中編小説『持たざる者』②

 無職になると、自分が従事していた仕事の形がはっきりとした輪郭をもって浮かびあがってくる。朝四時半に起きる必要はなく、前日の深酒を控える必要はなく、濡れたタオルで満杯になった袋を担ぐ必要もない。誰かと喋ったりタイムカードを押すこともない。

 大学を半年で中退してから、船木は職を転々として十年ばかりをすごした。アルバイトでも契約社員でも正社員でも、あるタイミングでどうしようもなくそこに留まっていられなくなるのだった。社長や上司に貴重な働き手と認識されていることを感じたとき、仕事に慣れここで働き続けるのも悪くないと思い始めたとき、安らぎを感じる一拍を挟んで、途端に退職への欲求に支配される。

 就きたい仕事があるわけではない。特別な何者かになりたいわけでもない。ただ、その職場から、そこにいる人々から離れたくなるのであった。親切にしてくれた会社の人間が信用ならなくなった。入社してからの日々は俺を飲み込むための下準備だったのではと訝った。船木のためを思って発せられたであろう言葉は、余計に拒絶の意思を揺るぎないものにした。

 次の仕事は決まっているのかと、これまでの職場で幾度となくきかれた。決まっていないと答えると、相手は不思議がった。空白期間があると次の就職のときに不利になると忠告する者もいた。それならそれで仕方ないと船木は答えた。あまりにしつこいときには、ダメならホームレスにでもなりますよと言った。すると相手はつまらない冗談を吐かれたように苦い顔をして黙る。船木は真面目に話をしているつもりだった。

 好きな時間に寝起きし、好きな時間に食事を摂った。三日に一度はスーパーに行き、その日に安売りされている食材を買ってくる。肉野菜炒め、うどん、カレー、シチュー、親子丼、チャーハンなどの簡単な料理を、以前に勤務したホテルや飲食店で教わった通りに作った。アレンジしたもの、凝ったものは作らない。状況によっては何食も何日も続けて同じものを食べた。食材を腐らせたり、めったに使わない調味料を買って駄目にしてしまうことを船木は嫌った。

 気の向くままに散歩をし、夜には安いポートワインを飲んだ。海沿いに建つアパートの二階の部屋からは海と砂浜が見え、波の音がきこえた。ワインを飲みながら耳を澄ませていると、このまま死んでもどうということはないと思えた。

 錆びた鉄柵の隙間から暗い海を眺め、その考えが真実であることに気づく。喉が真空になったように締めつけられ、ゆっくりと緩む。俺が死んでも世の中は何も変わらない。それは当たり前の真実の再発見であり、失望することではなかった。

 船木はかつて、自殺について書かれた本を図書館で手当たり次第に読み漁ったことが あった。自分に自殺を試みた経験がないことが解せなかった。少なくとも一度くらいは、自殺を検討すべき人間であるように思われた。しかし手に取った本の多くは直接的または間接的に読者に自殺を思い留まらせようとするものだった。自殺という手段が存在することを救いと書く本も、結局は読者を生に導こうとしている。

 冊数を重ねるにつれて分かってきたのは、誰かの意見や教えではなく、事実としてどのような自殺が存在するのかを自分が知りたがっているということだった。考察や分析をされたり、恣意的に切り取られた情報に価値は見い出せなかった。これまでに自殺した一人ひとりの生育歴や学歴、職歴、年収、恋人の遍歴と婚姻歴、家族構成、趣味、自殺した原因や遺書の有無と内容、実際の自殺の手順などが詳細に記録された事典のようなものがあれば読みたいと思った。だが図書館にそういった本や資料は置いていなかった。

 やがて船木はこう結論づけた。自分が真に欲しているのは、これまでに起こった自殺を、旋回しながら森を見下ろすイヌワシのように、全体的かつ一つひとつの細部まで同時に、公平に知覚することなのだと。当然ながら、自分がイヌワシの眼と耳で世の自殺を認識できるわけがなかった。

 広い部屋で一万冊の本を広げたとしても、船木はある一冊の、どこかのページの一文を現在進行形で読み進めることしかできない。記憶という能力も頼りにならない。呼び出された時間には必ず濃淡があり、そこに残る記録の正確性は一分一秒の時間とともに薄れ損なわれる。同時性も公平性も担保されない。

 図書館で最後に借りた何冊かの本を、船木は夜の砂浜で燃やした。立ち上がる炎を見つめながら、自分は自殺する人間ではないことを悟った。そして、それが人生に希望を抱く理由になるわけではないと念を押した。

 

 携帯が鳴ったのは、仕事を辞めた一週間後の土曜日だった。

 船木は夕食を済ませ、プラスチックのコップでワインを飲んでいた。あとは寝るだけという状態だった。あるいは一晩中起きていても構わなかった。

「瑛人(えいと)」と電話口から宇津井の声がした。下の名を呼ばれたのは久しぶりのことだった。半年前、最後に船木を瑛人と呼んだのも宇津井だ。あの日二人は中華街に繰り出し、朝まで飲んだ。船木は二日酔いで仕事を休んだ。この一年で唯一の欠勤だった。

「今、家か?」

 この短い言葉だけで嫌味のない快活さを伝えてくる男を、船木は宇津井以外に知らない。しかしそれは、数カ月に一度であっても定期的に連絡を寄こしてくる人間が他にいないからかもしれない。

「家だよ」

「予定ないのか? 中学の同窓会とかさ」

 電話の向こう側では、男女の声と食器がぶつかる音がしていた。宇津井はその喧噪から距離をとっているようで、ジッポーのキャップが開く音とホイールが擦られる音が鮮明にきこえた。

「呼ばれてない」

「前もって知らせたら瑛人は絶対に断るからな」

 船木は黙る。その通りだった。

「俺も今来たとこだからさ、出て来いよ。前に飲んだ店の近くの居酒屋だ」

 船木は壁の時計を見た。針が止まっていることを理解するまで時間がかかった。携帯を耳から離して画面を確認する。七時だった。ずいぶん早くに夕食を摂ったものだと思ったが、それは夕方に目を覚ましたからだった。

