短編小説『走りながら下を見れば靴紐がほどける』

 顎の先から落ちた汗の一滴が膝の間を通過して乾いたコンクリートの色を小さく丸く変色させ、次の一滴でその隣にもう一つ染みを描こうとしたら思いも寄らぬ方から水しぶきが飛んできて、斑になった。
 顔をあげて視界に入ってきたのは逆光になった女のシルエットで、乱れた呼吸を隠そうとしているのか深く荒い鼻息をたてながら、俺の目が眩んでいる間に消えていった。
 前を向くと背骨の浮いた丸い背中があり、その向こうには二十五メートルプールがあり、青い空があった。その雲一つない大きな青さに俺は氷を飲まされたような冷たさを胸に感じると同時に皮膚を焼く陽の強さを意識し、古い家々がひしめき合うなだらかで巨大な坂の途中に建つ高校の立地を今知ったみたいに思い出す。
 ピッと笛が鳴ったときには背骨の男の身体が着水しており、フライング、と俺は呟いたが今はただ順番にプールを往復してくるだけの時間だった。背骨は息継ぎのときに水の膜で光る顔を見せて遠ざかっていき、プールの向こう側で壁を蹴ると短い潜水ののち、浮きあがってクロールを再開した。他の五つのコースでもそれぞれ誰かが泳いでおり、同じように折り返している。五十メートル泳ぎ切れば満点でそれ以上泳いでも点数が加算されることはないから、とにかく皆なんとか泳ぎ切れ、泳げなかった者は、夏休み前に補習がある――俺たちは前もって体育教師にそう言われていた。未来のいつか乗った船が転覆して、陸までが五十メートル以上あり、あと少しのところで力尽きて海に沈むとき、俺は体育教師の言葉を思い出せるだろうか。
 背骨がプールからあがり、脇を通る。水しぶきが飛ばないように注意しているのかヒタヒタと歩いて消えていった。
 プールの中には無人になったが、たった今の六人のクロールと静かな風が水面を波立たせている。コースを分ける五本の赤い浮きが底に黒い影を落としている。両脇で誰かが立ちあがり、左側の男が陽射しを遮って俺の視界が暗くなり、それから、ゆっくりと明るさと色彩を取り戻していく。
 立って後ずさると二歩目で誰かの足を踏み、振り向くと長い列が続いていて、それが横に六本並んでいる。指定の水泳キャップを被り、指定の水着を着た男と女の顔がある。
「いてえな」
 と声がして視線を落とすと、二つの目が真っ直ぐで単純な敵意を浮かべて俺を睨んでいた。金髪がキャップに収まって一瞬分からなかったが、隣のクラスの男だ。胡坐をかき右手をコンクリートにつき、今にも立ちあがろうという格好のまま(だかが俺にはそいつが絶対に立ちあがらないのが分かった)、舌打ちをする。そいつを避けて列の後方まで向かうと、生徒たちが変な目で俺を見てざわついた。俺は振り返りプールまでの距離を目測する。監視台の上の教師が笛に口を当てたのを見て、走った。てっ、と声がした。今度は手を踏んでやったのだ。スタート台に右足をかけ、蹴る。短く強い笛の音の連続。無邪気な笑い声。なんて楽しいんだ。俺は飛び、マイケル・ジョーダンみたいに宙を走り、全身で悲鳴か歓声か分からない声と怒声をききながら腹から着水し、昨日自宅の風呂で考案したクロールとドルフィンキックを組み合わせたフォームで突き進み、二十メートル付近で二人の教師に取り押さえられた。

 

