短編小説『そう簡単に新しくは生きられない』

 

 部屋に一つきりの窓からあたたかい風が吹きこみ、クリーム色のカーテンを揺らしている。あたたかい風だった。気温の低い日に吹く冷たい風は、もう吹かなくなっていた。つまり季節は、すっかり春になっていた。
 風はときどき、命を繋ぎとめるように急に強さを増し、カーテンはその度にほつれた裾を舞いあがらせて、花粉混じりの空気の侵入を許した。その、侵入した空気ときっちり同じ分量、替わりに中の空気が部屋のどこか別のところから漏れているという事実を知ったら、ヒサイはカーテンが揺れるのをしばらく眺めてその感動を噛みしめただろうが、実際のヒサイはその自明の理について生まれてこの方考えたこともなく、そのときはぼやけた頭をからっぽにすることに努めていて、頭をからっぽにする準備として、窓のすぐ横の壁にもたれて床に腰をおろし、正面の宙に視線を漂わせていたから、黄ばんだ畳の上で揺れるカーテンの影に視線を向けてしまう度に自分の集中力のなさに嫌気がさしては、陰なんかに気を取られちゃいけない、頭をからっぽにしなくちゃと、向かいの壁との間の空間に視線を戻すのだった。
 部屋には何もなかった。家具と呼べるものはもちろん、物と呼べるものもほとんどなかった。汚れているわけではなかった。畳は黄ばんではいたが、まだ破れているところはなかった。壁は土壁になっていて、多少もろくはなっているものの、剥がれているところはなかった。ゴミも落ちていない。この部屋で、「ある」と言えるのは、天井の真ん中からぶら下がるシンプルな笠のついた電球が一つ、部屋の隅に置かれたヒサイの皮鞄、それと玄関にきちんと並べられたこげ茶色の革靴くらいだった。あとは窓のすぐ横の壁に、ヒサイがくたびれたスーツのようにもたれていて、そのヒサイが身につけている白いシャツ、ベージュの長ズボン、そして細かいところまで記すならば、靴下とベルトと縞のパンツと財布と、鞄の中の予備の服。
 また、強い風が吹きこんだ。今日一番の、もはや突風だと、ヒサイが意識せずにはいられないくらいのものだった。カーテンはばさばさと音をたて、畳から影が消えてしまうほどに舞い上がり、天井に張り付き、一瞬の静寂ののち、ひゅうう、という音と共におりてきたカーテンは、また畳の上に波打つ影を映した。
「畳にカーテン?」
 ヒサイは言った。もう、頭をからっぽにすることは諦めていた。もっとも、諦めていた、というほどヒサイが真剣だったわけではない。何となく、頭をからっぽにしてしばらくしたら、いいことがありそうな気がしたのだ。仕事が決まって、その職場で友達ができて、食費くらいは気にせずに生活できるようになっているとか、曖昧ではあったけれど、そんなふうな、いいことが。
「和室にカーテン?」
 ヒサイは繰り返した。そして手を掲げて、その影をカーテンの影に重ねてみた。カーテンの影は、畳の上で、ヒサイの手の影を覆ったり露わにしたりを繰り返した。ヒサイは手がだるくなってきたのを感じ、畳に落とすようにしておろした。そしてしばらく、一分か二分ほど、じっと、向かいの壁の何もない一点を見つめた。このとき、ヒサイの頭はからっぽになっていた。
「よし」
 ヒサイははっきりとした声で言った。はっきりと声を出しすぎて、その声の大きさに自分の決意の固さが伴っているかどうか不安になった。声の大きさと決意の固さなんて関係ない、と自分に言いきかせて、
「三日だけ休もう」
 と、これは声に出す必要はないんじゃないかと思いながら言った。
 三日だけ休もう、というのは、仕事を探し始めるのを三日延期するということだった。ヒサイは昨日越してきたばかりで、この町のことは何も知らなかった。金をいくらかは持っていたが、それは本当にいくらかでしかなかった。一か月くらいなら飲まず食わずでも死なないヒサイだが、一か月もしない内に次の月の家賃を払う必要があったから、すぐに働くつもりだった。ヒサイは生まれてからというもの、金持ちであったことはなく、どちらかというと貧乏であったが、何の料金であっても、滞納したことはなかった。しかし今は長いバスの旅で疲れていたし、この町は前に住んでいた場所よりずっと活気があって、ヒサイであっても何かの仕事にありつくことはそう難しくなさそうだと思えたことが、ヒサイの心に、自分を休ませる正当性を与えた。
 やがて、ヒサイの顔の右側を、陽が照らし始めた。角度のついた太陽が、カーテンと窓の間から光を送ってきているのだった。ヒサイは光の白い源を見て、眩しくてすぐに顔を背け、何度も目を強く閉じて光を逃がし、元に戻った瞳孔を試すように、部屋のあちこちに忙しなく視線を向けながら、この部屋に来てから初めて時間を知りたいと思って、無意識のうちに、前に住んでいた部屋で時計を置いてあった辺りを見やったが、時計はなかった。
 前のアパートを出るとき、できるだけ体を軽くしようと、目覚まし時計を捨ててしまったのだった。そのことを思いだして、ヒサイは少しやりすぎたなと後悔した。時計一つ持つくらい、なんてことないのに。いや、けれどそのときの自分にとっては、とても重いものだったのかもしれない、とも思った。
 ヒサイは立ちあがった。そして、何もない部屋で、遠慮がちに伸びをした。上に伸ばした手の先が天井に触れそうではあったが、背伸びをしても、わずかにも触れることはなかった。それを確かめると、ヒサイは安心して、今度は思い切り伸びをした。上半身を、右に左に傾けた。背中と腰の骨がぽきぽきと音をたてた。
 長い伸びを終えて手を体の横におろしたとき、その手がズボンのポケットに当たって、チャ、と音がした。ポケットに部屋の鍵を入れていたことを、ヒサイは思いだした。ポケットを探り、鍵があることを触って確認すると、靴を履いて部屋を出た。
 外から鍵を閉めると、人のいない、そして家具のない自分の部屋がまるで倉庫か物置で、自分が今宿直を終えたかのような感覚になった。ヒサイは数多くの仕事をこれまで経験してきたが、宿直はしたことはなかった。誰もいない建物の中の見回りをして、戸締りをして、掃除をして――楽な仕事だが、人と触れ合わない仕事なんだろう、と想像した。


