのかという

不貞腐れた態度が

俺をこのようにしてしまった

 

 

もう

俺は何も獲得しないのだろうか

手に入れて

喜ぶということはあるのだろうか

たまたま

何かがうまくいって手に入ったときに

もらえるならもらっておくよ

という不遜さを示すばかりなのか

 

 

紫煙の中

運転手が声を出し

労働者を降ろす場所を確認する

気のない返事が続き

最後に俺も

一日きりの同僚として

できるだけ気のないような返事をした

 

 

静かになり

車の振動だけが

俺の腹の底に響いていた

 

 

俺は

男の一人が

あいつの住む街で降りることに気づいていた

今朝だって

男はその街から乗ってきたのだ

そして俺は工場で雑誌を運びながら

昼飯を食いながら

喧嘩を眺めながら

ボサッとしながら

迷っていたのだ

 

 

運命

と頭に思い浮かべると

やはり大げさだった

しかし現実には

人が想像する以上に

人生を決定づけている

バスに乗り遅れたから死なずに済んだ

ということが実際に起こっているのだ

 

 

男がその街で降りるとき

用事ができたから

と運転手に告げて一緒に降ろしてもらう

女か

という問いかけを

俺は咄嗟に否定する

 

 

一人で交差点を歩き

高いビルを見あげた

その上の狭い空に

人生の意味が過ぎった気がした

 

 

携帯を取り出し

発信ボタンを押すとき

またもや俺は

出なければ仕方ないかと考えた

そういうのは

もうやめたのだ

少なくとも今日だけは

 

 

出ろ、出ろ、出てくれと願い

携帯を握りしめ

コール音に耳を澄ませていると

はい

と俺の好きな声がした

 

 

近くに来たからさ

ホテル行こうぜ

俺はそう言って笑って

お前が笑ってくれるのを待った

 

 

(2)『自室』

夜遅くアパートに戻り

ベッドに倒れ込む

誰か着替えさせてくれまいか

世界一着心地のいいパジャマに

それだけで俺は世の中を憎むことをやめられるだろう

 

 

目が覚めたとき

俺はTシャツにジーンズ姿

いつからかベッドの汚れは気にならなくなった

シャワーを浴び

やっと着替える

どうせ入らないといけないんだから先に入りなさい

至極まっとうな母親の言葉を思い出す

 

 

ジーンズから落ちた携帯が

ランプを点滅させている

そのランプの色でお前からの着信だと気づき

しばらく床に落ちたままにさせておく

点滅のたび

間違いないことを確信し鼓動と共鳴する

 

 

お前は明るかった

あんた元気ないね

と何度も言った

別に元気とか元気じゃないとかいう歳でもないだろう

その言葉にお前は

やっぱり元気ないじゃんと言った

 

 

何かあったのかとはきかなかった

その何かが俺を不快にさせると思った

話したければ自分から話すだろうという殊勝な態度で

暇でさあ

皆忙しそうだし

あんたなら暇だろうと思って

という軽口に無難にやり返した

俺が何を言っても

沈黙してもお前は楽しそうだった

 

 

携帯の向こう側で物音がして

お前は短く叫んだ

そして通話が途切れた

 

 

俺がまず思ったのは

お前の叫び声を初めてきいたということ

慌てることもあるんだなということ

それから

何が起きたのかという疑問

 

 

リダイヤルのボタンに指をかけ

俺が出した答えは様子見だった

今さらお前の生活を脅かしたくはない

多くのものを背負っているのだ

お前も

他の奴らも

 

 

俺はいつからこんなに軟弱になったのか

だんだんと弱っていったのか

あるとき急に弱ったのか

 

 

携帯を近くに置き

ベッドで横になる

こういうときは眠るに限る

俺が眠っているあいだにも時間は過ぎてくれるのだ

なんと便利な

俺のような人間が安心して生きながらえるための手段

そして俺はどこでも

いつなんどきでも眠ることができる

環境に順応しているのだ

俺も

お前も

 

 

おやすみ、と言ってみて

俺は笑った