 郷土歴史研究室で、俺はソファに座っていた。本棚に占められて人の出入りが少ないかび臭いこの部屋に、俺はなぜか心惹かれた。
 テーブルを挟んだ向かいのソファには、担任の山根が座っている。山根は三十前後の国語教師で女のように痩せていたが、背が高く骨格に横幅があり、四肢をだらっとさせながらも隙のない雰囲気をまとっている。半袖から覗く腕は白く、革ベルトの腕時計が祖父の形見のように馴染んでいる。いつもワイシャツの胸ポケットに安っぽい三色ボールペンを差しているが、それを使っているところを俺は見たことがない。ネクタイを締め、スラックスに先の丸い革靴。
「あれか、お前、あんまり泳げないのか」
 山根は膝に肘を置いた前のめりの姿勢で、組んだ指の先を擦り合わせながら言った。
「泳げます」
「五十メートル?」
 ときかれたとき俺は山根が皮肉の笑みを浮かべるかと思ったがそうはならず、人体図鑑で見たような平板な表情で、ただ口だけを機能的に動かした。
「今日、泳ぐ予定だったんです」
「息継ぎできるの?」
「今日やろうと思ってたんです」
 じゃあ苦しかったろうな、と山根は言い、腕時計を確認した。そしてソファに背中を預け、廊下に顔を向けた。チャイムが鳴る。廊下側の窓ガラスはすべて擦りガラスになっていて、差し込む陽射しは白かった。何人かの生徒の影が走るようなスピードで通り過ぎ、俺は夜の遮断機の前で電車を見送ったときのような軽い眩暈を覚えた。
「休み時間、終わっちゃったなあ」
 山根はソファの背もたれにだらしなく頭を載せて言った。鼻の穴が二つ、見えている。随分と縦に長く、ヒョウタンのような奇妙な形の穴だった。あれに近いものが俺にもついているのかと考えると鼻がむず痒くなった。
「帰りてえなあ。なあ?」
「授業、行かなくていいんですか」
「もう教頭に頼んでるから。その代わり、お前、めちゃくちゃ怒られたってことにしといてよ。あと、反省文な、明日までに、原稿用紙三枚以上、三枚目の最後の行まで」
 前の反省文は原稿用紙一枚きりだった。俺は大長編の反省文を抱えて学校に向かう自分の姿を想像した。
 静寂が訪れ、やがて山根が寝息を立て始めた。俺はソファから立ちあがり、棚に並ぶ本を手に取ってパラパラとめくった。新品同様の農耕の歴史書だった。イラストが載っているページに目を留め、三つ並んだ農耕具を見て「千歯こき、備中ぐわ、唐箕」と声に出した。どれも中学時代に覚えたものだ。
 俺は四か月前の入試前日の夜、自室の机で数学の参考書を閉じた瞬間から、一切の勉強を放棄していた。授業では教科書を開くだけで教師の言葉と黒板からは何も得ないように頭をすっからかんにしている。当てられたときには少し悩む素振りを見せてから、分かりませんと答える。五月にあった中間テストの一週間前からは、夜更かしをしないように気をつけて、体調を整えて当日を迎えた。そしてあるルールに則ってテストに臨んだ。できるだけ空欄を埋めるよう努力するが、山勘での記入はしないこと。自分がどれだけ馬鹿になったかを正確に測るためだ。偏差値や平均点を基準にするなら他の生徒にも同じルールを課す必要があったが、そういった相対的評価は今の俺には関係ない。一問も分からず名前だけを書いて終わり、というのが当面の目標だった。その意味では中間テストの結果は散々だった。平均で六割、数学は八割以上正解した。中学時代に通っていた塾の講師が高校数学を交えて授業をしていたせいだ。
 千歯こき、備中ぐわ、唐箕、この農耕具の名前を、俺は忘れることができるだろうか。最初に忘れるのは、唐箕である気がする。千歯こき、備中ぐわ、唐箕は中学生が学ぶ日本史において江戸時代の農耕具の三点セットの扱いとなっており、俺は唐箕の絵や写真を単独で見たときに、千歯こきでもなく備中ぐわでもない、という消去法の末に唐箕と判断していた節があるからだ。次にかなりの間を空けて、千歯こきを忘れるだろう。「こき」という馴染みのない言葉の意味を忘れて答えられなくなるという算段だ。だが備中ぐわは忘れられる気がしない。記憶に焼きついている。これは中学のときに備中ぐわの語源を調べ、備中藩の陽明学者、山田方谷が作らせたものだということを知ってしまったのが原因だ。意味や語源、他の言葉との関連性を知れば記憶が強化されることを最近頻繁に実感している。俺がいつか生まれたての赤ん坊の知能にまで後退したとき、備中ぐわだけを覚えていたらそれは滑稽だろうなと思った。
 四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ると、山根が目を覚ました。立ちあがって、目を擦りながら何も言わずに出て行った。

 