「星野咲も来てるぞ」

 返事をしない船木に、宇津井が助け舟を出す調子で言う。

「まごまごしてると、俺が取っちゃうぜ?」

「何を?」

「星野を、だよ」

「お前なんかに落とせっこないよ」

 船木の宣告に、宇津井は正論を突きつけられたような重いため息をつく。

「じゃあ、瑛人がなんとかしてみろよ」

「そもそも、あいつは結婚してる」

 結婚という単語が、強く響いてしまった気がした。畳の一点を見つめて冷やかしを予期するが、宇津井にそのつもりはないらしかった。

「まあいいさ、ダメ元で誘ったんだ。じゃあ二次会終わって、行けたら瑛人んちに行こうかな」

「今日はそっちで楽しめよ」

「女を二人、連れて行くからさ」

 電話を切ると、静寂が船木を待っていた。電話の前より静かになったようだった。耳を澄ませると、網戸越しに波の音がきこえた。

 

 行こうかな。行けたら行くよ。宇津井がそう言ったなら、必ず行くということだった。

 船木はサンダルをつっかけ、アパートを出た。国道沿いに一分歩き、古い一軒家と一軒家のあいだ、柵のない狭い敷地をすり抜ける。短い階段をおり砂浜に出る。目の前と言っていい距離に波が迫る、小石とゴミの多い砂浜だ。国道の街灯が砂の上を照らしていたが、波打ち際より向こうは途端に沖が始まるかのように暗かった。

 近くの海水浴場から流れ着いたゴミを避けて歩く。ペットボトル、空き缶、ビニール袋、プラスチック容器、しぼんだ浮き輪。

 足元に野球の軟式ボールを見つけ、つま先で蹴りながら波打ち際を進む。表面の凹凸を失ったボールは、ときどき波にさらわれそうになりながら、砂の上をボテボテと不格好に転がった。

 砂浜が途切れた。道路にあがる前に、船木はボールを拾い沖に向かって思い切り投げた。白球は暗闇に紛れ、着水の音さえ残さなかった。またいつか砂浜に打ち上げられ、また誰かに海に向かって投げられるのだ。軟式ボールの中は空洞であるはずだった。表面が擦り切れてあるとき破裂するのだとしたら、その瞬間を見てみたかった。

 

 国道沿いにぽつんとあるスーパーで、単三電池とスーパードライをワンパック買った。幅の狭い歩道を伝ってアパートに戻るあいだ、誰とも会わなかった。

 ビールを冷蔵庫にしまう。壁掛け時計に電池をセットして、携帯で時報をきいて針を合わせた。八時前だった。

 出かける前に飲んだワインの酔いは醒めていた。ボトルの残りを飲むかどうか考えて、やめておくことにした。畳に横になり、シミの浮いた天井を見つめる。

 中学三年のときに同じクラスになった宇津井は、野球部のキャプテンでエースピッチャー、そして学級委員長を務めていた。船木の方は部活にも入らず、委員になることもなく、心を許せる友達もおらず、何者とも説明がつかなかった。一学年は三クラスきりであったが、三年になるまで宇津井は船木の存在さえ知らなかったはずだ。

 夜中のあいだに思春期の屈折をまとめて発散しているとでもいうのか、宇津井は同年代の男には到達できない明朗さを持っていた。加えて恵まれた体格と運動神経を備え、ごく自然に教師と生徒からの信頼を得ていた。宇津井が特異であったのは、真面目でおとなしい生徒、活発で不良じみた生徒、そのあいだに属する生徒に、均等に一目置かれている点だった。学年一の秀才やスポーツマンにも、悪ぶることで注目を集める荒くれ者にも獲得できない、万能型の人望を、難なく保っていた。

 三年生になり新しいクラスで過ごすうち、船木は、宇津井が自分と仲良くなりたがっていることに気づいた。宇津井のような立場の人間からそういった気配を感じるのは初めてのことだった。学級会でふと目が合ったとき、実務的な用事があって話しかけられたとき、目線や口元に、船木にだけ知らせたいサインのようなものが見え隠れした。

 夏休み前に野球部を引退してから、宇津井は両親とともに船木の実家近くの団地に越してきた。その転居について、終礼で教師がクラス全体に報告した直後だった。

「一緒に帰ろう。家、近いだろう」

 教室を出ようとした船木の前に立ち塞がり、宇津井は言った。まわりの生徒ほどには宇津井を信用していない船木がまず考えたのは、騙されてはいけないということだった。しかし胸板の厚い大きな身体を前にして、背中に視線を浴びて、決断は迫られていた。隙のない笑みと、くすぐる騒めきが、答えを絞っていった。

「いいよ」

 了承を確認した宇津井はすぐに廊下に出て、数歩行ったところで船木を待った。まるで、教室の人間を二人の仲を取り持つ証人と捉えているような振る舞いであった。罪を認めさえすれば求刑を軽くしてやりたいという情のある検察官のようでもあった。

 校舎を出て校庭を横切るところで、宇津井は自身にかけられた疑いを思い出した様子で小さく笑い、船木の気を引いてから言った。

「ああでもしないと、断られるかと思ったからさ」

 その包み隠さぬ言葉と笑顔が、船木だけに向けられた。船木は、クラスメイトや教師が、いかにしてこの男に魅了されてきたのかを理解した。躊躇なく、大胆に投げかけられた好意は受け止めざるを得ず、手を開くとそこにボールではなくコインが見つかったように、船木と宇津井は、顔を見合わせて微笑んだのだった。

 二人は一緒に登下校し、どちらかの家で夕食までの時間を共にした。テレビゲームをしたり、勉強をしたりしていると時間はあっという間にすぎていった。初めて公園でキャッチボールをしたとき、宇津井は船木の肩の強さに驚き、でたらめなコントロールをからかった。

