短編小説『埋もれる』

 

 朝の九時から喫茶サニーの大掃除は始まり、マスターはカウンターの中を、私と福西くんはカウンターの外を拭いたり掃いたりして、近所の定食屋でお昼ご飯を済ませたあとに客席の大きな窓を拭き始めた頃から初雪がちらつき始めた。
「このタイミングで!」
 とダウンを着て外から窓を拭いていた福西くんはうんざりしたような顔を作っていたけれど嬉しそうで、今年二十歳になる彼はまだまだ可愛く見える。それに笑ってしまいそうになりながら、私は内側から窓を拭く。
 窓には格子状の枠がはまっていて、それは取り外せないようになっているのできれいに拭くのは難しい。一つ一つの枠内に、霧吹きで洗剤を吹きつけ、濡れたタオルで汚れを取り、乾いた柔らかいタオルで丁寧に拭きあげる。一見きれいになったようでも、見る角度を変えると拭き跡が残っている。はあっと息を吹きかけ、何度も何度も拭く。
 去年も一昨年も窓磨きには二時間以上かかって、けれど年明けに改めて見るとところどころに拭き跡が残っていた。よく見ないと分からないくらいだったしマスターも気にしていない様子だったけれど、店が暇になったときなんかにふと窓に視線をやると、ああ残ってるなあ、と申し訳ないような気持ちになってしまう。
 私がサニーの大掃除をするのはこれが四度目で、そして最後だ。春からは神戸の銀行に勤めることになっている。だからというわけではないけれど、今年は拭き跡ゼロを目指して、私はせっせと窓を拭いた。福西くんが拭き跡を残していないかも、厳しくチェックした。ここ、と中から窓をコツコツ叩くと、「さーせん」と福西くんは素直にまた拭きなおす。
 四時に全ての掃除が終わると、マスターがコーヒーを淹れてくれた。いつもは座ることのない客席に三人は腰を落ち着け、濃くて酸味の少ないおいしいコーヒーを飲んだ。
「窓、完璧っすね」
 福西くんが言って、マスターはカップから顔をあげて窓を見た。
「本当だ。完璧だよ」
 マスターの顔に感じのいい笑い皺が寄るのを見て、どきっとした。去年の大掃除で残ってしまった拭き跡を、マスターは気にしていたのかもしれない、と思った。気にしていたけど、言わなかったのだ。私が気にするから。
 福西くんは満足そうに窓の方を眺め、その仕上がりは本当に完璧と言っても良かったけれど、私は何だかずっと眺めている気にはなれず、手にしたカップの水面を見つめているふりをしていた。
「岡本さん、今から実家すか?」
 福西くんが言った。サニーの大掃除のあとはそのまま電車に乗って帰省するのが恒例になっていたから、きかれるかもしれないと思っていたはずなのに戸惑ってしまって、けれど何でもないふうに、
「ううん。今年は帰らないの」
 と答えた。ただ帰省しないというだけなのに、何でもないふうに振る舞わなければならないのは、卓也のせいだ。卓也が、私を振ったせいだ。それもクリスマスイブに。ラブホテルに行ってセックスをして、プレゼントを交換しようかというときに。
「プレゼントはあるんだけど」
 と卓也は言った。けど何?と私はきいた。
「気持ちが変わったら渡そうと思ってたんだけど、変わらなかったから渡せない」
 振られた女は誰でもいいから人に会いたくなるのかと思っていたけれどそんなことはなく、逆に誰にも会いたくないなんてこともなく、つまり何も変わらなかった。ただ、両親に会うのは嫌だと思った。帰省しただけで喜んでくれて、何もしていないのに優しくしてくれる両親には今は会えない。
「そっすか」
 福西くんは残念そうな声をあげて続けて何か言いたげだったけれど、結局それ以上は何も言わずに、きれいになった店をきょろきょろ見回していた。
卓也をサニーに連れてきたことは何度もあったけれど、マスターにも、福西くんにも、私たちが別れたことはまだ言えていない。

