短編小説『桜に鳴る』

 アパートの前は人でごった返していた。
 丘の上までわざわざ朝からやってきて、路上駐車しまくりの道の真ん中で写真を撮りまくりので、短い渋滞が起こっている。バスがクラクションを鳴らしてる。
 一年に一度、桜の咲く季節の休日は毎年こんなふう。普段は静かなのに、すぐそこの桜並木を見に人が集まる。私はアパートの二階の自分の部屋の窓際で、桟に肘をついて、肘から伸びる腕の先のてのひらに顎を載せて、彼らを見おろす。
 さっき起きたばっかりだ。起きたときは十時二十三分だったから今は十時三十三分くらいだろうかと予想して振り返って壁にかかる時計を見ると、十一時を過ぎていた。時間が思っていたよりも進んでいたことに驚いたり損をした気分になるかと思ったけど、ならなかった。意味もなく長いあいだ時計を見続けて、それからまた外に顔を向けた。
 窓の外からの、おー、とか、わー、とか、そんな歓声で私は目を覚ました。いや、正確に言えば違うのかもしれない。目を覚ましたらたまたま、おー、とか、わー、とか歓声がきこえていただけなのかもしれない。全く、何の刺激もなしに目を覚ますということはありうるのだろうか、と考えたら、あるに決まってるだろという結論に驚くほどすぐにたどり着いた。なら私がいつもセットしている目覚ましも、私は目覚ましのジリリリリリという音で目を覚ましている気になっていて、多分その通りなのだろうけど、何百回に一回くらいは、たまたま目を覚ましたときに目覚ましが鳴ったということもあったのかもしれない。
 けどだからって目覚ましがいらないというわけじゃない。目覚ましがなかったら私は二日に一度は寝坊して遅刻して、会社をクビに――そんなことあるのかな? 遅刻のしすぎでクビになることなんて。
 と考えていたら、もし目覚ましがこの世になかったら、という仮想がぽんと生まれた。目覚まし時計以外のこの世の文化文明はこのままで、私たち人類が目覚まし時計だけを「発明し忘れて」いたとしたら、会社では毎日何人も遅刻して、遅刻してもたいして怒られないだろう。今日は遅かったね、と声をかけられるくらいか。そもそも小学校からそんなであるはずだから、遅刻という概念がないんじゃないか。ニワトリの鳴き声で目を覚ますというのは現代の都心ではほぼ不可能なことだから、あと頼れるのは陽射しだけか。南向きの窓の傍に寝ることにして、朝日を浴びて目を覚ますというのが、目覚まし時計がない人が考えそうなことではあるけれど、当然雲というものがあるから完全に信頼はできないだろう。と、目覚まし時計があってもたまにちゃんと起きない私が言うのも何だけど。
 桜が咲いている。アパートから伸びる下り坂の両側で、桜が咲き誇っている。すごくきれいだ。人々はその、アーチのようになっている桜の下で、角度を変えては、一生懸命に写真を撮っている。桜の感動を写真に収めるのが難しいことを、私は知っている。
 私はテーブルの目覚まし時計を手に取り、一分後に鳴るようにセットして、窓の手すりに載せる。そしてカーテンの影に隠れて、いつもの朝のような、けたたましいベルの音が鳴るのを今か今かと待っている。