 親しくなってからも、学校での宇津井は取り巻きと行動を共にしていた。そこに、船木が入り込んでいく余地はなかった。宇津井にとっての船木はただの登下校のあいだの暇つぶしであると、当初まわりは思っていただろう。

 しかしときどき、宇津井が自陣から離れ、船木のもとを訪れることがあった。休み時間いっぱい語らう二人を見た取り巻きや他の生徒が、徐々に自分に対して一定の価値を認め始めていることを、船木は肌で感じ取った。俺は今まで目立たなかっただけで、飛び抜けたとは言わないまでも、なんらかの魅力を秘めているのではないか思ったことを覚えている。

 宇津井は決して、船木を集団に取り込もうとはしなかった。まわりの連中が何かの拍子で船木に話しかけるときも、そこに一切参加しないということで、宇津井は態度を明確にした。あくまで一対一の友人として、仲を深めていった。騒々しい、常に茶化し合う集団に、船木が馴染めるわけがないと分かっていたのだ。船木にとっては、それも自分が大切に扱われていると感じる要因だった。

 いつであったか、二人で酔っぱらっているとき、脈絡もなく宇津井は言った。瑛人は孤独を恐れない、と。誰もいない道を、一点を見つめて真っすぐ歩くことができる。けど孤独を愛しているわけでもないはずだ。

 船木は黙って耳を傾け、その言葉を頭で反芻し、記憶に留めようとした。今でもときどき思い出し、では何かを愛しているのかと考える。

 

 宇津井がやって来たのは、零時をすぎた頃だった。

 ワイシャツ姿で狭い玄関に立つ宇津井は、右手にチェックの夏用ジャケットを抱え、左手にコンビニの袋を提げていた。

 船木は言った。

「女がいないみたいだけど」

 裸電球の下で、宇津井は左手の袋を顔の高さに掲げて、微笑んだ。

「代わりに、おっさん連れてきた」

 白いビニールを透かして、鯛を抱え、釣り竿を肩にかつぐ七福神のえびすが見えた。

 部屋にあがった宇津井は、こたつテーブルの真ん中にヱビスビールのパックを置いた。船木は冷蔵庫からスーパードライを持ってきて、その隣に並べる。互いに買ってきたビールを交換し、紙パックをむしり取る。

 船木のアパートで飲むときは、相手の好みのビールを用意するのが恒例になっていた。船木は特にビールの銘柄にこだわりがあるわけではなかった。ただその味に舌が馴染んでいるというだけだった。

 乾杯して一息つくと、しばらく黙った。宇津井は後手を畳につき、二人のあいだに浮かぶ空間を眺めていた。顔色は普段と変わりなかった。気持ち良さそうに目を細め、新鮮な酔いを何度も味わい直しているようだった。

 宇津井が見返してくる。宇津井と目が合ったときには視線を逸らさないと、船木は決めていた。

「先週で仕事を辞めたんだ」

 口を開いたのは船木だった。

 宇津井は申し訳程度に姿勢を改め、そうかと眠そうな声で言った。

「じゃあ昼間、暇だろう。いや、夜も暇か」

「暇なのは嫌いじゃない。仕事してるよりはずっといい」

 そうだろうな、と宇津井は笑う。部屋を見回し、ビールに口をつける。

「そういえば会社でテレビ余ってるんだ。いるか? 型落ちだけど」

 船木は実家を出てから十年以上、テレビを持っていなかった。また、欲しいとも思っていなかった。

「最近のニュースとか、全然知らないだろ」

「知ってた方がいいのか?」

 宇津井はポケットからピースのボックスケースを取り出す。一本抜き取り、ジッポーで火をつけて深く吸い、煙を吐く。

「ニュースがすべてだと信じ込んで、矮小な価値観に染まっている奴もいる。ほとんどがそうかもしれない。けど、瑛人はそうはならない」

 最後の口調は断定的だった。

「そうならないなら、テレビを見たらどうなるんだろう、俺は」

「世間話とかできるだろう、職場で」

「辞めたんだ」

「そうだけどさ」

 宇津井は肩を揺すって言った。それから重そうに腕を伸ばし、長くなったタバコの灰をアルミ灰皿に落とした。ビールを飲み干し、二本目を開ける。

「暑いな」

 宇津井が手で顔を扇いで言った。船木は、暑さを感じ取ろうとした。暑いと言えば暑かった。押し入れに扇風機があるはずだったが、出すのが面倒だった。

「窓開けていいか?」

「開いてる」と船木は窓の方を見て言った。

 宇津井はビールを置いて窓辺に向かい、半分ほど開いた網入りガラスを網戸と一緒に目いっぱいスライドさせた。その足で玄関に移動し、ドアを開けてストッパーを挟む。換気扇の紐を引く。わざとらしく悠々とした足取りで戻ってきて、腰を下ろす。

「徹底的にやるんだ、何ごとも」

 宇津井は真面目ぶった顔を突き出して言い切り、笑顔を作った。よく笑う男だと船木は思った。おそらく自分も宇津井といると普段より頻繁に表情を緩めているのだろう。すると宇津井もまたその自分の姿を見ているということが意識された。

 部屋を風が抜け、身体に張りついていた熱が流れる。宇津井が目論んだ通りの現象が起こっている。だがそのことを口にはしなかった。他の話題を探し、尋ねた。

「同窓会、どうだった?」

「どうだったって?」

「楽しかったか?」

「ああ、まあ、楽しかったよ」

 宇津井がそれ以上の感想を継がないことに、船木は物足りなさを感じる。しかし考えてみれば同窓会がどんな様子であったかを特に知りたいわけではなかった。十年以上会っていない中学校の同級生が結婚した子どもができた家を建てたどこに住んでいるとそんなことを自分が知って、いったいなんになる。船木は今、宇津井と時間と空間を共にしているのであった。もし話題にするなら宇津井か自分に関することであるべきだった。また無理に話題を探す必要もないはずだった。宇津井とであれば黙って酒を飲んでいるだけで、いや酒がなかろうと一緒にいれば心安らぐのだ。細々とであれ宇津井とつながっていることは、この世の中を生きていく上できっと自分に良い影響を与える。テレビが宇津井の代わりになるはずもない。