 自分は多分、人から見れば孤独に見えるだろうし、孤独を愛しているようにも見えるかもしれないけれど、そうじゃないんだよな、とヒサイは胸の内で誰にともなく呟いた。気のおけない仲間が三人いる人から見て仲間が二人しかいない人が孤独だとは言えないように、仲間がゼロの僕だって孤独とは言えないはずだ、とヒサイは考えていた。数の問題ではない。孤独を意識するかしないかだ、とヒサイは結論づけ、ほとんど完全に納得できる結論に自分がたどり着いたことが意外であり、それが真実かどうかはもう追求しないでおくことにして、軽くなった気持ちで二階の廊下から階段をおり、アパートの表に回って歩きだした。

 ヒサイの住むアパートはラブホテル街の一角にあった。なので昼間、アパートの前はほとんど人が通らない。と言っても一分ほど南にくだると東西に走る大きな道路があって、その通りは商業ビルやオフィスビルが並び、昼間だろうが夜中だろうが車通りも人通りも多い。ヒサイはその通りにぶつかると、より賑やかであろう、また、駅に近くなる方角でもある東を向いて歩いた。
 昨日この街に越してきたヒサイはその通りをまともに歩いたことがなかったので、今、四月十一日の火曜日の午前十一時にその通りに出たところで、違う曜日や時間帯と比べて車や人が多いか少ないかの判断はできなかった。ただ前に住んでいた街(この街を見て、かつて自分が住んでいた場所を「街」とは言えないのではないかとヒサイは思い始めている)と比べれば、車も人も建物も、明らかに多く、建物に関しては高く大きくもあると、比較検討したわけではないけれど印象として、ヒサイは感じていた。
 通りを歩くヒサイを迎える、囲む、何もかもが機能的であった。右を見て左を見れば視力の許す限り遠くまでビルが確認できた。そのビルの裏側に何かとんでもなくすばらしいものが隠されているとは考えられなかった。すばらしいものはすばらしい場所になくてはならない、そんな通りであった。
 ヒサイは歩くことが好きであった。走ることも好きであった。走るスピードが、その生き物が獲物を、または敵を発見できる限界なんだとヒサイは考えていた。自動車に乗って自力以上のスピードで移動してしまうと、そういうふうにできていない体が、特に視力が十分に適応し、機能するはずがなかった。しかしそれは自動車や自転車に乗れない自分の僻みなのかもしれない、ともヒサイは思った。獲物も敵も、もうこの世にはいないのだ。2・0の視力なんて、もはや必要ないと言える。
 自動車に乗るにはヒサイは大きすぎたし、自転車に乗るにはヒサイは重すぎた。バスになら、乗ることができた。
ヒサイは東に向かう車と西へ向かう車を横目に、あんなもの発明しなければ、自分は乗れるとか乗れないとか考えずに済んだのに、と思った。道具を製作者の意図通りに扱えない者は大昔からずっと弱者だったが、大昔の弱者は弱者ゆえに死ぬことができた。死なざるをえなかった。だが今の、少なくともこの国はそうじゃない。弱者なのに死なない。何とか生きてしまう。生きながらえた弱者はそのうち、こう考える。生きている限り、弱者でなくなる可能性はまだ残っている、と。それってあんまりだよなと、ヒサイは思った。自転車の運転ができない者に、自動車の運転なんてできない。
 そのうち、辺りは静かになってきた。道路沿いに歩いてきたから自動車は依然としてびゅんびゅん走っていたが、人が減り、建物が古くなった。古いと言ってもボロではなかった。手入れの行き届いた、こざっぱりした建物が並び、その中には住居らしきものもあった。
