短編小説『旅に出るなら新聞を止めておくこと』


 ヘルニアを患う部長は、俺の一週間の有給休暇申請に嫌な顔ひとつ見せなかった。ちょうど今年の目玉プロジェクトが終わったところで、俺はそのリーダーとしてあげた成果を内外から絶賛されていた。部長どころか、社長さえ笑顔で「楽しんできてくれ」と肩を叩いた。
 仕事での海外出張なら年に何度もあったから、旅の準備はお手の物だ。チケットを二枚予約して金を振り込み、当日空港で受け取れるように手配しておく。当日までに細々としたものを揃えるのもまた楽しい。カメラのフィルム、歯磨きセット、洒落た靴下、耳栓とアイマスク。ふと気になって、俺は女に電話をかける。「君ってさ、旅行先でも自分のシャンプーじゃなきゃ気が済まないタイプ?」「ええ、もちろん。リンスとコンディショナーもね」俺はプラスチック製の小さな容器を三つ、買い物カゴに入れる。ポケットティッシュ、携帯用のメイク落とし、コンドーム。コンドーム? 俺はまた電話をかける。「あのさ、次の生理はいつ?」「えっと、そうね、昨日終わったばかりだから――」「ああ、じゃあいい」「どうしたの?」「ただのアンケート」俺は電話を切り、コンドームを二箱、買い物カゴへ放り込む。
 生理が終わったばかりの美しい女は俺の腕を取り、飛行機に乗り込み、上機嫌で座席に身体を預ける。客室乗務員が救命胴衣の使い方の説明を始める。俺はこれまで百回も飛行機に乗ってきたが、彼女たちの説明は毎回きちんときくようにしている。救命胴衣だって、日々新しい製品が開発されているってことを皆は忘れている。大海原に墜落した機体の破片の間で、俺は最新式の救命胴衣を使いこなし、奴らを後目にプカプカと水面に浮かびながらワインを飲むのだ。
 ところであんまり言いたくないんだが、この旅行には結構な金がかかってる。一週間、美しくて我儘で素敵な女を連れて旅をするんだから。直行便のチケット代だって馬鹿にならない。本当に言いたくないんだが、とにかく、そんじょそこらの男がポンと出せる金額じゃないんだ。でも、だからこそ、旅先で出会ったもの、出会った人びと、すれ違ったじいさんさえ素晴らしく思えた。金を費やせば、世界は輝く。石畳を馬車に乗って移動し、大聖堂や城を見て回った。昼はその町一番のレストランで、夜はホテル最上階のバー・レストランで食事をした。
 旅の予定の半分が過ぎると、途端に残り時間が少なくなったように感じる。現地での最後の一日なんて、ほとんどナーバスって言ってもいいくらいだ。最後は最高の状態で迎えるのを良しとする我々の性質、あるいはそうなるに違いないっていう幻想のせいで、気持ちがちぐはぐになっちまうんだろうな。
 俺は忘れ物をするのが大嫌いだ。チェックアウト前にホテルの部屋の中を歩き回っていると、女が喚き始めた。気分がぶち壊し、だそうだ。トイレに何を忘れるっていうのよ、だそうだ。俺は女をなだめ、最後のルームサービスを取ってホテルを出た。
 帰りの飛行機の中で、まだ新鮮な、けど二度と返ってくることのない思い出について話していると、眠くなってきた。耳栓とアイマスクを取り出して、二人で装着する。さっき飲んだワインも加勢して、すぐに眠りに落ちる。意識を失う直前に、自分で笑っちまうくらい、あっけなく。
 そこで俺は夢を見る。旅行を終えて一人自宅に帰ったシーンだ。ドアを開けると、知らない女の子が立っている。十三歳くらいの、俺の一番苦手な年頃の女の子だ。俺は、誰、ともきけず、ただヘラヘラしている。女の子は無表情のまま、まっすぐ俺を見て言う。「どこに行ってたの?」問い詰めるような感じじゃなくて、ただ不思議だから知りたいっていうふうなんだ。俺は慌てて、旅した町の名前を順番に答えていく。あそこに行った、あれを食べてどこに泊まった。あそこも行った。何もかも話してしまう。女の子は俺が喋るのを最後までしっかりきいて頷いて、それから言う。
「楽しかった?」
 女の子の言葉を胸の内で繰り返し、自分に問いかける。楽しかったのかどうか。いや、楽しかったに決まっているさ。やっと取れた休みを利用して美しい女と、美しい町々を旅した。金と時間を贅沢に使い、いいものを食べ、飲み、現状においての最高の満足を手にした。そして明日からも、また同じようなものを手に入れるため、働くのだ。働くしかないのだ――。