 船木は沈黙に満足を得た。リラックスした姿勢でタバコの煙を眺める宇津井も、自分と同じ気持ちでいるように映った。

 会話はなかったが、ビールが順調に消費されていった。全開になった窓の向こうの波の音がきこえ、二人の体表から発せられる熱は風が運び去ってくれた。その波音や風の感じ方さえ、寸分たがわず宇津井と同じものを共有している心地があった。

 やがて宇津井が、身体を横たえ瞼を下ろした。船木はまだ眠くなかった。明日は何時に起きるつもりなのか寝入る前に確認しかけて、一度開いた唇を閉じた。それは船木が心配することではなかった。物音を立てないように注意して立ち上がり、畳に放り出されたチェックのジャケットを拾ってハンガーに吊るした。

 時刻は夜中の二時を回っていた。窓辺のパイプベッドのそばの蛍光灯だけ残し、部屋の明かりを落とす。こたつテーブルに戻り、缶に残ったビールを少しずつ飲んだ。宇津井のスラックスの折り目を、長いあいだ見ていた。

 

 別々の高校に進むと、二人は疎遠になった。宇津井が隣県の野球の強豪校に入学し、寮生活を始めたのだ。正月や盆には帰省していたはずだが、その機会に連絡を取ることもなかった。互いに別々の高校生活を送り、卒業した。船木は大学を半年で中退し、宇津井は進学せずに不動産会社に就職した。

 再会したのは五年前、二人が二十五になった年の冬だった。日雇い労働を終えた船木が、たまたま立ち寄ったバーでのことだった。カウンター席で女と並ぶ宇津井は仕立てのいいスーツを着て、ジェルで髪をきれいに撫でつけていた。腕時計の文字盤に刻まれたブランドロゴは、船木の知らないものだった。だが高級時計であることは見て取れた。

 宇津井は独立し、社長になったばかりだった。

「一通り覚えたらあとはやること変わらないからさ。上司もうるさいし、伝手もできたし、じゃあもう自分でやろうと思って」

 連れの女は船木が同席しても嫌な顔ひとつ見せなかった。ぴったりとしたラメ入りのドレスを身につけ、スタイルの良さを強調していた。キャバクラ嬢で、これから自分が籍を置く店に宇津井と同伴するという。

「瑛人も行こうぜ。おごるからさ」

 その誘いを、船木は用事があると言って断った。宇津井が残念がる横で、女は無言で微笑んだ。瞳の向く先を曖昧にする目の細め方だった。

 ぽつりぽつりと言葉を交わしながら、船木は中学時代の思い出を拾い集めていた。三年間のうちの半年程度ではあったが、明朗で親切な友人との時間は、それまでの二年半の色彩をあっさりと奪ってしまうほど色濃かった。

「一年か二年で出会ってたら、野球部に誘ってたんだがなあ。キャッチャーをやらせたら、セカンドでいくつ盗塁を刺したか分からない。センターやライトだっていい」

 宇津井は手振りを交えて、船木の肩の強さを女に説明した。女はなぜか噴き出すのをこらえるようにして話をきいていた。

 ひとしきり喋ってから、宇津井がトイレに立った。すると女は初めて船木の方を真っすぐに見て、「用事ってなんですか?」と言った。船木は答えずにマスターを呼び、自分の分の支払いを済ませて店を出た。この店に来ることも、宇津井と会うことも、もう二度とないだろうという気がした。

 寒い日だった。作業着の襟を立て、肩をすぼめて歩いていると、後ろから宇津井が追いかけてきた。息を切らして船木の肩に手を置いたあのときも、やはり宇津井は笑った。

 女は、と船木は尋ねた。

「いいんだ、どうせやらせてくれないし」

 自分も笑ったのかどうか、船木は覚えていない。俺は、笑ったのだろうか? 自分の表情が確かめられないということが、不条理に思えた。

 

 きき覚えのない電子音が鳴り響く。畳に手をついて上半身を起こすと、宇津井もこたつテーブルの向こうで同じ体勢になっていた。スマホを耳に当てて、寝起きの声で生返事をしている。用件はすぐに済んだようだった。脱いでいた靴下を履き、ハンガーにかかったジャケットを掴む。

「行くよ」

 宇津井は玄関に向かい、畳に座り込んだままの船木に手を挙げて姿を消した。

 静かになった。この部屋は静けさに慣れている。声が響いている時間の方が非日常なのであった。相手がいないと会話が生まれないという自明の理は、一人でいることを過剰に貶める。

 畳を背に伸びをすると、何かが指に触れた。ジッポーだった。携帯を手に取り、宇津井に電話をかけるがコール音が鳴るだけで出なかった。

 メールを一通送っておけば済む話だった。放っておいたっていい。ライターなど、急いで返してやるものではない。しかし船木は携帯をポケットに入れ、ジッポーを握りしめてアパートを出た。最寄り駅には普通電車しか止まらない。追いつけるかもしれない。

 船木には自分だけが知る小さな賭けをする癖があった。またその癖が発動したときには、抗わずに楽しんだ。電車やバスの時刻表を見ずに家を出る、開いているか分からない店に電話をせずに行ってみる、当てずっぽうで進む方向を決める。事前に調べたり確認することを煩わしいと思う気持ちとは別に、自分の時間と労力を無駄にするかもしれないという覚悟をしてみたくなるのであった。

 夏の朝の日差しを浴びながら、駅までの距離を計算すると、船木は駆けだした。三十秒もしないうちに太腿が重くなり、最後に本気で走ったのが遠く以前だということを思い知った。それでも足が止まるまでは走ろうと奮い立った。

