短編小説『どこを掘り返せばいいのかとっとと教えろ』

天井のシミは、永遠に眺めていられそうなほど特徴がなく、しかしそれゆえに何かがあるぞと思わせた。真に平凡な人間こそが、偉業を成し遂げるのかもしれない。その真っ黒いシミは、部屋の薄暗さによって魅力を増しているのだろう。 俺の中で希望が膨らみかけ…

短編小説『きっとそれは最高に違いない』

アルコールだけでなく夜遅くまで家庭的な料理を出してくれるバーで出会った男とその日のうちに寝た。 私はそれまで、知り合ったその日に男と寝たことはもちろん、声をかけてきた男と甘い言葉を交わしたり、危うい雰囲気になったりといった経験がなかった。一…

短編小説『告白は秘密基地にて』

平日の昼過ぎに目を覚ましても慌てることなく、隣で寝息を立てる裸の女を眺めていられる。こんな生活ができるなんて、こうなるまで考えもしなかった。 たいていの女は、身体を横に向けて小さく丸まる。仰向けだったとしても、口を大きく開けて、目を半開きに…

短編小説『ただ静かに眠りたかっただけなのに』

幸子は、一週間前から毎日、夜中に床下から響いてくる騒音で目を覚ましていた。枕から顔を上げると、蛍光塗料で光る時計の針は、決まって四時を指していた。 布団をかぶり、しばらくすると眠っている。だが朝になって目を覚ますと、なんとなく眠り足りないよ…

短編小説『そう甘い人生がお前に用意されるわけがない』

女は、夜道を歩いていた。残業を一時間してから、混雑した電車に乗り、駅で降り、自宅に向かっていた。 女は、不機嫌であった。営業部の二人の男のせいで、自分が残業をするはめになったことに憤っていた。十七時ちょうど、女が自分の仕事をすべて終え、帰る…

短編小説『振り返ったときに後ろが見えているとは限らない』

一カ月前に女が出ていってからというもの、俺は腑抜けだった。酒を飲むのも面倒になり、とにかくずっと眠っていたかった。悪い夢を見るのは二回の就寝につき一回だったので、起きているよりはマシだった。 俺の身体は、十五時間以上は続けて眠れないようにで…

詩『明日の食事の心配があるからこそ私は良質な睡眠を確保する』

思い返せば そこそこうまくやっているようで そうではなかった 下手な微笑みを浮かべながら いつも腹の中で叫んでいた 違う、違う、違う! だが何が違うのか分からず 流れに身を任せるしかなかった 自分をごまかして紛れ込み なぜか褒められることもあった …

中編小説『僕と』

月曜日 園庭の端の何も植わっていない花壇の前に、私は立っていた。乾いた土が、膝の高さのレンガブロックに囲われている。 私は、花壇を蹴った。びくともせず、つま先で受けた衝撃が、足指に心地よかった。靴の先を見つめ、中で指を丸めたり開いたりした。 …

短編小説『いつかの子』

その夫婦には、子どもがいなかった。妻は、子どもがほしかった。夫も、子どもがいてもいいと思っていた。 夫が妻と違うのは、一直線の欲求ではなく、いつの間にか身につけた標準的感覚から、子どもがいたらそれは楽しいだろうという前提をたてた上で、子ども…

詩『私がもらったのだから誰にも渡さない』

ときどき顔を合わせ しかしそのたびに与えられる 毎日顔を合わせ 毎日与えられる 会えなくなり 与えられたものを取り出してみる 私はそれを使い 生きる

詩『信じるもの救わざるべき』

今日くらい生き延びると思ってはいまいか 当たり前のように明日の予定をたててはいまいか 来年や三年後の自分を思い描いてはいまいか 苦しむのはいつだって未来だ 過去の苦しみは これからの停滞や凋落を予想した嘆きにある 本当は 「行く手を阻むもの」など…

短編小説『少年が欲しかったもの』

その少年は、学校から帰ってくると、ランドセルを机の横に置き、一度も腰を下ろすことなく鍵を閉めて自宅アパートを出て、学校とは反対の方角に走った。 公園の横を通り過ぎたとき、同じくらいの年齢の、見知らぬ子どもたちがサッカーをしているのが見えた。…

詩『チャンス』

何か自分が一生懸命に取り組んだことが 誰にも評価されなかったとき それはチャンスだ 今のところ その良さに気付いているのはお前だけ 未だ不完全かもしれない 完璧にしようと思うのなら 指摘されたのとのは逆の方向へ 研ぎ澄ませ 但し 一生懸命に取り組ん…

短編小説『鯵とオオカミ』

アリス・バーは街の外れ、五階建ての雑居ビルの地下にあった。 マスターが一人、それにカウンター席があるだけの小さなバーだった。決まってよく分からないジャズがかかっていた。薄暗く、壁の色も灰色なのかクリーム色なのかよく分からなかった。もしかする…

短編小説『週末の孤独は万全の準備で待て』

ベッドの上、窓からの陽射しはヘソの辺りに到達していた。俺はシャツをめくって裸の腹で温かさを感じ、気持ちいいなと思った。 午前十一時で、久しぶりの休日だった。久しぶりって言っても一週間ぶりなんだけど、新しい仕事を始めた最初の一週間ってのはすご…

