短編小説『少年が欲しかったもの』

 

 

 その少年は、学校から帰ってくると、ランドセルを机の横に置き、一度も腰を下ろすことなく鍵を閉めて自宅アパートを出て、学校とは反対の方角に走った。
 公園の横を通り過ぎたとき、同じくらいの年齢の、見知らぬ子どもたちがサッカーをしているのが見えた。砂場に、黒いランドセルが三つ、投げ出されていた。少年は、乱雑に扱われるランドセルを見るといつも心を痛めた。同じクラスの男子も、ときに女子も、ランドセルに傷がついたり、汚れたりすることを気にしていないように扱った。地べたには置かない。少年はそう決めていた。砂場に、それも仰向けになるように置くなんてもっての外だった。
 息が切れる頃、鼠色をした二階建てのアパートに着く。一階の部屋にはそれぞれ柵のない小さな庭があり、車通りの少ない道路に面している。敷地内に足を踏み入れさえしなければ問題ないと考える少年は、道路の縁のコンクリートにしゃがみ込み、鎖をピンと張って飛びついてくる犬を、唾液まみれにされないように上から手を伸ばして頭を撫でる。
 毛の長い、茶色と白の外国の犬だった。少年の膝ほどの体高しかなく、胴に比べて足が短い。長い口は、少年の中指と親指で一周できるくらい細い。しかし実際に手で口を掴もうとすると、狂ったように首を回しながら後ずさりし、逃げられるのだった。
「メリー」という名と、犬種を教えてくれたのは、セーラー服を着た女子高生だった。少年がこの道を歩いていると、敷地の端で骨の形をしたおやつをかじるメリーと、メリーを撫でる彼女に出くわしたのだった。それが一週間前のこと。
 犬種は、忘れてしまった。教わったときにも、うまく発音できなかった。シェットランド――その先が分からない。女子高生は少年にメリーを紹介し、かわいいでしょう、と言った。うちの犬じゃないんだけどね、と言った。それからかつて自分の家で飼っていたケンという犬の話をしてから、帰らなくちゃ、と言って帰っていった。少年は、その場から離れなかった。一人になるからという理由で、メリーのそばを離れるわけにはいかないという意地があった。そしてその意地の半分は、もう見えなくなった女子高生に向けられたものであった。メリーは少年の手を舐め、顔を手のひらに擦りつけた。二日目には少年を見つけると尻尾を振って近づいてきた。三日目には、仰向けになってさわってくれとせがんだ。胸のあたりは骨ばっているのに、腹は張っていた。ポツポツとした乳房が指先に触れて、思わず手を引いた。お腹に赤ちゃんがいるのかもしれない、と思った。
 あの日の女子高生も、今の少年と同じ場所にしゃがんでいた。少年は、自分が大人の代わりになれたようで、自分はメリーの世話をしているのだと思った。なにか餌をやりたいということは毎日考えるのであったが、人間が食べるものを与えてはいけないのは分かっていた。少年には小遣いがないから、スーパーでペット用のエサを買うことができない。プラスチックの犬小屋の前には、空っぽのエサ入れがある。
 飼い主は、昼間は家にいないようだった。では夜はいるのかというと、それも不確かだった。メリーが生きているのだから、多分飼い主もどこかの時間帯には帰ってきて、エサをやっているのだろうというのが少年の見立てだった。すりガラスがはまった大きな窓がすぐそこにあったが、色褪せたような黄色いカーテンで閉め切られていて、中の様子を伺い知ることはできない。
 公民館から、五時を知らせるメロディとアナウンスが響くと、少年は自宅アパートに帰った。

 

 少年の母は五時までパートで、それからスーパーで買い物をして帰ってくる。少年は、米を研いで炊飯器にセットする仕事を任されていた。これまで一度だって、その仕事を忘れたことはない。少年が炊いた米が初めて夕食に出されたとき、母は涙を流した。少年が驚いていると、母は「おいしい」と言って笑った。それをきいて少年は安心し、母がおいしさのあまりに泣いたのだと思った。
 メリーに会いに行っていることは、母に話していなかった。宿題が済んでいるわけでもないので、放課後をどう過ごしたのか、話を作っておかなければならなかった。母の帰宅までに適当なウソを考え、きかれたときだけ答えた。創作を忘れていた日には、校庭でドッヂボールをしていた、と言った。放課後の校庭には誰がいても、また誰がいなくてもおかしくないので、母がなんとなく納得してくれるだろうと少年は考えていた。
「もうすぐ、誕生日ね。プレゼント何にしよっか?」
 食事中、母は言った。十日後の二十五日が、少年の十歳の誕生日だった。嬉しいような、悲しいような気がした。また、母にお金を使わせてしまうのだと思った。
 いらないよ、と言っても何かを買ってくれるのは分かっていた。それに、何も欲しくないというわけではなかった。スーパーファミコンが欲しかった。上下に振ったら芯が出てくる銀色のシャープペンシルが欲しかった。けれど、母が代金を支払って失われる金額ほど、自分がそれを欲しがっているという自信がなかった。
「いらないよ」
「じゃあ、何か考えておいてね」
 少年は曖昧に頷いたものの、半ば腹を立てていた。いらないったら、いらないのだ。毎年、悩み抜いて出した答えは、どれも母を満足させてこなかったように思う。自分が何を欲しがれば母が喜ぶのか、お金が減っても構わないと言えるのか、考えるのが億劫だった。
 食後、少年は早々に風呂に入った。シャンプーを泡立てながら鏡に映る自分を見て、僕は何も欲しくない、と呟いた。