 廃れた町の片側一車線の国道に似合わない、ブルーのBMWとすれ違ったときだった。助手席の宇津井と目が合った。船木は惰性で数歩進んでから振り返った。

 BMWは少し行ったところでハザードランプを点滅させ、左側の車輪を歩道に乗り上げて停車した。宇津井が降りてきて、長く船木の方を見ずに、足元に視線を落として歩み寄ってくる。運転席の男が降りてくる気配はなかった。

 声の届く距離まで迫ってから、宇津井はようやくこちらを見てスマホを掲げ示した。

「悪い、電話気づかなかった」

 ああ、と船木は声を出した。

「何かあったか?」

 ジッポーを忘れたことに宇津井は気づいていないのだ、と船木はぼんやり考えた。右手の中の金色のライターを返さないという考えが、頭をよぎる。渡してやるために来たのに、その場面が想定とは違っただけで、好意を示すことに躊躇いが生まれたのだった。

「あれな、社員なんだ。近くに住んでるの思い出してさ」

 半身になって車の姿を見せ、きかれてもいないことを説明する宇津井の笑みに、船木は反応できなかった。生来の人懐っこさに、洗練された陰影が重ねられた表情。

「ライター、忘れてたろ」

 他に適当な言葉が思い浮かばず、船木はそう言ってジッポーを差し出した。宇津井は、それが見覚えのない小石であるかのごとく、手のひらの中央に乗せたまま見つめた。鍵盤をうまく滑りそうな長い指が波打ち、鈍い金色が隠れる。

「タバコ、やめられるとこだったのに」

「やめりゃいい」

「身体に良くないもんな」と宇津井はなぜか楽しげな声を出し、背中を向けた。軽い足取りで離れていき、助手席のドアを閉める直前にも、短く身体を翻して手のひらを見せた。合図をする姿が似合う男だと船木は思った。

 BMWは短いクラクションを鳴らし、走り去った。船木は堤防越しに海を見ながら、アパートに戻った。

 

中編小説『持たざる者』①

 何百回と通ったその道の景色を、船木は初めて、意思を持って眺めた。今日で仕事を辞めることが作用しているのは明らかだった。感傷的だと自分を批判しかけるが、そういった反抗はやめて身を任せようと言いきかせる。

 ハイエースは、一方通行の三車線道路の真ん中を進んでいた。左右には街路樹が並び、枝葉を揺らしている。道路わきに設置された花壇では、黄色とオレンジ色の花が咲いている。軒を連ねる店舗のうちのいくつかが、プランターや大小の植木鉢を出し、思い思いの草花で、さらに色彩を豊かにしようとしている。

 午後の暑さと怠惰な時間の流れは、人びとの視線をその彩りへと向かわせない。通行人は前方の地面の一点を見つめ、何者かの残骸をそこに思い浮かべているようだった。同時に自らも、粘つく影をこすりつけるようにして、つま先を低く低く押し出している。梅雨が明けてから、長く雨が降っていない。

 車内はエアコンが効いていた。フロントガラスを突き刺す日差しを浴びながら涼しさを享受する違和感を、船木は未だ払拭できずにいた。目の前にあるからと利だけを摘まみ取っていると、裏で何かがそれ以上の規模で消費されるような気がした。

 船木が消費を気にかけているのはガソリンではなく他の何かだった。社用車でいくらガソリン代がかかろうと従業員には関係ない。また船木は原油の枯渇や排ガスによる環境問題を懸念する男でもなかった。

 助手席の多田が腰を浮かせる。後ろポケットからスマホを取り出すのを見て、船木は口を開く。

「好きなのかけろよ」

 多田は無言のまま口元を緩め、スマホの画面を操作した。ギターらしき楽器の前奏が始まる。続いて女の声が響く。

 この音はギターではなくベースかもしれない、と思い直す。どちらも同じような形をした弦楽器だが、異なる音を出す。船木はその音の違いを確認したことがなかった。船木が考える確認とは、これがギターでこんな音が出る、これがベースでこんな音が出るという説明を受けながら目と耳で確かめることだった。

 一人で配達先を回っているときは、ラジオをきいていた。局と番組が一致しないので、AMもFMも関係なく耳あたりの良さを求めて小まめにチューニングした。歌詞のない曲やラジオパーソナリティの雑談をきいていることが多かった。天気予報や交通情報も心地良かったが、そういったコーナーに割り当てられる時間は短すぎた。

 二週間前、多田を伴って働くようになったのを機にラジオを消した。すると三日目に多田がスマホで音楽をききたがった。旧式の携帯しか持たない船木にはスマホで音楽をきくという発想がなかった。以来毎日、配達を終えて帰社するタイミングで多田が選んだ曲を流す。

 どれも歌い手は十代か二十代のようだった。それが分かるくらいには耳を傾けていた。歌詞を伴う音楽に本格的に意識を向けると、曲中に表される物語や主義主張への理解が追いつかず置き去りにされた気分になる。その距離は開いていく一方であり、すると気づいたときには次の曲が始まっているという事態に陥るのであった。

 エアコンを使い始めたのも多田が来てからだ。窓を全開にして車を走らせていたら、暑すぎませんかと多田は言った。額には大粒の汗を浮かべており確かに暑いらしかった。そうかもなと船木は答え、エアコンのスイッチを入れた。送風口からカビ臭い風が流れ出て、隣で多田が鼻をスンスンと鳴らした。あのとき、においについて多田が不満を述べなかったことを、船木は好ましく思った。

 前方の交差点の信号が黄色に変わる。船木はブレーキを踏み、停止線でハイエースを止める。歩行者が横断歩道を渡り始める。

 一年前の勤務初日の光景が蘇った。先輩社員がハンドルを握り、船木は助手席にいた。なんでこんな仕事をしようと思ったのかと先輩は尋ねた。その場面を最初に頭に浮かべた自分に船木は腹を立て、早々に記憶を追い払う。