詩『百円玉で笑顔を買う』

手を取ると握り返してくる 微笑むと微笑み返してくる ゼリーをスプーンで口へ運ぶと 雛鳥のように口を開けて いくらでも食べる 私の大切な人 百貨店の屋上にあった バスや電車、飛行機の乗り物 運転席で満足げな笑みを浮かべる小さな私 パンダやライオンの乗…

詩『忘れるまでは覚えておく』

もう忘れたものとして私は仕事に行かなければならない手料理など食べたことのない顔をして代わり映えしない食べ物で腹を満たさなければならない絵を描けなくなった画家のように休みの日には新しい美しさを求め歩く 苦し紛れに指先で触れた美しさに似たところ…

短編小説『走りながら下を見れば靴紐がほどける』

顎の先から落ちた汗の一滴が膝の間を通過して乾いたコンクリートの色を小さく丸く変色させ、次の一滴でその隣にもう一つ染みを描こうとしたら思いも寄らぬ方から水しぶきが飛んできて、斑になった。 顔をあげて視界に入ってきたのは逆光になった女のシルエッ…

詩『風邪は治りかけが一番危ない』

こじらせた風邪が治りかけベッドの中の居心地の良さを一週間ぶりに思い出した夜肺炎を起こして独りぼっちで死ぬのではなく再び社会に立ち向かいつつある自分を意識する 過激な敵対心ではなくまた頑張れるという「やる気」とも呼べる気持ち 願っているのに叶…

詩『独り言は囁くように自分の耳にだけ届くように』

コツコツコツコツ それは俺が歩く音か あるいは誰かが歩く音か 誰もが 誰も歩いたことのない道を行き なのに自分以外は安心しきっているように見える 俺もせめて安心したふりをして 堂々としていればいいのか いいのか? 脅えながら歩く道もまた俺の道 年齢…

詩『捨てたときにゴミになる』

死にたくなくて仲間を押しのけて食べ物を奪うように メシを食っているか 死にたくなくて飲み込んだビニール袋を一刻も早く出すように 糞をしているか 死にたくなくて全てを捨てて逃亡生活を送るように スーパーマーケットに向かっているか 死にたくなくてた…

詩『分からない言葉はすぐに辞書で調べてできるだけ早く忘れること』

かび臭い古本屋にいるときはまだマシだった 中腰ででっかいケツを突き出して本棚を物色する年増女がいたくらいだった 油断していた私でもそのケツを避けることができたし 避けずにぶつかってやろうとか 怒鳴りつけてやろうとか 掴んで捻ってやろうとは思わな…

詩『天気予報』

明日は晴れるのか 雨なのか曇りなのか あるいはひょうが降るのか 次の日曜の天気や気温や湿度 東京タワーの現在の様子 ニューデリーの最高気温 ロンドンではちゃんとしっとりとした雨が降るのか この夏は猛暑なのか平年並みなのか冷夏なのか 中年男の気象予…

詩『犯人は出演者のうちの誰か』

朝もやの中 列に並び 後ろから割り込まれないように注意し 新聞に目を落とし 携帯画面に目を落とし 耳栓代わりのイヤホンはすでに装着済み 列車がホームに入ってくると 微妙にズレたドアの位置に合わせて一歩移動 降りる客優先 俺はドアの右側から 私はドア…

詩『キャッシュ・レジスター』

仕事に精を出し へこへこ媚びへつらい 同僚を出し抜き 有能な部下を利用し 10年かけて たとえ役職についたって キャッシュで家さえ買えないって話をきいたんだが 一体どうなってんだ? 誰もが見えないものに価値を求めすぎているのに それがまかり通っている…

詩『ビール瓶にコインを貯める』

運良く何かしらの仕事にありついたときに 何かしらの気の迷いで 少しだけ頑張ってみようって気が起きて 運良くその仕事の才能が備わっていて いや 才能とまで言えなくとも とにかく人並みか ややそれ以下くらいには適性があって かつ 俺が逃げ出したりしなけ…

詩『一体どうやったら逃れうる?』

俺が生まれて初めてまともな仕事に就いたのは 家賃や光熱費 明日というか今日の食事と酒代 年金と健康保険料 住民税 そんなものたちと それらを支払えなかったときの督促状 催促の電話から逃れたかったからだ 本当にそれだけだ 俺が求めていたのは 平穏だっ…

詩『忘れられるものなら忘れてみろ』

嫌なことを忘れるために酒に頼り いっとき楽しい気分になって ああいい気分だと千鳥足で家に帰ると 自分の家に帰るつもりで家に帰ったのに これが俺の家なのかと初めて知った気持ちになる 俺は灯りをつけ 椅子に腰を下ろし 部屋を見回し 鼻をスンスン鳴らす …

短編小説『旅に出るなら新聞を止めておくこと』

ヘルニアを患う部長は、俺の一週間の有給休暇申請に嫌な顔ひとつ見せなかった。ちょうど今年の目玉プロジェクトが終わったところで、俺はそのリーダーとしてあげた成果を内外から絶賛されていた。部長どころか、社長さえ笑顔で「楽しんできてくれ」と肩を叩…

詩『求職中』

誰か俺の仕事を探してきてくれないか 俺にぴったりの仕事を探してきてくれないか 俺の長所は 読み書きそろばんができて 何でもおいしく食べて どこでも眠れる この三点 俺の短所は 俺の短所はってえと ただ一つ たった一つ まぎれもない一つ やる気がないっ…