 使ったカップを洗って着替えて、店の前でマスターと「良いお年を」と言って別れ、私と福西くんは雪で濡れた道を、駅とは反対方向に並んで歩いた。人通りは少なかった。木々にはうっすらと雪が積もっていた。
 途中で通った短い商店街にもほとんど人はおらず、電気屋も不動産屋もクリーニング屋も閉まっていた。大晦日だからって、人がこんなにもいっせいに休むってよく考えたらすごいことなのかもしれない、と思った。例えば宇宙人から見たら、地球人の大晦日って変に映るのかもしれない。
「ちょっと待っててください」
 アーケードを通り抜けたところで福西くんが言い、言い終わったときには背中を向けて走りだしていて、横道の先にあるコンビニに入ると、一分かそこらでビニール傘を持って戻ってきた。
「風邪ひきますよ」
 そう言ってビニール傘を開き、私を中に入れてくれた。
 何か言わなくちゃいけない。ありがとう、という言葉が頭を過ぎって実際そう言ったけれど、言ってからもっと違うことを言うべきであるような気がして考えていると、
「年越しは、じゃあ家でゆっくりできますね」
 と福西くんが言った。家でゆっくり、なんて大学に週一回しか行っていない私はいつでもしていることだけど、福西くんは何でもプラスに言葉にする。けれど彼が言うと本当にプラスな気分になってくるから不思議だ。
「福西くんは? カウントダウンとか行くの?」
「いや」福西くんはやけにきっぱり声を出した。「友達に誘われたんすけど、あんまりそういうの好きじゃないんで。僕も家でゆっくりします」
 と言って嬉しそうに笑った。
 スーパーに寄ってそばと揚げを買い、アパートに帰るまで、福西くんはずっと横で傘を差していてくれた。
「ちょっとあがっていく?」と私が言うと、
「いや、いいですいいです」と、そんなつもりじゃないんです、というふうに大げさに手を振って、逃げるようにして彼は帰っていった。優しくしてくれる人には何度も出会ったことがあるけれど、福西くんみたいに、優しくするだけ優しくして逃げていく人はいない。卓也だって、最後は優しくなかったのだ。

 部屋は外より寒いかと思うくらいで、私はコートを着たままお浴槽にお湯を張り、こたつに入ってテレビ特番を眺めていた。お湯がたまるとテレビを消してすぐにお風呂場に行き、服を脱いで、ちょっと迷ったけれど体も洗わずにいきなり湯船に浸かった。
 擦りガラスの外はまだ明るく、こんなふうに夕方にお風呂に入るのは久しぶりだなと思いながら、気持ち良くて、ああ、とおじさんみたいな声を何度も出してしまった。
 二十分ほど浸かって、頭と体を洗ってもう一度湯船に浸かってからあがった。まだ五時過ぎだったけれど、パジャマを着て髪を乾かしてつけっぱなしにしていたこたつに入り、窓に目をやると、曇っていて全然外が見えない。
 上半身と手を目いっぱい伸ばして、窓の水滴をティッシュで拭った。広く見たくて、大きく拭った。
 ベランダの向こうで、勢いを増した雪が上から下へ、叩きつけられるように降っていた。一つ一つがまるで雪合戦の雪玉のようで、ふわふわ舞い降りる雪を想像していた私はびっくりしたけれど、これは積もるかもしれない、と思うと嬉しい気がした。
 あれ、一緒じゃん。福西くんと一緒じゃん。もう二十二なのに、雪が積もると嬉しいんだ、私。
 もっと降れ。もっともっと。降って降って、積もって積もって、なんならこのアパートごと埋めてしまったっていい。私は遭難して、外からの光も差しこまないこの部屋で、私の呼気で充満していくこの部屋で、きつねそばを作ってこたつでゆっくり食べるのだ。
 そこまで想像して、私はやっと泣くことができた。