 視界に侵入してきた影を察知し、ルームミラーに目をやった。鏡面に映る白いセダンの迫り方に、ハンドルを掴む手がこわばる。シルエットが見慣れない大きさになったのを認め、左手を叩きつけるように伸ばし多田の胸を支えた。

 ハイエースの長いボディを伝わってきた衝撃が、二人の背中をシートから浮かせる。車体はわずかに前方に動き、母親に手を引かれて横断歩道を渡っていた三歳くらいの少年が転ぶ。船木は冷たい汗を全身に感じ、歯を食いしばった。サイドブレーキを目いっぱい引く。

 少年を抱き起こした若い母親は、しゃがんだままフロントガラス越しに船木を睨んだ。船木は大丈夫かと声を張る。しかしパワーウィンドウを下げていなかった。シフトレバーをパーキングに切り替えシートベルトを外したが、すでに親子は背中を向けて歩きだしていた。道路を渡り切った少年が、一度だけこちらを振り向いた。恐怖や驚きの色はなかった。だが純真な知的好奇心の広がるなめらかな眉間は、より深刻な非難を船木に訴える。

 車内に女の叫び声が響いた。船木は一瞬の錯覚ののち、それが床に転がったスマホから発せられる歌声だと気づく。

「くそっ、オカマかよ」

 多田が後方に怒りを向けて車を降りようとする。船木は腕を掴んで引き止める。

「いいから警察呼べ。あと会社に電話して社長に来るように言ってくれ」

 多田は士気を抜かれた顔で船木を見つめ、ああ、はいと声を出す。足元に潜りスマホを拾う。力を溜め込むように低音で唸っていた女の声が、ぷつんと途切れた。

 船木はサイドブレーキが効いていることを確認し、ハザードランプのスイッチを入れて運転席から降りた。何台かの車がそばを通りすぎていった。ハイエースの後方に回ると、リアガラスが割れ落ちて粉々になっていた。バックドアは人力では開けられそうにないほど変形している。白いセダンの前座席では、年老いた夫婦が、まるで事故相手が目の前の連れ合いであるかのように激しく言い争っていた。しぼんだエアバッグから、白煙があがっていた。

 

 タクシーで多田と整形外科に行き、医師の診察を受けた。最近開院したらしい清潔なクリニックで、他に患者はいなかった。検査では二人とも異常なしのとのことだった。もし痛みやしびれなどの症状が出たらすぐに連絡してください、と頭を刈り込んだ若い医師は張り切った調子で言った。まるで後遺症を心待ちにするかのようだった。

 会社に戻ったのは夕方の五時だった。定時を三時間半すぎていた。事務員たちも帰り支度をしている。船木が着替えてロッカーの荷物をまとめていると社長がやってきた。太った身体によく合ったスーツに、香水のにおい。

「最終日に追突されるなんて、お前もついてないなあ」

 医師にせよ社長にせよ、ずいぶんと落ち着いている。交通事故というものは、実は俺が思うよりありふれた事象なのかもしれないと考える。

「車、修理ですか」

「ああ、ありゃ廃車だってよ」

「え?」

「どうした」

「いや、あれくらいで廃車になるんだなと思って」

 修理をして事故車として返ってくるより、買い替えとなった方が社長としては好都合なのかもしれない。相手方は任意保険に入っていなかった。こちら側の治療費は検査代のみとしても、車両代はあの老夫婦が負担するのだろうか。

「あとはこっちでやっとくから、心配するな。残業もつけとくからな」

 現場に駆けつけた警官からの聴取で、船木はあったままのことを伝えた。信号待ちをしていたらセダンが突っ込んできた。ドライブレコーダーにも映っていると思う。何キロ出ていたのか、ブレーキがあったかどうかは分からない。

 追突された衝撃で少年を轢きかけたことは言わなかった。なぜかあの親子に逃げられたような、見捨てられたような、そんな気がしていた。

「そういえば今日、送別会やるから、お前も来いよ」

 社長が船木の肩に手を置いて言った。

「送別会って、誰の?」

「お前のだよ。時間ないか?」

 ありますけど、と船木は答えた。

 

 社長が予約した居酒屋は雑居ビルの地下にあった。金曜日ということもあり店内は混んでいた。社長と向かい合い、船木と多田が並んだ。参加者はそれきりだった。

「二人は、いくつ違うんだ」

 顔を見合わせ、多田が答える。

「六個です。船木さんが三十で、僕が二十四なんで」

「じゃあ、兄弟みたいなもんだなあ」

 社長は目を伏せてタバコに火をつけた。運ばれてきたビールで乾杯をすると、半分ほど一気に喉に流しジョッキをテーブルに置いた。

「船木がいなくなったら寂しいよな」

 はい、と多田が答える。

「まだ覚えてないこともあるもんな?」

 今度は迷う数秒があったが、はい、と多田は繰り返した。

「なあ船木」

 社長が身体の向きを変え、船木を正面から見つめる。

「考え直さないか」

 この一カ月間、会社に残るよう何度も説得された。また同じ話が始まるのかと船木はうんざりした。だがこれが最後の説得になるであろうと思うと心が揺らいだ。俺は、考え直した方がいいのかもしれない。

「自分じゃ気づいてないみたいだけど、評判いいんだよ、お前。やることきちっとやるだろう。タオル屋の仕事、嫌いか?」

 一年間、ハイエースでタオルを運び続けた。朝五時半からビジネスホテルやラブホテル、スポーツジム、ヨガスタジオ、スーパー銭湯、それにありとあらゆる業態の飲食店を回った。発注された種類と枚数のタオルを決められた時間帯に届け、使用済み分を回収する。バスタオル、フェイスタオル、おしぼり、バスローブやバスマットも取り扱う。

「一人で動けるし、自分に合ってると思います」

「だったら、なあ」

 同意を求められた多田が視界の端で頷く。

 船木は、なぜ辞めるのか、できるだけ詳しく、自分なりの言葉で、社長に説明してみようかと思った。これだけ引き留めてくれるのだ。キュウリの浅漬けをかじり、ビールで流し込み、タバコに火をつけ、唇を閉じたまま小さなげっぷをして、やはりよしておくことにした。どうであれ、辞めるのだ。