 食堂でたぬきそばを食い、校舎を出た。近くの公園のトイレの裏でタバコを吸う。タバコは一か月前から吸っている。周辺住民や教師にバレて停学になってみたいような気もするが、そうなったら面倒なことが起こるに違いなかった。
 授業開始の五分前に校舎に戻る。教室に一歩足を踏み入れると、席についている奴、ついていない奴がいっせいに俺を見る。水泳の時間に自分がしたことを思い出し、何も気にしていないような顔を作って一番後ろの自席に向かう。座って前を向くともう誰も俺を見ていない。照れたような顔を作れば笑われて親しみを持たれ、威嚇するような態度をとれば嫌われる。俺は好かれも嫌われもしたくなかった。
 チャイムが鳴り、生徒が席につく。教師が入ってくる。起立、礼、着席。机の横にかけた鞄から教科書を取り出し、適当なページを開いて、頭を空っぽにする。ヨウリョクタイ、コウゴウセイ、オオカナダモ、と単語が耳に入ってくる。オオカナダモだけが俺の興味をそそる。オオカナダモがどんな形をしていたか、思い出そうとする。なぜオオカナダモだけが俺の興味を惹いたのか。それはヨウリョクタイとコウゴウセイに比べて俺がオオカナダモのことをよく知らないからだと思う。オオカナダモなんてどうでもいいじゃないかと言いきかせ、思い出す作業を中止しようと努力するほど苛立ちがつのる。シャーペンを持ち、ノートをとる姿勢をとって下を向く。カツカツとチョークが黒板にぶつかる音がきこえる。オオカナダモの絵を描いているのかもしれない。顔をあげて黒板を見てみたい欲求を持つ自分は病的だと思う。これが知的探究心なのか。人は誰でもチテキタンキュウシンを持っているのだと父親はよく俺に言った。だから当然お前にもチテキタンキュウシンはあるし、お前はさまざまなことを学びたい欲求があるはずだ、と言葉の裏にある父親の意向を受け取った。それが正しいとしてなぜチテキタンキュウシンを持っている俺がチテキタンキュウシンを正しく働かせなければならないのか分からない。チテキタンキュウシンが自分で勉強すればいいじゃないか。そもそもチテキタンキュウシンはどこにあるのか、と考えた時点で自分が「脳のどこか」と答えを絞っていることに気づく。視床下部、脳下垂体、という単語が頭に浮かぶ。食欲や性欲と源を共有しているのだろうか。教科書や教師から知識を得ることを放棄してから、授業で出くわす単語と格闘して想像する癖が身についてしまっている。望んでいたことではない。俺はなるべく馬鹿になりたかった。知識と想像により人は一般的に賢くなるのだと思う。そして学校では想像よりも知識に価値が置かれる。知識しかなくとも想像しかできない者に比べると評価される。想像しかできない者は、ときにその発想に驚かれ褒められることもあるがほとんどはまぐれだと認識され、知識を試されるテストでは点数に結びつきにくいからやはりあれはたまたまだったと、ときに安堵さえされる。想像力だけを高めていくことは可能なのだろうかと考えるが、少なくとも高校受験までの知識を得てしまった自分ではもはや純粋な意味でその仮説を立証することはできないのだと気づき落ち込んでしまう。赤ん坊の頃から四角い窓のない部屋で誰にも会うことなく育てられた人間にしかこの説を確かめることはできない。オオカミに育てられた少年の話をきいたことはあるが彼はどうだったのだろう。彼の人生を知りたいと思った。人間に保護されたはずだったが、その後どうなったのだろう。どんなふうに生き、どのように死んだのだろう。また、チテキタンキュウシン――。

 