  

 メリーとの交流は、自分が限りなく単純に求められていることを少年に実感させた。エサやおもちゃを持っていなくとも、さわってくれと近寄ってくる。そして少年もまた、何の目的もないつもりでメリーを撫で、心が安らいでいることを後から知るのだった。
 激しく撫でまわすと、メリーも激しく動いた。前脚を上げて少年の肩や胸に足の裏で触った。首輪から延びる鎖がピンと張り、支点となっている物干し台のコンクリートブロックが動くこともあった。
 あっという間に、時間が過ぎた。少年はそのことを寂しく感じない。夢中になって時間を過ごしたことを、誇らしく思う。今日の充実を実感する。五時になりメリーにバイバイと告げるとき、少年の一日は最高潮を迎える。今、今日が終わればいいのにと思う。家に帰れば、米を研ぎ、食事をして、風呂に入り、宿題をしなくてはならない。そしてその予定の中で、なぜか母との食事をもっとも憂いてしまうのであった。
 少年は、疲れている母を見るのが嫌いだった。一方で、決して弱音を吐くまいと気丈に振る舞う母を見るのも、息苦しかった。自分がいなければ母は楽に暮らせるかもしれないという自虐的な考えは、すでに捨てていた。ただ、今この瞬間に二人が不幸せでないのなら、それでいいと思っていた。なのに母はいつもずっと先に二人が揃って幸せになることを夢見て、今は自分だけが苦労しようとしているようだった。
 あれから母は、少年の誕生日の話題にふれていない。それでも前日か前々日になれば、再びその話が持ち出されるのだと少年は思っていた。食事中に沈黙が訪れると、少年は自分が欲しいものを考えなくてはならない気持ちになった。母が何かを喋るたび、動くたび、回答を求められる瞬間が近づいてくるのを感じた。

  

 女子高生との再会は、突然に訪れた。少年が道路の端のコンクリートに腰を下ろし、ぼんやりとメリーを眺めているときだった。
「遊んでくれてるんだね」
 彼女は言い、少年のすぐ横にしゃがみ込んだ。メリーが尻尾を振って、頭をセーラー服のスカートに擦りつける。
「君、何年生?」
「四年生」
「じゃあ、十歳か」
「まだ九歳」
「そう」
 少年と目を合わせ、女子高生は微笑んだ。
「ねえ、ちょっとメリーのお腹さわってみて。優しく」
「妊娠してるの?」
 少年は、メリーの腹をさわらずに言った。彼女は驚いたようだった。
「もう少ししたら、産まれるの」
「子どもが?」
「そう」
 メリーは自分が妊娠していることを知っているのだろうか、と少年は考えた。人間の大人は、メリーのように誰かに撫でてもらって喜んだりしない。鎖につながれて、おとなしくもしていられない、多分。
 女子高生は、学校鞄から犬用のおやつを取り出し、少年の手のひらに置いた。メリーがにおいを嗅ぎつけ、クンクンと鳴いて前脚で宙をかいた。少年が包みを開いて差し出すと、肉にかぶりつくような勢いで口の中に取り込み、飲み込んでから噛むような仕草を見せた。
 思わず体を引いてしまった少年を見て、女子高生はアハハと笑った。少年も笑った。
「私、もう帰らなくちゃ。一人で帰れる?」
 うん、と少年は答えながら、彼女に自分の名を知ってもらい、覚えてほしい気がした。そして、気をつけてね、と大人びたことを言った。
 手を振って、女子高生を見送った。角を曲がって見えなくなると、少年はメリーの頭をひと撫でし、その場をあとにした。 

 