「すいません」

「なあんだよお」

 じっと返事を待っていた社長は、焦れた声を出しのけぞった。

「分かった。もう言わないよ。でもな船木、もしまた働く気になったら、連絡くれよな。そのときは、多田に辞めてもらうから」

「マジっすか」

 多田が本気にしてたじろぐ。社長の乾いた笑い声が響いた。

 

 一時間ほどして、社長が店員を呼んで会計を済ませた。さらに一万円札を船木に差し出し「ガールズバーでも行ってこい」と言って席を立った。

 店の前でタクシーを見送ると、船木は多田を振り返る。

「戻るか」

「え? 戻るって?」

 今しがたのぼってきた階段をおり、入口で案内を待つ団体客の横をすり抜ける。席に戻ると、大きな盆を持った二十歳くらいの男の店員がテーブルを片付けようとしていた。社長に半ば強引に注文させられた料理が、どの皿にも中途半端に残っている。

「やっぱりまだ食うんで、そのままで」

 船木が言うと、店員は戸惑いの表情を浮かべて身体の動きを止めた。客が並ぶ入口を振り向き、ちょっと店長にきいてきます、と逃げるように厨房に引っ込んだ。船木は席につき、空揚げをレタスにくるんで口の中に放り込む。

 多田がそれを見て短く笑って、向いの席に腰を下ろした。テーブルの上に放り出されていた箸を拾い、ゴーヤチャンプルーを口に運ぶ。一口に時間をかけ、ジョッキに手をかける。

「船木さんほんと、なんで辞めちゃうんですか?」

「じゃあお前は、なんで辞めないんだよ」

「僕はだって、働き始めたばっかりだし、辞めるもなにもないでしょう?」

 船木は答えなかった。戻ってきた店員が、二人に声をかける。

「あの、もう一回お通し代かかっちゃうみたいなんですけど、それでよかったら大丈夫だそうです」

 船木は黙って食事を続け、多田が代わりに返事をする。店員は船木からの了解を得ていないことが心残りであるように、その場でまごついてから背中を向けた。

 多田が両肘をテーブルにつき、身を乗り出す。

「船木さん、正社員になるって話あったんでしょ?」

 茶色く染めた髪をワックスで逆立て、眉を細くした幼い顔が、こちらを見ていた。

「そういうこと言われると、急にやる気なくなっちゃうんだ」

「そういうことって、正社員にしてもらえるって話ですか?」

 うん、と口が塞がったまま返事をした船木は、自分が説明を始めたことをすでに後悔していた。しかし予想外に多田は黙り、腕を組んで考え込んだ。船木は咀嚼に集中し、口の中のものを飲み込む。

「急に嘘くさくなるんだ。社長が嘘ついてるとかそういうことじゃないんだけど、俺の方が嘘にしか見えなくなるんだよ。そう見えたら、それは嘘なんだ」

 船木の説明は具体性に欠け、ほとんど伝わりそうになかった。しかしその中途半端が、どうせなら最後まで吐き出してしまおうと思わせた。

「悪気はないんだろうけどさ、俺もう、引っかかりたくないんだ。騙された気分になるのは嫌なんだ」

 船木は多田の反応を待たずに店員を呼び止めて追加のビールを注文した。すぐに食事に戻り、鉄板の上の冷めたステーキを口に運ぶ。添えられたフライドポテトを唇の端から押し込む。

「なんか、分かります」

 多田が神妙な面持ちで言った。

「嘘つけよ」

 新しいビールがテーブルに置かれた。入口に溜まっていた団体客が大声をあげながら背後を通りすぎていった。船木はジョッキを掴み、ビールを飲んだ。ぬるかったが、酒であればそれでいいような気がした。そもそも、普段の自分は冷えたビールをうまいと感じていたのか、怪しいものだった。

 

短編小説『港の二人』

 悲しいことがあった日、男は港に足を運ぶ。必ず、歩いて行った。悲しみを正しく認識し、反省すべき点を反省し、明日に活かす術について考えるためには、徒歩の運動量と耳目の刺激がちょうどよかった。

 突堤の先からは、対岸の商業施設の明かりがキラキラして見えた。その光は、足元で揺れる波にも反射していた。

 時々、振り返って山を仰いだ。街なかにいる時はビル群に遮られているが、港に来て視界が開けると、黒々とした影として姿を現す。うっそうと茂る木々の葉が、一色で塗りつぶされて東西に延びている。

 自分は海ではなく山を見るためにここに来るのかもしれない、と男は考える。

 視線を落とすと、突堤の半ばに女がいた。目が合ってからも、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。手の届くところまで迫って、立ち止まった。

「人を殺しました」

 女は表情を変えずに言った。

 男は、女のワンピースとそこから伸びる腕に、返り血を探した。しかし薄いブルーの生地にも、白い肌にも、シミひとつなかった。真っすぐで長い髪が、重そうに垂れている。

「誰を?」

「両親。老いてしまったんです」

 男は言葉に詰まった。

「それで、私も死のうと思って、海に来ました。ここから飛び込んだら、死ねるかしら?」

「死ねないね」

 男は、自分のことを答えるように言った。

「じゃあ、よしておきます。死ねないのなら、意味がないもの」

「老いたからって、殺すのか?」

 女の瞼が、わずかに震える。

「自分で何もできなくなって、かわいそうだから、死なせたんです」

「かわいそう?」

 男を無視し、女は背を向けた。

「君も、俺から見ればかわいそうだけど」

 振り向いた女が、間を置いてから口を開く。

「ですから、死ぬんです」

「君、紐か何か、持ってないかい?」

「どうして?」

「手を縛ってやるよ。そしたら、ここで死ねる」

 男はそう言いながら、目の前のワンピースの腹部に、細い革製の飾り紐を発見していた。女も気づいたらしく、結び目をほどき、スルスルと抜き取る。紐を受け取った男は、女の身体の前で両手首を縛ってやった。