 授業が終わると、真っ直ぐ自宅に向かう。歩き、電車に乗り、歩く。本当であれば俺は自室のベッドの上でずっと寝ているべきなんじゃないか。だが不登校になれば親が騒ぎ出すのは必至で、それは煩わしいから通っているのだと結論づけた。そんなことは初めて考えたような気もしたが、俺はこういった無意識の計算を常にしていてそれに従って生きるというか生かされているのだろう。
 自宅は小高い丘の上にある一軒家だった。両親ともフルタイムの仕事に就いていて、夕食までは俺一人だ。冷蔵庫から麦茶を出して飲み、二階の自室に入ってドアを閉める。ベランダに出て椅子に腰かけ、タバコを吸う。タバコを吸っている間は何も考えていないことに気づく。喫煙は今の俺にとって睡眠の次に価値のあることかもしれない。何も考えないでいることがいかに難しいかを俺はこの数か月で嫌というほどに感じている。死ぬという選択肢を頭に浮かべたことはあるが死にたいとは思わなかった。それは決意が中途半端である証拠ではないかと不安になったが、自分の目的が何も考えないことではなくその先の馬鹿になることだと明確になるにつれ、間違っていないと自信を持てた。
 灰皿代わりのコカ・コーラの五百ミリリットル缶に短くなったタバコを落とすと、貯まった水に火種が触れてジュ、と音をたてる。音楽というものを俺は全くきかないが、この音ははっきりと好きだと言える。ふと思い立ち部屋に戻り、机の下の箱から、かつて父親に買い与えられたICレコーダーを取り出す。埃を掃い、電池を入れると電源が入った。英会話のデータをすべて消し、空の状態にした。ベランダに出て、レコーダーを録音モードにし、タバコを立て続けに吸った。吸い終わる度にコカ・コーラ缶に落とし、レコーダーを近づけて、火種に触れた水が蒸発する音を拾った。ボックスケースが空になり、立ちあがると気分が悪いことに気づいた。トイレに駆け込んで吐いた。さっき飲んだ麦茶が逆流し、舌で触れるとまだ冷たさが残っていた。胃の中のものを吐き終えても、口内の粘膜全面から唾液が浸み出しては溢れ、糸を張って便器に落ちた。
 洗面所で口を洗った。青白い顔をした自分が鏡に写っていた。どうして俺はわざわざタバコを一本ずつフィルターぎりぎりまで吸ったのだろう。あの音を録音するだけなら、火を点けてすぐにコカ・コーラ缶に落とせばよかったのだ。蛇口から水を両手ですくい、一口ずつ飲んだ。目の奥と脳みその間に油の滲みた真綿を詰められているようで、多くをいっぺんに飲み込める気がしなかった。それでも口と喉を潤したかった。早く歩くと目の周りが窪んで目玉が飛び出る気がした。一歩一歩、廊下を進んだ。階段をおりて和室に行き、棚の上の薬箱から市販の睡眠剤を探しだし、飲んだ。薬箱を元の位置に戻し、二階にあがり、ベッドで横になって目を閉じた。

 

 目を開くと朝陽が窓から差し込んでいた。汗をかいていた。携帯のアラームを止め、身体を起こす。頭痛がした。猛烈に喉が渇いていた。
 部屋を出て階段をおりると、玄関で母親が全身鏡を見ていた。鏡越しに視線を合わせ、ごはん置いてるわよ、と言い、グレーのサマージャケットを羽織り、パンプスを履き、鞄を持って出ていった。
 キッチンで水を三杯飲み、ダイニングで目玉焼きと焼鮭と味噌汁の朝食を摂った。半袖のワイシャツと下着だけ取り替え、鞄を取ってきて家を出て電車に乗った。始業時間に間に合う電車には乗れなかった。
 普段より空いた車内で座席に腰かける。小さな山の連なりと小さな町が短い間隔で交互に車窓の向こうに現れる。向かいの席の他校の生徒がイヤホンで何かきいているのを見てICレコーダーのことを思い出し、家に忘れてきた、と思いながら無意識に手を当てたズボンの右ポケットにそれは入っていた。イヤホンを繋ぎ、再生ボタンを押す。ベランダの風の音、俺の手がレコーダーと擦れる音、タバコの煙を吐く音が混じってきこえた。そして三、四分後、深い吐息のあと、ジュ、と鳴った。股間が縮み、背筋が伸びた。ライターの音、風の音、手が触れる音、吐息の音、タバコの火が消える音。また、股間が縮む。背中がざわつく。それは快感と言ってよかった。
 高校の最寄り駅に到着すると、にわかに周囲がうるさくなった。音をききのがさないよう、イヤホンを両手の人差し指で押さえながらホームにおり、そのままベンチに座った。同じように遅刻が決定した十人ほどの生徒が足早に前を通り過ぎ改札を出ていくと静かになった。レコーダーの音は鮮明になり、俺はイヤホンから手を離す。あの音を待った。五本目のタバコがコカ・コーラ缶に落とされたあと、プツリと途絶える。
 リピートで再生させ、通学路から外れてぶらぶら歩き、皺くちゃのばあさんがやっているタバコ屋でタバコを買い、公園で一服すると一時間目が終了する時刻だった。校舎に入り、職員室の山根の席に遅刻届けを置いて教室に向かう。廊下を曲がったところでその山根と鉢合わせした。
「お前、あれ、書いてきた?」
「今、机に置いてきました」
 山根は意外そうな顔をして何度か頷き、職員室の方へと歩いていった。

 