 誕生日の三日前の晩、「欲しいもの決まった?」と母にきかれた。少年の胸は締め付けられた。一度の過ちを、気を許したところで定期的になじられているような気分だった。
 まだ決めてない。そう、ゆっくり決めればいいわ、誕生日過ぎちゃってもいいからね、というやり取りでその場での一応の完結を迎えたはずなのに、食欲は一気に減退し、いつもはおかわりをして食べるパックの納豆にも手をつけなかった。
 いよいよ、自分の欲しいものを決めなくてはならないと思った。風呂に入っているとき、宿題をしているとき、布団に入ってからも考えた。けれど思案はたった数分も続かないのであった。少し考えたところで、勝手に頭の外へと飛び出してしまう。一瞬、何を考えていたかすら忘れてしまい、直後に思い出し、嫌な気持ちになった。
 母の誕生日には、少年が毎年手紙を贈っていた。ノートから罫線の入った紙を切り離し、便箋の代わりにした。いつも母がしてくれることを一つ一つ思い出し、できるだけ丁寧に、感謝の気持ちを記した。そして最後に大きく、誕生日おめでとうと綴り、半分に折って渡した。
 少年から手紙をもらうときも、少年にプレゼントを贈るときも、喜んでいるのは母の方だった。少年は、自分に手紙しか贈るものがないことが不満だった。一度、手紙と一緒に、河原で拾ったきれいな石をあげたことがあった。後日友達と河原で遊んでいるとき、似たような石を見つけて、それがガラス瓶の欠片が丸くなったものだと教えられ、少年は一人恥ずかしい想いを抱え込んだ。
 隣の布団で母が眠る暗闇の中、少年はメリーのことを思った。すると、メリーの腹の中にいる、子犬のことが頭を過ぎった。子犬がほしいという気持ちが、前から小さな種としてあったように、膨らんだ。胸が高鳴り、掛け布団を口まで引き上げた。
 シャープペンシルスーパーファミコンも、多分、母に頼めば買ってくれる。けれど、犬を飼うということは、それとはまた別の問題であるような気がした。そもそも、あの鼠色のアパートの住人から、子犬をもらうということは可能なのだろうか。明日もメリーに会いに行こうと、それだけを決めて少年は目を閉じた。 

 

 その日少年は、鼠色のアパートまでを走らなかった。インターフォンを押す決意を固めるのに時間がかかり、わざと遠回りをした。それでも足りず、メリーの前を通り過ぎて歩き続けた。
 そうして一時間ばかり、あてもなくうろついた。疲労を感じると、決意がどうのというよりも、もう決まっていることなんだという気持ちになってきた。まっすぐに鼠色のアパートに向かい、インターフォンの前でさすがに躊躇したものの、深呼吸をしてボタンを押した。
 途端、誰も出ないでほしいと少年は思った。無音が続きホッとしかけたとき、目の前のドアが半分開き、顎まで届く長い髪を持つ男が顔を見せた。おばさんかおじさんを想像していた少年は驚いた。男は、大学生くらいに見えた。
「何?」
 ぶっきらぼうにきかれ、少年は、「あの、メリーの――」と言っただけでその先の言葉を見失ってしまった。
「メリー?」男はそうきき返し、ドアから右足だけ出した。
「メリーが、どうしたの?」
「メリーの子どもが欲しいんです」
 少年は自分の声をききながら、そんなこと今まで一度も考えたことがなかったような気がした。
「ああ、いいよいいよ。もうすぐ産まれるから、持って帰りな」
 男は拍子抜けしたように表情を崩した。少年は先にその笑みに安堵し、それから言葉の意味を理解した。
「オスとメス、どっちがいいの?」
「オスがいいです」
「じゃあ、オスがいたら、とっておいてあげるよ。お母さんは飼っていいって言ってる?」
 少年は、男が少年の母親のことを知っている錯覚に陥った。その混乱が解ける前に、いいかげんだと自覚しながら、「はい」と言った。
「オーケー。助かるよ。じゃあ、悪い、今勉強中なんだ。来週には産まれるらしいから、そのときまた来てよ」
 あ、と少年が出した声は届かなかったようで、男は手をあげてドアを閉めた。かちゃりと錠が回る音が響いた。
 ドアの向こうが無人の気配を取り戻すと、少年は庭の方へと回った。メリーが、体を起こして尻尾を振る。少年がいつもの場所から距離を置いていると、メリーも近づいてこない。少年が一歩進むと、メリーも少し前に出る。少年は一歩、後ろに下がっってみた。メリーは動かなかったが、尻尾の振り幅が小さくなった。
 子犬をもらったら、自分はここには来ないかもしれないと少年は考えた。母に子犬を飼う了承をとりつけていないことへの心配は、頭の外に追いやられていた。
 鼠色のアパートから、少年は立ち去った。今日は米を丁寧に研いで、できるだけ長い時間水を吸わせて、おいしく炊こうと、そのことばかりを一生懸命に考えていた。