「痛くないかい?」

「死ぬんです」

 両手の自由を失い、覚束ない足取りで突堤の端に進んだ女が、こちらを向く。

「最後に、抱いてくれませんか?」

 男は歩み寄り、女の両腕を持ち上げ、頭をフラフープに通すように、身体に回させた。そして自らも、女の腰に手を回した。

 女の髪の毛に鼻をくすぐられ、男は、別れた妻のことを思い出していた。あれは、どんなにおいだったか。頭の高さは、もう少し低かったか。幸せに、してやれなかったか。これから、幸せになるのか。

 やがて女が、腕の力を抜き、顔を上げた。しかし革紐で結ばれた両手は、男のベルトをがっちりと掴んでいる。

「何を考えている?」

 突堤の下の穏やかな波が、男の耳を湿らせたようだった。

「いけないこと」

 初めて微笑みを見せた女は、ベルトにかけていた手指の力を緩め、バンザイをする。

 男は、これでよいものかと心残りを感じつつ、身体を離した。きまり悪く、一度足元を見てから、山の方に目をやる。ここから見えるあの真っ暗闇について、何か、オカルトめいた話をしてからかってやろう思い立った時、水面が砕ける音があたりに響いた。(了)

詩『ウイルスなんてへっちゃらさ』

 

風邪をひき

俺は何日もベッドの中

メシが食えず

風呂にも入れず

自分が汚れに包まれていくのが分かる

身体が軽くなる一方で

外側の層が厚くなっていく

やがて目と耳と口と鼻が塞がり

泥団子になってしまうところを想像する

 

 

ひどい頭痛と寒気が引き

少しだけ回復の兆しが見えた日

今夜を乗り切り

明日の朝になれば元気を取り戻しているだろう

そんな時

俺は自分が前向きになっていることに気づく

やっぱり健康が一番だ

早く太陽の光を全身で浴びたいな

仕事も散歩もはかどりそうだ

すきっ腹にうまいものを詰め込んでやろう

そんな希望を抱いている

 

 

危ない危ない

俺にはそんな暇はないんだぞ

危ない危ない

俺はそんなことを望んではいけないんだぞ

危ない危ない

俺にはやり遂げなくてはならないことがあるはずだ

何か

きっとあるはずだ

 

 

そうじゃなきゃ

いくら何でも悲しすぎないか

 

 

腋に挟んでいた体温計が鳴り

俺に何かを伝えようとている

 

 

詩『午後四時のバーにて』

開けっぱなしのドアをすり抜けて

カウンター席につき

目の前に置かれたビールを見つめる

白い泡と

透き通る黄金

グラスを伝う水滴

 

 

隣の男はタバコを吸っている

反対側では若い女が泣いている

そのあいだに俺がいて

今グラスを手に持ち傾ける

 

 

テレビモニターには野球中継が映され

壁にかかった額の中で老人が笑っている

店内に流れる聞いたことのないBGMが

なぜか懐かしげに肌を撫でる

 

 

マスター、帰るぜ!

隣の男が叫び、金を投げる

カウンターに散らばった小銭を集めたマスターは

勘定をせずにレジに入れる

 

 

しかし俺には見えていた

百円玉が一枚足りていない

床に落ちたのだ

 

 

隣の若い女はまだ泣いている

時々鼻を鳴らしては

こぼれそうになる涙を指ですくう

 

 

何か悲しいことがあったのか

なぜここで泣くのか

そんなことはどうでもよかった

 

 

慰めてやれるのは

俺だけだった

 

 

詩『王様がお呼びになっている』

世間に認められなかった時

見る目がないと憎むのか

力不足と反省するのか

そこにたいした違いはない

 

 

仮にちやほやされたとして

では見る目があったのか

力が満ちたのか

そんな都合の良い話はない

 

 

いつだってこの世の成功はたまたま

目指し努力し近づくことはできたって

最後のところは

偶然によって決定する

 

 

審査員がフェミニストだったら?

俺の経歴が気に食わなかったら?

裏金がまかり通っていたら?

はたまた

日本が戦争に勝っていたら?

大地が象に支えられた盆の上にあったら?

恐竜が滅びなかったら?

 

 

俺が

俺でなかったら?

 

 

勝者となり栄冠を授かった時

そのピカピカの冠を見ているのは俺ではない

詩『パンチドランカー』

名文と呼ばれる文章を読んで形だけ真似する奴は

死ぬその直前になっても

骨粗鬆症のような文章しか書けない

 

 

シャツやパンツ

靴下を透かして

空気を感じ

地面を踏みしめる

息遣いに耳を澄ませる

リラックスして

ベルトを引き裂く素早さで腰を回転させ

袖口のボタンが飛び散る捻りを加えたパンチを出す

 

 

作家は裸でなければならない

筋骨隆々も善し

貧相でも善し

太っていても結構

鏡の前でファイティングポーズをとり

そいつに打ち勝てるのであれば

燃えカスになる覚悟を持つのであれば

 

 

渾身の一撃の結果

避けられることもあるだろう

効かないこともあるだろう

カウンターを喰らうこともあるだろう

嘲笑を浴びることもあるだろう

ほとんどがそうだ

 

 

ああ駄目だった

ハハハ、まあそりゃそうだろう

そう笑ってリングから降りたって構わない

ここで勝たなくたって

人生が終わるわけじゃない

 

 

一方で立ち続ける人間もいる

ここに留まりたいのか

単に他に行くあてがないのか

そんなことは大した違いではない

 

 

なぜここに立っているのか

自分がどんな姿でいるのか

分からなくなっても

相手だけを見据えて

パンチを繰り出すのだ

繰り出すしかない

 

 

闘う意味を忘れたパンチドランカーには

勝利を告げるレフェリーの声もきこえない