 四時間目は現代文だった。チャイムが鳴って何分かして現れた山根は右手で教科書を抱え、左手を垂らしてその指先で何枚かの紙を摘まんでいた。原稿用紙だった。俺は反省文のことを思い出し、視線をあげると山根は口元に薄笑いを浮かべながらわざとらしくこっちを睨んでいた。三枚の原稿用紙を摘まんだ左手を一度高く宙に掲げ空気に煽らせてから、列の一番前の生徒の机に置いて短く言葉を交わした。原稿用紙が後ろに後ろに回される。俺の前の女は振り向いて脅えた表情で緑色の罫線が引かれた用紙を差し出した。
 受け取って机に広げる。俺はこんなことをしている場合じゃないんだという気がしたが、何か他にやるべきことがあるわけではなかった。ただやりたくないだけだった。この時間も俺は頭を空っぽにしてやり過ごすだけだ。しかし少なくとも作文にとりかかっている間は授業から知識を得たり未知の言葉に気をとられたりすることもない。そんなことを考えているとオオカナダモのことを思い出し、未だ自分がオオカナダモについて何も調べていないことに満足した。
 今日初めて筆箱からシャーペンを取り出した。山根は何もなかったかのように授業を始めた。
 
 放課後、山根に呼び出された。四時過ぎの職員室は思っていたほど教師がいなかった。生徒のほとんどが部活動に入っていて、教師たちはその顧問もしているのだった。山根は自席でコーヒーを飲んでいた。俺がそばに立つと「ん」と声を出してカップを置き、椅子を回転させて背後の折り畳み椅子を開いて俺を座らせた。そして机の上から俺の反省文を取りあげ、両端を持って用紙全体を見渡した。視線を左右に何往復させてから、
「お前、反省してないんだよな?」
 と言った。俺はなんと答えたものかと黙り込んだ。
「お前が反省してるわけないのに、こっちはすごくよくできてるよ」
 こっち、と反省文を指して使われた言葉が、輪唱みたいに俺の頭の中で繰り返し響いた。それじゃまるで俺とは別物みたいな言い方じゃないか、と思ったが事実その通りなのだった。俺がシャーペンを持ち、シャーペンに収められた芯の先端が摩擦で細かく砕けて原稿用紙の表面の小さなでこぼこにくっついているところを、蚤の目で想像した。
山根の頬の肉が歯を噛みしめたのか少し緊張を帯び、それから緩んで口が開いた。
「まるで、お前が反省してるみたいだよ、うん」
 念押しするように言い、原稿用紙を机に戻すと身体をそちらへ向け、胸ポケットの三色ボールペンを取り出してペン先を出さずに用紙の上で走らせ、それからペンをノックして書き込んだ。赤いインクで言葉を足したり文章を分割するラインを入れたり、文字を二重線で消したりしながら、同時に俺に説明もした。
 ここは改行した方がすっきりするよな、同じ表現が続くから二つ目は違う言葉に置き換えた方がいい、と山根は遠慮なく、活き活きした表情で語った。俺は山根の表情を見て、声をきいて、やがて自分が褒められているのだと知った。
 さんざん赤ペンで書き込んでから山根は「やべ」と声を出して頭を掻いた。
「これ織田先生にも見せるんだった」
 織田というのは一年の学年主任だった。
 どうしよ、と言って山根が自虐的に笑う。
「また書いてきますよ」
 気づいたとき、そう口にしていた。途端山根は神妙な表情に切り替わる。俺は山根がこうも表情を変化させるところを見たことがなかった。自分が教師を喜ばせたり戸惑わせたりしていることに、微かに、確かに、愉しさを感じていた。そして俺を見て黙る山根が、再度感情を反転させることをすでに予想している自分に、鳥肌が立った。
 悪いな、と言葉で詫びつつ、山根はやはり俺の予想通りの態度をとった。新しい原稿用紙を受け取り、職員室を出た。

 

 駅に向かいながら、電車に揺られながら、自宅まで歩きながら、俺はICレコーダーの録音をきいていた。風の音、煙を吐く音、手が触れる音、タバコの火がコカ・コーラ缶の中で水に触れる音。
 だが、今朝は確かにあったあの感覚が戻ってこない。ジュ、という音がもたらした、股間が縮み背筋に冷や汗が流れるような、こそばゆい快感が、ない。
 職員室での興奮は、すでに失われていた。自宅に着いたら、山根に渡された新しい原稿用紙を鞄から取り出し、俺は反省文を書くのだろうか。
 山根の指摘を思い出しながらシャーペンを握る自分と、ベランダで原稿用紙を燃やす自分を想像した。どちらも馬鹿に違いなかった。