 レストランや喫茶店もときどき目につくようになり、目につくだけでなく探している自分にヒサイは気づき、空腹を意識した。飲まず食わずでも一か月は死なないヒサイだったが、腹は減るのだった。どこか安く食べられるところに入ろうかと思ったが、安く食べられる、ということを考えると、自分で作って食べる方が安いのは明らかで、次いで職探しを三日延期したことを思いだし、そうなるともう自炊の意思は固まっていた。
 フライパンを買うという目的が、ヒサイにもたらされた。それまで目的もなく歩いていたから(歩くことが目的だったとも言えるが)、向かうべき場所ができたヒサイは気分が良かった。フライパンを買うという初期投資によって逆に早く持ち金が尽きてしまう不安が頭を過ぎったが、大まかな計算ののち、その不安を抱いたことが愚かだったというのが分かった。
 ヒサイはさらに気分が良くなり、そのときヒサイは急に日差しを気持ちいいと感じたのだった。東に歩きながら、だいたいの見当をつけて、ある交差点で進路を南へと変更した。駅を目指しているつもりだった。実際、そこから南に行けば、ちょうど駅にぶつかる大きな交差点であった。駅前のアーケード街なら、日用品が、というか何でも揃うと、不動産屋で物件を探したときに太った店主に教えられていた。もっとも、店主に教えられなくとも、何かを買おうとするときに二十分ほど歩いて駅前に行ってみるくらいの思考力はヒサイにもある。なのでヒサイは、その店主の教えをそれほどありがたいとは思わなかったし、今となってはその情報を彼から得たということは忘れてしまっていた。最初から自分の知識であったかのように思いだし、アーケード街を目指した。


 アーケードは長く、まるで背の高いトンネルだった。混んでいた。街中の人びとが集まっているようだとヒサイは思った。本当に彼らはここに目的があってここに来ているのだろうか、という疑問さえ抱いた。その疑問を生じさせたのは、アーケードを行き交う人びとが、あまりに隣の連れとの会話に躍起になっているからであった。実は彼らは違うところに向かう途中で、このアーケードがそこへと繋がる近道なのかもしれない、とヒサイは考えた。
 フライパンを売っている店はなかなか見つからなかった。それはヒサイが「金物屋」の看板を探しているからであった。以前住んでいた地域では、食器は全て金物屋で買っていた。それはヒサイだけでなく、周辺の住民全てがそうだったから、ヒサイはそれが当然のことだと、またそれ以外の店にフライパンがあるわけがない、というかなり凝り固まった知識となって残っていた。
 ヒサイはアーケードを進み続けた。店舗は左右にぎっしり並んでいるのに、いつまでも金物屋の看板が現れないことに、ヒサイは不自然さを感じ始めた。この街には生活必需品以外のものが溢れているように見えたが、自分にとっての生活必需品がこの街の人には必需でないわけがないと思った。
 アーケードを抜けるとそこにはスクランブル交差点だった。横断歩道の向こうはオフィス街だった。信号が青に変わると、まるで横断歩道なんてないみたいに、あらゆる方向に人びとが歩きだした。この先に金物屋があるとは、ヒサイも考えなかった。振り返ると、たった今抜けてきたアーケードが目の前にあった。アーケードが僅かに湾曲していて、抜けた向こう側の景色は全く見えないことに、ヒサイはそのとき初めて気づいた。いかに自分が周りを見ずにいるかを思い知らされたが、がっかりしたということはなかった。ただその事実に気づいたというだけだった。
「フライパン買わなくちゃ」
 ヒサイは言って、引き返す一歩目を踏み出した。